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『男はつらいよ お帰り 寅さん』を観てつらかった話をする!?

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寅さんシリーズを劇場で観る!それも最終作であろう作品を!

 

寅さん映画といえば、かつて昭和後期のお正月の風物詩だった。最初はお盆と正月に公開していたものが、さすがにキツいということでお正月だけ公開の映画になって生成を迎えた。それでも毎年やってたのは凄い話だし、毎年観に行っていた人たちも凄かった。

 

渥美清がまだ生きていた頃。僕は寅さん映画にまったく興味のない人類だった。親父がテレビで見てるのをぼんやり見てる程度。「とらや」の面々とのやりとりなどは子供心にもそれなりに楽しかったが、旅先でのマドンナとのなんだかんだの話になると、恋愛経験のない子供は飽きて自分の部屋に帰ったりするのが定番。だからちゃんと『男はつらいよ』を通して見た事とかは無かったわけだ。ましてや映画館で観るとか考えられなかった。なんでこんな毎年やってる変わりばえもしないストーリィの映画を、わざわざ劇場まで行って観る奴がおるねんと。いくらなんでも、あれは時代遅れじゃないかと思っていたし。男はつらいよの最終作が1995年公開だから、当時の僕は20歳を超えたばかり。普通その歳までで、寅さん映画を楽しみにしてる人間はあまりいないから無理なからん話。ちなみに『トラック野郎』シリーズはわりと好きで、テレビでかかってたらよく観ていた。あれは子供受けが大変に良かった。

 

そして月日は流れ、二年ほど前だか、Amazonプライムビデオで『男はつらいよ』全48作品の配信があった。あいかわらず寅さん映画なんか興味がなかった自分だが、年齢だけは当時の『男はつらいよ』を超楽しみにしていた人たちと変わらん歳になっていた。そういうのもあってなのか、全48作品が無料という圧倒的なスケールのお得感に突き動かされたのかは知らないが、「どれ、1作目から順に観ていくか…」とか思ってしまったのだった。そして第1作目から観る。ああ、こんな話だったのかと。いや、でも結構ストーリーには覚えがあった。なんだかんだで、テレビ放映を無意識に観ていたのだろう。でもキチンと一つの映画として通して観ると非常に面白かった。そもそも1969年の夏に公開なので、その頃の風景がばっちり映ってるのがたまらない。僕が生まれる何年も前の東京の景色。そして各種の風俗、行き交う人々。こんなだったのかと感慨深い。

 

寅さん映画とは、僕が生まれる前、そして子供の頃に見た過ぎ去りし時代の風景が、年代ごとにきっちりとスクリーンに刻み込まれた稀有なシリーズだったのだ。それだけでもたまらんのに、ドラマの方もまた面白い。そして主役の寅さんというキャラクターの完成度の高さも、40歳を過ぎてやっと理解できたのだ。これは子供が観てもわからないのは仕方がない。さすがに子供だと圧倒的に経験が足りて無いもの。

 

寅さんの魅力は一言でいうと「あまりにもリアルすぎるやっかいおじさんが映画の主役をはってる」だった。寅さんみたいな人は東京の下町だけじゃなくどこでもいるし、僕の住んでる関西にもたくさんいる。北海道から沖縄までいるし、おそらくだが海外にも沢山いるのだろう。世間や家族と上手く折り合えない人たち。ややもすれば現代では人格障害と診断されかねないような言動をとる人たち。こんな人たちを沢山見てきた気がする。寅さんは極めてリアルに、そういう人たちの立ち居振る舞いを再現していた。娯楽映画でここまでやっていいの?と心配になるくらい。

 

寅さん映画の物語というのは、寅さんの「生きにくさ」がテーマだ。悪気はなくとも、どうしたって社会からはじき出されずにはいられない認知の歪み。寅さんが良かれと思ってやったことで必ず騒動が起きる。これが寅さん映画の永遠のすべての軸になっている。これは他人事ではなくて、『男はつらいよ』の観客だって、寅さん的な「生きにくさ」は大なり小なり抱えているわけだ。僕にしたって「生きにくい」のは変わらない。ギリギリのところで寅さんにならなくて済んでるだけだ。そんな生きにくい男が主役の『男はつらいよ』が、じゃあなんで陰惨な社会派映画にはなってなくて、どことなくホンワカ気分の物語として観れるかというと、寅さんがいつでも戻れる「とらや」の実家としての太さと、超人的なまでの家族の愛情があると思う。寅さん映画は現代を舞台にした「貴種流離譚」になってたと思う。寅さんは見かけはボロなヤクザだけど、柴又の帝釈天すぐそばという好立地の老舗団子屋の先代の御落胤という立場なのである。

 

寅さん映画を観る人は多かれ少なかれ寅さん的な生きにくさを抱えてたりするし、下手したら寅さんそのものの人も多かったんじゃないだろうか。そういう人にとっての「とらや」は憧れの異世界に近い存在だった。「寅さんは良いよね〜ああいう生き方に憧れるよね〜」とかいうおじが偶にいるが、完全に勘違いをしていると思う。あなたが憧れているのは寅さんではなく寅さんの家族だから。朝起きて顔や性格が寅さんになってたら嫌すぎるが、「とらや」が自分の実家である異世界に転生をしたい恵まれていない人たちはたくさんいると思う。

 

つまり、「主人公たる寅さんは圧倒的にリアル!」で、「舞台になる『とらや』や周囲を固めるおいちゃんおばちゃんさくら博は圧倒的なファンタジー!」なのだ。この組み合わせが『男はつらいよ』シリーズの魅力の柱かと思う。そんなこんなで、僕は寅さん映画にハマっていったのだった。

 

ものすごく前置きが長くなったが、そういうわけで寅さんの初期のシリーズは順番に見ていって、寅さんの設定とか世界観の知識を深めていった。さすがに48作めまでは未だたどり着いてないニワカだが、それなりの思い入れは出来てきたので「寅さんの新作があるなら一度スクリーンで観てみたい!おそらくこれがラストだろうし…」となっていた。

 

最初で最後の『男はつらいよ』の封切り待ち体験。そりゃまあ渥美清が亡くなってからの無理矢理な続編だろうから、多少つまらなくても構わない。とにかくスクリーンで新作でパァーパパパパパパパパパァ〜〜〜チャラリ〜ラ〜なんて主題歌が流れてタイトルが出ただけで泣ける自信はついている。それだけで見れば満足できる筈だった。筈だったのだ……。

 

何も情報を仕入れずに劇場に行った。レイトショーでガラガラ。さすがの寅さんとはいえ、お年寄りには遅い時間はキツいのか。ガラガラなのはしょうがないかなと思いつつ上映を待つ。数人だけいる客はあきらかに高齢者。そのなかで下手したら自分が一番若手かもしれない。そして上映が始まる。恒例の夢のシーンは、寅さんに代わって主役をはるらしい諏訪満男が観る夢となっている。で、いよいよ来た。オープニングだ。「あ!桑田佳祐が主題歌を歌ってる!」桑田佳祐が歌うというのだけは予め知っていた。まあ、オリジナルの味わいは無いにしろ桑田佳祐も音楽のプロである。それなりのものは聴かせてくれるのかなと。しかしオープニングが始まって予想の斜め上というか、度肝を抜かれた。桑田佳祐の歌声…うーんやはり桑田佳祐は桑田佳祐全開でしかなく微妙だなあと思ってたら、なんとあの江戸川土手に桑田佳祐自身がいるのである!しかも寅さんのコスプレをして!寅さんのコスプレをした桑田佳祐が気持ちよさそうに歌っている!どういうことだこれは!?

 

お馴染みのオープニングで泣く泣かないどころの騒ぎでは無くなった。かわりに普通に泣きたくなった。歌ってた主役俳優が亡くなってるんだから、別人が起用されるのは構わない。本当は録音を使えよという話だけど、新しいイメージに挑戦するのは悪くないだろう。でも、歌ってるそいつが画面いっぱいに出てきて、しかも寅さんコスプレして熱唱するオープニングの意味はなんなんだと。これじゃ桑田佳祐のPVやん。本当にPVにしか見えなかった。桑田佳祐が主題歌を歌うのは良い。それのPVがいつもの土手で寅さんの格好して熱唱する桑田佳祐で、映画の出演者もチラホラ登場する。それも構わないというか、むしろ映画の主題歌になった曲のPVやMVはそういった手法をとられることが多い。でも本編にそういう映像を組み込む趣旨は?何を狙ってやったのか理解できなかった。『男はつらいよ』のOPとして、桑田佳祐のPVをハメこむことが、アリかナシかといえば圧倒的にナシだろう。いちばん盛り上がるところのはずだったのに、むちゃくちゃに盛り下がった。

 

ストーリーは、小説家になった諏訪満男が、実家のくるまや(旧とらや)に亡くなった妻の法事で帰るところから始まる。名もしれない満男の妻とかどうでも良くて、とらやの面々がどうなったかは熱心なファンからしたら最も関心のあるところ。旧とらやこと、くるまやは何とカフェーとして営業してる。どういうことなんだと。おいちゃんとおばちゃんは故人。これは寅さんと同じで俳優さんが亡くなってるから仕方がない。じゃあ寅さんはというと、どうなったのか誰も言及しない。渥美清が亡くなってる以上は生きては無いのだろうが、映画の中ではどこか知らないところで野垂死したらしく、あれだけ毎年帰ってきてたのに、二十年以上帰ってきてないままになってるらしい。まあまあ納得できる設定ではあるだろう。

 

最初の1作目も二十年帰ってこなかった寅さんが帰ってくるようになってからの騒動から始まるし、それから二十年以上帰り続けて、またぱたりと二十年以上帰って来なくなってそのままになってる。綺麗なオチにはなってると思う。奄美大島にハブでも取りに行ったのかもしれないし、現実通りガンで倒れたのかもしれない。

 

さて、満男の妻の法要が始まるのだが、ここに御前様がやってくる。歳はとりたくないねえとか言いながら。意味がわからなかった。1作目から御前様を演じた笠智衆は93年に亡くなっている。そのまま亡くなった設定で良いはずだ。調べたらシリーズ46作目で、登場シーンは無いものの、セリフで生きてる設定になったままらしい。だもんで、今作でも2代目俳優を立てたということだろうが、無理がありすぎる。笠智衆が生きてたら115歳とかになる。「歳はとりたくないねえ」とかいうレベルじゃないだろう。リビングレジェンド住職として世界で話題になるはず。だから冒頭で御前様がチラッと出てくるのは意味が無さすぎる。演出意図が分からないのだ。それから、熱心なファンの知らないところで、くるまやが団子屋からお洒落なカフェーに生まれ変わってるのも意味がわからない。誰に断ってそんな改造をしたんだと。

 

2019年の時点で、とらやのモデルになった亀家本舗、高木屋、門前とらやの3店舗は健在だそうだ。寅さん映画におけるくるまや(旧とらや)は、それらのお店に負けてしまったということか。高木屋なんかたびたび映画に映り込むし、今回もスクリーン上で元気に営業している様子をアピールしているのに。これが山田監督が思う2019年という時代の切り取りだとしたら相当ズレてる。柴又なんてノスタルジーを売りにしまくった土地じゃないか。くるまや(旧とらや)なんか今や貴重なコンテンツになってるはず。しかも駅前には寅さん像が建ってて、男はつらいよ記念館まである時代だ。……これがいけなかったんだろうな。寅さん映画の世界とこちらの世界との唯一といっても良い違い。キャラクターが実在しないとか、とらやが実際は無いとかそういう当たり前なことは抜きにすれば、『男はつらいよ』の世界と現実を隔てる壁は、『男はつらいよ』の世界には『男はつらいよ』という映画シリーズが存在しないことなのだ。だから寅さんも渥美清も、どこいっても有名じゃない。寅さんが寅さんとしてチヤホヤされるのは柴又界隈だけなのだ。

 

シリーズ48作目までならばそれも大した問題ではなかったのだが、最終作になるはずだった48作めから2年後に、寅さん記念館が出来たのが不味かった。1999年には寅さんのブロンズ像まで出来た。2017年にはさくらの像まで。べつにこれが悪いわけじゃなかったのだが、もう寅さん映画は打ち止めだという前提があっての行為。まさか2019年に新作があるだなんて誰も思ってもなかった。時代時代の柴又の風景を切り取ってきた寅さん映画にとって、寅さんとさくらの像があって寅さん記念館が客を集めている柴又の様子を無かった事にしてしまうと、パラレルワールドへ加速をつけて突入するしかなくなる。銅像が映らないよう工夫された柴又駅前の撮影の苦しさったら無かった。もちろんこれだけが問題ではないのだが、それによってタガの外れたかのような荒唐無稽な映画になってしまったような気がしないでもない。

 

はっきりいって、この作品からは2019年の匂いがまったくしない。映画としての段取りから展開から物語から、ただよってくる90年代後半臭は一体何なんだろうか。この作品の撮影自体は2019年ではあるが、監督の頭の中は49作めを撮るはずだった永遠の1996年のままだったのかもしれない。満男がマンションでパソコンで原稿を打っている姿、娘とのやりとり、編集者との打ち合わせ、すべてに2019年が見えてこない。96年あたりの映画と言われれば納得してしまう。満男がサイン会をしている大型書店。そこで本を物色しているゴクミの姿を見ても、たしかにそこは2019年の某書店で撮影されたものなのだろうが、画面を通して出てくる90年代後半感はなんなのだろうか。カメラを通してすべてを96年あたりにしてしまう恐ろしいフィルターがそこにある。

 

今回のマドンナであるゴクミは、外国人と結婚して家庭をもち、長年にわたり国連職員かなんかで活躍してきたキャリアウーマンとして描かれている。けど、ぜんぜん2019年風の独立した女性に見えない。国連の活動報告もなんだか紋切型でもっちゃりしてるし、スライドショーでもやってるようなノリがある。何十年かぶりに満男とゴクミが再会して、実家の車屋の住居部分に招かれて鍋パーティーとかする。そして「二階片付けといたから泊まっていったら?」とか言われる。今の時代、世界を飛び回ってる国連女性職員が、宿も確保せずに、着の身着のままでふらっと来ますか?葛飾柴又に?日本滞在中は同じホテルに連泊してるに決まってるやん。最初からスケジュールを組んで動いてるんだから。どんな昭和ストーリーやねんと。

 

まあまあ、そこは二百歩くらい譲って、いまや昭和脳のおばあちゃんであるさくらが、昔の感覚で良かれと思って勧めたものであって、ゴクミもその好意を無駄にしたくないからこそ、あえてホテルには帰らず泊まっていったと解釈することも可能ではある。あるが、そこあとがいけない。鍋会が終わってさくらが後片付けする。率先して片付けを手伝うゴクミ。「やっぱり良いムスメさんやね」とそれを見てる博と満男。葛飾柴又クオリティーではそうなのかもしれんが、世界を飛び回ってる国連ゴクミがすることか!?しかも海外生活が長くてすっかり外国語イントネーションになってるゴクミなのに、日本の田舎や下町の男尊女卑ムーブ対応!?しかも自分が泊まる二階の部屋の布団を敷く手伝いも私がしますから、とか言ってる!?2019年の視点で見ると、いろいろと頭が混乱してくる演出だったといえる。それもゴクミが空気を読んでそうしてたといえばそうだし、「外国に長くいるとたまには畳で布団で寝たいものよ?」という意見も個人のものであるからどんな意見でもアリだとは思うが、古い価値観に忖度する度量を示すというシーンでも別になかったりするから、山田が本気で「昔ながらの価値観の女性の素晴らしさ」を称えるために演出したシーンにしか思えない。これ見るような年寄りが大好きなノリだ。そこには2019年の時代性もなにも見えてこない。

 

そんな感じで、最後までこの映画には見るべきところがほとんどなかった。かつてあんなに名作を撮ってきた山田とは思えない耄碌した内容だった。今作の意義があるとすれば、寅さんの死やさくらたちのその後を確認できたことと(しなくても全く問題はないにせよ)、あとはせいぜいスクリーン上で名場面集が観れたということくらいだろう。

 

最後は寅さん映画には珍しくエンドロールがあって渥美清の歌が流れる。オープニングでフラストレーション溜まってる観客に対して、エンディングで本人による主題歌が流れることで溜飲が下がる仕組みだが、やはり強引に作られたフラストレーションにすぎないのだから楽しくもなんともない。『アナと雪の女王』のような主題歌の歌手が違うことによるような効果は望むべくもない。劇中で最初に主題歌を歌っていたエルサ(イディナ・キム・メンゼル/松たか子)はそもそも主役の1人である。桑田佳祐はこの世界にとって何なのだという最初の疑問に立ち戻るわけだ。

 

さくらがスマホを取り出してポチポチするシーンが一箇所だけあって「あ!?そういえばこれ現代劇だった!?」と思ってしまった。本当に悲しい映画(シャシン)でしたよ。まさか続編はもうないでしょうねえ!?

男はつらいよ HDリマスター版(第1作)

男はつらいよ HDリマスター版(第1作)

  • 発売日: 2014/12/17
  • メディア: Prime Video
 

『シュガー・ラッシュ:オンライン』の歌って踊るヴァネロペだけは観たくなかった!?

シュガー・ラッシュ:オンライン』の感想を書こうと思ってたら、たまたま感想募集キャンペーンをやっていたので便乗しとこうと思う。

 

前作『シュガー・ラッシュ』はディズニー映画の中でも飛び抜けて超好きな映画であって、「ディズニーはPIXARに完全に食われているよね」という認識を改めるきっかけになった程の作品だった。続く『アナと雪の女王』もとんでもなく良く出来ていて、「こりゃあディズニー復権の時代か!?」と思って、『ベイマックス』や『ズートピア』も続け様に劇場に観に行ったもんだ。どちらも面白かったけれど、自分的には『シュガー・ラッシュ』『アナと雪の女王』ほどのインパクトは無かった。

 

シュガー・ラッシュ』が好きな理由は、なんといってもアーケードゲーム文化がテーマになっていること。80年台のアーケードゲームに完全に取り付けれた子供時代を過ごした人間として、パックマンとかルートビアタッパーやQバートなんかがリスペクトされまくった舞台設定は最高だった。

 

「こんなマニアックなこだわりをディズニー映画でやるなんて!」と思ったし、冒頭で主人公の相談に乗るのがなんとザンギエフスト2に狂った人間としちゃ目が離せなくなって当然だろう。重要なシーンにザンギエフを持ってくるスタッフのセンスは信用するしかなかった。決して「ゲームをテーマにしたら面白いんじゃない?」という軽い気持ちで作った映画じゃない深い造詣と愛情を感じたのだ。その熱意でエンドロールまでノンストップ!エンドロールがまた最高だった!ラストにも泣けたけれどエンドロールの小ネタでまたひと泣き。しっぽまでアンコの詰まった鯛焼きみたいなもんだ。これほどまでに捨てるところの無いような映画はそうあるもんではない。

 

あと、『ベイマックス』などもそうなんだけど、『シュガー・ラッシュ』にはミュージカル要素が無いのも好きだった。つまり、『シュガー・ラッシュ』におけるヒロインにあたるヴァネロペは、自分の感情の高ぶりを歌にしたり、それに合わせて他人と踊ったりはしない。そういったシーンは無い。

 

ディズニー映画におけるお約束として、歌とダンスを踊る=セックスを意味している。セックスを露骨に表現するのは憚られるので、ディズニー世界では男女が歌とダンスを踊る事によって仲良くなるのがお約束。感情の高ぶり=歌、一緒に踊る=男女の肉体的な営み、ということだ。そしてセックスした男女は永遠の愛を誓って裏切らないのがディズニー世界。『アナと雪の女王』が新しかったのは、「そうとは限らなくない?」という視点を持ち込んだ事だ。

 

歌と踊りがない『シュガー・ラッシュ』は、これが恋愛をテーマにした物語ではない事を指し示している。ラルフもヴァネロペも、誰にも歌いかけたりはしないし、二人で一緒に踊ったりもしない。お互いを性の対象とは見てはいない。『ベイマックス』でベイマックスとヒロがダンスしたりしないのと同じだ。これは重要だ。

 

おっさんのラルフと、幼女にしか見えないヴァネロペがそうすることは、絵面的にヤバイのもあるけど、打算のない友情の話だからこそ、結末に納得がいくし大きな感動があった。

 

ところが今回の『シュガー・ラッシュ:オンライン』では、ラルフがやたらヴァネロペにベタベタしている様子から始まる。前作の結末に感動した身としては「ラルフお前、そうだったか?そんな感じか?依存か?」と不安が募る。

 

そのあと色々あって、物語はゲームの世界の話から、一気にインターネットの世界の話に。小さいゲーセンから、広大なインターネットの世界が開ける瞬間は、否応なしに盛り上がる瞬間だ。前作でいえばシュガー・ラッシュのゲーム世界で、はじめてレースが開催されるシーンに匹敵する高揚感あるシーン。

 

しかし興奮はそこまでだった。

 

前作のゲームネタという「わかるやつにはわかる濃厚なこだわり」に対して、インターネットネタは「みんなわかる」がゆえに誰でもやるベタなネタしか無い。映画で描かれている通りインターネットはあまりにも広大すぎるのだ。そこには「80年台アーケードゲーム」「失われていくゲームセンター」みたいな集中したこだわりは生まれようがない。ひたすらに散漫。ネットを舞台にしたらそりゃそうなるだろくらいのもので、この作品ならではの独自性というのはなかなか難しかったと思う。設定を広げ過ぎだと言いたくなる。それを埋め合わせるがごとく、例のディズニープリンセス大集合をはじめとしたセルフパロディの連打。これも予告編では楽しかったが、実際に本編で見たらちょっと恥ずかしくなってしまった。

 

そして悲劇はディズニープリンセスたちによってもたらされてしまう。あれほど恋愛要素には無縁だったヴァネロペに対して、ディズニープリンセスなら歌うもんよとか言ってしまう。よりにもよってあのヴァネロペに歌って踊るようにそそのかしたのは、かのディズニープリンセスたちだった。

 

そりゃあんたらは恋愛テーマの物語の人らかもしれんけども…。図式として後輩にセックス勧める先輩女子やん。それで性の目覚めを自覚するヴァネロペとか見たくなかったし、ディズニープリンセスたちのイメージもなんか悪くなってしまった。もちろんそういうのは「人間の成長としてごく自然なこと」かもしれないが、続編を立ち上げてまでいちいち語らねばないことなのかという気持ちが強い。

 

ラルフもラルフで、異様に執着を募らせて、めんどくさいオヤジと化したりする。前作のラストで達観したように見えて、またこじらせとるやんけと。

 

そりゃ人間ってのはそんな簡単に成長できるもんじゃないし、縦に伸びたぶん、横がもろくなったりするもんだし、「一足飛びに成長しないのが自然なこと。そんな簡単なことじゃない」…のかもしれないが、やはり続編のためにわざわざそうした感が強い。なんつうか、同じことを二回言われた気持ちになる。「大事なことだから何回も言いました!」って言われたそうなんだろうけど…。

 

救いがあるとすれば、ラルフがヴァネロペに歌いかけたりしなかったところか。あくまでも友達としての執着なんだという形は崩していない。ディズニー的には。

 

そしてヴァネロペがお熱になるのが年上のかっこいいお姉さんなところも、まあ、なかなか良い設定かもしれない。現代のディズニー世界では歌って踊る相手は異性とは限らない。

 

でもまあ、本編中に意外な展開は何もなかった。わざわざ収まっていた問題をぶりかえして、元の終着点に戻ってくるというよくあるパターンの続編。悪くないといえば悪くないのだけど、要らないといえば要らない。エンドロールも、前作と比べたら実に凡庸だったし。ミルクセーキとパンケーキは良かった。あそこが一番かも。

 

もしさらに続編があるならば、今回の状況の変化は大いに使えると思う。前作はパズルの最後の1ピースがかっちりはまるように完璧に収まった内容だったから、これ以上続けるならばもう一回ぶっ壊すしかなかったのはわかる。まさに「ぶっ壊せラルフ」だ。幸か不幸か、新しい傑作絵を描く余地が十分に生まれてしまった。

 

かように、続編としては前作の熱量にはるか及ばない部分があるけれど、クリスマス映画として、多くのカップルがこの作品を観るのを前提で作ったと考えれば、なかなか痛快とはいえるかもしれない。なんだかんだいって現代ディズニーは一筋縄ではいかないところが面白い。

 

今年の冬に公開されるらしい『アナと雪の女王』の続編はどうなるのか。現代ディズニーのアンサーはどんなものか。不安はありつつも期待してしまう部分もある。「エルサに男性のパートナーは用意しないで!」問題はすごく気になる。下手したらアベンジャーズの続きレベルで。

 

↓音声でも熱く語ってます。

moteradi.com

 

シュガー・ラッシュ (吹替版)

シュガー・ラッシュ (吹替版)

 
アナと雪の女王 (吹替版)
 

 

 

 

Amazonプライムにお金さえ払えば観れるホラー映画『Eddie Glum』(エディ・グラム)の衝撃性

Amazonプライム・ビデオで『Eddie Glum』(日本語表記するなら『エディ・グラム』か)という映画を観た。日本語タイトルも無いし、簡易に字幕を付けただけみたいなコンテンツであって、ほとんど日本未公開といってしまって良いような作品だ。Amazonプライムに加入さえしていればこんなものまで無料で観れるようになったのかとびっくりした。

Eddie Glum - 日本語字幕

Eddie Glum - 日本語字幕

 

Amazonプライムに未加入の人でも予告編はYouTubeにあがっているので観れる。ご覧の通り、自主制作感全開の安っぽいムービーだ。実際の制作背景とかはわからない。なんでも、よくわからない映画フェスティバルで最優秀ホラー映画賞を取ったそうだ。近年の映画のポスターにおける「並んでいれば並んでいるほどその映画が面白いという期待が持てる月桂樹ぽいマーク」が一つ付いているのは、つまりそういう事らしい。ちょっとは期待できそうだ。

www.youtube.com

映画は大柄なおっさんの独白で始まる。始まるだけではなく、最後までだいたいおっさんの独白に終始する。他に登場人物は2人か3人くらい。それもちらっとしか出てこないやつとか、死体なんかも入れてだ。それなりに出番のあるのは1人だけだ。ほぼ、おっさんの一人芝居映画だと思ってもらってよい。

 

他にモンスターも出てくるので、それも入れればもっと登場人物はいることになるが、モンスターを登場人物に加算して良いかはわからない。モンスターといっても人間とほとんど変わらない姿だったりするのが、いかにも低予算映画だなあと思う。まあ、いってみればゾンビみたいなもんなのだ。ゾンビ映画が発明された背景にも、低予算で作れるから、というのがあったのでこの発想は正しい。

 

こういう前提をちらと説明しただけで「ああ、『アイ・アム・レジェンド』みたいなアレ?」と察した人は偉いと思う。天才か。ほとんどその通りだったりする。

 

モンスターと呼ばれる人間そっくりのミュータント的なもの(カッパを着込んだ人間にしか見えん。超安い。)が現れて、世界中の人間をほとんど食い殺してしまった世界が舞台になっている。

 

主人公のエディ(だと思う。タイトル的に)という大柄は、カタストロフィを免れモンスターの襲撃に耐えて、それ以来ずっと家に閉じこもって暮らしているようだ。なぜこの冴えない大柄だけが生き残れたのかの不思議は、劇中ではほとんど説明されない。この大柄は本当に冴えなくて、喋り方もたどたどしいし、近隣の仲の悪い住民が食い殺された時の話をして嬉しかったとか言うくらいの偏屈である。

 

大柄には、世界の数少ない生き残りであるという、ヒーロー性のようなものは微塵もない。『アイ・アム・レジェンド』の主人公はおろか、『アイアム・ア・ヒーロー』の主人公に比べたって、散弾銃を扱えるとかいう特殊能力も無いぶん劣ると思われる。性格的にも、能力的にも、最低の主人公だと思ってもらって構わない。そんなやつが主役の映画が面白いかと言われれば、面白くなさそうだけど、なんで?なんで?という好奇心でずっと見てしまう部分はある。とりあえず映画ってものは、謎に満ちた構成になっていると、それなりにそそられるもんだ。

 

食料はほとんど残っていないらしいが、大柄は鶏小屋を所有しており、飼育した鶏を日々の糧として大柄ボディを維持している。そして時折、家の前までモンスターが訪ねてくるが、焼いた鶏肉を渡すことで、お引取りを願っている事が判明する。どうも鶏小屋と、プロパンガスか何かを所有というのが、全滅した近隣住民に対して大柄のエッジになったっぽい。そんなバカな。意味わからん。

 

大柄の分析によれば、モンスターは焼いた肉しか食べないそうだ。だったら焼いてない人間は食料として認識されていないので大丈夫なの?というと、そんな甘い物ではなく、近隣住民は全滅している。実際に主人公の家に退避してきた生存者が、大柄の眼の前でモンスターに襲われて殺害されてしまうというシーンがある。彼はプレステ1のバイオハザードくらいのしょぼいエフェクトで殺されてから、モンスターが起こした焚き火で燃やされて喰われてしまった。

 

モンスターが生肉を食べないのは、食べたくないだけで、殺されてから焼いて喰われるというそれだけの話なのだ。つまり大柄が、モンスターたちに焼いた鶏肉を与えているのは、単なる親切心にほかならず、仮に生肉を渡したとしても、それはそれで調理して喰っただろうと思われる。

 

なぜ大柄の家が襲われないのかは全く語られないが、鶏肉を焼いて無料提供してくれる親切おじさんとして認識しているという可能性は否定しきれない。とすれば、定期的に肉を焼いて渡すという活動が、大柄流のサバイバル術だったという可能性はある。大柄の鶏肉の活用は、モンスター対策にとどまらず、何処からか定期的に訪ねてくる近隣で唯一っぽい女性生存者に、鶏肉をふるまう代わりに、性奴隷化しているという暗黒面も語られたりもする。

 

とはいえ、ちっぽけな鶏小屋で飼育している程度の鶏で、どれほど食いつないでいけるのかという疑問はある。しかし、どうもかなり長い間、鶏肉で暮らしているらしく、大柄自身も先行きを不安視している要素は全くないので、あんまり細かい理屈とか整合性とかを考えてはいけない映画なのかと了承する。

 

ただ、映画としては、そんなマンネリな日常ばかり写していても埒があかないので、事件が起きる。大柄の頼みの綱の鶏小屋が襲撃されて、鶏が一羽残らずモンスターに食い殺されてしまったのだ。まあ、チンケな鶏小屋ですもの。今までそうならなかったのが不思議なくらいなので、そらそうかとしか思わないが、大柄の悲嘆と焦りは相当なもので、鶏肉を提供して貰いにやってくる性奴隷状態の女性と共に、食料探しのクエストに出発することになる。

 

ちなみに大柄は、ちょくちょく気軽に外にでかけたりする。ゾンビ的な世界観だと、建物の外は危険みたいな設定になってたりするが、モンスターと呼ばれる連中はそんなに数が多くないっぽくてあまり遭遇しない。そして夜はあまりうろつかないらしく、大柄もバットひとつだけ持って自信満々に山道を歩いていたりする。

 

ちなみにモンスターに銃とかは効かないっぽいような事が匂わされているが、かといってバットが有効的という設定もとくになさそう。絶対に死なないゾンビの群れと戦う映画『バタリアン』でも、主人公たちは木製バットひとつで渡り合っていたから、最後に頼りになるのはバットというのは、アメリカ映画のお約束としてあるのかもしれない。さすが野球の国だ。殴れば怯んだりすることはあるのかも。ただ残念なことに、この映画ではバットが活躍するシーンはひとつもない。大柄にヒーロー性は微塵もないので。

 

大柄は山道まででかけていって、何をするのかといえば、モンスターが現れた元凶を紹介してくれようとしていたのだ。説明するのを忘れていたが、この映画は大柄がカメラに向かって語りかけるというスタイルになっており、最初から物言わぬカメラマンの存在は示唆されていた。フェイク・ドキュメンタリーならではという雰囲気もない。

 

大柄が示したモンスターの元凶とは、山奥に寝そべり叫び声を上げ続ける超巨大なキズだらけの女であった。大柄が説明するには、ある日この女が降ってきて、女の皮膚をやぶってモンスターが次々と出てきたそうな。だから山道をたどってそこに近づくと、ものすごい叫び声が聞こえてくる。意味不明すぎるが、かなり怖いイメージだ。

 

さて、そんな無能だがやけに自信満々に外を歩き回る大柄と、彼に性奴隷状態にされた女性による食料探しクエストが一応のクライマックスになっている。無為無策な大柄が指揮をとっているだけあって、この冒険は実に無様な結末に終わる。不用意に入ったゲーセンで、突如出現したモンスターに襲われてしまうのだ。(なんのドラマ性もない)

 

この最大のピンチに、大柄のとった対処方法は、女性を犠牲にして自分(とカメラマン)だけが逃げるというどうしようもないもの。怯えてひたすらどん詰まりの部屋(この辺も無能そのもの)に閉じこもっていると、都合よくモンスターはどこかに去っており、女性の腕だけが転がっていた。隠されていた大柄のサバイバル能力は「モンスターが手心を加えてくれる」というものなのかもしれない。親切に焼いた鶏肉を配っていたのが効いた?

 

大柄は「モンスターが食い残していった女性の腕」を唯一の収穫として家に帰る。女性の腕の肉を焼いて食いつなぐことにしたようだ。ほんとうに最低である。こんなふうに書くとコメディーみたいだがコメディーテイストは微塵もなく、ひたすら憂鬱で暗く陰気なトーンで進んでいく。そして画面は安い。

 

タイトルのGLUMは陰気とか憂鬱とかいう意味だが、あえて日本語に訳すならば、陰気なエディー?エディーの憂鬱?ニュアンスはよくわからないが、まあ暗いホラー映画であるのは間違いない。

 

このあともひたすら整合性のとりにくい悪夢みたいな展開が続いていく。一種の悪夢とか精神世界を描いた映画なんだろうとは思うがよくわからない。ただし、かなり独特の世界観は安っぽいわりにインパクトがある。そのあたりがホラー映画賞を取ったポイントか。主役の大柄の不快感も含めてなかなかのものだ。

 

チャールズ・ディビス監督は、『Solus』というホラー映画も撮っていて、これもそれなりに評価されておりAmazonプライム・ビデオで観れる。こちらは観ていないが、『Eddie Glum』の雰囲気を体験するとちょっと興味が出てしまう。んで、よく観れば、主人公の大柄を演じているのは、ディビス監督自身だったようだ。自作自演!たしかにこんなやつが作ってそうな映画だと思ったし深い納得しかなかった。

 

いろんな意味でぼんやりした映画で、悪夢みたいな世界観が嫌いじゃない人は観てみると良いかもしれない。夢の世界を描いていると考えれば、かなり完成度が高いんじゃないかと思えてくるし、ぼんやりしてはっきりしない内容の割に、画面の動きは多くて退屈しない。しょぼさも含めて笑える部分もある。月桂樹マークひとつ分の価値はたしかにあった気がする。

 

変な映画って妙に心に残る。今まで生きてきて「あれは何だったんだ?」といった映画をいくつも観てきた気がする。たまに妙なものを見たりするのは大切なんじゃないか。

Solus - 日本語字幕

Solus - 日本語字幕

 

Amazon「オリジナル」ドラマが『殺人犯はそこにいる』を無断で利用した件について

Amazonプライム会員なのは前に書いたが、Amazonプライムビデオで配信が始まった「Amazonオリジナルドラマ」 の『チェイス 第1章』というやつ。全く気にもとめて無かったんだけど、清水記者の『殺人犯はそこにいる』に内容がそっくりだという事で僕の方にも教えてくれる人がいた。そしたら本の版元の新潮社から以下のような声明が出されていた。

www.shinchosha.co.jp

Amazonプライム・ビデオにて、2017年12月22日より「チェイス」なるドラマが配信されています。そのドラマに関して多くの皆様から、弊社より刊行している清水潔氏の著作『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』が原作なのではないか、との問い合わせを頂いておりますが、弊社および清水氏はドラマ「チェイス」の制作について何ら関知いたしておりません。
なお『殺人犯はそこにいる』の映像化につきましては、書籍発売後から数多くのお話を頂戴しておりますが、事件の被害者であるご遺族の感情に配慮し、弊社および清水氏は慎重を期して検討を進めております。

大事なことは、著者である清水記者および新潮社は、Amazonのドラマについては完全にノータッチだということ。そして実在の事件であるので、ドラマ化などの話には慎重に対応しているということだ。映像化の許可をほいほい出したことはないと。

 

僕も気になったので件のドラマを、配信されているぶんまですべて見てみた。

 

ドラマの筋書きはこんな感じだ。衛星放送チャンネルのディレクターの本田翼が、27年前の連続幼女殺人事件に、近隣で同じ手口の未解決な失踪事件がいくつかあることに気がつく。それで大谷亮平演じるフリーのジャーナリストに協力を仰いで、事件の真相にせまっていく。立件された事件では、幼稚園バスの運転手が容疑者として逮捕されていて、主人公たちが調査したところ警察の捜査は実に杜撰で、DNA鑑定以外の根拠が薄弱であることがわかってくる。連続幼女殺人事件を同一の犯人による犯行とするならば、彼の冤罪をはらす必要性がある。そのためにはDNA鑑定の絶対性を覆さなければならないが……。

 

実際の足利事件の概要をご存知の方はすぐにわかるが、幼稚園バスの運転手は完全に菅家さんだ。ロリコンビデオを収集していると警察に言われて、実際に清水記者が調べにいったところ、いわゆる巨乳ビデオとかばかりでどこにもロリコンビデオなど無かったというエピソードが『殺人犯はそこにいる』の中であったが、ドラマでも全く同じくだりがある。大谷亮平が演じているフリージャーナリストは清水記者がモデルになっている。設定とか風貌はまったく似てないがポジションとしては完全に同じである。

 

しかしあくまでもこのドラマは清水潔著『殺人犯はそこにいる/隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』とは無関係のものだそうだ。警察によって犯人に仕立て上がれらた菅家さんは、その後DNA検査の不確実性が証明されたことによって釈放されたが、真犯人と目される通称「ルパン」はまだ逮捕されていない。そのようなデリケートな題材を、エンターテイメント志向のドラマの原案として提供するだろうか。なかなか考えにくい事だ。

 

ドラマの企画者は、実在の事件なのを良いことに、『殺人犯はそこにいる』などを参考にしつつフィクションドラマとしてでっち上げてしまったのだろう。もし『殺人犯はそこにいる』がノンフィクションではなく、創作ストーリーの小説だったら完全にアウトな案件である。それくらい展開が同じだ。

 

映画とか漫画とか小説が、実在の出来事を題材にとることはままある。こそっと題材にとるだけならともかく、「あの事件がモデルですよ!」と、あえて観客や読者にわからすような仕掛けにすらなっている場合も多い。その方がある種の煽りが利いた作品になるわけだ。題材元がセンセーショナルであればあるほど良いということになる。

 

たとえば横溝正史の『八つ墓村』なんてのはまさに日本におけるそういう作品でもっとも有名なものだろう。実際の津山三十人殺し事件を元に、探偵小説・冒険小説として書いたのが『八つ墓村』だったりする。『ダーティー・ハリー』だって、実際のソディアック事件が元になったアクション映画だ。『悪魔のいけにえ』はエド・ゲイン事件から着想を得て作った扇情的なホラー映画だ。

 

こういった作品は、元ネタの事件の関係者からすれば、とてつもなく不謹慎なものだと思う。なんせ事件を面白おかしいようにエンターテイメントにしてしまっているし、ましてやホラー映画にしたなんてのは軽薄きわまりない。中にはゾンビとか怪物とか宇宙人まで登場するようなものがある。僕らはそれらを面白半分で見たり読んだりするが、業の深いことであると時々は考える必要がある。

 

ただ、今回の『チェイス第1章』問題については、まるまるノンフィクションの『殺人犯はそこにいる』とストーリー進行(あえてそう表現する)と同じになっているのがタチの悪さとしては数段上だと感じる。成り立ちからいえば完全フィクションなのに、一見するとノンフィクションの映像化作品に見えるように作られているわけだ。これだったら、まだ銃撃戦が展開されたりゾンビとか出てきたりして荒唐無稽になっていた方が、かえって良心的なのかもしれないとさえ思った。

 

このドラマがこれからどうなっていくのか知らないけれど、法的にはアウトなのかセーフなのかもよくわからないけれど、製作者たちのモラルの無さはちょっと凄いなと思った。ものすごく好意的にみれば「警察の捜査の杜撰さ」「発表報道と調査報道の違い」「科学捜査神話の嘘」などなど、清水記者が訴えてきた要素をドラマに盛り込んだ野心作だと思える部分もあるにはあるけれど、そんな良心のわかる製作者だったらちゃんと許可とってやるわなと思った。

 

そういえば少し前に、酒鬼薔薇聖斗事件の犯人が自伝を出してお金を儲けていたが、法律に触れないとしても、ああいうのとあんまり変わらない気がする。(ちなみにアメリカのニューヨーク州ではサムの息子法といって、犯罪者が犯罪本などを書いて利益を得た場合は没収されるという法律がある)

 

いちおう『殺人犯はそこにいる』は、漫画版というのは発表されている。(もちろん公式で!)

VS.―北関東連続幼女誘拐・殺人事件の真実 (ヤングジャンプ愛蔵版)

VS.―北関東連続幼女誘拐・殺人事件の真実 (ヤングジャンプ愛蔵版)

 

 

問題のドラマはこちらのやつだ。繰り返すが清水記者はノータッチ。 

amazon-chase.jp

 

ちょっとでも興味を持ったら読んで欲しい。ドラマよりもよほど為になる。

殺人犯はそこにいる (新潮文庫 し 53-2)

殺人犯はそこにいる (新潮文庫 し 53-2)

 
桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

 

 

八つ墓村』なんかも、べらぼうに面白い小説だけど、関係者が読んだらたまらん部分もあるんやろなとちょっと考えてしまった。それにしても津山三十人殺しとか、あまりにも多くの物語の題材になりすぎて収拾がつかない。こちらも麻痺してしまうくらいだ。映画版なんてのは不謹慎の極みだった。名作ではあるけれど。

八つ墓村 (角川文庫)

八つ墓村 (角川文庫)

 

僕たちのエイリアンがレイ◯された!?『エイリアン:コヴェナント』

リドリー・スコット監督の新作『エイリアン:コヴェナント』の評判がすこぶる悪い。この映画は『エイリアン』『エイリアン2』『エイリアン3』『エイリアン4』と続いてきたシリーズを一旦そのままにして、1作目(だけ)の監督であるリドリー・スコットが再登板して、あらためて最初の映画の前日譚を作ろうとしたシリーズ『プロメテウス』の続編である。

 

こう書くと立ち位置からして既に無茶苦茶ややこしい。エイリアンシリーズに馴染みの無い人間にはもう付いてこれない。本来はエイリアン未体験の人が観てはいけない映画だ。でも僕は全作観ているエイリアンおじなので大丈夫だった。(ただし『エイリアンvsプレデター2』以外!)

 

もう一度整理しておくと『プロメテウス』がエイリアンZEROであって、『エイリアン:コヴェナント』はさしずめエイリアンZERO2ということになる。スター・ウォーズで例えるならば『プロメテウス』が『エピソード1/ファントム・メナス』で、今回のが『エピソード2/クローンの攻撃』ということになるのか。最低でも三部作になるみたいなこと言ってたからまさにそんなもんなのだろう。真ん中の話なんだからこれだけ観てもぽかんとしてしまう可能性が非常に高いのも頷いてもらえるはずだ。

 

そやから、「エイリアンの新作や!」「ほぉ~…、これがエイリアンってやつかあ」というて、『エイリアン』も『プロメテウス』も観ずして、このコヴェナントを観るという行為は、軽率・不用意・粗忽・怠惰・無教養・ニワカの誹りを免れぬのであって、最低でも『プロメテウス』は観ておくというのが、この映画を鑑賞する上での礼儀というかシキタリだといえる。

 

しかしそんな不用意な観客のことを、一方的に責めるわけにもいかない。リドリー・スコットにも十分に罪がある。というかすごく罪がある。なぜなら『プロメテウス』というタイトルには、どこにも「エイリアン」の文字が入っていないのだった。そして『エイリアン:コヴェナント』のタイトルにはどこにも「プロメテウス」の文字が入って無かった!

 

だからよっぽどエイリアンを追いかけている熱心なファン以外には『プロメテウス』が「エイリアンZERO」だなんて絶対にわからないだろうし、ましてや『エイリアン:コヴェナント』が「ZERO2」であるなんてわかりようが無かったりする。

 

『プロメテウス』が公開されたときに「スペースジョッキーの秘密がわかる!」「ドーナツ形の宇宙船の謎!」とか騒いでいたのは、我々エイリアン・キモオタだけだったのだ。たぶん…。

 

せめて本作が『プロメテウス2』とかいうタイトルだったら、素人さんもある程度の覚悟が出来ただろうし、「話題のエイリアンとやらを観てみますかな?」なんて不用意な人を呼び込んだりしなかったはずだ。

 

しかし、前作が『エイリアンZERO』とか『エイリアン:プロメテウス』とかいうタイトルでなかったのにはきちんとした理由があって、所謂ところの『エイリアン』シリーズのエイリアンが本編中に一切出てこないからだ。それ以外のエイリアンはたくさん出てくるのだけど、「あのエイリアン」が出てこないのだ。律儀か。

 

しかし今回のはそれの続きであって、かつ「あのエイリアンが出て来る」という意味で、満を持してタイトルが「エイリアン」になっていたりする。それがゆえに今度は『プロメテウス』の続きというアピールが消えてしまっている。

 

昨今の映画業界の流行りとしては、シリーズものを印象付けない方向性のタイトルが増えている。「前作を観てないから観ても仕方ないかもw」と思われたくない気持ちがそうさせているのだろう。シリーズものの映画ってやつは、だいたいにおいて、とくに順番通り観なくても楽しめるものが多いので、続きのストーリーだと印象付けない方向性のタイトル戦略はある意味で正しい。古くは007シリーズとか、寅さんシリーズとか、とくにナンバリングされてないのも頷ける。

 

『エイリアン2』とか『エイリアン3』とか『エイリアン4』とかは、案外どれから観ても不都合が無いようには出来ている。いずれも難しい事抜きにした、即物的なアクションホラーだし。僕は『エイリアン2』が劇場公開された当時、「前作は観てないけど『エイリアン』って有名だから観たい!」って気持ちだけで観に行ってしまった。だからコヴェナントから観てしまった人の気持もわからないではない。ご存知の通り『エイリアン2』は物凄く面白い映画なので、僕がそれから超のめり込んで、前作もVHSで何度も何度も観るようになったし、時が流れて「『エイリアン』シリーズの新作とかいわれたら気になって仕方のないおじ」として完成されていったのも無理もない事であった。

 

当時の僕が『エイリアン2』を観に行ったのと同じ感覚で『エイリアン:コヴェナント』を観に行った人がには愁傷様としか言いようがない。何の予備知識もない人がこの映画を観たとしたら、どういう感想をもつだろうか。そこいらの小学生に、企業の決算書を読めとかいうのと同じかもしれない。考えただけで目眩がしてくるようだ。「エイリアンって初めて観たけど、なんや、ようわからん…」ってなもんではなかろうか。

 

そしたら『プロメテウス』をちゃんと観ていて、『エイリアン』の事にも超詳しいおじである僕からしたら、『エイリアン:コヴェナント』についてどんな感想をもてるのかという事を、まず述べておきたいと思う。

 

「なんや、ようわからん…」

 

同じだった!しかし『プロメテウス』から続いているストーリーは理解しているし、『エイリアン』でさんざん語られてきた設定とかはちゃんと知っている。そのエイリアンおじからしてもこの映画は「ようわからん…」の連続だったりする。なんでだ!

 

それは『プロメテウス』がそもそも「なんや、ようわからん…」部分の多い映画だったから。その「ようわからん」箇所は、きっと続編で明らかになっていくんやろな、と思ってたのだけど裏切られてしまった。『プロメテウス』で10個くらい謎が残ってたとしたら、『エイリアン:コヴェナント』でそれの回答があったのは、贔屓目に見ても1個か2個くらいだったりする。そのうえで新たな謎が10個くらい追加された感じ。つまり、2作目の映画としても、ひたすら釈然としない映画だった。

 

思えば初代『エイリアン』で残されていた疑問。「エイリアンってそもそもなんなん?」「スペースジョッキーはなにもの?」という2つの謎が、30年ぶりくらいに解明される映画として『プロメテウス』はあると思ってのだけど、そのへんの謎は全く解明されることなく「スペースジョッキーはすごく寝起きが悪い」「スペースジョッキーは粗暴」「スペースジョッキーは馬鹿」「スペースジョッキーはハゲ」「エイリアン以外にも、色々のエイリアンがいた!」とかいう要らん情報ばっかりが与えられてしまった。そして「粗暴で寝起きの悪いどっかの馬鹿ハゲの気まぐれで、人類は創られたのかもしれない?」というのが『プロメテウス』という映画のテーマだった。そして何のために人類を作ったのかは、今のところ説明がまったく無い。

 

肝心のエイリアンの話はどこへいった?と思ったけれど、前述の通りタイトルに「エイリアン」って入ってないからまあ良いか、という感じだった。これがエイリアンの前日譚だと思うと、思ってたのとぜんぜん違うくて腹が立つけれど、「エイリアンの世界観を流用した奇妙なSFホラー馬鹿映画」という観点からだと、むしろ珍妙すぎて面白いといえるのかもしれない。『プロメテウス』はそんな映画だった。下手に『エイリアン』なんか知らない方が、フラットな気持ちで観れるのだ。リドリー・スコットはエイリアンの世界観には興味があっても、エイリアンというキャラクターにはさほど思い入れが無さそうだった。それがすごく理解できた。

 

『プロメテウス』に出てきた、ヘビみたいなエイリアンだとか、イカみたいなエイリアンだとか、それ自体がエイリアンというキャラクターの存在意義を軽くぶち壊していた。こういうクリーチャーを軽々しく作り出せるような設定だったら、「あのエイリアン」の意味なんて特になさそうに思える。一作目で完全生命体だとか言っていたのは何だったのかと。(厳密には、アッシュが勝手に言ってただけだけど)

 

『エイリアン2』なんかでも、一作目に完全生命体として登場したエイリアンを、単なるデカイ蟻みたいな設定にしてしまって(『放射能X』というデカイ蟻と米軍が戦うSF映画が元ネタになっているからしょうがないんだけど)エイリアン好きからしたら「ちょっと改変しすぎでは?」「エイリアン弱すぎでは?」と思わんでもなかったけれど、『プロメテウス』に比べればエイリアンというキャラクターをすごく大切にしている映画だった。だから今でも世界中のオタに愛されているのだと思う。

 

何度も書くけど『プロメテウス』はエイリアンシリーズだと思わなければ目くじらを立てる部分はあんまりない。だから頭を切り替えて、リドリー・スコットが描く妙なSF映画として楽しむのが正解かと思われる。エイリアンも出てこないんだし。

 

しかし困ったことに『エイリアン:コヴェナント』ではエイリアンが出て来てしまうのだ。あんだけ『プロメテウス』でエイリアンの存在意義を無くしておいて、今更どの面を下げてエイリアンを出すの?と思って観てたけど、エイリアンは「ただ出てただけ」だった。「そらそうなるわな」と納得するしかなかった。そしてリドリー・スコットが興味があったのは、エイリアンというよりアンドロイドのアッシュだったのもよくわかった。今作の主役は完全にアンドロイド。エイリアンは添え物。

 

『プロメテウス』でもヘビエイリアンとかイカエイリアンが出てきてて、エイリアンシリーズに出てきたエイリアンの存在意義が思い切り失われていたが、今作では新たに「黒い粉から人体感染して生まれてくる白いフルフルしたエイリアン」まで登場する。卵からフェイスハガーが飛び出してきて人間に寄生して、腹をぶち破って生まれるエイリアンというキャラクターは強烈なモンスターだったが、知らないうちに粉が入ってきて寄生される白いフルフルモンスターの方が断然強そうに思える。知らん内にミクロな粉から寄生されて殺されるとか、もうなんでもありやんかと。

 

もし一作目の『エイリアン』の船内に持ち込まれたのがこいつの素になる粉を撒き散らすキノコだったり、『エイリアン2』で戦わなければならなかったのが白いフルフルモンスターだったら、わけもわからないうちに登場人物は全滅してただろう。だから映画の後半にフェイスハガーが登場して顔に貼り付いて来た時に「なんという出来損ないだろう」という感想しかなかった。はっきりいって観客の心は白いフルフルモンスターに全部もってかれている。

 

自由闊達に生命創造を楽しんでいた悪のアンドロイドのデヴィッド。なぜか彼は白いフルフルモンスターのことを、エイリアンの前座程度にしか考えて無かったみたいだが、人に寄生して殺戮してまわるモンスターという意味では目的は200%達成しているとしか思えない。なんで白いフルフルじゃ未完成で「あのエイリアン」を創り出さないとダメだったのかは「映画の『エイリアン』のファンだから」とでも解釈するしかなかった。

 

そういえばリドリー・スコットが監督をした第一作目も、悪いアンドロイドのアッシュは、エイリアンを完全生命体だとか言い出して勝手に興奮して、人間をぶっ殺してもエイリアンを守ろうとしていた。もしかしたらエイリアンというやつのデザインは、アンドロイドの心をつかむサムシングがあるという設定かもしれない。けれど観客には何にも伝わってこないので、「弱っちいのが今更出たなあ」としか思えない。

 

終盤のエイリアンとの攻防も、1作目と2作目の焼き直しでしかなくて、ファンサービスといえば聞こえがいいけれど、観ているこちらとしては茶番としか思えなかった。「おまえらこんなん入れとけば許してくれるやろ?」リドリー・スコット監督のニヤニヤ顔が浮かんでくるようだった。そんなん良いから、完全生命体っぷりを発揮していた一作目のエイリアンを返せよ!

 

もしこれの続きの映画があれば「ヘビエイリアンでも、イカエイリアンでも、白いフルフルモンスターでもダメで、あのエイリアンを創り出さねばならなかった理由」みたいなことが我々観客にもきちんと示されるのだろうか?

 

全く期待は出来無さそうだけど、制作されたら観に行くだろうとは思う。

 

それにしても、コヴェナントはエイリアンシリーズとしては残念なうえに、単純に『プロメテウス』の続編としても全く納得できない内容だというのは書いたが、いちばん気分が悪いのが、前作のヒロインが知らん間に惨殺されていたという展開。

 

『エイリアン2』でせっかく生き残ったヒックス伍長とニュートが、『エイリアン3』の冒頭であっさり死んでる事にされたのもかなり気分が悪かったし、『エイリアン3』の事が大嫌いな人の大半はそこんところで嫌いになってると思う。

 

映画の観客が観てないところで重大な展開があるのは、よほど面白い展開でもない限りかなり気持ちが悪いものだ。というか観客に対する裏切り行為とすら思う。

 

これを例えに出して適切なのかどうかは少し迷うが、あの大ヒット作『ジョーズ』のシリーズ4作目にして最終作となってしまった『ジョーズ’87復讐篇』も、主人公のロイ・シャイダーを観客の観てないところで勝手に殺したのが最大の失敗だと思わなくもない。そういう無茶な事をされたら、よっぽど面白くなってない限りは観客の気持ちが離れていくのは当然だ。「ロイ・シャイダーが出てくれなかったんだからしょうがないだろ!」とかいう制作陣の泣き言は観客には通じない。出ないなら出ないでやりようはいくらでもあったはず。

 

話が逸れまくった。

 

個人的に『プロメテウス』のヒロインにはそこまで思いれは無いが、それでも『エイリアン:コヴェナント』の酷い設定は、前作を熱心に観てた人を馬鹿にしとるという気持ちにさせるには十分だった。この納得のいかなさについても、三作目があるならば、それなりに必然性のある大河ドラマとしてまとまるのだろうか。今の時点では『エイリアン:コヴェナント』は、前作の謎の補完も何もなくて、むしろ無い方が良かった続編という印象しか受けない。

 

たぶん行き当たりばったりなんやろなあと思っている。しかし二作目のオチでこのお話は終わりと言われてはあまりにもあまりだ。ハン・ソロが窒素冷凍されたところで終わるスター・ウォーズに誰が納得するだろうか。それがたとえ帝国軍がクマのぬいぐるみと戦う話であっても続きを観たいのが人情だ。だから三作目がもし公開されたら自動的に観に行く。少なくとも『ジェダイの復讐』はダースベイダーの素顔を拝ませてくれた。だからせめて、次の話ではエイリアンが何なのかくらいは語ってもらいたい。エイリアンがリプリーの親父であっても別に驚かないし。

 

↓ネットラジオでもしつこく語ってます!

moteradi.com

 

プロメテウス (字幕版)

プロメテウス (字幕版)

 

 『エイリアン:コヴェナント』を観ない前提ならオススメかもしれない『プロメテウス』。続編のせいでよくわからんポジションの映画になってしまった。

 

 

エイリアンをちゃんと描けるのはリドリー・スコット監督だけや!と思ってたけれど、脚本のダン・オバノンの功績が偉大過ぎたのかもと考えを改めはじめている大傑作の初代『エイリアン』。今でも最高傑作。

 

バタリアン HDリマスター版 [DVD]

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スペース・バンパイア HDリマスター版 [DVD]

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スクリーマーズ [DVD]

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ダン・オバノン監督の大傑作『バタリアン』。そして『エイリアン』と同じく脚本を書いたSFホラーの『スペース・バンパイア』『スクリーマーズ』。なんだ、やっぱり普通に天才やん。

 

 

ジョーズ4 復讐篇 (字幕版)

ジョーズ4 復讐篇 (字幕版)

 

駄作といってしまうのは簡単だけど、あんがい味わい深い奇妙な映画。

 

この映画をこんなに熱く語る放送もあっただろうか?

『ポルターガイスト』『スペースバンパイア』『スペースインベーダー』などのトビー・フーパー監督も亡くなってしまったがな!

ロメロ監督を追悼したばかりというのにトビー・フーパー監督まで亡くなってしまった!あのホラー映画隆盛期を体験した世代にとってこんなに寂しいこともなかなかない。

 

トビー・フーパー監督といえば真っ先に挙げられるのは、なんといっても『悪魔のいけにえ』だ。公開された年が1974年だから僕の生まれた年と同じだ。だからどうしたということもないし、僕が『悪魔のいけにえ』の生まれ変わりとかいう意味のわからない話をするわけでもない。いちおう日本公開は翌年の1975年らしい。もちろん物心つく前のことだから当時の様子など知る由もない。既に確固たるホラー映画の名作という確固たる評価が定まった後、VHSでこの映画を観て度肝を抜かれたのはよく覚えている。

 

それまでも『ハロウィン』(78)とか『13日の金曜日』(80)とか『バーニング』(81)みたいな暴力的な連続殺人鬼が出て来るホラー映画はたびたび観ていた子供だったので、『悪魔のいけにえ』も「まあ、その元祖的なポジションの映画でしょ。いちおう勉強(なんの!?)のために観ておくか」と高をくくっていたらとんでもなかった。

「どうせホラー映画」みたいな安心感は微塵もなくて、とてつもなくイケナイものを観てしまったかのような衝撃があった。こんな安心感の無い映画(スリルがあるという意味じゃない)は、それまでは観たことなかったから「これを作ったトビー・フーパーという人はキチガイなんじゃなかろうか?」とすら思ってしまった。かの手塚治虫は映画オタクでも有名だが、公開時にスクリーンで観て「『悪魔のいけにえ』はスカッとする」などと評価していて「この人の感性やっぱりすごい」と思ったものだ。

 

追悼も兼ねて『悪魔のいけにえ 公開40周年記念版』をAmazonプライムビデオで観るわけだが、40年以上経った今の時代に高画質で観てもぜんぜん現役で通用するキチガイっぷりだった。現代の映画といえばグロいシーンやエグい設定なんかてんこ盛りなんだけど、それに比べりゃ『悪魔のいけにえ』のショックシーンなんて大人しいものである。なのに尋常ならざるものがフィルムに写ってしまっているこの感じはなんだろう。登場人物にしてもストーリー展開にしても「映画の文脈」を軽く飛び越えている。それでいてめちゃめちゃにはなってなくて、その後に数多のフォロワーを生み出すホラー映画の文脈を作っている。だから奇跡の一本としか言いようがない。

 

実はトビー・フーパーは『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』に感銘を受けてこの映画を作ったそうだ。たしかにどこかしらドキュメントタッチな作風と、文脈を破壊しまくる「安心できない」物語展開は共通するものがある。それに加えて『悪魔のいけにえ』は『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』をも超える狂気があった。これはまさに狂気が焼き付いたフィルムだ。この2本の映画のフィルムが仲良くニューヨーク近代美術館に永久保存されているのは偶然ではない。ホラー映画では『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』と『悪魔のいけにえ』だけが選ばれているという話もあるが本当だろうか。どちらにせよ人類遺産なのは間違いがない。そんな偉大な二人の監督がたて続けて亡くなってしまったわけだが。

 

他にトビー・フーパー映画で好きなものを挙げろといえばもちろん『ポルターガイスト』だろう。日曜洋画劇場なんかで繰り返し放映していた印象がある。スティーブン・スピルバーグトビー・フーパーの才能に目をつけて制作したホラー映画だが、アメリカの幽霊屋敷ものホラー映画の中では段違いに面白かった。シリーズ化されたけれどトビー・フーパーがかかわったのは一作目だけ。日本ではスピルバーグ映画としてアピールされていたと思うけれど、間違いなくトビー・フーパーの代表作として数えられる作品だ。

 

『ファンハウス/惨劇の館』(81)『ポルターガイスト』(82)『スペース・バンパイア』(85)『悪魔のいけにえ2』(86)『スペースインベーダー』(86)など、80年代はトビー・フーパーが最ものりにのっていた時期といえる。『スペース・バンパイア』『スペースインベーダー』は、『エイリアン』や『バタリアンダン・オバノンと組んで作った映画で、これまたべらぼうに派手で面白いSFホラー映画だった。『スペースインベーダー』は『惑星アドベンチャー スペース・モンスター襲来!』(53)のリメイクだったが、断然リメイク版の方が面白い。『遊星よりの物体X』(51)と『遊星からの物体X』(82)の関係に似ている。とにかく80年代のトビー・フーパーは、狂気の映画を作った人とは思えないくらい抜群のエンターテイナー監督だった。ロメロ映画でおなじみの特殊メイクアーティストのトム・サヴィーニとも絡んでいるし。

 

そして90年代。『スポンティニアス・コンバッション/人体自然発火』(90)も面白かったけれど、それ以降はなんとなく地味になっていった。スティーブン・キングの原作を映画化した『マングラー』(95)も映画館まで観に行ったけれどパッとしなかった記憶がある。そしてそれ以降の作品は正直いってぜんぜん観ていなかった。『遺体安置室 死霊のめざめ』(05)は観たような気がするが…。

 

まあ、とにかく『悪魔のいけにえ』だけでも、音楽でいえばビートルズくらい偉い。これに影響を受けてしまった人間はいまでも数多くいる。観てない人は、この機会にでもトビー・フーパー監督の映画をぜひ体験して欲しい。ほんとびっくりする。何かインスパイアされてうっかりクリエイターになってしまうかもしれないくらいの威力がある。僕もチェックしていたなかった後期の作品を中心に見直してみたい。

 

↓今のところAmazonプライムビデオで観れる2作品!!

 

 

ポルターガイストにリメイク版があったのをご存知だろうか。もちろんトビー・フーパーは監督をしていないが。いつの間に…。

 

 

スペースインベーダー [DVD]

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 黄金期の作品たち!

 

スポンティニアス コンバッション?人体自然発火? [DVD]

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比較的に知名度が低い?なかなか観る機会のない?

 

 

惑星アドベンチャー スペース・モンスター襲来! [DVD]

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『スペース・インベーダー』のリメイク元。内容としてはなかなかに同じだから笑える。

 

 

ディレンジド/人肉工房 [Blu-ray]

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悪魔のいけにえ』のモチーフになったエド・ゲイン事件をわりと素直に映画の題材にしている作品。トム・サヴィーニのメイクアーティストとしてのデビュー作であるし、『悪魔のいけにえ』と同じ年にアメリカで公開されている。どっちがどっちの企画をパクったのかはよくわからない。ずっとフィルムが行方不明になっていて90年代になって日本で初公開されてソフト化もされたといういわくつき映画。『悪魔のいけにえ』理解のために観ておくのも悪くない。こちらもなかなか良くできている。

ジョージ・A・ロメロ監督が「ゾンビ映画」の偉大な父になった経緯を振り返りまくる追悼企画<後編>


butao.hatenadiary.com

ゾンビ映画」の父であるジョージ・A・ロメロ監督の追悼企画もやっと後編にたどり着けた。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』→『ゾンビ』ときて、いよいよ『死霊のえじき』である。ここまででロメロ・ゾンビ映画初期三部作が完結する。

 

それに対して後期三部作もあって『ランド・オブ・ザ・デッド』→『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』→『サバイバル・オブ・ザ・デッド』となっている。まるでスターウォーズのようである。世界観のファンが世界中にいるところも含めてスターウォーズとの共通点も多いように思う。このまま無限に話せるような気がしてきたがひとまずはこの辺りでまとめておきたい。

 

1977年の『ゾンビ』(日本では1979年)の世界的ヒットを受けて、7年後の1985年(日本では1986年)に公開されたのが『死霊のえじき』だった。原題は『デイ・オブ・ザ・デッド』であって、夜(Night)→夜明け(Dawn)→日(Day)と、三作で時間の進行を示しているが、なぜか日本語のタイトルは『死霊のえじき』という頭の悪そうなものになってしまった。

 

前作が『ドーン・オブ・ザ・デッド』ではなくて『ゾンビ』になった経緯は、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が未公開だったことにも起因することは、<中編>の記事に書いたとおりだった。しかし今回のが別に『ゾンビ2』とかでもなくて、『死霊のえじき』になってしまった経緯については正直よくわからない。配給の東宝東和は「独自仕様の映画配給宣伝」をする会社として有名であって、わけのわからない見世物小屋感覚の日本語タイトルを付けまくるのが大好きだった。だから頭が悪そうなタイトルになった理由は「東宝東和だから」と説明する他に無いのかもしれない。

 

ちなみに、『ゾンビ』も『サンゲリア』(1980年公開。原題はなんと『ゾンビ2』!)も『バタリアン』(1985年公開。原題はなんと『リターン・オブ・ザ・リビングデッド』!)も東宝東和配給で、『ゾンビ』のリメイク版でゾンビ映画ブームにダメ押しをした『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004)の配給も、すべて東宝東和であるので、ゾンビ映画配給会社といっても良いくらいだ。

 

2004年のリメイク版『ドーン・オブ・ザ・デッド』の公開によっていわゆるゾンビ映画ブームを超えた「~オブ・ザ・デッド」映画ブームが到来したのは記憶に新しいかと思う。海外では『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の公開後から、いわゆる「~オブ・ザ・デッド」ブームになっていたのだが、日本では完全に乗り遅れていた。セガから出たゾンビをテーマにしたガンシューティングゲーム『ハウス・オブ・ザ・デッド』などがわずかに、そしてゾンビオタ以外に知られることなく、ひっそりと追随していただけだ。オブ・ザ・デッドブーム後進国だったのかもしれない。

 

『ゾンビ』はしゃあないとして(イタリア公開時に既にタイトルがzombieだったから)『死霊のえじき』に関しては『デイ・オブ・ザ・デッド』というタイトルで公開していたら、いわゆる「~オブ・ザ・デッド」ブームが20年早く到来したかもしれないがしなかったかもしれない。歴史にイフはないのでわからない。

 

それにしたって、『死霊のえじき』とは不可解なタイトルである。ただし、内容からかけ離れているかというとそうでもなく、死霊(生きている死人)を「やつけてもやつけても喰われてしまう」映画だから『死霊のえじき』というのは的を射てはいる。しかしどうしたってフランケンシュタイン映画である『悪魔のはらわた』(71)とか、猟奇殺人鬼映画である『悪魔のいけにえ』(74)とか、エクソシスト系の映画である『死霊のはらわた』(81)の流れをくんでいるタイトルだし、ここから純粋ゾンビ映画という連想はなかなかしにくい。ぎりぎり『死霊のはらわた』がゾンビが出て来る映画ではあるので、死霊=ゾンビの連想かというとそうではあるのだけど。

 

こういう邦題のせいで、いまだに『死霊のえじき』がゾンビ映画と知らない人も多いかもしれないし、『ゾンビ』の続編映画があることに気がついて無い人も多いと思う。

 

そういえば『発情アニマル』(78)というタイトルで公開された実録犯罪ポルノ映画が、『悪魔のえじき』のタイトルでVHSで発売されたことがあった。この映画の原題は『デイ・オブ・ザ・ウーマン』だった。これはもしかしたら『死霊のえじきデイ・オブ・ザ・デッド)』と何かつながりがあるのかもしれない。VHSの発売時期がよくわからないのだけど『死霊のえじき』の公開に近かったとは思う。「デイ・オブ・ザ~」つながりでそういう邦題にしたとしたら、どっちかのタイトルを考えた人はかなりマニアックといえる。

 

東宝東和編集の予告編では『死霊のえじき』がゾンビ映画であることは隠してないし、ゾンビの続編であるとは直接言及しないものの「これは『ゾンビ』を超えた、もっともっと怖い映画だ!」などとそれを匂わせるナレーションは入る。

 

同じ東宝東和の配給した『サンゲリア』や『バタリアン』や2004年版の『ドーン・オブ・ザ・デッド』はゾンビ映画であることを何故かひたすら隠していたのとはまるで違っていた。しかしゾンビ三部作を前面に押し出した本国版の予告編に比べればシリーズ感はまったくない。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が知られてなかったからしょうがないのだけど。ただし予告編の出来栄えはオリジナル版よりかなり良くて、『ゾンビ』以上にアクション性の高いド派手な映画と勘違い出来る。この辺は東宝東和の「盛り具合」が気持ち良い傑作予告編といってもよいと思う。謎の「ゾンビングサウンド」とか。

 

さてさて、いいかげんに本題に入りたいと思う。『死霊のえじき』はどういうポジションの映画だったかというと、端的に言えばゾンビ映画ブームを沈静化させた映画だった。もちろんゾンビというキャラクターはものすごい認知されたし、80年代以降は「ゾンビに類するモンスターが登場する映画」は爆発的に増えた。しかし『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』や『ゾンビ』のような、多数の死人の群れからサバイバルするといったパターンの「ゾンビ映画」は、なんとなく飽きられてしまった感がある。世界的にみたらどうだか知らないが、少なくとも日本国内では「ゾンビはもういいかな」ってな感じが強かった記憶がある。

 

『ゾンビ』で起爆した「ゾンビ映画」熱は、『死霊のえじき』で第二弾ロケット発射とはならなかった。この時期にそれなりの予算で作られたものではっきり「ゾンビ映画」というと代表的なもので『デモンズ2』(86)『サンゲリア2』(88)『バタリアン2』(88)くらいしか無かったし、しかも日本で劇場公開されたのは『バタリアン2』だけだったりする。さらにいえば全部続編なうえに、それぞれ三作目はしらばく作られなかったか、ぜんぜん違う映画になっちゃったか、名前だけ借りられるといったような散々な評価になってしまっていた。

 

死霊のえじき』についても『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』から始まったシリーズを三部作として一旦終わらせる形になった以上は、前作を上回るような世間的評価は得られなかったということになる。

 

1990年に『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド/死霊創世紀』というリメイク版の制作を行っているが、監督はトム・サビーニにまかせていたし、映画自体も一作目のリメイクということで(映画の内容の出来は良いが)そんなに大規模なものではなかった。ゾンビ映画ブームが熱狂を始めたあとの2005年にユニバーサルで『ランド・オブ・ザ・デッド』を撮影するわけだが、それまでゾンビ映画を作らないかとどこからも声がかからなかったことからも、すっかり過去の人扱いされていたのがわかる。

 

ロメロゾンビシリーズの(ひとまずの)最終作になってしまった『死霊のえじき』のどこがあかんかったのかというと、なんとなくしょぼかったという一点につきる。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』から『ゾンビ』は前の記事に書いたとおりのあらゆる部分における盛大なスケールアップだった。予算も5倍以上かけたが、それの100倍以上の収益をあげたのだ。そりゃ誰もが二匹目のドジョウを狙うわけで、ゾンビ映画ブームが巻き起こるのも無理もない。

 

それから8年の後に制作された『死霊のえじき』はさらに予算が5倍に膨れ上がったわりに『ゾンビ』の興行収入に届かなかった。労多くして功少なしというやつである。さすがに赤字にはなってないが、本家がこんな有様だと『ゾンビ』の時のような二匹目のドジョウブームなんかは起きないだろう。沈静化したかにみえたゾンビブームが、ロメロチルドレンたちによって第三弾ロケットとして爆発するのには、それから十数年の月日を必要とした。

 

 じゃあ『死霊のえじき』という映画がそんなにダメだったのかという問題だが、結論からいってしまえば、はっきりいって傑作だった。ゾンビ三部作の最後を締めくくるに相応しい重厚な作品だった。ただ、問題としては、内容がSFホラーだったことであって、スリラーでもサスペンスでもミステリーでもアクションでも無かったのが災いしたとしか言いようがない。身も蓋もない言い方したら、「SFなんか売れない!」を地で行くような映画だった。スタイリッシュな演出と過激なスプラッターシーン満載ではあるが、お話の方はといえば決してぼんやり観てて面白い映画とはいえなかったのだ。

 

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』がド田舎で発生した小規模な事件を扱っており、続編の『ゾンビ』ではアドベンチャー映画かのごとくあちこちに移動する物語で、かつ特殊部隊や暴走族といった武装集団の銃撃戦にまで展開する派手なアクションが見せ場になっていた。そして三作目はいよいよ軍隊vsゾンビが真正面から激突する大規模バトルにまでエスカレートしていく前作をも超えるゾンビ版インディージョーンズともいえるアドベンチャー大作になる……予定だったが、予算の都合がつかずにポシャってしまった。ロメロ監督は縮小した規模の脚本を書き直す。

 

もし最初の予定通り実現していたら、80年代版の『ワールド・ウォーZ』(2013)みたいな映画になっていた可能性はある。しかし書き直された『死霊のえじき』の内容は、軍隊とゾンビが激しい戦闘を繰り広げた、その後のところから映画が始まるという退廃的なものだったりする。人類vs死人の最終決戦は終わってしまっていた。刀折れ矢尽きて自暴自棄になったり現実を見ようとしない軍人たちと、光明のみえないゾンビ研究に明け暮れる科学者たちが、暗い地下倉庫にまで追い詰められて諍いを繰り返した挙句に、やがては自滅していくという鬱々としたストーリーだ。

 

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』や『ゾンビ』の即物的なところに熱狂した観客たちが、こんな回りくどいストーリーを観て楽しいわけがない。しかし破滅した社会のイメージやディストピアSF的な観点でいえば、今まででの中で一番素晴らしいとしか言いようがないわけで、最初は地味な内容にガッカリしていた『ゾンビ』信者たちの多くも、のちのちになると再評価をせざるを得ないことになっていった。『死霊のえじき』は「ゾンビ映画」の傑作だったと。

 

では『死霊のえじき』の素晴らしかった点のみを挙げていこう。

 

死霊のえじき』が果たした役割は、ロメロの構築した「ゾンビ映画」の世界観をほぼ確定させたことだ。世に「ロメロゾンビの世界観」として認知されているものが『死霊のえじき』で完成した。ロメロ信者になった多くの人間が『死霊のえじき』で描かれた世界観の広がりにインスパイアされたはずだ。それはまさしくSF的な興奮だったし、二次創作の意欲を刺激するには十分だった。いってみればこれ以降のゾンビ映画は、ロメロ自身の作品も含めて、ロメロゾンビ三部作の二次創作物とさえ言える。

 

 『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』では、小規模な範囲のストーリーだったので、主として敵になるモンスターの設定が徹底的に描写されることになった。この最初の「ゾンビ映画」で確立された設定と、世界観をもう一度おさらいしてみよう。

 

(1)突如として死体が蘇る世界になった。原因はわからない。

(2)死体(ゾンビ)たちは互いは争わず、生きている人間のみを襲う。

(3)ゾンビたち基本的には緩慢な動きであるがたまに素早いこともあり怪力を有する。

(4)生前の記憶や知能はもたない。簡単な道具を使うくらいは出来る。

(5)ゾンビは火を怖がる。

(6)ゾンビは人肉を食べる。虫なども食べるが共食いはしない。

(7)死んだ人間は蘇り、動く死体(ゾンビ=人類の敵)になる。

(8)頭にダメージを与えると死体を再び殺すことが出来る。

(9)警官隊やハンターが鎮圧に乗り出したところで物語は終わる。

 

どれもこれも以降の「ゾンビ映画」の世界観の構築に、多大な影響を与えているのがおわかりかと思う。

 

ただ(5)の「火を怖がる」という点に関してはあまり好まれる設定では無かったようだ。ゾンビは普段は傷みを感じないような鈍感のくせに、火だけは異様に怖がるというのは、直感的にしっくりこないとみんな思ったのかもしれない。続編の『ゾンビ』でもガスバーナーでゾンビを追っ払うシーンがあるが、それ以降の「ゾンビ映画」ではあまりそういう特性は使われない。ただし初期の亜流ゾンビ映画のいくつかには流用されている。たとえば『悪魔の墓場』のゾンビは不死身で怪力の持ち主のくせに火をつけると燃え上がるという謎設定だった。ミイラ男とごっちゃになってたフシもあるが。幽霊みたいに出たり消えたりするし。

 

『ゾンビ』はどうだろうか。ほぼ前作の設定を踏襲しつつパワーアップしている映画なのだが、より広範囲の情勢がわかる仕組みになっている。アメリカ国内の通信はむちゃくちゃになっており、テレビ放送も終了してしまう。わずかに残ったインフラは原発からの電力のみとなる(なぜ原発が稼働し続けられているのかは語られない)。警官隊やハンターに加えて州兵も出動して、前作のラストの意味が外側から描写される。事態は収束するどころか悪化していることがわかる。主人公を含めて生き残った人々は都市部を離脱し、人気のいない島にボートで逃げた一団も登場した。物語は略奪者との戦いがクライマックスになっている。社会の治安やモラルといったものは完全に崩壊したのだ。人間同士が争い自滅していく様が、前作より大きなスケールで描かれている。

 

ゾンビについては、生前の習性や記憶がいくらか残っている事が示唆される。そしてゾンビに噛まれた場合、3日と命がもたないといった事が明確に語られる。狂犬病の犬のような扱いである。そして意外なことだが「ゾンビが人間を食い殺す」という設定は2作目で確立されたものだったりする。意外なことに前作ではゾンビが生きた人間に噛み付くとか、生きたまま食べるといった描写は一切なくて、腕力で突き飛ばして殺害したり、道具をつかって刺殺したりするのみだ。ただし死んだ人間の肉を食べる描写はしっかりとある。『ゾンビ』ではゾンビはとにかく人間に噛み付こうとするし、ゾンビの集団に生きたまま解体されるといったショッキング描写されている。フォロワーである『悪魔の墓場』『死体と遊ぶな子供たち』などの作品ではすでに表現されていたものだが、本家のロメロのゾンビ映画としてはこれが最初だったりする。

 

そこで『死霊のえじき』である。ロメロのゾンビ世界の最終局面が描かれている作品だ。アメリカ軍がすでにゾンビに破れさったことが語られている。人類による組織的な抵抗は終了し、登場人物たちは少なくとも数ヶ月以上の期間のあいだ他の生存者を発見していない有様である。

 

都市部はゾンビによって埋め尽くされていて、生存者と動く死者の比率は1:40万という試算が出る。さらに生き残った博士たちによって、ゾンビがどのようなものなのかが説明される。ゾンビ化現象によって腐敗が遅れていることと、脳の視床下部あたりがゾンビの中枢だというところが突き止められる。だから脳のあたりを破壊すれば二度と蘇らないし、そうでなくとも腐敗はゆるやかながら進行して、10年をすぎるとゾンビの寿命も尽きるとされている。そしてゾンビは感情をもち、飼育可能な存在であるということも証明される。劇中では「バブ」と名付けられたゾンビが出てきて、登場人物であるローガン博士に完全に飼いならされていた。

 

そして、ロメロの世界観にとって重要なことなのだが、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』や『ゾンビ』では、なんとなく曖昧になっていた「なぜゾンビは増え続けるのか?」という疑問に対するアンサーもある。ゾンビは生きている人間を食らってしまうのに、五体満足なゾンビがどんどん増えていくのはおかしいじゃないかという例のアレである。

 

つまり、ロメロの世界観では、ある日を境にして、(脳さえ無事ならば)常に死人は蘇る世界が到来したのであって、「噛まれた人間がゾンビになって増え続ける」というイメージに基づく疫病的なものではないことが『死霊のえじき』では明確に描写されていた。つまり、生者がいる限り人類の敵はいなくならないという、あまりにも絶望的な状況が示される。ゾンビに対する武力対立は自らの首を絞める行為であったことがわかってくる。

 

ローガン博士は「ゾンビを飼いならし共存すること」を主張するが理解を得られなかった。軍人たちは博士を撃ち殺し、彼らもまた邦題の通りにゾンビのえじきになってしまう。

 

死霊のえじき』が描くのは、壮大な人類滅亡ストーリーだ。構想に対して予算が足りなかったとはいえ、冒頭で描かれる圧倒的なゾンビの群れが都市を行進するビジュアルは今もなお語り草になるほど素晴らしい。そして終盤の人間解体ショーは『ゾンビ』を完全に超えたスタイリッシュな悪夢の映像だった。

 

特殊メイクアップのトム・サヴィーニだけではなく『ゾンビ』から続投のスタッフやキャストも多く、『死霊のえじき』のメインキャストが『ゾンビ』にチョイ役で出ていたりするのが確認出来るのが面白い。『ゾンビ』のヒロインを演じていたゲイラン・ロスも『死霊のえじき』ではスタッフとして参加していたりする。

 

ロメロ監督にとって80年代はいちばんのっていた時期だったとも言える。『死霊のえじき』の前には『クリープショー』(82)というメジャーデビュー作品も似たようなスタッフ構成で制作している。『クリープショー』は日本の地上波でもおそらくいちばんたくさん放送されたロメロ監督作品じゃなかろうか。なにしろスティーブン・キングが脚本・俳優と全面協力したコラボ作品でもある。『クリープショー』のサウンドトラックで大活躍したジョン・ハリソンという人が、『死霊のえじき』でも実に良い仕事をしている。

 

以降のロメロ監督が、ゾンビシリーズの続編的なものを2005年までの20年間撮影しなかったのは、興行的にさほどということもあったかとは思うが、なにより『死霊のえじき』で世界観が完結しすぎていた事もある。僕自身も90年代のあいだは、4作目を一向に制作してくれないロメロ監督を不思議に思った(世界中のファンが次は『トワイライト・オブ・ザ・デッド』で決まりだと思ってた)ものだけど、今にして考えれてみればあの続きの世界から物語が始まるのは不可能というものだろう。それくらいまで三部作で綺麗にオチていた。だから90年には『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド/死霊創世紀』といった一作目のリメイクや、「もしかしたらゾンビ事件の発端を描いているのかも?」ともとれるポーのSFを原作にした短編映画『ヴァルドナー事件の真相』のように、「前に戻る企画」しかしてないのかもしれない。

 

事実2005年の『ランド・オブ・ザ・デッド』は、皆が期待したトワイライト・オブ・ザ・デッド的な、続きの世界観のストーリーとは言いにくいものだった。少し時代が戻っているというか、外伝的作品というか、もしくは今風にいえばセルフ・リブート作品みたいなもんだった。『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(07)や『サバイバル・オブ・ザ・デッド』(09)にしてもそうだった。

 

ただしこれら作品では「ゾンビに噛まれる意外でのことで死んでもゾンビとなって蘇る」というという設定がことさらに強調されていた。首吊り自殺してゾンビに変身して復讐するといった展開があったり、『ゾンビ』で撃ち殺されたトム・サヴィーニがゾンビ化して再登場したりするといったサービスカットもある。死ねばゾンビになるという設定は、ロメロ監督の世界観の構築には絶対に譲れないという意思が感じられる。

 

『ゾンビ』の登場人物が、ゾンビに噛まれる事によって、死んでゾンビに変身するという展開は、観客にものすごいインパクトを与えた。そのせいで、「ゾンビに噛まれるとゾンビになる」といったイメージが全世界に広まってしまった。だからロメロ以外のゾンビ映画は、ゾンビに噛まれるとゾンビになるという設定を取り入れているものがほとんどなので、本家の思惑を外れてすっかりそういうことになってしまった。

 

ゾンビに噛まれても死んでしまうが、死因はなんであれ死ねばゾンビ化してしまうという世界観をはっきり提示している「ゾンビ作品」は、ロメロ映画の他にはあまり見られない。ロメロ映画のオリジナルの世界観を大切にしているのは、相原コージの漫画『Z(ゼット)』くらいかと思う。『ゾンビ』のリメイク版の『ドーン・オブ・ザ・デッド』でさえ「噛まれて死んだのでなければ蘇らない」という逆の設定を強調するシーンがあるくらいだ。とはいえ、リメイク版のゾンビは全力疾走する無茶苦茶強いゾンビなので、ちょっと手加減した設定にしたのかもしれない。それでも絶望感は同じだったけれど。

 

以上、ゾンビ三部作を中心に、駆け足でざっと説明してきたが、ジョージ・A・ロメロ監督の偉大さを少しでも感じ取っていただければと思う。惜しい人を亡くしてしまった。 

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スティーブン・キングとがっちりタッグを組んだ名作映画。いちおうゾンビも登場する。 

『ゾンビ』のリメイクだけあってべらぼうに面白い『ドーン・オブ・ザ・デッド』。オブ・ザ・デッドブームの火付け役ともいえるかも。オリジナルに対するリスペクトも凄い。ただしゾンビが全力疾走するなどロメロの世界観とはぜんぜん違っている。 

 

Z?ゼット? 1

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 ロメロの世界観を元にいろいろやってる相原コージの名作。不遇な終わり方をしてしまったが短くて読みやすいともいう。みんなロメロ監督が大好きだった!

 

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ロメロゾンビ新三部作のほう。賛否あるが、つまらないわけじゃないくて面白い。

 

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド 死霊創世記 [DVD]

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90年代にロメロが制作した一作目リメイク。傑作。監督はトム・サヴィーニ

 

ゾンビ事件の発端を描いたような『ヴァルドナー事件の真相』が収録されている。あとはアルジェントの『黒猫』も。ロメロ&アルジェントであるし何にせよゾンビファンにはたまらない作品。

 


死霊のえじき 劇場予告編 1080p

最高にテンションがあがる東宝東和版の予告編!いい仕事をした!

ジョージ・A・ロメロ監督が「ゾンビ映画」の偉大な父になった経緯を振り返りまくる追悼企画<中編>

butao.hatenadiary.com

前編の続き。

 

さて、いよいよ問題の『ゾンビ』だ。ロメロ監督は1969年に『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の快挙によって歴史に特異点を打ち込んだわけだが、「ゾンビ映画」というジャンルを決定付けたのは、1977年に続編兼セルフリメイクともいえる『ゾンビ』を世に送り出したからだ。僕の映画観にも最大ともいえる影響を与えたのは間違いなく『ゾンビ』という作品だ。『ゾンビ』が無かったらゾンビ映画をこんなに好きになってなかったかもしれない。それほどのパワーがこの映画にはあった。そのパワーにあてられてゾンビ映画に取り憑かれた人間を世界中に増殖させてしまった。現在のゾンビ映画ブームは『ゾンビ』が創り出したものだ。

 

『ゾンビ』のどこが前作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』に比べて画期的だったのか。そのためには『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の革新性をもう一度おさらいしておく必要がある。多少は前編の話と被っている所もあるが、何度でも繰り返すべきところだから構わず繰り返す。ついてきて欲しい。番号をふって順番に検証していく。

 

 

1.便宜上「ゾンビ」と呼ばれる「生きている死体(リビングデッド)」との攻防をテーマにしたこと。

 

それまで映画に登場していたヴードゥー教の呪いによって動かされる死体であるゾンビというモンスターと、ロメロ監督が創造した「生きている死体」というモンスターは本質が全く違っていた。「死んだ人間が蘇ってきて人を襲うようになった」という現象そのものが自然災害のように人類に襲いかかってくるというのがテーマになっている。『人類SOS!』(62)での敵である食人植物のトリフィドの群れや、『地球最後の男』(64)で主人公のヴィンセント・プライスが戦っている新人類=ミュータントが、ロメロのゾンビのイメージの下敷きになっているし、ヒッチコックの『鳥』(63)の死人版という表現の方が本質を付いている。鳥それ自体はモンスターではないが、あらゆる鳥が人間を襲い始めるという怪現象はモンスター的であり自然災害的でもあるし特に説明がつかないのも同じだ。

 

じゃあなぜ死体が蘇るというアイデアになったかというと、低予算の自主制作映画として、モンスターのメイクなどをしていられなかったという事情がある。だったらそこらの普通の人間を大量に動員するだけで恐怖現象としてでっち上げられる工夫として、死人が蘇るという話になったそうだ。コロンブスの卵としか言いようがない。後にロメロ監督はこのアイデアを自分で流用して『クレイジーズ/恐怖の細菌兵器』(73)という映画を制作している。こちらでは細菌兵器で殺人鬼になった人間たち(やはりノーメイク)と正常な人間と特殊部隊との三つ巴の攻防を描いている。広義ではゾンビ映画のフォーマットに従った映画だった。

 

 

2.いきなりクライマックスから始まること。

 

昔のホラー映画はたいていかったるかった。怪物が現れるまでの事件の発端からいちいち語られてクライマックスでようやくモンスター登場とかそんなのはザラだった。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』では事件の経緯などすっ飛ばして、冒頭からヒロインたちがゾンビに襲われる。どうしてこうして死体が蘇ったかなんて全然わからない。観客も登場人物たちと同じようにいきなり不条理な恐怖空間に叩き込まれる。今でこそ冒頭からクライマックスに突入するような疾走感のある映画は増えたけれど、1969年の時点でこれは凄いとしか言いようがない。「低予算のB級映画なので、どうせいちいちストーリーなんて観てくれないだろうから即物的な展開に」ということでこうなったらしいが、またしてもコロンブスの卵だったわけだ。もちろんロメロの演出が冴えていて、即物的な展開のわりに、内容的に全く破綻を見せないからこその偉業ではある。「説明パートをすっ飛ばす」ことによって、副産物としてミステリー性とスケール感すら生み出してしまった。もちろんこれもロメロ監督の丁寧な演出あってのことであることは忘れてはならない。

 

 

3.一種のアクションサスペンス映画と言って良いほどアクションとサスペンスが連続してあること。

 

これも2の展開の速さの副産物ともいえるかもしれないが、冒頭から物語が転がりまくったおかげで、全編に渡ってアクションとサスペンスが交互に訪れるという「馬鹿にも飽きさせない映画」になっていた。「生きている死体」というモンスターも、基本的には安くあげるためのそこらのノーメイクのおっさんたちなので、特殊な能力をもっているわけではない。だから彼らとの攻防が掴み合いとか殴り合いみたいなアクション性の高いものになっているのは怪我の功名だろうか。怪奇映画というもののオカルトめいた呪いとかで死ぬみたいな茶番は一切ない。どれもこれも実際に画面で展開する物理的なアクションであるし、あとは爆発や銃撃シーンなどであって要するに怪奇映画にあるまじき派手な映画なのだ。スピーディーなストーリー展開と派手に動く画面という低予算のハンディを感じさせないスカッとする映画ともいえる。(もちろんスカッとするだけの単純映画ではないことは内容を知っている方々ならご存知かとは思うが…)

 

とにかく、そんなわけで、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』という映画は、小屋に立て籠もった登場人物たちが、敵の襲撃に対抗することに終始するというスリルに満ちたアクション映画という側面があるのだ。ウケないはずはない。

 

 

4.残虐性やインモラルな要素が強いこと。

 

蘇った死人が人間の肉を食うという設定がそもそもきわめて残酷な設定だし、映画のタブー意識を軽くぶち壊している。吸血鬼が女性の首筋に噛み付いて血を吸うなどといった設定とはわけが違う。人間をバラバラにして肉片や臓物をもってウロウロする怪物が出て来るなんて映画は考えられなかった。

 

それと低予算というハンデキャップを打破しようと、当時の映画の様々なお約束をぶち破っているから全く先が読めない映画になっていた。ヒロイン、若いカップル、幼女など、生き残りそうな人物が生き残らない。ヒーローは白人と相場の決まっていた時代に黒人青年が主人公。そしてアクションとかサスペンス映画の主人公というのは普通は間違いを犯さないものだが、この映画においては常に裏目ばかりを引いてしまう。

 

 

5.スケール感の大きいSF的な設定。 

 

低予算で上映時間も限られているなかで、極力説明しないという手法を使ってはいるが、時折出てくる断片的な描写でうまくスケール感を出している。例えば、主人公たちはラジオやテレビ放送などで、死体が蘇ってくるという事件がアメリカ全土で発生していることを知る。なにやら宇宙開発に絡む事件ではないかと推測されるようなニュースが流れる。しかし劇中での描写はそれっきりだ。あとは最後に登場する警察隊や自警団くらいであるし、画面内で起きることは予算の範囲内で限定されているが地球規模のスケール感だけはやたらある。画面を限定することで安っぽさがあまりない。これは現代に至るまで様々な低予算映画に流用されまくっている演出法だと思う。また、登場人物がわからないことは、わからないままにほっておくというのも、嘘っぽい説明を加えるよりもかえってリアリティを醸し出していた。予算の無さをドキュメンタリー形式にすることで対処してしまうというのはわりとコロンブスの卵だった。

 

以上が長くなったが『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』 の革新性と面白さの理由だった。この映画について語りだすといくらでも語れるのでこのあたりにしておく。

 

さて、それを踏まえて『ゾンビ』(77)はどこが凄かったのかをいよいよ分析していく。ちなみに日本やイタリアや様々な地域において『ゾンビ(Zombie)』として知られているこの作品だけど、アメリカ本国の正式なタイトルは『ドーン・オブ・ザ・デッド』となっている。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は夜だったので、それに対して夜明け(Dawn)という流れになっている。タイトルで時間の経過を示唆しているわけだ。

 

日本では『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は白黒映画というハンデキャップなど色々の事情で未公開になってしまっていたので、前作との関連性のわからないのもあって『ゾンビ』という直球のタイトルが与えられた。だから日本人にとってロメロ流の「ゾンビ映画」は『ゾンビ』が初体験ということになる。(厳密にいえば『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のフォロワーである『悪魔の墓場』が先に公開されていたり、やはり日本未公開だった『地球最後の男』のリメイクである『地球最後の男オメガマン』が公開されていたりしたが、文脈のわからない日本人にはあまり理解されなかったかと思う。公開当時に観た人の感想を読んだりしてもやっぱりそのようだ。話が長くなりすぎるのでこのへんにしておくが…)

 

そう、まず『ゾンビ』が凄かったところ。それはテクニカラー方式の全編カラー映画だったことだ。そういうところから始めたいと思う。

 

1.カラー映画であること。

 

「『ゾンビ』は1977年の映画だからカラー映画なのは当たり前でしょうが!」とおっしゃる方も多いかもしれないが、1969年の前作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が白黒映画だったことを考えれば凄まじいパワーアップだった。なぜ前作が白黒映画だったかといえば、やはり低予算映画だったのが理由になっている。単純にカラーフィルムが高いのと、白黒だと特殊メイクなどの誤魔化しがやりやすかったからだ。それがゆえに『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は傑作になった面もあるが、一方で白黒がゆえに配給やテレビ放映が限られてしまったのも否めない。現に日本には配給もされずテレビ放映も無かった。しかし続編かつリメイクともいえる『ゾンビ』ではメジャー映画としてテクニカラーの映画にアップグレードされた。イタリアのダリオ・アルジェントが協力して出資者を集めてくれたからだ。その代わりイタリアを含むヨーロッパ・アジア地域の配給権はアルジェントに委ねられた。だから日本で劇場公開された時は、ダリオ・アルジェントジョージ・A・ロメロの共同監督のイタリア・アメリカ合作映画として公開された。いまだに『ゾンビ』をイタリア映画だと記憶している人がいるのはそのせいだ。とにかく予算が増えてカラー映画になったのは、前作に対してただただアップグレードされた点なので、『ゾンビ』がより多くの観客に受け入れられる要因になったということは覚えておこう。あの名作がカラー化!てなもんである。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のカラー着色版というもあるが長くなりすぎるので触れないでおく。

 

 

2.いきなりクライマックスがわかりやすい。

 

『ゾンビ』はテレビ局から物語が始まる。死者が蘇って人間を襲っているというニュースを報道しているその中心である。そんな報道のさなかテレビ局の人間は次々といなくなる。主人公のフランとスティーブンもテレビ局から逃げ出す局員である。人類社会は終わろうとしているところから物語が始まる。前作と直接のストーリーのつながりはないけれど、あれからさらに事態が先に進んでいたのがわかる。もちろんかったるい経緯説明は抜きである。そこからはもうずっとアクションとサバイバルストーリーが展開していく。世界観もぐっとわかりやすくなって引き込まれてしまう。みんな冒頭から『ゾンビ』の虜になってしまったのだ。

 

 

3.アクションとサスペンスが単純に増強されたこと。

 

前作では予算の都合もあって、掴み合いとか殴り合いのアクションが多かった。主人公たちがもっている武器もライフルが一丁あっただけ。ところが『ゾンビ』は主人公の4人のうちの2人がSWAT隊員ということもあって、M-16アサルトライフルやら拳銃やらライフルやら銃器が豊富に出てくるし派手に撃ちまくる。前作にもちらっとだけ出た警官隊も出番が増えたし、州兵や荒くれ者の暴走族なんかも銃器や爆弾をふんだんに使う。当時としては考えられないくらい銃撃戦や爆発の多いホラー映画だった。というかこれはホラー映画なんだろうかと悩んでしまったくらいだ。アクション映画なんじゃないかと。

 

これの6年前に制作された『地球最後の男オメガマン』(71)は、たったひとり生き残ったチャールトン・ヘストンが、廃墟の町でミュータント相手にサブマシンガンやライフルを振り回して奮戦する映画だったが、まちがいなく影響を受けていると思われるし、もちろん『ゾンビ』のアクション性の高さはそれを凌駕するものだった。『ゾンビ』以降は「ゾンビ映画」と銃器というのは切っても切れない関係になった。今日のゾンビを射撃するアクションゲームなんかもその影響下で作られたものだ。ゾンビ映画という形のアクション映画を創造してしまったのだ。

 

 

4.残酷性やインモラルな要素も増強されている。

 

普通はメジャー映画になると、日和ったりおとなしくなってしまったりするもんだが、ロメロは『ゾンビ』に関しては全力で行った。今考えるとすごいことだ。例えば前作では子供ゾンビが母親を殺すというショッキングな展開があったが、今回は子供ゾンビが単純に2体に増えていたりする。しかもM-16のオートモードで撃ちまくられて死んだりする。前作のゾンビはただのおっさんたちだったが、今回のはカラー画面で映えるように入念にグロくメイクされていたりする(もちろんただのおっさんも多数混じっているが)。特殊メイクアーティストのトム・サビーニが大活躍している。前作では死人たちが人間の肉や腸なんかを食べているシーンが大変に衝撃的だったが、今回はそういったシーンが増えているうえに、生きたまま身体を食いちぎられたり、腹を引き裂かれてしまうというような、もっと衝撃的なシーンが展開する。しかもカラー画面で。どこまでも突っ走ったロメロ監督偉いという他にない。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の100倍位の衝撃を全世界に与えてしまっている。

 

 

5.予算が増えたぶんスケール感も単純増強されている。

 

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は蘇る死体から逃げて田舎の一軒家に立てこもって戦うという話だった。低予算なので田舎の狭い範囲から一歩も出ない話ではあった。そのリメイクたる『ゾンビ』はアメリカが崩壊する中、ヘリコプターで逃げ出した男女が、あれこれと旅を続けたあげくに巨大ショッピングモールの屋上に着陸して、ショッピングモールに立て籠もり、蘇る死体の大集団や、武装した略奪者たちと戦うという話だ。とんでもないスケールアップである。

 

田舎の一軒家ですら面白かった立て篭もりサバイバル劇の舞台が、巨大ショッピングモールになるのだから面白くないわけがない。なにしろ様々な商店やスーパーマーケットまで備えたモールである。スーパーの食料品取り放題、服や宝石なども取り放題という夢のような自給自足生活が始まったりする。今までの映画でこのようなワクワクする描写のあったものといえば、やはり『地球最後の男オメガマン』ではデパート内のスーパーマーケットで食料を取り放題というシーンがあった。『ゾンビ』はそれをさらに発展させたものといえる。だから現代のゾンビ映画的なサバイバルアクション系統の作品ではかなりの確立でスーパーやコンビニで商品取り放題みたいなシーンを入れてくるようになった。しかもアメリカのモールなので銃砲店まであるので激しいドラマの予感しかしない。

 

また、ショッピングモールにたどり着く前にも、プエルトリコ人アパートでの銃撃戦や、田舎の滑走路での戦いなど、場面転換が激しい。モールも巨大だけどさらにトラックターミナルに移動したりと、田舎の一軒家から全く動かなかった前作と打って変わって世界の広がりを見せつけてくれる。予算が増えたぶん、普通にサービスしてくれるロメロ監督はやっぱり最高だった。『ゾンビ』という作品に取り憑かれた人が無限にいるのも理解してもらえると思う。

 

6.ラストの後味が悪くない。

 

アメリカン・ニューシネマというムーブメントがあって、アンチハリウッド映画としてハッピーエンドでは終わらない映画がかっこいいみたいなのがあった。たぶん時代的に『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(69)もそのムーブメントの影響下にある作品で、『ワイルドバンチ』(68)や『イージーライダー』(69)ばりの全滅エンドを迎えてしまう。時代性もあってそれはそれで同作の評価を上げているところでもあるし、ホラー映画としての怖さもあるのだけど、メジャー映画やアクション映画としてはスカッとしたところが欲しいのは確かだ。だから『ゾンビ』のラストは物悲しさもあるがわりに希望も感じさせる爽やかな終わりになっている。まさにナイトからドーン(夜明け)といった感じだ。手放しのハッピーエンドではないにしろそれなりのカタルシスがある。

 

もともとは全滅エンド案もあって一度は撮影されたが、結局メジャー映画だからということでそういう終わりに変更されたようだ。ロメロ監督の判断は正しかったと誰もが思っているはずだ。だけど後の「ゾンビ映画」においては全滅エンドみたいなのが半ばお約束になってしまっているのも事実で、それは『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の影響がそれだけ強かったことを示している。ロメロ監督の盟友スティーブン・キングが書いた小説『ミスト』も、キング流の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』オマージュだったりする。だから映画版のときに騒がれたようなショッキングなオチになっていたりするのだ。

 

 

7.音楽など演出もパワーアップ。

 

『ゾンビ』は制作費を捻出するためにイタリアのアルジェントの協力を仰いだ。その縁でアルジェントにイタリアのプログレッシブ・ロック・バンドのゴブリンを紹介してもらう。アルジェントが編集したイタリア公開版はすべてのサントラをゴブリンが作曲している。北米で公開されたロメロ監督編集版も、メインテーマに関しては繰り返し使っている。おかげでアクション映画としてきわめて軽快な映画として仕上がった。だからみんなゴブリンも込みで『ゾンビ』ファンになっていったのだ。挙句の果てに『ゾンビ』から逆算して『サスペリア』なんかのサントラを買ったりしてるうちにゴブリンファンにもなっていったのだ。それとロメロ監督の映画には『マーティン』(77)から参加するようになったトム・サビーニの存在も大きい。ゾンビの特殊メイクアップは格段の進歩をしていた。これも予算相応のパワーアップといえる。トム・サビーニは『ゾンビ』ではスタントマンをやったり暴走族軍団のひとりとして役者出演までこなす大活躍である。トム・サビーニは続編の『死霊のえじき』(85)でもゾンビメイクをするし、ロメロ監督のメジャー作『クリープショー』(82)『モンキー・シャイン』(88)なんかにも参加してるし、しまいには『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド死霊創世紀』という一作目のリメイク版の監督までしてしまうのだけどそれはまた別の機会に。

 

8.バージョン違いなどマニア要素が異様に高い。

 

ダリオ・アルジェント編集版という話をしたが、ご存知の通り『ゾンビ』という映画は大別すると、ダリオ・アルジェント編集のイタリア公開版と、ロメロ監督が編集したアメリカ公開版と、アメリカ公開版にさらにカットシーンなどを付け足して編集を加えたディレクターズカット完全版の3種類がある。さらに日本劇場公開版はイタリア公開版をベースに変な編集を加えていたり、さらにそれのテレビ公開吹き替え版など、細かいバージョン違いがいくつもあるのだ。もちろんどんな映画にもバージョン違いはたくさんあるものだけど、ここまで追求された映画もなかなか無いと思われる。しまいにはイタリア公開版とディレクターズカット完全版のお互い足りない部分をつなぎ合わせて150分を超えるバージョンが勝手に作られたり、3時間を超えるラフ編集版を観たいなどと願うようになったりしてしまうのが『ゾンビ』オタというものだったりする。『ゾンビ』の底なし沼というやつだ。そういう深い追求に応えてしまう要素がこの映画には間違いなくある。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』にはさすがに無かったところだ。

 

以上が『ゾンビ』がいかに凄い続編だったかの説明である。長くなりすぎたかもしれないが付いてきてくれる人はついてきて欲しい。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』では小さい波だったゾンビ映画ブームが、『ゾンビ』という優れたリメイク作品のせいで、乗るしかないビッグウェーブになった理由が少しでも理解していただけたら幸いである。それには色々の幸運もあったと思うが、なによりもロメロ監督のこだわりが偉大すぎた。死人が生き返るようになった世界で、ショッピングモールに立て籠もって生活するという世界ははっきりいってディストピアであるが、みんなこれに強烈に憧れをもってしまったのが凄いことだと思う。今に続く映画やらコンピューターゲームやらも、いまだに『ゾンビ』の世界観を再現しようと必死になっている。

 

僕は劇場でこの映画を観た世代ではなかった。日本で『ゾンビ』が公開されたのは1979年だったので当時は6歳。なんとなくゾンビっていう怖いのが流行ってるなと感じた程度。実際に目にしたのはテレビ放映が最初だった。世の中にこんな面白い映画があるのかと思った。そもそもホラー映画とかいう類は子供の頃の僕は大嫌いだったのだ。なにしろ記憶しているなかで最も古い映画館の思い出はダリオ・アルジェント監督の『サスペリア』だった。これが1977年公開だから4歳ということになる。これが怖くて怖くて仕方がなかった。だから基本的にはそれがトラウマになってホラー映画は苦手だったはずなのに、『ゾンビ』があまりにも面白すぎて、気がつけばホラー沼にハマりきってしまっていた。『バタリアン』(85)なんかも勿論ドハマリしたし、『サンゲリア』(79)『死霊の魔窟』(80)『ゾンビ3』(81)なんていうフォロワー作品を通じてイタリアホラー映画にもどっぷり浸かりきってしまっていた。あれほど忌み嫌っていたはずの『サスペリア』なんて大好物になっていて、アルジェント監督の映画もほとんど観てしまっていた。

 

僕ひとりにとっても、やはりロメロ監督の影響力はすごい。亡くなったきっかけで考察してみたけど、どんな映画監督よりもジョージ・A・ロメロ監督が一番だったと思う。

 

むちゃくちゃ長くなってしまったがやはり『ゾンビ』の続編の『死霊のえじき』についても語りたいので今回のは中編としておいた。今度こそはもうちょっと短くまとめたいと思っているがどうなるかはわからない。

 

  

 <前編>

<後編>

 

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バージョンの多さも『ゾンビ』の魅力であって、みんなどれかしらお気に入りの一本があるものだ。僕はアメリカ公開版が一番好きだが、同じアメリカ公開版でもソフトによって微妙にカットが違ったりする不思議もある。

 

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鳥 (字幕版)

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ザ・クレイジーズ 特別版

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 ゾンビ映画の方法論を別のパターンに使った初期の傑作アクションスリラー。リメイク版も作られたがそちらはいまいちだった。やはりロメロ監督のセンスには及ばない。

ゾンビ 【DSDリマスタリング】

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マークの幻想の旅

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ゾンビ

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原作ではなくてノベライゼーション。劇中で語られなかった設定なんかも、シナリオに基づいて語られるのでゾンビオタは必ず読んでおきたい。日本語翻訳を出してくれたABC出版には感謝しかない。

ジョージ・A・ロメロ監督が「ゾンビ映画」の偉大な父になった経緯を振り返りまくる追悼企画<前編>

アメリカのピッツバーグの映画監督であるジョージ・A・ロメロ監督が亡くなってしまった!僕がもっとも影響を受けたアメリカの映画監督といえると思う!ショッキングなニュースだった!

 

77歳という高齢でいつ亡くなってもおかしくなかったからさほど驚かなかったというのは嘘で、やはり少なからず驚いてしまった。多くのファンも同じ気持ちだろう。ジョン・カーペンター(69)や、ダリオ・アルジェント(76)なんかが亡くなってもやっぱりショックだと思う。かつてルチオ・フルチ監督やブルーノ・マッティ監督が亡くなったというニュースを見た時は「へえ…」ってなもんだったけど、やはり現代ホラー映画界隈でも、ロメロ、カーペンター、アルジェントなんかのクラスになってくると影響を受けた人間の数は桁違いだ。

 

特にロメロ監督といえば、2017年現在もとどまるところを知らないゾンビブームをそもそも作り出した根源であって、宇宙の出発点みたいな人であるから「最も影響を受けた映画監督」に挙げる人は日本人でも死ぬほどいる。ゾンビが好きすぎて気がついたらクリエイターになっちゃったなんて人も枚挙にいとまがない。ロメロの盟友ともいえるスティーブン・キングも嘆き悲しんでいたし、それよりも下の世代のハリウッド監督たちも追悼のコメントを次々と寄せている。

natalie.mu

 

よくロメロ監督を「ゾンビ映画を作り出した人」なんて紹介をされるけれど、ロメロファンなら常にネタにするところだけど、半分は正解で半分は不正解だ。

 

ゾンビが出て来る映画とか、ゾンビというモンスターがテーマになった映画というのは、ロメロ監督が作る前から存在した。じゃあロメロ監督は「そういったゾンビの映画を流行らせた人」なのかというと、それも半分は違っていて、「ゾンビが出て来る映画」しか無かったそれまでの世界に、「ゾンビ映画」というジャンルを創造してしまったという方が正確なところだ。iPhoneを世に送り出してスマホブームを出現させたスティーブ・ジョブズよりも、もしかしたら創造的で偉大なことをやったのかもしれない。(だってiPhoneが世に出たのは2007年だから、スマホブームなんてまだ10年くらいのものだ。この先は知らないけど)

 

ジョージ・A・ロメロ監督(外国人はAを抜かしてジョージ・ロメロと呼ぶが、日本人はどういうわけか律儀にミドルネームを大切にする。もちろん僕もかならずAを入れていしまう)が「ゾンビ映画」を創造したのは1969年の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』によってである。この白黒の自主制作映画が作らて以降、48年間もゾンビ映画ブームが継続中なのだからとんでもない話だ。しかもこのブームは明らかに拡大している。今やゲームやドラマやマンガなんかにも飛び火しているのはご存知かと思う。

 

さて、ロメロが創造した「ゾンビ映画」とは何なのか。それは『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のストーリーと設定を知って貰えれば理解できる。この映画では主人公たちが「いきなりそこら中の死人が蘇ってきて、生きている人間を襲いはじめた」という不条理な状況に立たされるところから始まる。そして否応なしに「動く死体」から身を守るというサバイバルが始まるのである。主人公たちは田舎の一軒家に立て籠もって、集まってくるゾンビたちとの攻防に終始する。

 

設定としてはSF要素が高いし、不気味な死体が蘇ってきて殺しに来るという点ではホラーなんだけど、映画の展開としてはアクション映画に近かったりする。だから基本的に『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』という映画は、2017年の今見てもかったるいところが少なくて、ものすごく面白く観れると思う。観てない人は騙されたと思ってぜひ観て欲しい。カラーのリメイク版もあるので注意して欲しい。あくまでも白黒の方をまず観て欲しい。

 

この作品の極めつけのところは「蘇った死体たちが人肉を貪り食う」というグロテスク極まりないシーンがクライマックスとして存在するということ。60年代の映画なんて、ピストルや刃物で切られても、ウッとかいって倒れていたのが大半だ。今のアクション映画みたいに、やたら手足がちょん切れたり頭が粉々になるなんて描写は、たとえホラー映画でもほとんどしなかった。そんな時代に、人間死体から腸を引っ張り出して食べるとか、ありえない描写をしまくっていた。そりゃ話題になって当然である。しかも内容としては先程も述べた通り、アクション性の高いハラハラするサスペンスドラマになっていたりする。こうして『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は伝説の映画になった。若干28歳のロメロ監督はデビュー作で伝説の監督になってしまったのだ。

 

その後は『死体と遊ぶな子供たち』(1972)や『悪魔の墓場』(1974)に代表されるように、この映画の模倣が数多く作られるようになる。

 

模倣作品の特徴としては、「とにかく死体が蘇る(理由は様々)」「生きている死体たちは、人間に噛み付いてきたり人肉を食べたりする」「死んだ仲間や主人公たちも、うごく死体として蘇ったりしがち」「基本的には主人公たちのサバイバルがテーマ」というものだった。そういうストーリーや設定になっている映画を指して「ゾンビ映画」と呼ぶようになった。ここに完璧にジャンルが創造されてしまったのだ。

 

それまでの「ゾンビが出て来る映画」は、ブゥードゥー教の世界観のモンスターであるゾンビの出て来る話だった。ロメロが創造した「ゾンビ映画」というのは、蘇った死体という属性上、「ゾンビ」という名称で呼ばれているだけで、ブゥードゥー教のゾンビ的なものが出て来るような映画や、同じ蘇る死体である吸血鬼映画なんかとは全く違っていた。どちかといえばリチャード・マシスン原作のSF小説アイ・アム・レジェンド』の方が内容的に近かったりする。(後年にウィル・スミス主演でも映画化されたあれ)

 

実際、ロメロ監督は、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を制作するにあたって、『アイ・アム・レジェンド』の最初の映画版である『地球最後の男』(1964)をイメージしていた。もしくはSF小説『トリフィド時代』を原作とする『人類SOS!』(1962)も参考にしている。だから現代的な目線として、ロメロ監督が『ナイト~』を撮影する前に「ゾンビ映画」が存在するとすれば、『ホワイトゾンビ』や『吸血ゾンビ』のようなゾンビが出て来る映画じゃなくて、『地球最後の男』や『人類SOS!』ということになる。ややこしいけれど、付いてこれる人だけ付いてきたら良いと思う。

 

さて、こうして始まった第一次ゾンビブームは次第に終焉していくかに思われたが、1977年にロメロ監督自身の手によってセルフリメイクされた『ゾンビ』(原題『デイ・オブ・ザ・デッド』)によって第2段階めの爆発が起きる。

 

追悼にロメロ監督の偉業をざっと説明しようとしたけど、どうしたって長くなってしまった。だからブログは前編として、ひとまずここで区切っておく。続きはすぐ書くので、付いてこれる人はちょっとだけ待ってて欲しい。今夜は追悼で『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』も良いかもしれない。諸般の事情によって、著作権切れした映画なので、どっかに動画とかも転がっているかもしれない。

 

 <中編>

 <後編>

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド [Blu-ray]

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 TSUTAYAさんとかにも必ず置いていると思われる。

 

地球最後の男 [DVD]

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地球最後の男/人類SOS!(2in1) [DVD]

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 ゾンビ映画のルーツが狙ったようにパックになっているのは心憎いばかり。

 

悪魔の墓場 -HDリマスター版- [DVD]

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死体と遊ぶな子供たち [DVD]

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第一次ソンビ映画ブームにおける先進的?フォロワーたち。

 

 

 動画サービスでも『ゾンビ』が観られるのは多い。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』もあるのかな。著作権切れだからって投げやりな扱いかも?

 


ナイト・オブ・ザ・リヴィング・デッド 1

 

いちおうYouTubeの動画もはっておく。著作権切れだから。デジタルリマスターの高画質で観たい場合はブルーレイディスクなりなんなりで買ってください。古ぼけた画質も味がある。

TSUTAYAにDVDを借りにいってめっちゃイライラした

TSUTAYAに久しぶりに行ってきた。会員カードの期限が切れてしまって数ヶ月経ってしまうくらい行ってなかった。昨今はストリーミングサービスにすっかり慣れてしまって、DVDの円盤を借りにいくのが非常に億劫になってしまっていたからだ。

 

だいたいタブレットで観れる映画というのは楽すぎる。DVDだといちいち変換しないとタブレットで観ることが出来ない。またたとえそうだとしてもストリーミングと違って容量を圧迫するとかいうさえ苦痛になっている。完全にメディアにコントロールされている。

 

でもそれじゃあ「ストリーミングにあらずんば映画にあらず」みたいな思想になりがちだし、劇場公開を逃してしまってストリーミングサービスに来てない映画は果てしなく観なくなるのでこれはいけないと思ったのだ。今回は『シチズンフォー・スノーデンの暴露』がどうしても観たかったので、重い腰を上げてTSUTAYAに向かった。

 

しかしTSUTAYAのレンタルコーナーに入った瞬間たちまち疲弊してしまった。『シチズンフォー・スノーデンの暴露』がどこに置いてあるのかわからないのだ。おそらく新しい映画なので「洋画」の「新作コーナー」か「準新作コーナー」を探せばあると思われるのだけど、棚を虱潰しにしていかないとダメなのだ。コンピューターの検索システムに慣れすぎているとこれがやっかいだ。

 

それでも「新作コーナー」か「準新作コーナー」だけ見ていけば必ず見つかるなら良いのだけど、「新作」「準新作」のソフトは場合によっては特設コーナーに置かれていたりするので置いてない場合もある。じゃあ特設コーナーも虱潰しにすれば良いのだろうけど、特設コーナーが現時点で店内にいくつ設けられているかなんてわからないので、どこを探せば良いのかわからなくなってしまう。そもそもこの店舗に『シチズンフォー・スノーデンの暴露』が入荷されているのかも不明だ。初めから無いのなら探しても徒労に終わるだけだ。

 

ネット書店Amazonとか、ネットストリーミングサービスの映画などは、名前を入れれば一発で出てくるので検索の苦労なんてものとは無縁だ。ところが本屋やTSUTAYAの実店舗でお目当てのものを探すのは、時として信じられないくらいに骨が折れる事に気がつく。だから今どきの大型書店やTSUTAYAなどにはコンピューターが設置されていて、タイトルの検索出来るようになっていたりするわけだ。

 

もちろん一瞬でイラついた僕は一直線に検索システムに向かうわけだ。そして検索してみると店舗に在庫ありとなっている。店内にはあるようだ。そして「準新作」かつ「ドラマ」というカテゴライズになっているようだ。ドキュメンタリーだと聞いていたので「ドキュメンタリー」のカテゴリーで無いのは意外だったが、こういうのは本当に検索とかしないとわからない。まあとにかくわかったので、「準新作」の棚のうちの、「ドラマ」と札のついた棚の、「さしすせそ」の棚を探せば、お目当てのものが見つかるはずだけどそこには無かった。じゃあ特設コーナーなどにあるのだろうか。検索システムには、店内場所を示す地図が出て来るのが常なので、こういうイレギュラーも安心なのである。

 

検索画面をもう一度出してみる。

 

シチズンフォー・スノーデンの暴露』の店内設置場所……「店員にお尋ねください」と表示されていた。

 

「店員にいちいち聞くのが面倒だから検索してるんやないかい!」と思わずつっこみたくなった。

 

そもそもこの店舗は、1階に貸出・販売レジ、2階がDVDコーナーになっており、2階に店員がいること自体が稀なのだ。わざわざ1階までいって店員を連れてきて、また探すとかものすごい煩わしい。こんなだったらレジで映画のタイトルを言えばすぐに渡してくれる方式にして欲しいと思う。しかしそれだと棚にパッケージを並べて貸し出すシステムと共存させるのは非常に難しいだろう。

 

TSUTAYA店舗もネットストリーミングおよびツタヤディスカス(会社内食い合い!)に客足が奪われていることを危惧してか、新作でもなんでも5枚で1000円レンタルなんていう破格のサービスを初めていたりする。せっかくだから5枚借りていくかと2枚めまで手にとったところで、スノーデンをはじめとしてあと3枚の目当てのタイトルが見つけきれずに「もういいや!」と店を出てしまった。5枚というサービスがかえって仇になってしまったのだ。それほどまでに現代レンタル店の検索性の低さは深刻だった。

 

そういえば『レゴムービー』という映画を借りに行ったときも、ものすごく困った記憶がある。僕の前知識としては『レゴムービー』はレゴの世界を舞台にしたアメリカのCGアニメ映画だ。TSUTAYAさんには「海外アニメ」というカテゴリーの棚があるので、そちらを探してみたのだがぜんぜん見つからない。

 

これがディズニーの新作映画ならば「ディズニー」の棚を探せば一発であるか無いかわかる。「ディズニーだって海外アニメなのだから海外アニメの棚なんでは?」というつっこみは意味をなさない。店内に「ディズニー」の棚が存在する以上は、「海外アニメ」という属性よりもディズニーが優先されるのだ。同じく「ジブリ」という棚もあって、たとえば高畑勲監督『じゃりン子チエ』なんかを観たかったら、「漫画原作アニメ」の棚の「さしすせそ」のコーナーを探しても、置いてあるのはTV版のソフトだけだったりするのでまるで無駄なのだ。また、『機動警察パトレイバー』シリーズは、「ロボットアニメ」の中の「パトレイバー」という棚にあるが、『機動警察パトレイバー』の劇場版のDVDは「押井守」の棚にあったりする。それぞれの作品の属性がどのようなものかというのは、店が恣意的に決めるようである。

 

してみると『レゴムービー』はどういうカテゴリーに分類されているのか。「CGアニメ」というカテゴリーがあるのかと思えば、そういうのは無かった。『トイストーリー』は「ディズニー」の欄だし、『カンフー・パンダ2』は準新作みたいな棚にあって絶望した。そこで考えたのは『レゴムービー』は「CGアニメ」といっても、レゴの世界をリアルに描いた映画であるらしいので、もしかしたらアニメとくくられていない可能性である。普通に洋画のコーナーの、例えば「ファンタジー」とか「SF」とかいった棚にあるのかとも疑って探してみたけれど無かった。いちおう内容としてはアクション映画っぽいので「アクション」のコーナーを探してみたけれど無い。テーマがレゴとはいっても、「大人が観て感動する!」的な話も聞いていたので「ドラマ」のコーナー(それにしても大雑把なジャンル分け!)や、レゴが面白おかしく動くという切り口から「コメディ」かもと探してみたものの無い。いちおうアニメコーナーの方の「コメディ」棚だってチェックしてみたがもちろん無い。

 

ここまで来てしまうと「店員に聞けよ!」なんていうつっこみはやはり無用のものであるのは言うまでもない。もう一度いうが、この店は1階にしか店員がおらず、2階と1階を行き来するのは非常に面倒で、それだったら自分で探した方が早かろうと「あ、もしかしてこっちかも?」「いや、こっちだったかな?」などと繰り返しているうちに、ズルズルと何十分も時間と労力を無為に浪費してしまっているのである。いわゆるサンクコストの呪縛というやつで、いまさら店員に聞いてしまっては、これまで投下した労力が無駄になるという錯覚にとらわれてしまっている。あまりにも頭にきたので検索システムを使うことすら忘れていたくらいだ。しかしもういい加減めんどうになって、ついに検索システムによ手を出してしまう。そして『レゴムービー』がどこにカテゴライズされているかがようやく判明した。「キッズ・アニメ」コーナーらしい。なんじゃそら!むちゃくちゃ大雑把やんけ!

 

こんな思いをするのだったら、本も映画も、リアル店舗では、すべての在庫は厳密に「あいうえお」順に並べて欲しいとさえ思ったが、それだと棚を物色して「ホラー映画で面白そうなものは無いかな~」とか「新作は何が出てるだろう?」とかいった楽しみを全否定してしまう。完全に味気ない倉庫である。リアル店舗で営業している意味がない。

 

でも思い返せば昔はそれでもよかった。お目当ての映画や本を探すこと自体が楽しみだったし、店内を一時間くらいぶらぶらしていても全く苦痛ではなかった。というかレンタルビデオ屋に遊びにいくと2時間はいた。そして客自体も店の商品棚の配置をだいたい覚えていたりした。だから店が悪くなったというより、僕ら客の意識がそういうのに耐えられない人類になっていたのだ。

 

検索してサッと出てくるというネット社会に慣れてしまうと、たくさんの中からものを探すのが非常に煩わしく感じるようになってしまっていた。そうして店にあまり足を運ばなくなり、商品配置にもどんどん疎くなっていく。かつてはあれほど通いつめた店なのに…。

 

だから検索機というものが登場したのだろうけど、TSUTAYAにしても本屋にしても、レイアウト変更や特集コーナーとか頻繁にやりがちなので、前述の『シチズンフォー・スノーデンの暴露』の検索にほとんど意味がなかったように、店内データの管理が追いついてなかったりする。そのあたりは頑張って反映させてくださいとしか言えないのだけど。

 

といっても、実店舗の客離れは止まらないだろう。大型書店に関してはエンターテイメント性もありしばらく生き残っていきそうだが(Amazonですら書店を出そうとしているくらいだし)、DVDやBlu-rayなどの円盤メディアは先行きに光明が見えない。あらゆる点でネットストリーミングサービスが円盤を凌駕していくだろうし。

 

それにしても映画館以外で観る映画の価値って落ちたもんである。昔は新作映画のVHSを借りるのに1000円くらい平気で払ったものだった。といっても信じて貰えないだろうけど。

 

さんざん愚痴ったけれど、近いうちにまたTSUTAYA店舗へのレンタルはトライしてみるつもりではある。『シチズンフォー・スノーデンの暴露』が観たいのである。

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TSUTAYAとは編集

 

Amazonプライム会員に3900円を払う価値があるかどうか徹底的に主観で検証した!?

自慢ぽく書くけれど、僕はAmazonプライム会員である。

 

ネットゲームでもネットサービスでも、とことん重無課金勢を貫いてきた僕であるが、なぜAmazonにだけは課金してしまったか。Amazonプライムとはそこまで魅力的だったからだというのは嘘であって、単に見えていた地雷にひっかかっただけだったりする。

 

いわゆる「プライム一ヶ月無料体験」というやつ。

 

ツタヤディスカスだのDMMレンタルだのもそうだけど、一ヶ月無料体験なんていうのは悪辣な自動契約システムになっている。

 

無料体験一ヶ月というのは一ヶ月体験してから「さあ契約しましょうね」と選択を迫ってくるのではなく、「自己責任で一ヶ月以内に解約しないと知らんからね」という態度なわけだ。

 

むしろ「初年度は13ヶ月契約であって、解約期間が一ヶ月与えられているだけ」といった方が実情に沿った表現かもしれない。それを「無料体験」なんて表現するのは如何なものなのか。規制して欲しい。

 

だから買い物のたびに出てくる無料体験サジェストを見ても、「そんな手には乗らないよ」と無視を決め込んでいたのだけど、この夏の終わりの日に、ついうっかり魔が差してしまった。過去の成功体験に酔ってしまっていたのも否定できない。

 

Amazonプライムが今のようにサービスてんこ盛りになる以前。「ただ到着が早いだけ」という、実にくだらないAmazonプライムの時代があったのを覚えているだろうか。こんなもの誰も入らないだろとか思ってたのだけど、あるときついうっかり一ヶ月無料体験のボタンを押してしまい、しかし無料のままで切り抜けた過去があったのだった。(一ヶ月くらいプライム会員だったけど何も得はしなかった。それだけ当時のプライムは心底くだらなかったから…。)

 

それに加えて、ツタヤディスカスや、DMMレンタルの一ヶ月だけ無料体験なども加入していた。そのときも目的のブツをあらかたレンタルして脱退に成功していた。

 

で、今回。二度目のAmazonプライム体験。気がつけば僕は一ヶ月目の更新期間を華麗にスルーしていた。そして晴れてAmazonプライム会員になったわけだ。油断もあったと思うけど、やっぱりプライムビデオとかで映画を毎晩観てるうちに「まだいけるよな?」「ぎりぎりで良いよな?」みたいな気持ちになっていったのは否定できない。身体がAmazonプライム漬けにされていったのだろう。だからみすみすプライムの契約をするのは癪だけど、「解約の日を忘れてた」ということなら仕方ないよね、などと潜在意識と肉体が勝手に水面下で合意を結んでいた可能性すらもある。

 

そんなこんなで僕はAmazonプライマーになってしまった。大枚3900円も支払うことが決定している以上は、さしあたって一年間は腹をくくってAmazonプライムという果実をむしゃぶりつくす他に方法が無い。

 

さてそこで疑問になってくるのがAmazonプライムはお得なのか?」という事である。ちょっと体験という軽い気持ちで加入してしまったわけで、それほど検討したわけではなかった。

 

加入してから「お得なのか?」とは本末転倒にもほどがあるが、来年以降のこともあるので考えてみたい。そしてまだ加入していない人の参考になればとは思う。ただし、あくなで「僕自身が思うお得さ」であることは宣言しておく。

 

サービスをひとつひとつ見ていこう。

 

1.Amazonお急ぎ便が無料で使える

初代Amazonプライムの柱のサービス。便利なこともあるけど、基本的にはくだらない。

 

だってAmazonの注文って、品薄とかマケプレなどの中古品でもなければ基本的に3日以上かかった記憶がない。2日が翌日になっても嬉しいこともあまりない。まあ、嬉しい時も無いこともないけど、お金を払ってまで嬉しくなりたくないというのが正直な気持ちだ。だからこのサービスはあくまでオマケと考える。初代Amazonプライムがあんまり流行らなかったのはうなずける。

 

2.送料が無料になる。

これは地味にデカイ。現状のAmazonは2000円以上買わないと無料にならない。その前のAmazonはたいがい送料無料だった。その前もたしか激しく有料になってた時期があって、Amazonプライムに加入しないと損だよと煽ってた記憶があるけど、あまりにもプライムに人気がなくて、いつのまにかAmazonが折れてズブズブになっていった気がする。あまり記憶が定かではないけれど。

 

しかし今回のAmazonは本気っぽい。サービスの改悪というか、単に送料取りたいだけやんけど言われたらそうだけど、支払うはずだった送料を浮かすと考えれば、年間で浮かせれば浮かすほど3900円がお得になってくる計算だ。しかしそのために注文しまくるとかしたら本末転倒どころかAmazonの目論見どおりになってしまう。でもAmazonプライムに入ると必要以上にAmazonに触れる機会が増大するわけで避けては通れない部分なのかもしれない。まあ、おまけ程度に考えていれば、地味に嬉しい。そんなもんだ。

 

3.Amazonダッシュボタンが使える。

サントリー天然水 Dash Button

サントリー天然水 Dash Button

 

 話題になってるこういうの。

 

正直、いらん。ダッシュボタンを見てる時間よりスマホタブレットやPCに触っている時間の方が多いからそっちから注文しよう。しかも欲しい商品がない。僕にとってはメリットではない。将来的にはわからないけど記憶から消えていても良いサービス。

 

4.Amazonパントリー

ふーんって感じ。

 

5.プライムフォト

これは良い!タブレットスマホで撮影した写真を、Amazonのオンラインストレージに自動で転送してくれる。それだけだったら無料で使えるのだけど、プライムに加入していると容量が無制限になる。もうスマホの容量を気にする必要なし。

 

しかも僕はPCに画像を取り込んでいろいろしたい派なので、いちいちスマホタブレットをPCに接続して転送していたのだけど、この作業が嫌いで嫌いでしょうがなかった。なにせアップルは専用のコードを用意していちいち探してきて接続してやらねばならん。USBの穴だって有限なのである。だからプライム加入前からAmazonドライブのサービスを利用していたのだけど、容量が無制限になったので何も考えずに使い続けれる。というか、使えば使うほど、このサービスに依存し、離れられなくなる気がする。まさに蟻地獄だと思う。大量にアップロードした画像データはいわば人質なんだろう。

とりあえず限界まで依存してみたいと思う。そしてこれからスマホタブレットは、一番容量の少ないモデルを選び続けようと思った。

 

<追記>その後、Googleフォトという似たような無料サービスがリニューアルされて、こっちの方が使い勝手が良いので微妙な特典になった。とはいえ万が一の時はプライム解約しても大丈夫になったので有り難い。

 

6.プライムミュージック

特定の音楽が聴き放題になるというサービス。

 

最初は「そんなもんYouTubeでええやん」とか思ってたが、実際に使ってみるとまるでiTunesに取り込んだライブラリから拾ってくるみたいに、アルバムがまるごと入っていたりしてすぐ聴けるので便利すぎた。

 

そりゃ、現状ラインナップはそれほど多くはないけれど、好きなロックバンドのアルバムなんか探しても、それぞれ1枚づつだったりして好きな奴でなければがっかりするけど、ASIAに関してはなぜか3枚も入っていたのにシビれてしまった。一生懸命せっせとiTunesに取り込んだ自分が持っている音楽CDはめんどくさくて聞かないけど、プライムミュージックに収録されている曲なら聞く。そういう事だ。

 

たまに思い出した時に聴ける感じは便利だ。

Asia

Asia

 

 7.Kindleオーナーライブラリー(その後プライムリーディングが登場!)

Kindle端末を持っていると対象のKindle本を毎月一冊読めるというもの。

 

対象の本が狭くてあまりうれしくない。対象の中に読みたい本があり、かつKindle端末ユーザーなら嬉しいのかもしれないけど、そんな大したサービスじゃないと思われる。毎月一冊読めるというから年に12冊もらえるかというとそんなウマい話でもなく、毎月一回、無料で読める本を交換できるだけだったりする。しかも対象の中から。

 

そもそもの問題として、このオーナーズライブラリー対象になっている本を、膨大なAmazonの中から探し出すのは困難を極める。「オーナーライブラリー 探し方」でググると、攻略サイトがいくつも出てくる。サービスを使うのに攻略サイトが必要だと!?

 

まあ、そんなサービスだ。Kindle端末が無いと使えないし、「そんなんあったな」程度の認識でよろしいかと。

 

<追記>上記のようにあまり使い勝手が良いとはいえなかったオーナーライブラリーだが、その後にプライムリーディングというサービスが導入された!これは以下の点でオーナーライブラリーの存在価値をなくすサービスなので十分に魅力的だ!

 

1.オーナーライブラリーより対象の本や雑誌が格段に多い!

2.オーナーライブラリーは月に1冊を選ぶだけだったが、プライムリーディングは同時に10冊までダウンロード可能。しかも随時交換も可能。つまり対象書籍の少ないKindleアンリミテッド!

3.Kindle端末を持ってなくても利用可能!(←決定的)

4.プライムリーディング対象書籍のチェックボックスを入れておくだけで検索可能なので検索性が高い!

 

月1500円もかかるアンリミテッドに対して、こちらはAmazonプライムのオマケである。とくに雑誌関係なんかは自分の興味のあるものがあればただただ得である。僕はアンリミテッドの月1500円には、全く価値を見いだせなかったので解約したが、こちらはひたすら大歓迎だ。だってオマケだし。あんがい読みたい本があるし。

 

プライムリーディングは素晴らしいサービスだ。

 

8.プライムビデオ

はっきりいって、アマゾンプライムのメインコンテンツはこれである。年3900円で映画を見たいか、見たくないか。これだけで決めればええのである。

 

「年3900円で映画見放題の契約したら何故か荷物も早く届くようになったゾ!?」これがアマゾンプライムの本質といっても過言ではない。

 

ラインナップが心憎い。『ロッキー』シリーズ全作が吹き替えで揃っていたり、『悪魔のいけにえ』や『遊星からの物体X』が高画質で観れたりする。『ザ・フライ2二世誕生』とか泣かせるにもほどがある。あと、DVDだとめったにおいてない『26世紀青年ばかたち』がラインナップされてたりもする。『シンゴジラ』が流行ったとなるとすかさず当時話題になった韓国の怪獣映画『グエムル』を加えてみたり、『ゴーストバスターズ』のリメイク版がきたときも『ゴーストバスターズ』オリジナル版の視聴が可能だったりしたのも良かった。

 

映画以外でいえばバンダイチャンネルと提携していてガンダムとかザンボット3とかイデオンが全話観れたりするし、映画版の『逆襲のシャア』や『機動戦士ガンダムF91』もしっかり入っている(2017.11.現在はラインナップから外れているが…しかし代わりに『太陽の牙ダグラム』全75話が配信されている!)。人生が何個あっても足りないレベルとはまさにこのこと。

 

昔、衛星放送の有料チャンネルWOWOWに、月5500円くらい払って加入していた時代を思い出して切なくなってしまった。今じゃ年3900円で好きな映画が観れたりする。僕がAmazonプライムを脱会するときはプライムビデオに飽きた時だと思う。それくらい根幹をなすサービスかと思う。映画に興味なければプライムは必要ないとまで言い切ってしまう。

 

Amazonプライム・ビデオ

Amazonプライム・ビデオ

 

 

 

 

 

 

9.Kindle端末が4000円引きになる

これもプライムビデオと密接に関わっているのだけど、プライム会員なら4000円引きになるKindleFireHD8が凄く良い。プライムビデオやプライムミュージックを視聴するにあたってこれ以上に快適でコスパの良い端末もないだろう。なんせ九千円を切るのである。

 

安いKindle7も選べるが、ここはKindleFireHD8が圧倒的にオススメである。悪いことはいわないので、Kindle端末を買うならFireHD8にして欲しい。これは呪文のように繰り返したい。ペラペラのおもちゃみたいなタブレットなのにヘッドフォンなしでドルビーサラウンドぽいことが楽しめるのは驚愕する。Kindle7じゃモノラルサウンドなうえに性能的にもしょぼい。四千円の差でこれはない。

 

以上。とにかくAmazonプライムは、プライムビデオありきというのがわかってくれたかと思う。Kindle端末が安くなる特典なんかも、プライムビデオを観るのが前提になっているのだ。だからビデオ視聴用に作られていなくて、電子書籍用のKindle7はあり得ない選択になってくる。かといってKindle FIRE HD10は高すぎる。ぜんぜん美味しくない。

<追記>その後に新型のHD8とHD10が出て、どちらもかなり魅力的な端末になった。詳しくは以下の記事を読んで欲しい。

とにかく映画が好きなら、Amazonプライムはいろいろお得なサービスと言える。映画好きの僕の完全な主観による評価だ。映画を見ないならプライムは入らなくて良いんじゃないか。Kindle本を読むだけならプライム要らんし…。

 

 10.Twitchプライムに自動的に加入できる

またまたプライムに新しいサービスが加わっていた!ゲーム動画配信SNSであるTwitchを買収(2014年に買収していたことを今更知った!)する事によって、Amazonプライム会員=Twitchプライム会員ということになったっぽい。Twitchの有料会員の恩恵を、Amazonプライム会員も受けられるということ。動画の広告表示をキャンセル出来るしゲームなども無料で貰えてしまう。どこまでサービスするの?反動が怖い……。

 

ちょっとわかりにくいけれど、こちらからAmazonプライムとTwitchプライムの紐づけ可能。

Twitch Prime – Amazon プライム会員では、毎月無料でゲーム内のルートを入手でき、広告なしの視聴、無料のスポンサー登録に加えて、さらに多くの特典が満載です。

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みんなに『帰ってきたヒトラー』を観て欲しかった

『帰ってきたヒトラー』という映画を観てきた。ヒトラーが現代のドイツにタイムスリップしてきたらどうなる?というドイツのSF小説がベストセラーになった。それをドイツで映画化したのが本作だ。これがめちゃめちゃおもしろかったので日本国民みんなに観せてやりたいと思った。

 

ベルリン陥落前に、どういうわけか現代のドイツにヒトラーはワープしている。理由は全くわからない。ヒトラーはキオスクで新聞を読み、たちまち事態を把握する。そして新聞をむさぼり読んで現代の社会情勢をどんどん吸収していく。

 

同じ頃、テレビ局をクビになったディレクターが面白いネタを探していた。たまたまカメラに写っていたヒトラーそっくりのヒトラーに目をつけて、彼を本物とは知らずドイツ中を連れまわしてロケハンに出かける。

 

ヒトラーは各地で政治に不満を持っている人を見つけてはその話を聞いてまわる。「移民が何もかも悪いのよ」とかいうオバサンの話を「うんうんその通り」などと聞いてやるのだ。ヒトラーといえばドイツの歴史でも世界の歴史でも、たぶんトップレベルに有名な人だ。だからヒトラーそっくりのヒトラーもあちこちで人気者になっていく。テレビ局に連れて行けばたちまち重役たちのハートを掴んで、テレビ番組への出演が決まる。

 

本物そっくりの演説をぶちかます彼に(本物なのだから当然だけど)観客もテレビの視聴者も目を離せなくなっていく。テレビ局の女社長を味方につけたヒトラーはますます躍進していく。

 

この作品は最初はおおむねヒトラーの一人称的な視点で進んでいく。そして現代でアナクロともいえる大げさな主張や行動を繰り広げれば繰り広げるほど皆に笑われる。でも本人はいたって真面目だからよけいに面白い。

 

観客はそんなヒトラーに「なんだ、ヒトラーといったら怖いイメージあったけど、面白いオジサンなんじゃ?」と親近感をもっていく。

 

しかもヒトラーはいついかなるときも真剣で全力投球だし、力強く「私に任せたまえ!」と言われたら何となく頼りになる感じがする。

 

実際に、ドイツ国家民主党の本部に突撃取材を敢行して相手を言いくるめたり、せっせと各地に足を運んで活動家と仲良くなったり、行動力も半端ではない。

 

それでもって例の軍服でビシーッと決めて立ってるだけで誰がみたって痺れるほどかっこいい。YouTubeでたちまち何百万とアクセスを集めて大人気になっていく。親衛隊を募集すればドイツ中のボンクラが集まってくる。

 

映画を観てるコチラとしてもいつしかヒトラーに肩入れして「おうおう、どんどんヤッちまえ!」という気分になってくる。

 

なにしろ世の中の大半のオヤジは、ダサくて、はっきりしなくて、なんとなく頼りない。その点、ヒトラーはとてつもなくハッキリとものを言う。観ていて正直、スカッとする。

 

でも、現実には、頭頂部ウスラハゲオヤジのようにダサくて、ぼんやりと頼りなくて、もやもやとはっきりしないものの方に、正しいことが多かったりする。でも、口からでまかせであっても、明確な答えを聞きたいのが人類だったりする。どうしたって、理屈より先に、気持ちでスカッとしたいのだ人類は。

 

かくして、映画を観てる人間も、当時のドイツ人が、どうしてヒトラーなんかに付いていってしまったのかを実体験として理解するのだ。ヒトラーの本当の恐ろしさは、そのカッコよさなのだった。

 

人類は、面白くて、親しみがもてて、カッコいいものに弱い!!

 

致命的に弱い!!

 

冷静に考えたら、完全に間違ったものだったとしても、ダサくて正しいものより、カッコよくて間違ったものを選んでしまう。人情といえば聞こえは良いが、人間がハマりやすい落とし穴なのだ。

 

しかし過ちに気がついた時にはもう遅い。ヒトラーはものすごい権力を握ってしまっている。カッコいいヒトラーに逆らう人間は、「社会の落伍者」「痴呆症の老人」「単なる精神異常者」として片付けられていってしまう。社会では「カッコよくないもの」の意見は無価値だったのだ。

 

映画は繰り返し警告する。「カッコいいものには気をつけなさい」と。

 

ヒトラーのような人物にとっては、当時のドイツよりも、テレビやインターネットが普及した現代の方が、はるかに仕事がやりやすい世界だった。だってヒトラーみたいに面白くてカッコ良くて人心を掌握するのに長けた人物は、メディアの力と組み合わせると恐ろしいスピードで人気者になれるのだ。

 

そんな人気者が合法的に選挙に打って出たらどうなるのか?

 

戦前のヒトラーも選挙の力を借りて権力者にのし上がったが、それ以上のスマートさで権力を奪えるだろう。だって、選挙システムのなかに、人気者を阻止する仕組みは無いもの。だから現代日本でも橋下徹みたいなタレント議員がいくらでも生まれる。そんな時代だから、ヒトラーだって、当たり前のようにテレビ芸人やユーチューバーから権力を目指すのだ。

 

ヒトラーはほくそ笑む。国際情勢が不安定で誰もが社会に不満をもつこの時代は最高だと。そこかしこに争いの火種が無数にあり、みんなが「この道しか無い!」とはっきりと導いてくれる力強いリーダーを求めているのだ。だからヒトラーはいくらでものし上がれる。

 

ヒトラーが現代に蘇るというと荒唐無稽なブラックコメディのようであるが、ヒトラーという人物のもつ「人間的な親しみやすさ」という怪物性を描いたホラー映画でもある。

 

特に我々日本人としては「中東からの移民のせいでー」といってるドイツの人らを笑えない。日本人の中にも何かというと「中国人がー」とか「朝鮮がー」とか言っている人が大勢いる。こういう人らを束ねて「うんうん、わかるよ、じゃあ純血の日本人だけで、美しい日本を作ろう!」と力強く訴える人が出てきたとしたら?いやいやいや、冗談じゃない!

 

そしてこれを執筆している明後日には、運命的な選挙を控えている。この選挙の結果如何によっては、日本国民は現代にヒトラーのようなものを蘇らせてしまうのかもしれない。そんな日を前にして観た『帰ってきたヒトラー』は僕にとってはホラー映画を超えたホラー映画だった。

 

選挙システムは、ヒトラーに対しては、あまりにも無力なのではないのか!?

 

もうあまり選挙まで時間も無いけど、よかったら日本人は選挙前に『帰ってきたヒトラー』を観て欲しい。そして本当に恐ろしいとは何だということを考えてみて欲しい。まあ、もちろん、選挙後に観ても構わない。

 

ちなみに、原作の小説はまだ読んでいない。映画版はドキュメンタリーの手法(ヒットラー役の俳優が、実際に街行く人にそのままの格好でインタビューを敢行するという方法で撮影している)も駆使して、かなり現実と虚構の境目があやふやに作っていた。それもあって、映画館が出てきたあとも、まだヒトラーが復活してきた世界にいるように錯覚したものだ。

 

映画ではヒトラーという有名人がタイムスリップしてきたみたいに、実に分かりやすい話になっているけれど、現実の世界では、誰も過去から蘇ったりしてきていないのに、社会そのものがタイムマシンに詰め込まれて過去に送られようとしてるみたいだ。恐ろしい。

 

日本もドイツも70年前と同じことを繰り返すのだけはダメだ。

 

現代に帰ってきたヒトラーはこういって皆を扇動する。

 

「次こそは上手くやってみせる!」

 

歴史に学ばない姿勢の最たる言葉!!!

帰ってきたヒトラー 上下合本版 (河出文庫)

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ヒトラー ~最期の12日間~ Blu-ray

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 『帰ってきたヒトラー』にはこの映画のパロディがある。動画で流行った総統が怒るシーンだ。


総統閣下シリーズ元ネタ 一部公開3.webm

こういうシーン。

 

劇画ヒットラー (ちくま文庫)

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 水木しげる先生のマンガはヒットラーの一生を学ぶ上でいちばん手っ取り早い!これもヒットラーをひとりの人間として描いているので等身大なおっさんとしてイメージしやすい!ものすごく細かく調べて描いていて感心する。

 

moteradi.com

 

 

『貞子vs伽倻子』2回目を観てきてしまった。なんというか2回目の方が怖いわ。

21時30分というかなり遅い時間の最終を観ても終電に間に合うということで、2回目の観賞をしてきた。1回目の時にTOHOシネマズの会員に加入してきたこともあってサービス期間なので1100円で観れたのも良かった。レイトショーだから会員じゃなくても1300円で観れるわけだけれども。上映時間が99分という今時コンパクトなサイズなのも功を奏していたと思う。これが2時間半とかだったら終電に間に合わないか、上映時間に間に合わないかのどちらかだったもの。

 

100分以内の映画って少なくなったけれどエンタメ映画はこれくらいで良いという根強い信仰もある。昨今の邦画の前後編商法なんかくそくらえだ。もし『貞子vs伽倻子』が前後編だったら…。好きな監督の映画だし、単純に嬉しかったかもしれない。けど、ちゃんと観賞できたかどうかは疑問だ。少なくとも再観賞の機会なんかは無かったと思われる。

 

来る25日(土)には日本橋なんば紅鶴の『貞子vs伽倻子』イベントに出演して、白石監督にいろいろお聞きすることが決定している。それまでに2回目の観賞が出来たのは感謝するしかない。なにしろ映画は2回観るべきなのだ。映画は2回目からが本番だと思っている。映画館で観れれば尚良いし、何度でも観るとさらに良い。

『貞子 vs 伽椰子』公開記念!白石晃士監督再々来阪! | なんば紅鶴

 

さて2回目の感想だが、最高だった。「サダカヤはいいぞ」とまるでなんかの映画のファンみたいに、ボキャブラリーの貧困と知能低下を引き起こしそうだった。けれどそれはもっとも嫌うことなのでちゃんと2回目なりの感想を書きたいと思う。

 

2回目だけにネタバレ全開で書きたい誘惑にもかられる。しかし冷静に考えると公開してまだ一週間も経ってないのだった。ネタバレ全開で話すのは25日のイベントにとっておくことにする。だからみなさんも25日までに映画を観ておいて欲しい。白石監督に会いにイベントにまで足を運ぶような人はすでに観ちゃってるだろうから余計なお世話かもしれない。

 

先ほどネタバレはやめとくと言ったが、実はこの映画はネタバレした方がよっぽど面白いと思う。どんな映画も2回目の方が落ち着いて細部まで楽しめるものだけど、『貞子vs伽倻子』は特にそんな映画だった。余計なことに気を取られず、身体をこわばらせず、波間をただよう茎わかめの残骸みたいに、ただただ映画の演出に身を委ねてるほうが心地よいのだ。

 

初回に観た時は「どんな対決するんやろ?貞子が勝つか?伽倻子が勝つか?」なんて結末を気にしてソワソワしながら観ていたので浮足立っていたのは否めない。種の見破りに必至になって観る手品ってのはショーとしての面白さはそっちのけになってしまう。やっぱり前回からも主張していたが『リング』とか『呪怨』とかの世界観や情報や思い入れは余計かと思った。(世紀のvs映画なのに乱暴な物言いではあるけれど)

 

もうこちらとしては結末を知ってるので余裕である。「よっ!サダカヤ!」の準備も万端に待ちかまえている。そうすると余計にスピーディーな演出が心地よく入ってくる。初回はいささか物足りなくも思った部分もリピートしてみるとドライブ感が最高だった。ほんと、観客を退屈させないように、恐怖と笑いを釣瓶撃ちに配置してあって感心する。日本のホラー映画にありガチな、湿っぽいかったるいシーンがあんまり無かったり、登場人物の立ち直りがやたら早いところとこなども、99分に出来るだけ詰め込んでやろうというサービス精神だろうし、見ようによっては超ドライな所も含めてほんのりした笑いと爽快感につながっていたりしてた。

 

自分でも意外だったのは、2回目の先を知っている状態のほうが、よほど怖い映画だと感じたこと。本来どんなホラー映画だって笑えるシーンと怖いシーンは表裏一体なものだ。怖いシーンというのは見方を変えてみれば、同時に滑稽でもあった。よく出来たホラー映画ほどそうなっていた。『悪魔のいけにえ』とか。『死霊のはらわた』とか。怖いのか、おかしいのか、スタイリッシュなのか、どれでもありどれでもないような。だから「怖くない映画だから安心して」というのは、良い意味で嘘をついていたことになる。「怖いの苦手だけど大丈夫かな?」という人は「怖くないから」と騙されて観に行って欲しい。最高に楽しめるはずだ。

 

「人の首がもげてそこから手足が生えてカニになって歩き出す」なんて説明したら、とても怖い映画の話だとは思えないのだけどそんなもんだ。白塗りでパンイチの俊雄くんがぴょーんと飛んできて、お父さんの首を伸ばすーーー。バカみたいな話だけど、ふとした瞬間に恐怖シーンに感じたりする。けどまた笑ってたりもする。

 

今回はそういう恐怖と笑いのカードが自分的には裏になったみたいで、けっこういろいろのシーンでドキドキしてしまった。先をぜんぶ知っているにもかかわらずだ。だからグロいシーンは一切ないけど、子供から大人まで、観た人が怖いと感じる工夫を凝らした映画だというのはよく理解できた。物陰に何か潜んでいて出てきたらどうしよう?という視点誘導が巧みだったし、単純に貞子、伽椰子、俊雄の三大幽霊が不気味かつ滑稽に作られていたと思う。

 

貞子が出てくるきっかけになったVHSの呪いのビデオ。これに親近感がわく。というのも『貞子vs伽倻子』に出てくるやつは僕が昔使っていたVHSテープにそっくりなのだ。何度も貼り直したせいで小汚くこびりついたラベルテープの後。ホコリまみれになって曇ってしまった上にひび割れした窓。しかし当時はテープを捨てるとかもったいなくて出来なかったので何度も使っていたものだ。あれも一種の呪いのVHSともいえた。90年代まではみんなそんなの持っていたと思う。

 

伽倻子の相棒の俊雄君を活躍させたのも良かったと思う。物語は貞子の呪いをかけられたヒロインたちがどうやって呪いから逃れるのか?というリングの基本ストーリーをモチーフにしたものだ。モチーフにしてはいるが、アプローチはぜんぜん違う。

 

『リング』の原作小説や映画版ではミステリー仕立てだったが(原作小説が特に面白い!)、霊能者が出てきて正面突破で除霊しましょうというところが白石監督風味。そういえば『リング』も『呪怨』も怪談にもかかわらず不思議と除霊という話にはならなかった。逆に新鮮。とはいえ、基本は貞子に寄ったストーリーだったりする。だから俊雄君がちょくちょく顔を出して活躍することで『呪怨』の伽倻子の存在をアピールしていたのだ。そしてかなり後になって満を持して登場する伽倻子はけっこうな大物感があった。なるほどこうやってバランスをとっていたのかと感心する。

 

そしてこの作品は貞子に呪われたヒロインの女子大生二人組や、呪怨の家に足を踏み入れてしまった女子高生などがからみ合って、白石監督の好きな百合的な雰囲気を醸し出している。初回に観た時もそういうところにばっかり目がいってしまっていたが、2回目観ることで大変なところを見逃していたことに気がついた。

 

この映画の本当のヒロインであるところの貞子と伽椰子もひょっとすると百合的な関係で見れるのではないかと。

 

もしや『貞子vs伽倻子』ではなくて『貞子×伽倻子』というのが裏テーマなのかもしれない。結末を見返すと余計にそう思う。最後はいろいろ思うところもあるけど、素直に怖いとも思う。最恐かもしれない。

 

最終回の上映が終わって、さほど多くない観客(23時すぎ!)を観察しながら劇場をあとにしたが、怖さで引きつっている顔の人が多かった。

 

貞子と伽椰子という最恐の百合を観て、聖飢魔IIのノリノリのエンディングテーマを聞いて、そして最後にもう一回怖い顔(エンドロール後ってやつなので、立ち去らないようにw)を観て「よっ!サダカヤ!」と(心のなかで)叫んで、なんかもやもやしたものが一気に除霊された気分だった。

 

元気になるホラー映画という奴だったかもしれない。貞子と伽椰子はいつまでも幸せにやっていくだろうと思う。俊雄君の気持ちを考えるとちょっと微妙にもなるけれど。

 

続編もあったら良いなと。『サダカヤvsゴジラ』なんてのはどうだろうか。絶対にムリか。

 

 

リング (角川ホラー文庫)

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シリーズ化されている小説だけどこれだけ読めば十分だと思われる。ホラーとミステリー好きなら文句なくオススメだ。

 

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エロとグロとアクションしかない。 サービス精神のかたまり映画。白石監督はパート2の方が好きらしいけれど。パート3は完全にギャグファンタジーになった。これも面白かった。

 

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 あまりにも狂いすぎていてギャグに見えるけど正気に戻ると怖いという。公式の続きであるパート2ではギャグの方に針がふれたりした。やはり怖さと笑いは紙一重。

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これもふざけたような事を大真面目にやっているから怖いし笑える。世界中に信者がいる。僕もそうだ。

moteradi.com

 

 

butao.hatenadiary.com

 

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『貞子vs伽倻子』を大阪最速で観てきたが安心してオススメのお祭り映画だった!!!

四ヶ月前にこんな記事を書いた。そうすると早いもんで、もう『貞子vs伽倻子』の公開の日を迎えてしまった。僕は大阪でいちばんに観ようと思って、初日の初回に間に合うために土曜日の朝の通勤ラッシュ(なのか?)に揉まれながら梅田の映画館に訪れた。

butao.hatenadiary.com

感想としては期待してたとおり面白かった。この映画は白石監督しかいないと思っていたが十分に期待に応えてくれた。

 

『リング』の時代には現役だったVHSのテープ。貞子の呪いの源泉はこのVHSなのである。今やVHSなんか廃れてしまって、DVDに焼いてくれるか、YouTubeにアップロードでもしてくれないと、誰も呪いのビデオなんて観れないよ!というのがホラーファンの共通のつっこみどころ。ここを安直に呪いのブルーレイとか、呪いのネット動画なんてリファインをしてなくて、「呪いのVHSだから誰も観なくなった」という悲しみも含めて映画のストーリィに盛り込んでいたのは実に感心した。

 

悲しさはもうひとつあって、時代の変化といえばVHSが廃れただけではなくて、スマホの普及ということもあった。貞子はスマホとも戦わないといけない。現代では呪いのビデオもLINEに負けてしまうのである。真面目なホラー映画として作っているのだけれど、ちょっとおもしろいシーンがあって吹き出してしまう。このへんの匙加減も白石監督ならではで、日本でこれを出来る人はそんなにはいない。

 

この映画を観るにあたって『リング』や『呪怨』を予習しておく必要はないと白石監督は言っていた。エンタメ志向の白石監督だから、難しいこと抜きであくまで単体で楽しんで貰いたいという気持ちがあるのだろうと受け取った。「そうはいっても両キャラクターを知らない人は、それぞれの映画で予習をしておいた方が盛り上がるんじゃ…」という僕の考えは良い意味でも悪い意味でも裏切られたと思う。白石監督の言葉は素直に受け取って良いものだった。

 

『貞子vs伽倻子』を観るにあたっては『リング』や『呪怨』のシリーズは特に観ないで良い。本当にそうなのだ。

 

「貞子とかいうやつは有名な幽霊やな。それが伽倻子とかいう別の幽霊と戦うんか。面白そうやのう。ひとつ観てみるか」

 

こんな軽い気持ちで観るのが大正解。難しく考える必要はない。ヒマだったら観にいくのがオススメだ。本当に損はないと約束できる。いまどき、これくらいスカッと楽しめる日本映画がどれだけあるか。

 

「ちょっとおもしろい怪談ムービーない?」っていうエンタメ志向の観客の需要を百パーセント満たしてくれる。それが『貞子vs伽倻子』だった。ホラーオタの視点からああだこうだと考えてた自分が重すぎたと反省することしきり。

 

こんなんでいい、こんなんでいいんだよと、ついつい言いそうになる。「こんなん」がなかなか無かったのが邦画の弱点でもあったのだ。

 

邦画というと、作家性とか、芸術性とか、思い込みとかが強すぎて、映画の素人がうっかり手を出すと火傷しかねない両刃の剣という作品が実に多かった。マニアックな作品ならそれで良いけど、一見敷居が低そうなエンタメ映画と思われるような作品で、そんなのぶつけられるて焼死者が続出するというのが邦画の悲劇だった。

 

それが今年は『アイアムアヒーロー』『貞子vs伽倻子』と、軽い気持ちででかけて、ちゃんと見返りのある映画が連発されている。どっちもホラー映画だというのは、たまたまのことだろうか。

 

 

それでいて、『貞子vs伽倻子』が作家性の薄い無味無臭映画かというとそうでもない。かの白石監督がそんなことをするわけもなく、重度の白石監督ファンには堪えられないシーンの連発でもある。後半の霊能者が出てくるとこからは完全に白石監督のお得意パターンの釣瓶撃ちだ。ホラー映画なのにともすれば爆笑の連続になるのが白石ワールド。後半の展開が面白かった人は、ぜひほかの白石作品を観るべきだろう。ここからファンになる人も多いかと思われる。

 

貞子と対決するもうひとりのヒロインである伽倻子の事を書き忘れた。伽倻子は呪怨シリーズのメインヒロインだけどそんなことはどうでもよい。この映画では、息子の俊雄くんが大活躍で、親子タッグでどんどん脇役を面白く殺害していく。呪怨シリーズの売りは「幽霊が過剰なくらいすぐ出てきて人を殺す」というものだったけど、『貞子vs伽倻子』もそのスピリット全開。「親子ですぐ殺す幽霊」としての存在感を見せつけていた。

 

呪怨シリーズをほぼすべて観た僕だけど、正直、伽椰子とかあんまり好きではなかったけど、『貞子vs伽倻子』の伽倻子はちょっと健気でかわいかった。子供を女手一つで育てている女性はそれだけで男性をホロッとさせやすいらしい。今回の伽倻子にはそんな様子があったし、普通に美人さんだったような気がする。親子愛も感じられた。それだけにラストは俊雄君の気持ちはどうなんだろうと思った(ちょっとネタバレ?)

 

なんか公開前に貞子とか伽椰子のおもしろプロモーションを散々展開していたけど、今回の映画で貞子と伽椰子を『ゴジラvsヘドラ』くらい愛すべきキャラに押し上げたと思う。


貞子vs伽椰子「マウンドでガチンコ対決」 北海道札幌ドーム

 

公開したばかりの映画なのであんまりネタバレしたくないけど最後は「よっ!サダカヤ!」と声をかけると盛り上がること間違いなし。4DX版もかなり良かったとミャウダーが言っていた。

 

繰り返すけど『リング』や『呪怨』を観てない人は観なくて良いよ!こっちを先に観た方が良い!

 

 別に関係ないけど面白い映画。

 

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 ぜったいにオススメ。観た後でも見る前でもよし!

 

カルト [DVD]

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 これもオススメ!見る前でも(以下略

 

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映画『かいじゅうたちのいるところ』は面白いから騙されたと思って観てほしい。

無料なのにいつもイカす映画を観せてくれるギャオ!に『かいじゅうたちのいるところ』が先日までラインナップに入っていた。公開前に劇場で予告編で観て以来、観たいと思ってた映画だ。

 
劇場で何度か観た予告編では、子供と、着ぐるみみたいな変なバランスの「かいじゅう」が、森の中を全力疾走したりジャンプしたりする映像が、ノリのいい音楽とともに流されるだけのもので、さっぱり内容を説明してなかった。子供向けの映画のようだけど、正直よくわからない。気になったのは、着ぐるみみたいな奴らが、やけにパワフルに飛んだり、走ったり、豪快に木を砕いたりしてたこと。子供向けのファンタジックな話にしては、映像に迫力がありすぎる気がした。絵本が原作みたいな雰囲気だけは伝わってきた。ああ、たしかに、このかいじゅうたちのおかしなバランスは、絵本の絵をそのまま立体化したようだ。でもそういうのが、リアルな生き物みたいに活動してると、なんだか怖い。これは本当に子供向けの映画なんだろうか?
 
まったく予備知識はないけれど、どんな映画なのか確かめてみたい。原作の本の内容を知るより先に、映画館のスクリーンで体験をしてみたい。いってみれば、素晴らしくそそられる予告編だったように思う。本編を観た後に見返しても、やっぱり良い。この映画の魅力満載の疾走感のある予告編だ。よく出来た予告編は、よく出来た本編と同じくらい価値がある。こちらのショートバージョンが最高である。僕が劇場で何度も観たのはこっちだったはず。
 
 
これだけ予告編でそそられたのに!
 
ああ、なんということだ。なんとなく(本当になんとなくだ!!)公開中に行きそびれ、映画館では観ずに終わってしまったのだ。こうなってくると、DVDなどでは、なかなか観ないもんなのだ。人間って勝手なものだ。
 
それがギャオ!で無料で公開中となると敷居が低かった。素晴らしいもんですね。さっそく観てみる。数年ごしの邂逅だ。
 
観たら冒頭から引き込まれまくり。「こんな映画だったのか!」と感無量。ラストは感動で涙が抑えられんかった。この作品、とにかく前情報なしで観るのが一番おもしろい。といっても、ベストセラーの絵本だから、絵本版を知ってる人も多いのかもしれない。僕は映画を見てから、原作の絵本にあたってみた。あまりのシンプルさに驚いた。よくもまあ、こんな濃密な映画に仕立て上げたものだ。それでいて絵本のいろいろのディティールが細かく再現されていて感心した。

 

かいじゅうたちのいるところ [DVD]

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ここから先は、ネタバレも含めて紹介していく。
 
冒頭からオオカミの着ぐるみを着て、飼い犬相手に狂ったように暴れてるガキ。なんなんだこれは。まったく理解ができないので画面から目が離せない。そして、彼は、お姉ちゃんに構ってもらいたそうにしてる。でもお姉ちゃんは男友達との話に忙しい。だからガキはお姉ちゃんの友達に雪玉を投げつけることにした。反撃されて雪で使ったお城も壊されてしまう。泣いてしまうマックス。そう、こいつの名前はマックスというらしい。あばれ者だけど、しょせんは小さい子供だ。その後は癇癪を起こして、留守のお姉ちゃんの部屋に飛び込んで無茶苦茶に破壊する。以前お姉ちゃんに贈ったらしいハート型の工作もバラバラにする。でもちょっとやりすぎたかと後悔。
 
マックスはお母さんにも構って欲しい。母子家庭だから、お母さんは仕事で忙しくて、なかなか息子の相手は出来ない。お母さんは、マックスの想像力が豊かなところを愛している。お父さんがどうなったかわからない。マックスの部屋にはお父さんから贈られた地球儀がある。「世界の王マックスへ」というメッセージが書かれている。そばにはマックスが自作したであろうトイレットペーパーの芯や枝やレゴで夢の街が飾ってある。そして紙で作った船も。
 
お母さんは構ってくれなくて、男友達とイチャイチャしている。マックスはオオカミのぬいぐるみを着て、またしても癇癪を起こしてしまう。怒ったお母さんに取り押さえられたので噛み付く。母はたまらず「なんて手に負えない子なの!」と言ってしまう。
 
「僕、悪くないもん!」そうさけぶと、狼の着ぐるみのまま夜の街に逃げだすマックス。
 
いつしか彼は船に飛び乗って、大海原に漕ぎだす。そして雨の日も風の日も航海を続け、やがてある島に上陸する。それが「かいじゃうたちのいるところ」だった。ここから唐突に異世界へ旅立つ。
 
マックスは、口から出まかせを言って、かいじゅうたちの王様におさまる。マックスはキャロルというかいじゅうと意気投合する。キャロルはみんなの心がバラバラになることを怖れていて、「こんな家に住んでたのが間違いだった」と叫びながら、みんなの家を破壊してまわっていた。彼はKWという女かいじゅうが、よそへ行ってしまうことを特におそれている。KWはボブとテリーという友達を外に作っていて、ともすればそっちの方に行ってしまう。キャロルにはそれが耐えられない。
 
キャロルはみんなが仲良く楽しく暮らせる街を夢想している。そんな理想の街を、枝の模型で作っていて、それはマックスの部屋にある紙コップの街を、より精巧にしたようなものだった。キャロルは「ずっと俺たちの王様でいてくれよな」とマックスに言う。マックスは模型の街みたいなものを実際に作ろうと提案する。かいじゅうたちは協力しあって、やがて巨大な砦を建設する。
 
だけど話は理想通りには進まない。新しい砦に、KWがボブとテリー(こいつらは実はフクロウだった)を連れてきたのだ。それがキャロルは気に入らない。ギクシャクした雰囲気が生まれてしまう。
 
それを打開するために王様のマックスが提案したのは泥団子合戦だった(なんでやねん!)。しかしみんなで泥団子を激しくぶつけ合った結果、キャロルとKWは喧嘩になってしまうし、みんなも怪我したりとウンザリした様子(そらそうだ!)。そしてKWはまたみんなの元から離れていってしまう。「王様なんとかしてくれ!」とキャロルに請われるも、マックスにはそれ以上のアイデアは何もなかった。
 
「俺たちを守ってくれないひでえ王様だ!」何もしてくれないマックスに失望して荒れ狂うキャロル。実際問題マックスはしょせんただの8歳児。「ごめんなさい!」としか言えなかった。それでも、癇癪を起こして砦を壊そうとするキャロルを、なんとか止めようとする。そして興奮のあまり友達のかいじゅうの腕を引っこ抜いてしまったキャロルに「きみ、手に負えないよ!」と言ってしまう。マックス自身が母親に言われたのと全く同じ再現だ。「俺は悪く無い!」と激昂したキャロルは「喰ってやる!」とマックスを追いまわし出した。
 
逃げ回った挙げ句に、おそるおそるキャロルの隠れ家にいってみると、理想の街の模型はめちゃくちゃに破壊されていた。マックスはみんなが仲良く暮らす世界を作ることに失敗してしまったのだ!
 
自分はかいじゅうたちの王様じゃないし、いるべきところはここではないことをマックスは悟る。かいじゅうたちは名残り惜しむが、船に乗って元の場所に帰ることにした。
 
で、マックスは、航海を経て、たちまち現世に戻ってくる。全力で走って家に帰ったら、母ちゃんが飯を用意して待っててくれていた。喜んで飯を食べるマックス。
 
おしまい。
 
……
 
素晴らしい!説明とかくどくどと無くていきなり終わるのがよい!かいじゅうたちとの交流を経て、マックスが立派に成長しましたとか、良い子になりましたとか、そんな演出をされたらこっちが困ってしまう。
 
映像と音楽が何より美しかった。手ブレ映像によるリアリティは、現実世界でも、かいじゅうたちのいるところでも変わらない。現実感のある画面の中で、きぐるみかいじゅうが走り回る様は、不思議な迫力がある。海辺と、砂漠と、岩しか無い島が、とても幻想的なものに見えてくる。よほどセンスとこだわりのある監督に違い無いと思って、あらためて調べたら、スパイク・ジョーンズ監督の作品だった。あの『マルコビッチの穴』の監督だ。なるほど、合点もいく。
 
まず、かいじゅうたちの表情に注目してしまう。メインになるかいじゅうキャロルの哀愁に満ちた表情。垂れ下がった目尻。観てるだけで胸が締め付けられるような気持ちになる。なんという悲しい顔をしてるんだ。主人公のマックスならずとも、わけもなく同情したくなる。日本語吹き替えの声をあててるのは高橋克実。乱暴者なおっさんボイスがしっくりくる。哀しい中年男性をデフォルメしたかいじゅうだ。オリジナルの声は『ザ・ソプラノス哀愁のマフィア』の主演の大柄のおっさん。まさに哀愁。でも僕的には吹き替えの声の方が雰囲気はあったな。
 
他のかいじゅうたちも、鳥だったり牛だったり、原作の絵に準拠した、とても個性的な姿形をしてるが、みな一様に悲しそうな目をしてるところが胸に刺さる。着ぐるみなんだけれど、顔はCG処理されてるらしく、口元なんかの動物っぽさはかなり完璧なものがある。動物に対して、どこかしら哀愁を感じずにはいられない人っていると思うが、そういう人がグッとくるビジュアルを作っていた。
 
物語のキーになるKWなんかは、女性の顔をアンバランスに巨大化したような、たいそう不気味な姿をしている。漫画の『進撃の巨人』の作画のモデルになったのは、案外とこれじゃないだろうか。主人公の少年マックスを丸呑みするシーンがあるのだが、あれなんかも、そのまま漫画の参考にしてるにちがいない。勝手に思ってるけど。それくらい似てたのだ。
 
かいじゅうたちが「しっかり怪獣してる」ところも魅力ではないか。この物語に出てくるかいじゅうたちは、となりのトトロみたいな気のいい連中ではない。なんかあるとマックスを食べようとするし、どいつとこいつも性格問題児だし、それでいて木や石をいともたやすく砕いてしまうような、ものすごいパワーを持ってたりする。なにかの拍子にマックスがプチっと潰されるんじゃないかと気が気でない。
 
ダメな子ども向け映画にありがちな「どうせ大したことにならないんでしょ」という弛緩した空気が微塵もない。泥団子合戦のシーンなんか、かいじゅうたちにパワーがありすぎて、泥団子が迫撃砲のように炸裂しまくる。これじゃ本当の戦争だ!
 
映画を見てればだいたい察しはつくが、「かいじゅうたちのいるところ」とは、つまりマックスの創造した虚構の世界だ。虚構の世界では誰だって王様になれる。マックスが入れ込むキャロルは、マックスの分身であり、父親のイメージも投影されている。すぐどこかへ行ってしまうKWは、母親であり姉である。その他のかいじゅうたちも、マックスが創造したものだから何かしらの投影だ。そしてマックスの想像の限界が彼らの限界にもなっている。
 
KWに勧められて、ボブとテリーという賢い設定のフクロウにアドバイスを貰いに行くが、彼らの言葉はマックスとキャロルにはさっぱり理解ができない。わかっているらしいKWも、内容を解説してはくれない。そりゃそうだ。自分が知らない回答だもの。キャロルが抱えている不安は、マックスの不安でもある。キャロルを導くことは、自問自答するのと同じことだったりする。
 
なぜKWが出て行ってしまう?なぜ仲間がバラバラになる?
家の形が悪いのか?じゃあ全部ぶっ壊して理想の砦を築こう!
またKWが出て行った!なんでだ!砦が悪いのか!?
 
やがて考えが堂々巡りになってくる。これ以上はどうやっても物語が展開しないところまで来てしまう。自分自身の気持ちを「面倒くせえ」と思ってしまうのだ。キャロルが「俺は悪くない!」と荒れ狂うのも無理はない。そのあと何もかも放り投げて、無茶苦茶の有耶無耶にすることも出来ただろうけど、マックスってやつは意外にたいしたやつで、8歳児のくせに土壇場で冷静さを取り戻す(まあ、映画だということもある)。母親ともいえるKWの胎内に隠れている間に、落ち着きを取り戻すシーンは象徴的だ。
 
マックスはみんなが仲良く暮らす世界の創造に失敗したことを素直に認める。王様というのは嘘で、自分は単なるマックスだとキャロルに告白する。そして家に帰ることを決意する。キャロルが破壊した模型のそばに、ハートで囲んだCのサインを残して。それはまさしく、冒頭で破壊した、お姉ちゃんへのプレゼントの工作と同じものだ。自分の気持ちに寄り添うことが出来たのに違いない。
 
かいじゅうのキャロルは、マックスの寂しい気持ちや駄々っ子なところが投影されて創られた存在だ。だから寄り添う気持ちは瞬間的にキャロルにも通じるし、彼は感極まって泣き始める。そして船に乗り込むマックスを見送りに浜辺にやってくる。この時の表情がたまらない。水木しげるのマンガみたいなくしゃくしゃの顔になる。普段から哀しい顔なのにその100倍くらいだ。ここで貰い泣きする。
 
マックスがかいじゅうたちを島に置いて家に帰る展開に、収拾つかなくなった物語を投げ捨てて逃げるみたいな非情なイメージをもたれる方もいるかもしれないけど、逃げるもなにも「かいじゅうたちのいるところ」がマックスの心の中にあるとすれば、それは不可分な存在だ。
 
今までなにも喋らなかった牛のかいじゅう(原作絵本の表紙のやつ!)が最後に言う。
 
「僕たちのこと良い奴だったとみんなに言ってよね」
 
吹き替えだと八奈見乗児の声なので、タイムボカンとかの世代だと余計に郷愁を誘われるのだけど、投げ捨てる世界のキャラクターにこんな台詞は吐かせないわけで。かいじゅうたちがマックスの想いの断片とすると、「みんな良いやつだった」ってのはつまりそういうことだ。たとえ物語が上手くいかなくてもキャラクターには責任はない。なんだかんだあっても、虚構の世界に救われることもあるということではないのか。
 
以上、考察も交えつつ解説したが、本来はガチガチに解釈するのは野暮に違いない。どこまでいっても曖昧な点のたくさんある映画なので、自分なりの解釈の余地がたくさんある。あんまり説明ぽくないのが有難い。けど、ワーナーブラザーズは、わかりにくい内容を嫌って、監督に撮影のやり直しを指示した。絵本の原作者のモーリス・センダックが猛烈に反対したので、そのままの形で公開されることになった。センダックは映画の製作者に名を連ねている。
 
原作の絵本はひたすら単純なストーリーだし、やはりわからないことだらけである。そういった原作の持ち味を残しつつ、よくぞ長編映画のボリュームに膨らませたというべきか。センダックも、スパイク・ジョーンズ監督の解釈は、彼の独自のものと説明しつつも、原作の魅力を損なってはいないと最大限の賛辞を送っている。
 
原作の絵本は、世界的なベストセラーだけど、最初は「なんだこれ!意味わからん!クソガキが主人公だし教育に悪い!」と大人たちを激怒させたそうだ。この作品についても、観た人の何人かは同じように怒るらしいから、やっぱり映画化としては大成功してるのだと思う。
 
意味わからん映画としてまずは気楽に観てほしい。

 

かいじゅうたちのいるところ

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三びきのやぎのがらがらどん (世界傑作絵本シリーズ)

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