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都知事選の結果で都民を悪く言うのはやめたほうが良い

ご存知の通りの都知事選の結果になった。事前の予想を裏切ることなく、ほぼ皆が思ってた通りのまんま。できれば裏切られたかったが、現実は重く受け止めなければしょうがない。何度目の暗い日曜日だろうか。思えば第二次安倍政権発足後は暗い日曜日の連続だった気がする。都民の多くも残念だったかもしれないが、大阪府民の僕も残念だったのである。そして都民の何割かが歯がゆい思いをしているのは、維新にいいようにされてる大阪でも同じ状況だ。

 

さて、こういう結果が出てくると必ずでてくる言説というか誹謗中傷のようなもの。

 

「東京都民はバカじゃないのか」

「東京都民は小池百合子みたいなのがお望みなようだ」

「東京都民はやはり差別や右翼思想が強い」

「弱者救済なんて興味の無いのが東京気質」

 

もろもろの聞くに堪えない言いがかり。

 

これらのことには根拠も説得力も勿論ない。366万票という得票とはいえ、有権者は1144万人以上いるのであるから、この数字で「東京都民は小池百合子みたいな独善的な人物が大好き」などと一括りにするのは無理がありすぎる。少なくとも84万人以上は宇都宮氏にいれてるし、65万人以上は山本太郎に入れてるのだ。そして何より、これは大切なことだが、500万人以上は誰にもいれてないのだ!選挙の棄権行為は最大得票者に対する自動追認になるのは選挙システムの摂理ではあっても、思想確認の摂理ではない。都民の大半は意思として小池百合子を選んでないのは重要なところ。仮に山本太郎が最多であれば、山本太郎を選んだということになるだけの話で、都民の意思を問う上ではあまり意味がない。投票してないものについては「誰も選ばなかった」「投票がだるかった」という分析以上のことを言っても何も意味がない。

 

そして、小池百合子に投票した366万票についても、小池百合子の政策や実績を精査した上で投票した人がどれだけいるのかといえば甚だ疑問しかない。そうでなくとも「イメージ優先で選挙に勝ってる人間」と批判されていたのが小池百合子だ。今回の選挙にしたって、コロナで頑張ってる感のイメージで逃げ切ったと言われている。なのに当選したら「都民が百合子の政策に賛同してるのだ」などという原説をさも当然のごとく振り撒く人らはどういう了見なんだと。八つ当たりも良いところだろう。同じ人が「テレビ討論さえあれば、小池百合子が公約ゼロ達成なことなど有権者が知れば、宇都宮氏や山本太郎が当選する目があった」などと言ってたりするのが目も当てられない。世間の人の大半(つまり投票してしまった366万人のうちの大半)は小池百合子の政策を知らないから投票してしまったと認めてるくせに、同時に小池百合子の思想に賛同してると訳の分からないことを言ってるわけだ。

 

前にこちらに大阪の事情を書いたが、結局は大阪と同じで、東京都民の気質としての特殊性なんかはそんな無いとしか言いようがない。わが大阪府民がバカでないのと同じで、東京都民の多くはバカではない。最大の勝利要因はどう考えてもテレビメディアの強力なアシストによるものだし、テレビの影響力の強さに対して、ネット活動(それにしても立憲民主党による宇都宮餃子作戦はお粗末すぎたが)や街頭演説その他のメディア戦略が無力すぎただけだ。それと公明党の動員力の侮れなさも分かったと思う。大阪でも公明党の動員力は実に強い。

 

結局は、政策や候補者の人物を見極めて投票する人が少数派である以上は、メディアの露出やカルトによる動員力に偏りがあるとそれで大勢が決まってしまう。政治の文脈や候補者の政策を吟味しないで投票する人が多数でないことを理由にバカだというならば、日本中の有権者がバカということになるので、「東京都民ガー」と言われても困るのだ。大阪府民にしても同じ。メディア戦略で下駄を履かせられまくってるのだ。普段から維新が勝ちまくるせいで歯痒い思いをしてる大阪府民だけに、有権者の質がどうだと言われる悔しさは分かるので、今回の事で真面目な都民に同情してしまった。そして有権者はバカだの差別主義だのと愚痴っても、これから投票に行こうか迷ってるような人の反感をかうだけなので謹んだ方が良いと思った。それよりかは正しい情報を伝達する努力に努めた方が良いだろう。

 

あと桜井誠に18万票入ったことにことさら衝撃を受けている人も多いが、昔に比べてレイシスト支持者が増えているなんて事はありえないはずなので、そこまで大騒ぎするような事ではない。先ほども行ったが1144万とかいううちのたった18万だからそれが上限だとしたら大したもんじゃない。もちろん「いくらなんでも桜井誠に入れるなよ!」と力強く言っておくのは悪くはないだろう。都民にレイシストが増えてるなんてのは余計な印象操作だ。それよりかは、山本太郎や宇都宮氏みたいな弱者目線の主張に賛同する人がはるかに多い。絶対数で比べて欲しい。こちらはテレビでイメージ操作できないのにこれだけ入れてるのだし。

とにかく国民がテレビに頼らずに情報を得るという運動は推進していく必要がある。あれだけ情報がオープンになっている日本会議のことすら、大半の有権者は知らないのだから。これだけの情報の格差があってはしょうがない。そこからだ。桜井誠なんか右翼の躍進でもなんでもなくて、その前に日本会議や戦前勢力で固めている自民党こそが最大右翼としてずっと目の前にあるのに、ちょっと数字が付け変わっただけで大騒ぎしていたら本質を見失う。まあしかしそんな自民のカルト的な主張もネットの発達によって化けの皮を剥がされていって、支持力もじわじわと削がれていっているわけで、今の方向性で議論をすすめていくのが肝要かと思う。とにかく普段から情報を交換すること。僕自身、日本会議の話を知人に伝えたらたいへん驚かれたという経験が先日あったばかりだ。議論もなにも深まってないうちから、興味ない人たちにいたずらに投票所に行くことばっかり呼びかけたってしょうがないように思うが如何だろうか。

 

日本会議の正体 (平凡社新書818)

日本会議の正体 (平凡社新書818)

  • 作者:青木 理
  • 発売日: 2016/07/08
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都知事選の前に全員に『女帝 小池百合子』を読んで欲しかった

話題の『女帝 小池百合子』を読んだ。たいへん面白かった。小池百合子のことは全く知らなくて、「嘘ばっかりついて政治家として信用ならんやつだな!」くらいにしか思ってなかったのだが、生い立ちや政治家になるまでの軌跡を丹念に追いかけている本書はありがたかった。小池百合子が竹村健一のアシスタントしてた記憶なんか微塵も残ってないし、ワールドビジネスサテライトなんか見てもないから、彼女がそもそもどこから出てきたとかも僕は知らなかったのだ。僕みたいな人ほど読んだ方が良いかもしれない。そして小池百合子というのが、人生の端々でついてきた嘘とかハッタリについても取材を通してよくまとめてあって勉強になる。

 

それにしてもこの本の始まり方はすごい。すごすぎるので少しだけ引用しようと思う。

 

その人はひどく怯え、絶対に自分の名が特定されないようにしてくれと、何度も私に訴えた。同じような言葉をこれまでに、いったいどれだけ耳にしたことだろう。

 ある日を境に電話に出てくれなくなってしまった人もいれば、家族が出て来て、「二度と近づいてくれるな」と追い払われたこともあった。皆、「彼女を語ること」を極度に恐れているのだ。

 

まるで怪談の出だしである。もしくは尼崎連続殺人事件の角田美代子とかそういうサイコパス 的な猟奇事件を思わせる。あるいは清水潔氏の『桶川ストーカー殺人事件』の中に出てくる情報提供者の怯えた様子を思い出してしまった。小池百合子とはそこまで怪物的な存在だというのだろうか。おかげでグイグイと引き付けられてしまった。掴みのうまさに負けた形だ。

 

結論からいうと、小池百合子は怪物かどうかは知らないが「女帝」と揶揄されるだけのたいした人物だった。僕はある種の人たちをいわゆる「フカし」と言って忌避しているのだが、小池百合子というのはまさに典型的な「ソレ」だった。カイロ大を卒業したと言ってのけたり、エジプト語の初歩しか勉強してないのに要人の通訳を買って出たりなどのハートの強さも含めて、今の地位を築いてきた軌跡を辿ると、大したレベルにあると認めざるを得ない。彼女の父親の立ち回りも綴られているが、彼もなかなかのものだったが実績としては娘には及ばなかったようだ。それは単に環境や運による結果の差なのか、フカしの実力の差なのかは判別がし難いが、ある種の親子二代の歪な事業の成果ともいえるのかもしれない。

 

ここでいう「フカし」というのがどういう種類の人類かというと、簡単に言えば自分の有利になるならば嘘をつくのに躊躇のない人たちのことだ。嘘の天才と言っても良い。別のタイプの嘘の天才として、小説家や漫画家やお笑い芸人みたいな創作で大成するような人たちがいる。この人たちは嘘の才能を限定された状況でしか発揮しないが(もちろんそうでない人もいるが)、フカしとはあらゆる場面でいかんなく嘘の才能を発揮する人のことだ。多くの人は小説家や漫才師が面白いことを言っても間に受けたりしない。それは創作という枠組みの中で「いまから嘘つきますよー」とスタートの合図をかけられてるから。しかし日常の何気ない場面での嘘には滅法弱い性質がある。だから舞台を降りたあとの漫才師の言葉は、うっかり信用してしまうかもしれない。

 

「まさかそんなところで嘘をつくか?」と誰もが警戒しないところでつく嘘こそフカしの醍醐味。「そんなすぐバレるような嘘はつかんだろ」と思うような大胆不敵な嘘も、だからこそ騙しやすいともいえる。というか、フカしと呼ばれる人たちは365日が嘘の連続なので、本人は意識しないでも嘘がいくらでもつける。その場をリードしさえすればいいから、とりあえず大きいことを言ってカマしておく。あと先のことなんかあまり考えない。そもそもあと先のことを考えたら嘘なんかつけない。後でその嘘を突っ込まれたら、補強するための第二の嘘をつけば良いだけだ。非常に演繹的な行為だともいえる。また、過去の話をするときは帰納法を駆使して世界観に深みを出してくる。これら、実は小説などストーリーを創作するときのテクニックだが、彼らはリアルタイム小説家みたいなもんだ。フカしの特徴として、ちょっとした話がいちいち面白いというのがある。そりゃ日々創作活動に勤しんでるんだから、面白エピソードなんかいくらでも盛り込める。リアルタイム小説家みたいな人がこの世にいることをあまり認識してない人は「あそこまで詳細に語ったエピソードが嘘なんてことはないだろう」と油断してしまう。たまたま隣に居合わせた痩せっぽっちの男性が、ジークンドーの達人だったりしても見抜けないのと同じで(余談だが、格闘家の何人かは、性別も含めて本当に見た目では分からないので、無闇に喧嘩をするのはやめた方が良い)、自分と何気に話している人が、世界ランカー級の嘘つきみだとは普通は想定してないからアッサリとやられてしまう。小池都知事の最近の後先考えずに注目だけひくような言動の数々を振り返ってみても、世界ランキングとまでは言えるかどうかは分からないにしても、年季の入った熟練の技にみえる。

 

彼女の言動でよく指摘される「意味の分からないカタカナ用語を展開しては注目を引き、その説明をする前に次のカタカナ用語を繰り出して謎の連続で引き付けるテクニック」など、危機や謎の連発で次への興味を引っ張り続ける週刊連載漫画や連続ドラマなんかと同じじゃないかと思う。同じフカしでも維新の松井市長の下手くそで話題性のない嘘と比べて欲しい。松井なんかとは完成度も深みもぜんぜん違う。モラルが無ければ嘘がつけるというもんでもなく、そこはやはり才能の優劣はある。

 

長々とフカし気質について説明してしまったが、世の中にはそんな人がいっぱいいるのはしょうがない。嘘を極めたような人がいても別にそれはそれで良いと思う。問題はそういうフカしが政治家になり知事などという要職におさまってしまうことにある。そこについても本書はするどく経緯を辿ってる。そこに見えてくるのは、本人の技量や能力などより、見栄えやそこに付随するストーリー性(芦屋のお嬢さん出身であるとか、若い女性がカイロ大学に留学して日本人初の首席で卒業とか、ミニスカートを履いた女性議員とか)ばかりに注目して囃し立てるマスコミ各社。そこに問題点を見出せない未成熟な日本社会があった。マスコミはつまんない真実よりも、面白いストーリーに飢えているのだ。そんなストーリーを提供し続ける人物は持て囃されやすい。フカしには実に生きやすい世界だとも言える。女性をマスコットとしてしか見ない圧倒的な男性社会がゆえに目立っていった面も見逃せない。あらゆる条件が彼女のような人物に有利に働いたようにも見えてしまう。こんな世の中であるから、別に彼女じゃなくても、似たような人物はちやほやされて、どっかで政治家におさまってたりするのだろう。そういえば橋下とかもそうだった。

 

まあ、そんなわけで、築地の移転問題もほったらかし、五輪優先でコロナの対処も立ち遅れて、それからも訳のわからんカタカナ連発してるだけの彼女が今も知事に居座ってしまっているわけだ。そしてマスコミは未だに真実の報道をしようともしない。一説には五輪利権のうえで小池百合子を都知事に据え付けておいた方が良いから、テレビ局などは選挙の不利になるような報道には消極的になっているとも聞く。大阪で起きていることと全く同じ構造の問題が東京でも展開しているということだ。やはりテレビが影響力を発揮しているうちはどうにもならないのだろうか。都知事選の結果に注目が集まるが、野党連合が推す宇都宮氏や、山本太郎はちょっと厳しいのかと思うと悲しくなるのでこの記事を書いて少しでも応援しようと思った。自分は残念ながら東京都民ではないので何も出来ない。もっとも、自分が住んでいる大阪府知事選も何とも出来なかったが。維新なんか入れたこともないのに。

 

最後に、この本への苦言も実は多少あって、百合子の心境やら、家族との確執やら、ストーリーを作りすぎな部分がけっこうあるのだ。そんな内面のことは分からんやろとつっこまずにはいられない。その方がドラマチックになって理解しやすいと思ったのかもしれないが、それって百合子がやってる「面白ストーリーを作って興味を引く」という手法と変わらないから。百合子批判の本としてはちょっと皮肉なところがあるのが玉に瑕か。ノンフィクションなら事実だけを淡々と拾って欲しかったという気持ちがある。あと舛添要一との恋愛話も、時期的にありえないと本人から反論されていた。

40年前、私に学歴を「詐称」した小池都知事 小池都知事の嘘とパフォーマンスが東京都を没落させる(1/4) | JBpress(Japan Business Press)

 

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桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

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飲食店などで「タクシー呼んで」というイキり親父の謎

飲食店とかホテルで、店側に対してタクシー呼んでという親父がけっこういる。携帯を各自が持ち始めた時代以降、こんなもの自分で勝手に呼べば良いじゃないかと思うのだが、それでも今だに店に電話かけさせようとする連中が大勢いる。ウーバーみたいなネット配車サービスなんかも全盛の2020年のこの世の中。なんでそうなのか分からない。店に依頼してタクシー呼ばすのがステイタスなのか、彼らにとっては!?

 

これがド田舎の話とかなら、まだ僕も理解できる。ネット配車サービスはもちろん範囲外だし、地元のタクシーもよくわからんところが多い。都会感覚では分からないが、個人で配車を頼んでも来てくれないみたいな地域まであるらしい。そういう環境下で「店の名前で配車して」と頼むのは分からんでもない。それはしょうがない。

 

しかしだ!大阪の梅田みたいな都会のど真ん中の話!

 

店を出て道路に出れば、配車するまでもなくタクシーなんかバンバン走ってる!なんでわざわざ配車代まで上乗せして呼んでもらおうとするのか分からない。タクシーを電話で呼びつけると、配車代金という謎のものもかかるのだ。知っててやってるのか。

 

そういう事を客から頼まれた店側の反応は3つだ。

 

a.素直にタクシーを呼んであげる

b.自分で呼んでくれと言う(タクシーの電話番号くらいは教えてあげる場合あり。スマホで調べろやとは思うかもしれんが)

c.外に出たらなんぼでもタクシーつかまりますよと言う

 

別にお客さんなのだからaでも良いやん、電話くらいしてやれよと思うかもしれないが、実はこれはこれでやっかいなのは、曜日や時間帯によると配車してくれるタクシーがなかなかつかまらなかったりして面倒なのと、せっかく配車してあげても、タクシーが現れる前に「やっぱり道路で捕まえるから良いや」つって帰られてしまうと、タクシーに配車の責任問われるのは店だったりするのだ!

 

それで配車代金を弁償しろとまで言われる事は稀かと思うが、運転手に嫌味のひとつくらいは言われたりはする。そういうのが重なると、その店の名前ではタクシーが来てくれなくなるなんてのもある。なんでそんな目にあわされるのか。店としては理解できないと思う。

 

だったら、お客さんが自分の名前で勝手に呼ぶか、「道に捕まえにいけよ!」ってなるのはしょうがないと思う。こんな先鋭的なブログを読んでくれてる皆さんが、都会の店で「クルマを呼んでくれ(こういう言い方するやつ!)」なんていうイキり行為をしてる昭和オヤジとは思えないが、親しい店でもない限りそういうのはやめた方が無難だ。道に拾いにいくか、素直にタクシーアプリの使い方でも覚えて欲しい。

タクシードライバー (字幕版)

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アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した~潜入・最低賃金労働の現場~

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インターネット社会になって本当に良かったこと

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先日のことだ。頭の中に「カデンツァの嵐」とうフレーズが強烈に浮かんでグルグル回るという事件が発生した。

 

「カデンツァの嵐!?とても印象的な名称であるが、何十年も思い出さなかったフレーズでもある。自分はかつてカデンツァの嵐というものに関わったことがあるが、その後はずっと関わらずに生きてきたはずだ。そして今唐突に思い出してしまったが、それが何だったのかは全く思い出せない!」

 

お分かりいただけると思うが、これってめちゃくちゃ気持ち悪い。速攻で『カデンツァの嵐』をググって解消しようと思った。ググりさえすれば思わずハタと膝を叩く回答が得られるのは間違いなく、このもやもやが雲散霧消するのは約束されているのである。素晴らしいGoogle。はやくGoogleに行かせてくれ。

 

「『カデンツァの嵐』ってあれでしょ?そんな悩むこと?」と思った世界でも稀有な側にいる人は、これ読みながら逆の意味でもやもやしてるだろうけど今は我慢して欲しい。そしてそんな人が「その時にたまたま横にいてくれたら良かったのに」とは思ってる。

 

で、自分はもちろん「カデンツァの嵐」をググってようやく回答を得るわけである。なになに……「カデンツァの嵐」それは、ホンフゥの乱舞系の超必殺技の技の名前だった。もっと詳しく説明すると、SNKの大戦格闘ゲーム『餓狼伝説3』から登場してたジャッキー・チェンと刑事物語を合成したようなキャラであるホンフゥの使う超必殺技が「カデンツァの嵐」!!ちなみにこのホンフゥというキャラは最近の作品にはぜんぜん登場しないから、格ゲーちょっとやるって人の中にも、存在すら知らない人も多いかもしれない!!!

 

なんで僕の記憶の中に「カデンツァの嵐」とかいうのが強烈に刻まれてたのかというと、『餓狼伝説3』のROMを所有していて全キャラけっこう遊んでいたからだった。技名まで覚えているからには相当好きなキャラかというとそうでもなくて、ググるまでホンフゥの技だというのも分からなくなったくらい。

 

しかし今回の話にホンフゥもカデンツァの嵐も実はあまり重要ではなかったりする。言いたかったことは、「カデンツァの嵐」というワードでもやもやしたときに、Googleがなかった時代だったら一生もやもやして生きるか、たまたまSNK大辞典人間とかホンフゥガチ勢みたいな人が隣にいて「カデンツァの嵐ってさあ〜」と説明してくれるか、たまたま餓狼伝説3なりリアルバウトなりを真剣に再プレイしてホンフゥの技表を見るとか、そういう事でもなければ思い出さなかった自信があるのだ。

 

人々はGoogleに代表されるインターネット検索が無かった時代の感覚をもはや思い出せない。ごく当たり前みたいに検索してしまっているから、Googleがどれだけ人類のもやもやを解消してたかなんて分からなくなってるだろうなと思った。Google以降に生まれてきた人たちなんかもっとわからんだろうな。今のインターネットの偉大さを。そんなことをこの度の「カデンツァの嵐事件」で再確認した。

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大阪でなぜ維新の会が選挙で勝つのか分からない他府県民への説明

「#関西民放5局の偏向報道に抗議します」は当然…吉村洋文知事の異常なテレビ出演! 5月はなんと30本、“実は仕事してない”疑惑|LITERA/リテラ

「大阪でなんで維新の会が支持されているのか、なんで選挙で勝つのか理解できない」と、よく他都府県民に言われる。維新の会の議員などの不祥事などが全国報道されるたびにそういう疑問が上がりやすい。あんな党を応援している大阪人はアホなのかと。「少なくとも自民党系議員や公明党に投票している地域のやつらに言われたくないよ!」と吠えるのは簡単だが、それだと売り言葉に買い言葉であって相互理解には繋がらないからキチンと説明したい。というか上に貼った記事に、その理由の90%以上が説明されていると思うけど。

 

そう。簡単に言えば、関西ローカルのテレビが維新の会を異常なまでに応援しているのが選挙に影響している。どうしてそうなったかの経緯を説明すると、話がやたらに長くなるので詳細は語らないが、そもそもが橋下徹はテレビ界から出てきた人間だった。そして関西ローカルテレビ界の帝王とも言われたやしきたかじんに引き立てられて、テレビ界で知名度を上げていった。これが維新人気のベースになっている。関西で視聴率を取れる男やしきたかじんの舎弟的なポジションであるということは、吉本芸人であろうと、松竹芸人であろうと、それ以外のインディー事務所であろうと、関西のテレビ界では非常に有益なことだった。なぜなら、やしきたかじんが持っていた関西ローカルのテレビ枠に常に呼んでもらえるから。橋下は当時のたかじん人気を利用して関西テレビ界に地位を構築していったのだった。同時に右翼界隈もたかじん人気を利用していったのだった。維新が右翼思想なのはそういうところから来てるのかもしれない。その流れで、芸人やアナウンサーが維新を応援する下地が作られていった。橋下や維新の会というのは、関西ローカルテレビにとっての「おらが村の代表」ということになる。どうなのその癒着。

 

話が逸れるが、「関西でなぜ阪神タイガースが絶大な人気があるのか?」その理由について、みなさんはご存知だろうか。「広島ではカープが人気だし、名古屋ではドラゴンズが人気だし、そんなもんでは?」と簡単に考えている人もいるかもしれないが、当時の関西には、南海ホークスや、近鉄バファローズや、阪急ブレーブスがいた。阪神電車なんて非常に限られた路線でしかないのに、タイガースが飛び抜ける理由はあまりない。「阪神だけがセ・リーグ球団だったからでしょ」という人もいるかもしれない。なるほどそれも理由とも言えそうだが本質ではない。じゃあなんでセ・リーグとパ・リーグに格差が生まれていったのかというと、テレビ中継があるからだ。巨人とのテレビ中継には必ず阪神が出る。なおかつ阪神タイガースは関西ローカルのサンテレビをはじめとして、テレビやラジオに主催試合の中継権を売りまくった。これが戦後2リーグ制以降のプロ野球界のなかで他の電鉄球団との途方もない差になった。それまでは南海ホークスと人気の面でデッドヒートを繰り返してたのに…。単純にテレビでの露出回数の多いタイガースがよく見えてくる。たまにしか見ない南海とか近鉄とか阪急とかを好きになる可能性はひくい。たまにしか見ないから話題にもなりにくい。

 

つまり、いまの大阪における維新の会は、阪神タイガースみたいなものになっているわけだ。とにかくテレビをつければ吉村や松井が映りまくってるし、アナウンサーやタレントは諸手を挙げて彼らを褒めちらかす。こんなのばっかり見せられている有権者の一部が、とりあえず維新が良さそうと票を入れてしまうのは無理がない。維新の話題にくらべれば他の候補者が割って入る余地はほとんどない。

 

コロナが問題になってからの、連日の吉村のテレビ出演ラッシュはとくに酷かった。普段は「維新なんて…」と言ってる市民まで「今回だけは吉村はん頑張ってはるんちゃう?」と言い出す始末。このセリフをどれだけ実際に聞いたか。それだけテレビの洗脳効果は怖いということだ。なんせ、家にテレビのない僕ですら、飲食店などに設置されてるテレビで吉村のアピールを何度も聞かされるわけだ。たまにしかテレビに接しない僕が、これだけ見せられるのだから、テレビ放送の時間をどれほど吉村や松井が占拠してたのか想像もつかない。これで公平な判断をしろといわれても、何が公平なのかが全くわからない。

 

あと関西以外の人が分かってないことがあると思うのは、関西のローカル放送の存在の大きさだ。関西人はローカルの放送局が大好きだ。なんだったら、全国ネットの番組よりも、関西ローカルの番組の方に、愛着と信用を置いているフシがある。関西弁じゃない放送とか居心地が悪いくらいに思っている。そういう中でやしきたかじんはお茶の間のカリスマになっていったし、それを利用して橋下も支持票を築き上げていったわけだ。このあたりの事情は、関西に住んでテレビを見ていた経験のある人間にしか通じないと思う。大阪における放送局とはすなわち、MBS、ABC、関テレ、読売テレビ、テレビ大阪、サンテレビ、KBS京都を指すのであって、CXだの日テレだのテレ東とか言われても「なにそれ」状態なのである。だから関西には全国放送の常識では見えてこない世界観があると知って欲しい。そこでは吉本興業と維新の会は無敵状態になっている。そして吉本興業のタレントたちは維新の会を持ち上げるために全力投球している。もちろん各放送局も全面的にそのような姿勢をよしとしている。

 

こういう状況は、みんながテレビから離れて、インターネットを見るようになるとかでもない限り改善されないかもしれない。テレビの情報だけを頼りに投票するなんてのは、コンパスを持たずに山登りするようなもんだろう。まさにそのせいで遭難し続けているのが大阪府民といえる。

 

とはいえ東京都は小池百合子で遭難しているみたいだし、日本全体といえばNHKが自民党の大本営発表機関になっていたりする。テレビにはテレビの問題点を指摘することは不可能だから、自浄作用を期待するのは無理だろう。はやくテレビの時代が滅んでくれればと願うばかりだ。

誰が「橋下徹」をつくったか ―大阪都構想とメディアの迷走

誰が「橋下徹」をつくったか ―大阪都構想とメディアの迷走

女帝 小池百合子 (文春e-book)

女帝 小池百合子 (文春e-book)

緊急事態宣言の十三の飲み屋街の様子

同じく4月11日の土曜日。梅田から阪急で一駅(二駅)の十三のパトロールに行ってみた。

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西口のしょんべん横丁の様子。思いの外に開いている店が多い。ここはいわゆる昼間から飲める街ではあるが、同じような天満が居酒屋しめまくってるのとは少し様子が違う。京橋と同じくらいはやってるかも。さすが京橋と十三はノリが近いと言われるだけある。それからしたら天満は少し若いかもしれない。


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しょんべん横丁にある人気ラーメン「くそオヤジ最後のひとふり」。食べたことはないがやたら並んでいる店だ。下手したら1時間以上も待つと言われるラーメン屋だが、この日は客は三人ばかり。適切な距離が保てる状態になっていた。ひょぅとすればチャンスなのかもしれないが僕は興味ないのでパス。貝出汁ベース専門のお店と聞く。貝のラーメンは食べたくない。

 

ちなみにここの運営している「世界一暇なラーメン屋」では食べたことはある。こちらも人気店でけっこう待たされた。しかし変な名前ばかりつけるラーメン屋だ。こちらは貝ではないのを出していて結構美味しかったので、くそオヤジもそれなりに美味いのだろうが、貝ラーメンはやっぱり興味が持てない。


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しゃんべん横丁あたりをパトロールして分かったのは、夜からオープンするお店もあわせると梅田なんかよりよっぽど営業している店が多いこと。まだ緊急事態宣言が始まったばかりとはいえ、梅田や天満あたりとはかなり対応が違っていた。僕の地元である京阪の寝屋川あたりですら閉まりまくってることを考えると、十三や京橋の気質はまた特殊なのだろう。


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しょんべん横丁を離れて、十三サカエマチ商店街の方に行ってみた。第七藝術劇場なんかのあるメインストリートだ。やってないかもなとダメ元で丸三寿司を見に行ったらやっていた。しかも店内はガラガラだった。これはチャンスと入店する。こちらはカウンターだけの人気お寿司屋さんで、暑くなってくると扉全開なので風通しもよくて気持ち良い。この丸三寿司だっていつ休業に入ってしまうかしれないので来れて良かった。

 

去年この老舗の寿司屋を知って気に入ってちょいちょい通うようになったのが、今年はあんまり来れてなかった。年が変わってからバタバタしていて、一月の下旬になってやっと行けたなと思ってた頃に、にわかにコロナが騒ぎ始めてきてそのままなんだか行きにくくなってしまった。三月に十三パトロールした折も満員に近かったこで腰がひけて入らなかった。カウンター10席程度のこのお店は常連客で満席に近いことが多い。去年までだったら席さえあいてれば平気でねじ込んでいただろうが、3月からは世界のルールが変わってしまったようだ。はやくもそれに順応してしまっている自分が辛い。


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丸三寿司に来たら大瓶ビールを注文するのが僕の鉄則。キリンかアサヒか聞かれるがどっちでも良い。ラベルが剥がれるくらい冷やしてくれているのが嬉しい。寿司屋の瓶ビールはこうでないとというビールを出してくれるのが丸三寿司の大将。大衆価格の寿司屋でそんなお店は少なかったりする。こだわりなのか、瓶ビールがあまり出ないせいなのか。どちらにせよ裏切られた事は一度もない。この大将はどうも還暦過ぎて孫までいるらしいが年齢不詳なくらいシャキシャキしている。ただし注文以外で喋ったことはほぼ無い。常連との会話を盗み聞きしてただけ。常連がいないとひたすら寡黙なのもこの大将の特徴。


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バッテラは必ず頼む。サバの握りもしてくれるが、それも美味いんだが、とにかくバッテラが絶品。6切れで350円は安い。回転寿司でもこれより安いのはなかなか無いのでは。バッテラだけ頼み続けたい衝動に駆られるが、お寿司屋さんで同じものを頼み続けるのはちょっと気が引けてしまう。実際どうなんだろう。バッテラ二皿頼んでも別に普通に無口に対応してくれるとは聞いたけれど。


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巻き寿司も頼む。僕は野菜系のお寿司が大好きなのだ。ご飯と漬物なんて反則なくらい合うに決まっている。実際おしんこ巻きとかはお寿司を終わらせるくらいの破壊力を秘めたネタのひとつじゃないかと思う。ここは珍しいところでいうと奈良漬けの海苔巻きもやってくれる。あと芽ネギの握りがあって、かなり繊細な作業なんだが、注文するといちいち握ってくれる。これがまた美味い。何カンでもいきたくなるが、手間がかかってるのを見てしまうと連打しにくい空気がある。勝手な思い込みだろうか。あと、なぜか大衆的寿司屋には焼き鳥があることが多い気がする。ここにも壁に貼ってあるメニューのなかに小さく「焼き鳥」とある。食べている人を見かけた事はない。気になってしょうがないのでまだまだ続けていて欲しいと思う。


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丸三寿司で軽くつまんでから(こういう使い方ができるので街のお寿司屋さんは素晴らしい!)しょんべん横丁の方に戻って、十三駅のガードをくぐって東口側に行ってみた。前回のパトロールのときに行ったたこ焼き屋さんが自粛を始めてしまっていた。5月に入ってからまだ十三には行ってないが、どうなっただろうか。

 

餃子の王将十三東口店は相変わらず人でパンパンだった。

コロナにあえぐ会社員とフリーランスを両方救うシンプルな方法

自営業者は1日4100円しか補償しないとか色々問題視されている。それに対してフリーや自営業者は自己責任であるとか、「保障のある生活したかったら会社員なっとけやwww」とか心ない言葉を浴びせられるインターネットのアホな声もある。

 

自営業やフリーランスってのは、どれだけ働いて、いくら儲けていくら損するのかってのは自由な商売だ。フリーランスや自営業者ってのは、それをわかった上でその道を歩んできた人ばかりなのだ。商売が上手くいかなかった場合に破産することも多い。実際、このご時世には、多くの自営業者は追い込まれて破産している。コロナが出る前から不景気だったわけだから。

 

一方で会社員はどうだろうか。最低時給という制度はあれど、多くの場合で最低時給では満足に食えるとは言い難い。であれば、最低時給よりは高い給料が出るという前提で働いていたり、最低限の労働時間が確保されていたり、解雇はされないという補償がないと働いてられない。しかし現実にはそうでないことも多い。こちらも実態としては厳しい。これに関しても「そんな条件で働くお前が悪いwww」なんて罵声をあびせるアホもいるが無視。

 

この場合、前者が見捨てられて、後者だけが救われなくてはいけない理由はあるだろうか。さらにここに投資家という存在を加えてもいい。投資家なんて、究極なまでに不安定で自己責任の存在。とくに今回のような相場崩壊の中では、とんでもない損失を被っている可能性が高い。さらにここにパチンカーなども加えていきたい。いわばパチプロと呼ばれる人たち。この人たちがコロナの影響を受けてるのか受けてないのかは実際知らないが、少なくともコロナ対策でホールの営業が停止ともなれば、明日からは収入ゼロなのになるのは200%間違いがない。

 

会社員、フリーランス、投資家、パチプロ。これら、誰を助けて、誰を助けないとか取捨選択をする合理的な理由を、全員が納得できるように述べることは可能だろうか。誰を助けて誰を助けないとか、好き嫌いでしか語れない人が多すぎる。ひとつ言えるとしたら日本に存在する人類というレベルでは、食い扶持がどうであれ等しく価値がある存在。だったらもう全員を助けるのが政府の使命なんではなかろうか。そのための政府だ。憲法にも日本国民は最低限の文化的生活を送る権利があると書いてある。

 

具体的にはどうするかといえば、収入がゼロであると証明された市民には、仕事の内容がどうであれ税金と家賃と金利の支払いを一時的にストップして、最低限の文化的生活を保証するしかあるまい。つまり最低賃金レベルの生活費の支給と、医療福祉の無償化。これは職業で差別せず一律で要求したい。これをコロナの騒動が収まるまで続けて欲しい。我が国には生活保護という制度があるにはあるが、今回の騒動に対してはまったく支援になっていない。

 

仮にの話だが、元から社会にベーシックインカムみたいな制度があったとしたら、会社員がどうのとか、フリーランスがどうのとかの問題にはなってなかったはずだ。そうい制度をいますぐ始めろとは言わんが、こんな騒動になってるのだから、一時的にでも導入したらどうかという提案に近い。とにかく緊急事態なのだから職業の内容や収入の多寡で差別するのはやめて欲しい。社会の経済のダメージを考えても、ここで弱いものから死んでいくみたいな形を作るのは得策じゃないはずだ。速やかに経済を復活できる体制にしておくのが望ましい。株にぶちこむ金があるならそれくらいやって欲しいものだ。

 

あまりにも国による福祉制度が薄すぎるという問題が、こういう事態で浮き彫りになっているとしか思えない。収入が断たれたら即死、または社会復帰は不可能みたいな状況は不味すぎる。一方で政治家は何のリスクもない。なんだこれ。

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コロナウイルスでの各種イベント中止要請は弱者切り捨て社会の象徴!!

自民党の新型コロナウイルス対策がひどい。何がどう酷いかをいちいち書いていったらキリがないので、僕は書かないが各自で調べて貰いたい。ダイモン号のこととか。今回ここで書くのは自民党の弱者切り捨ての基本姿勢についてだ。

 

こちらの神田氏の記事でも書かれているが、わかりやすい例でいうとイベント関連の自粛ムードが一番だろう。

 

安倍晋三がコロナウイルス対策として打ち出したひとつがイベントの自粛の要請。どういうイベントがダメで、どういうイベントが良いなどと特にもなく、ぼんやりした要請だけをだした形。あくまで国としては要請したが、中止するという決定は主催者の責任としてやれと。対策をやってる感だけは演出して、その実の責任はぜんぶ主催者におっかぶせたわけだ。だから補償も一切ない。その結果としては、体力のない小さい会社や個人事業主から潰れざるを得ない。それについて国は補償しない。なのに五輪は「経済損失になるから絶対に開催する」と鼻息が荒いのも安倍内閣。その前にこちらのニュースも腹が立った。

「集まってしまった7万人」だと。有象無象のイベントなんかいくら潰れようが、会社が倒産しようが知らないが、東京マラソンのような「経済損失になりそうなイベント」は強行するという合理性を欠いた姿勢。そして「集まってしまった」などといった責任をぼやかす主催者の発言に忖度するメディア。それを受けてのつじつま合わせかしらんが、「換気の悪いイベントはやめて」と突如として言い出し、ダイモン号下船者のずさんな検査から感染が広がったという経緯から「ビュッフェやスポーツジム」を単純に槍玉にあげて、そちらの自粛も要請する政府。いまだにずさんな検査の件は反省しない。自分たちは連日のパーティーや宴会。

 

今更わざわざ説明するのもなんだが、安倍晋三や麻生太郎やその他の自民党関係者が事あるごとに宣う「経済損失」だが、これはつまり自分たちの利益と、自民党のスポンサーであり「お仲間」である大企業や団体の利益の損失という意味だ。本来はコツコツ税金を納めたりしてる国民一人一人の損失を守っていくべき政治のはずだが、そちらの弱小企業や弱者の経済損失については知ったことじゃないというのが自民党の基本原理。そうでなくては、あれほど批判さへておりながら、法人税や高額所得者の税金を優遇したうえで消費税を増税するというコンボなんかを繰り返したりしない。このために失った我々国民たちの「本当の経済損失」は計り知れないが、彼らにとっての「経済損失」ではないので考慮はされない。

 

こうした安倍政権と自民党の弱者踏みつけの思想について、ずっと以前から警鐘をならし主張をしているが、消費税なんか実際に食らってもなかなかピンと来ないという茹でガエルみたいな人も多かったはずだ。「困ってる人がいる」と訴えても「その人だけでしょ」とか「自己責任だよね」などと無関心を決めてた人たちも多かった。原発の被害とか、米軍基地で被害受けてるだなんて話しても無視か、嘘ついてると疑われる始末。

 

しかし今回のイベント自粛や、なにがしの商業行為の自粛を理不尽に食らったり、根拠もあいまいなまま期間に区切りつけて学校が休みにされたり、マスクやトイレットペーパーやその他の生活必需品が手に入らなくなったりして、初めて被害者の気持ちになった人も少なくないのではなかろうか。これが無能な政府を長らくほったらかしたツケってやつ。倒産が増えてくるのも致し方ない。個人も、企業も、体力のないところから死んでいくようになっている。

 

イベント自粛に防疫上の意味がないとか、学校を休みにしてもしょうがないとか、そのような事を言いたいのではないのだ。根拠と補償と方針などをはっきり示せと言っている。アホがやってる感だしてるだけの思いつきで振り回されるのは個人事業主や非正規労働者など弱いものばかり。満員電車や五輪はそのまま。自分たちは大丈夫だからとパーティー三昧では筋が通らんだろ。この期に及んで、検査したら患者数が増えるからしたくないとか舐めとんのかと。

 

超資産家でもなく、経団連でもなく、政治家でもなく、安倍晋三を喜ばすタレントでもない人間は、等しく切り捨てられる予備軍の弱者だと考えて良い。コロナがどうとかの自粛ムードになったって別に生活していくうえでは一切影響がなくて、満員電車も乗らなくて良いし、マスクも家に配るほどあるってことなら、何かしら政権に守られている人なのだろう。もし今そういう状態でないならば、自分が弱者なのを自覚するべきだ。無関心でいたらいずれ酷い目に遭わされるべき存在なので気をつけて欲しい。

 

それにしてもこの期に及んで「イベントで生活してるのは自分で選んだ道でしょ」「有給も貰えない待遇で働いてるのは怠け者だから仕方ないでしょ」「満員電車が嫌ならそうでない仕事を選べたはず」などと信じられない言葉を浴びせかけてくる連中がネットにはいる。二言目には「なんでも安倍のせいにすんな!」と。頭おかしいとしか言いようがないが、もちろん彼らは政権の実体を知らないとか事実誤認してるとかではなく、ただそう言いたいだけの存在であるから、まともに反論しても時間の無駄だ。

 

では彼らは上に書いたような「政権に守られている連中」なのだろうか。どっかの有名企業の社長とか、現役議員とかでそういう事をぬかす輩はそうだと言えるが、そうでない有象無象アカウントの99%は自分自身も弱者なのだろう。悲しくなってくる。バイトでやってるアカウントも多いとは思うが、それも1記事数百円で安倍トモのランサーズで働かされている奴隷みたいな人たちか、右翼が喜びそうなことを書いてアクセスを集めて詐欺めいたことをしてなんとか稼ごうといる魂を捨てたような奴でしょ。なんか自虐的なものを感じる。

下流老人 一億総老後崩壊の衝撃 (朝日新書)

下流老人 一億総老後崩壊の衝撃 (朝日新書)

  • 作者:藤田孝典
  • 発売日: 2015/06/12
  • メディア: 新書
 

「ムサシの集計機械が不正選挙をやっている」籠池発言を受けて、株式会社ムサシについて調査してみた。

Twitterでこんな発言が回ってきた。

 

選挙の開票に特定の専用マシンが使われていて、それの株主が安倍晋三で、プロデュースしたのが竹中平蔵といわれては聞き捨てならない。

 

そもそもからムサシなんて会社はあまり聞いたことがないので、ますます怪しく思えてしまう。

 

まさかすべての選挙を、機械で牛耳れるなんて話は荒唐無稽すぎるが、そもそも集計方法のシステムについては、我々は知らない部分が多すぎる。以前から「投票用紙は鉛筆で書くと書き換えられる」みたいな話はあって、わざわざペンを持っていくことを呼びかけていた人はいた。その話の出どころも知らないし、いかほど根拠があるのかは分からないし、僕はさすがにそんな事をしたことはないのだけれど。

 

ただ、その一方で、開票現場に入り込んだ人の意見や、見学をした人の話なども聞いたりもして、できるかぎり不正が無いようにしているという意見も聞いたりもする。ただ、機械集計の役割や、機械を作っているムサシがどういう会社なのか知らなすぎるところに問題がある気がしたので、ファクトチェックといっては大げさだが、事実関係を調査しようと思った。

 

そこでネット上だけでも何かしら情報がないかと検索をかけてみる。陰謀論全開のサイトはとりあえず除外して出てきたのは、以下のような怪しいブログくらいだった。

blog.goo.ne.jp

この記事自体は転載なのだが、転載元のサイトは消えているという怪しさはある。

 

しかし、株主筆頭の会社の住所の高級マンションの外観と、2位の株主の会社の住所の豪邸に現会長の小林厚一の表札がかかっているのは僕も確認したので、いろいろの調査結果は捏造とかいうものではない。

 

現在の有価証券報告書からは、現社長羽鳥雅孝氏ならびに小林厚一氏の住所の地番の記載は消えている。個人情報の保護の観点だろうけど。地番以前は一致しているのはそのままだし、上に記載されている調査は信用しても良さそう。

 

つまり確実にわかっていることは、現会長と現社長が強力に牛耳っているのがムサシという会社だ、ということだ。そして以下の記事によって、羽島氏は元みずほファイナンシャルグループの社員だったことがわかる。

www.nikkei.com

 

外部の筆頭株主の第一位がみずほだった時代はたしかにあった。(2019年の時点では光通信が外部の一位で7.8%。みずほはあまり変わらず4.8%のままだ。上の記事にある2005年時に比べてジョウリン商事は250株以上の持ち株を減らしている。またムサシ社員持株会も200株ほど減らしてしまっている。ここにモルガン・スタンレーも登場する。)

 

これについては、会社の経営の変化という話なので、あれこれ推測してもしょうがない。どこまでいっても内情はわからないのだから。暇な人は有価証券報告書を時系列で調べていくなりすれば、何か見えてくるかもだけど僕はあまり興味は持てなかった。選挙制度を利用して利益をあげようという界隈の話でしかないような気もする。

 

何が言いたかったかということ、現在のこの株主構成から、籠池氏が言っているような安倍晋三(もしくは安倍晋太郎なり岸信介なり)が筆頭株主だったという形跡は見つからないということだ。

 

現会長と現社長の意向の強い企業である=個人の裁量権が強い=安倍晋三に利益供与している…というのは論理の飛躍というものだろう。「そういう可能性は永遠に否定できないけど証拠は無いよな」としか言えない。妄想の範囲から出ない。

 

ただし、選挙システムでもって収益をあげている以上は、政権とのつながりは強いのは間違いない。それを言い出すと日本社会のかなりの企業や団体がそうなので、ムサシだけがどうのこうのというのは、現時点で優先的に問題視する要素は無さそうだ。もっと表立って不正なことを働いている団体や個人は大勢いるので。(モリカケなんて最たるもの)

 

当時の社長であった小林氏のインタビューの十年前の記事がある。ムサシという会社を知る上で何かの参考になればと思う。

www.shachotalk.jp

 

小林厚一は3代目の社長であって、その前は都木恒夫という人だった。この人がどういった人なのかは分からない。ムサシ(当時は武蔵商事とか武蔵興産株式会社を名乗っていたらしい)に入社して36年後に社長に就任したということだけだ。武蔵興産が選挙システムの販売を開始したのは会社沿革によれば1970年から。だから選挙との関わりは初代社長の頃ということになる。

 

創業者と初代社長についての情報はおろか、名前すらネット上からは見つからない。まじで見つからない。電話とかで問い合わせをしたらサラッと教えてくれるかもしれないけど。けど創業者がここまで前面に出ないのも不思議な話。

 

もし政権との黒い癒着があるとすれば、初代社長時代からだと思うのだが、陰謀を主張している界隈でそこに触れている人は皆無。だから何とも言えないのが実情。もし興味があって調査をするならば、創業者や初代社長のあたりではなかろうか。三代目社長と四代目社長が、会社の実質支配をする立場に至った経緯も不明なままだけど、その時点では選挙事業は始まっていた。

 

もちろん竹中平蔵がムサシの機器のプロディースしたという話のウラもどこにもない。

 

ムサシというのがいろいろと謎の深い会社ではあるのは確かだし、選挙システムから利益を享受している企業なのは疑いのない事実だろう。その利権システムに食い込めた経緯も完全に不明だし…。そこには人脈的な出会いがあったのだろうけど、今の所は「わからない」としか言えない。

 

だからといってムサシが不正選挙に協力しているなんて証拠は今の所みつかってない。考えればわかることだけど、不正に手を染めなければ利益をあげられない証拠も無い。普通に真面目に集計しているだけで利益があげられるのだから。むしろ集計精度の技術をアピールした方が他社の介入を許さないわけだし商売が続きそうに思う。

 

ムサシと安倍晋三や竹中平蔵との繋がりも、他の公共事業に関与している企業の中のうちで突出している証拠も何一つない。それよりかは安倍や麻生の一族の企業や、パソナなんかの方がよっぽど悪辣ではないだろうか。

 

今の時点で言えることは、籠池氏が本当に新事実を知っているなら公表して欲しいということ。単なる噂話止まりであれば、よしんば不正選挙があったとてどうしょうもない。

 

そしてこれは推測でしかないけれど、仮にムサシの集計システムが何かしらの不正を働いていたとしても、論理的に考えて限定的なものじゃないかという気はするし、現状の情報を考えると、この会社が集計全体を取り仕切っているという根拠も無い。それよりかは、目に見えた不正に目を光らせるほうが重要度が高いと思われる。(選挙法違反とか偏向報道など)

 

そうこうしてるうちに、ムサシのファクトチェックの記事も出来ていた。ムサシに問い合わせもしているので、もう少しつっこんだ情報がある。例の大株主の2会社は、創業者の利益管理会社だという回答があったようだが、やはり創業者や初代社長に関する情報は特にない。怪しいといえば怪しいが、あとは好きな人が調査したら良いと思う。

https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/musashi

 

やはり先に述べたとおり籠池氏が何かしら新事実でも持ってない限り、現時点ではあんまり騒ぐような事ではないというのが結論のようだ。

 

ムサシみたいな会社に注目している時間は無駄じゃないかと。(かといって深く調査したい人を止めるわけでもないけど)

ムサシ集計機

 

れいわ新選組の山本太郎の演説は観なきゃ損!映画一本分のカタルシスあります!

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れいわ新選組の山本太郎が梅田に演説に来るというので行ってみた。僕が到着するころにはもう演説は始まっており、マイクのスピーカーを通して山本太郎の声が響いていた。会場になった梅田のヨドバシ手前はご覧の通りの人だかりで、聴衆は山本太郎の主張に熱心に耳を傾けていた。

 

ちょうど場所的には大阪駅のヨドバシ梅田店をつなぐ連絡通路のあたりだったので、連絡通路や高架の上から見守っている人も多かった。有名人が来ているから通行人が野次馬しているというのではなく、ずっと動かない様子をみると、山本太郎の主張をちゃんと聞きに来ている聴衆だというのがよくわかった。

 

1時間程度の選挙演説はちっとも退屈することはなく、聴衆は多いに盛り上がっていた。従来の選挙演説というと老人くらいしか興味がない印象があったが、ざっと見渡しても年代も性別もバラバラな印象を受けた。高齢化社会と言われる現代ということを差し引くと、かなり若い人たち(といっても勿論20~30代だが)が多かったのではと思われた。

 

おそらくは日常生活においては接点がなさそうな職業も収入も年齢もバラバラな人たちが、ある種の一体感を持って山本太郎の主張に聞き入っていた。山本太郎の街頭演説に対して、一部では熱狂的な盛り上がりと掲揚されたりする事が多いが、決してカルト的なものではなく、聴衆たちは山本太郎の説明にいちいち納得して拍手を送っている雰囲気だ。僕も一時間ほどのあいだ、何度拍手をしたかわからない。

 

僕はもともと山本太郎の新党立ち上げに対しては、懐疑的な気持ちがあった側だ。それまでの政治活動の下積みを投げ捨てて、たった一人で党を立ち上げるなんて無謀にも程があると思っていた。「れいわ新選組」という党名もダサくて気に入らなかった。しかし下のYouTubeの動画をたまたま観て正直いって涙が出てきた。これほど本気で、政治に取り組んでいる男が今までいただろうかと思った。この短い映像で、人を引きつける演説をするほどまでにアジテーターとして成長していた山本太郎という人物に興味が出てきたのだ。


山本太郎 涙する 20190505 福岡・小倉駅 小倉城口前デッキ 参院選 れいわ新選組 全国比例

 

続けて山本太郎の政見放送を観た。見事と言う他になかった。短い中に、完璧な構成でもって、政治の構想を説明している。こんな理路整然とした主張を堂々と述べられる政治家は今までの日本にはいなかった。 


【字幕入り】政見放送・れいわ新選組代表 山本太郎 参院選2019

 

まあ、そんなわけで、実際に生で観てみたくなって、たまたま梅田にやってくるという事で何をおいても観なきゃならんということで行ってきた次第だ。同じように考えた人がたくさんいたのだと思う。先に書いたようにかなり盛況だった。みんな山本太郎こそが自分の思いを代弁してくれる初めての政治家だと思ってやってきたのだろう。


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大勢が集まりすぎてはっきりは見えなかったが、身振り手振りを交えたスピーチは人を引きつけていた。そしてやはり分かりやすく現在の政治の問題点と、政治家としての理想を説明していた。

 

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れいわ新選組のボランティアや、聴衆者の中にはややこしい人は目立ってなかった。ごく普通の市民の集まりという印象が強かった。党の主張と同じに、特定の層に偏った集団ではないということだろう。

 

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ピンク色の幟や看板も群衆の中で実によく映えていた。効果などが計算されまくっているように感じる。優秀なブレーンが揃っているのだと思う。

 

この山本太郎現象というものが現在はテレビなどでは全くといっていい程に報道されていないらしい。テレビで流してしまうとマズイと考えている人たちの思惑が働いているのだろう。NHKも政見放送は決まりなのでどんな人間の放送でもするが(悪名高い「NHKから国民を守る党」でも)、その他の番組ではオール無視だそうだ。

 

僕はテレビを投げ捨てた人間なので知らなかったのだけど、テレビを観てる人からそう教えられて驚きと失望しかない。国民の知る権利が侵害されているとしか思えない。

 

だから選挙まであと少ししかないが、もし山本太郎が近くに来るという人は、演説を聞きにいってほしい。それで本物かどうかを判断してくれとしかいえない。

 

ただ僕が感じたのは、山本太郎は現代日本のキング牧師じゃないかということ。話を総合的にまとめるなら、日本人労働者(フリーランスも含めて)という奴隷階級を開放するための運動をしているとしか思えないのだ。

 

そんなキング牧師をテレビは無視している。テレビでしか情報を得ない人たちにとって、これはものすごい損失だ。だって自分を差し置いて重度障害者を国会に送り込もうなんて考える政治家が今までいただろうか。創価学会員と公明党を戦わせるなんて大胆なことを考える政治家が今までいただろうか。僕は山本太郎のし掛けのいちいちに度肝を抜かれた。

 

この記事を読んでる人たちは、インターネットも使えている人たちだから、山本太郎の主張をYouTubeなどで観れるわけだし、ぜひ知ってもらいたいと思った。そして首都圏に住んでいる人なら演説の予定が組まれているので直接目で確認できるかもしれない。絶対に退屈はしないのでぜひ行ってもらいたいと思って書いた。

 

れいわ新選組の公式HP

https://www.reiwa-shinsengumi.com/

ウーバーの仕事と、漫画家だのイラストレーターだのを目指している人への搾取が被って見えた。

www.nikkei.com

運転手は従業員か ウーバー、事業モデル崩れるリスク 

という記事があって考えさせられた。みなさんが知っての通り、ウーバーというサービスは有料ヒッチハイクのマッチングサービスである。お金をもらって車に乗せたい人と、お金を払って乗りたい人をマッチングさせることで仲介手数料をもらう。それでタクシーの需要を食いまくって、世界中で莫大な利益をあげている。

 

日本では法律に阻まれたりして普及が遅れてはいるが、システムはタクシー会社経由で運用されていて、すでに大都市では利用が可能になっている。

 

ウーバーは車だけではなく、ウーバーイーツという出前サービスもやっていて、こちらも日本では大都市を中心に展開している。車と同じく、出前を頼みたい人と、出前をしたい人とをマッチングさせて、手数料をいただこうというビジネスモデルだ。

 

さて、今説明したとおり、ウーバーのサービスにおける運転手なり配達員なりは社員ではない。それぞれ、運転手や配達業で食っている個人事業主ということになっている。「顧客からこんな依頼がありますよ~」というウーバーの配信の中から、自分がいけるものを請けてその分の報酬をもらうだけだから、たしかに社員ではなくて単発の契約を繰り返しているだけの人といわれれば、そんな気になってくる。

 

そして社員ではないので、待機時間は単なる待機時間であってお金にならないし、事故や傷害などがあっても自己責任になる。様々な経費も自分持ち。なかなかキツいが、請ける請けないは自由だし…というのがウーバー側の言い分。あくまでもマッチングサービスにしか過ぎないという立場なのだろう。

 

売りたいと買いたいをマッチングさせてるだけのオークションサイトが、オークション出品者のリスクの責任までみますか?というのにも近い。(しかし最近は、高い手数料の代わりとして、そういう出品リスクの面倒も見るというサイトも出てきたけど…)

 

社員を雇わずに、ぜんぶ個人に丸投げして、運送業を成り立たせようとは、なんとも上手いことを考えたものだ。これだと人件費がものすごく叩ける。社会保険も雇用保険も払わなくて良い。待機時間の給料も必要ない。急成長するのも無理はない。しかし実際は先の記事にあったように、訴訟をおこされたり色々と批判が起きている。どういうことなのだろうか。

 

これには理由があって、個人間のマッチングサービスとはいうものの、運転手や配達員の実態というのは、完全にウーバー内の規定に従って労働しなければならないのだ。つまり、ウーバーの運転手なり配達員になるというのは、大企業の下請け会社を経営させられるのに近い状態になる。ウーバーの求める基準を満たしてなければ、契約解除されたり仕事を回してもらえないという事態にもなる。

 

だからその基準を満たすために、嫌な注文でも請けないといけなかったり、何らかの投資を強いられるなんてこともありえる。個人事業主といいながら、受注金額を決める自由もない。オークションだって、売る値段くらいは出品者が決めれるというのに。それでいて、どこまでいっても社員じゃないので、労働者のような保障はされないと。それで世界中で問題になっている。

 

ウーバーの運転手や配達員で生活費を稼ごうととしたら、ほぼ専属状態にならざるを得ない。ウーバーのような企業はウーバーしかない寡占状態なので、独立事業主とはいっても他所の仕事を請ける能力は無いに等しい。ウーバーのビジネスモデルにのっかって始めた以上は、ウーバーの下請けを続ける以外のことは出来ないのだ。

 

YouTuberとして好きなことで生きたければYouTubeやるしかないとか、ウェブサイトで稼ぎたければGoogle AdSenseには喧嘩売れないというのにも似ているが(あ、どっちもGoogleだった)uberの方がもっと過酷だ。YouTuberとかネット収益系なら、趣味で一日一時間程度ちょこちょこやって稼げませんでしたでも笑い話で済むけど、uberの配達員などはガチの労働なのだから笑えない。

 

たしかに、ウーバーの仕事に週に何時間を費やすかは、その人次第の裁量かもしれないけど、シフト提出の義務もないけれど、半笑いで出来る仕事じゃないのは誰でもわかる。YouTuberがGoogle社に対して「俺たちは従業員だ!と訴えたなんて仰天話は聞かないけど、uber社があちこちで「個人事業主じゃない!」と訴えられたりしているのはわかる話だ。「どこまでが社員で、どこまでが個人事業主であるか問題」に突入してしまっている。

 

「個人で配送業を立ち上げる!」とかいうと、かなりの気合と覚悟と、それなりの資金が必要だ。仕事がなければ、営業費や生活費で赤字を垂れ流すだけなのは素人でもわかる。けれどuberの配達員になるのは、バイトの面接よりも簡単に出来てしまう。しかし実態は、下請け事業の自動立ち上げでしかない。交通費や経費も出なければ、最低時給の保証もない世界に簡単に突入してしまう。己の才覚だけが頼りだ。

 

もちろん、好きな時間だけ裁量で働けるという良さは否定しない。uber側にとっても雇用の面倒さの大半をすっとばせるというメリットがある。けれど決してウィン・ウィンの関係では無いのが実態のようだ。こんなやり方が常態化してくると、これはこれで問題になってくる。

 

uber社がやっているように、一案件あたりの依頼という形式をとれば、かなりの種類の労働者を個人事業主化出来るのではないか。もちろん法律的な規定がいろいろとあるのは知っているが、それを掻い潜る対策を用意すればオーケーというのは、uber社が世界各地で証明してしまっている(ただし労働者であると裁判で判断されたケースも多い)。こんな業態が増えてくると労働者を保護する法律がザル化していく。(日本の労働者保護が、すでに非常に低いレベルにあるのは別問題として)

 

こういう話をすると「偽装社員みたいなものを認めないという基準を設けるべき」という結論にもっていきがちになるが、僕の考えは少し違っていて、「下請け業務や個人事業主に対する保護政策」を強化するべきじゃないかと思いはじめている。

 

現状では、個人事業主はあまりにも守られていない。個人事業主は「自己責任の塊」の存在と認識されている方が多い。そりゃそうかもしれないが、そりゃ無いよとも思わないでもない。圧倒的な実力を持っている大企業に対して、人間一人とかで対等に立ち回れるわけがない。はなから負けは見えている。

 

「それが嫌なら組織に入れ」と言うのは簡単だが、多様性が求められる現代社会の結論が「でかい会社に入るか、死ぬか」では夢も希望も発展性もなさすぎる。

 

YouTuberが憧れの職業になったり、uber社の労働システムが、なんだかんだで世界中でウケているのは現実だ。その背景にあるのは「労働者として面倒な会社に縛られずに働きたい」「自分のペースで働きたい」というニーズじゃないだろうか。

 

事業主、フリーランスという言葉に惹き寄せられる人間は多い。まあ、現時点では、そういった気持ちの大半は、踏みにじられ食い物にされるだけなんだけど…。プロブロガーのサロンとかセミナーとかも…。

 

だから、僕としては、フリーランス的な労働を保護するなんらかの概念が求められていると考えている。「必要な時だけ必要な労働」というのは、企業側だけではなく労働者側にも内在している願望のはずだ。

 

現状は、企業のパワーに任せた「フリーランスの乱獲」が横行していると表現できる。植物だって魚だって、無計画な乱獲を放置して良いことはひとつもなかったわけで、フリーランスや下請けだって乱獲を禁止すべきだろう。フリーランスや下請け業がしかるべく保護されれば、再生可能人的資源として社会は豊かになっていくに違いない。

 

セブンイレブンの店主など、コンビニオーナーが悲劇に見舞われるニュースをたびたび見聞きするが、あれなども実態は、社員同様に働かされている下請け業そのものの話だろう。せっかく私財を投じて個人事業主になったのに、契約解除をたてにとられて会社の言いなりで働くしか無いという罠がしかけられていた。

 

コンビニのビジネスモデルに乗っかって始めたのだから仕方がないだとか、不利な契約をしてしまった側は死ぬしかないのがビジネスだとか言ってしまうのは簡単だが、そんな自己責任論を繰り返しているだけでは、あまりにも前進がないし、uber社と仕事をして、結果的に泣いている人たちも救えない。

 

「イラストレーターとか漫画家とかラノベ作家とかプロゲーマーになりたい!」みたいな人が日本にはたくさんいるが、これはそういう人たちも無関係な話やないねんで。「なりたい!」って人が多いということは、まさに企業により、むちゃくちゃ乱獲されて搾取されている層でもあるということだ。よく考えてほしい。

 

Caba選手が大会賞金の未払いを告白「8か月待ってるけど、いまだに支払われてない。賞金をあてにしてCPTをまわる計画を立ててたけど、行けなかった。」 : チゲ速

もてはやされているプロゲーマーだって、実態はこんなものだったりする。儲けたい人にとって飯のタネというか、しょせんは都合のいい存在でしかないのかと思う。

 

いま話題の本『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』にも似たような現状がレポートされているので、こちらも参考にしてもらいたい。ウーバーがやっている個人事業主みたいな形態の労働や、それによって成り立っている経済をギグ・エコノミーというそうだ。今後、ギグ・エコノミーは、ますます拡大してく見込み。イギリスのゼロ時間契約みたいな状態に、大勢の労働者が追い込まれていく。

 

いま世界中のアマゾン倉庫では絶望者を生み出しているし、ウーバー車で発狂している人が多い。日本ではウーバーイーツが流行だが、あれも問題が続々と生まれている分野だ。ウーバー契約者同士による労働組合的な話が持ち上がっている。

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

  • 作者: ジェームズ・ブラッドワース,濱野大道
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/03/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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漫画貧乏

漫画貧乏

佐藤秀峰も漫画家界隈の似たような話を書いていた。Kindle版はなんと無料!

2019年は2019年で良い!元号なんてもう日本には要らないのがわかった!

本日、4月1日に、新元号が発表されるという事で世間は大騒ぎだったが、いざ聞かされた新元号はなんともしっくりこない、しまらないものであったし、終わってみれば「どうでもいいや」という気持ちだけが強く残るものだった。

 

思えば「平成」のときも同じような印象を受けた。「え?へいせい?なにそれ?しまらないなあ…」と思ったものだ。「へいせい」という語感にも気の抜けたものを感じた。

それから30年間「へいせい」を使い続けたわけだけど、自分の中では「平成」というものに対する感慨というものは最後まで生まれなかった。昭和生まれの僕ではあるが、もはや平成時代を生きた時間の方が長くなってしまった。が、「へいせい」は「昭和」みたいにしっくりくる語感にはなることはついぞ無かった。やっぱり仮モノ感があるというか。

 

平成生まれという人なら、平成はしっくりくるけど今回の元号はちょっと妙な感じ…となってるのかもしれない。わからないけど。

 

そもそも昭和の時は、子供心に西暦との比較も楽だった。昭和と西暦の変換さえ知っていれば済んだもの。昭和49年(僕の誕生年だ)から昭和60年までは何年経過したことになる?なんて質問は「バカにしてんのか」というほど簡単だった。もちろん明治とか大正とかの話はやっかいだったのであまり深く考えないようにしていた。

 

しかしそこに平成が加わると面倒さが加速した。昭和49年~平成15年は何年ありますか?なんて質問に対して、「1989年が平成元年である」というメタ情報無しにして回答することは不可能になるのだ。

 

そんなこんなで要らぬ面倒(しかも生産性ゼロ!)をかけられたせいもあって、平成時代になってから、むちゃくちゃに元号というものを恨むようになった。そこに今回で3つめの元号が加わるわけだがから、自分の生きた範囲の時代のことを考えるだけでも、いちいち和暦を持ち出されたらものすごくややこしい話になってしまう。

 

おりしも僕が幼少期を過ごした80年代くらいから、世間はコンピューターブームであった。僕もご多分に漏れずコンピューター関連のものにドハマリしていくわけだ。コンピューター上では西暦を使うのが当たり前だし、和暦で計算するためにはメタデータが必要だし、不合理極まりないという気持ちが強くなってくる。

 

「なんだ、この邪魔なのは!」

 

平成の30年間は、元号制度に対する恨みの30年であった側面もある。書類で和暦で書かされるたびにイライラしたものだ。役所の書類なんて200%、元号表記になってませんか。あれなんでやねんと思う。やはり元号に対して権威付けたかったのかと。

 

それと何故か履歴書って「元号で書かないと駄目」という「手書きでないと駄目」よりも根深い呪いがかけられている気がする。特に僕のような昭和時代を生きた人間からしたら、学歴・職歴欄が面倒すぎた。履歴書などを元号で書かせるというのは「履歴書を書かない人類」を増加させる理由になりうる悪習だろうと思う。

 

「手書きの履歴書を求めるような会社はブラックだからやめとき!」ってのはよく言われるけれど、社内の書類をやたら元号で書かせる会社もブラック率が高いと思っている。ブラックな会社ほど、なんでか元号が大好きだ。そういう会社は効率とか合理性とかを考えない古い体質だからなのだろうと推測される。

 

あと、平成の時は、昭和天皇が亡くなってバタバタしてるうちに決まったから、とくにどうとも思わなかったが、今回は平成天皇が亡くなって急に決まったというわけはなく、生前退位に合わせてスケジュールが万全だった。なのに発表権は政府がガッチリと抑えており、2019年の4月1日に発表するまで何者も漏らすべからずと一方的なお触れが出たわけである。何様やねんと。なんで安倍政権がそんな発表権を独占しとんねんと。国民の誰に問う事もなくトップダウンで決まっていた。

 

だから色々と回りも考える余裕があったわけだけど、「じゃあ、元号って誰が考えるの?」なんて話も出てきていた。僕自身、「平成を誰が考えたか?」なんてことは考えもしなかった。

 

「天皇家に私的な暦が日本国の制度になったものなんだから、そりゃもちろんのこと天皇家で決めてるんじゃないの?」とぼんやり思ってた。だから天皇家を象徴として認めている憲法下に生きる国民としてはありがたく頂戴するのだと。同じように考えていた人も多いのでは?

 

しかし実情は全然ちがってた。元号制定には天皇家は全くかかわらず、政府が選定した有識者が決めるのだと。しかも誰が決めたとかは公表されず、したがって元号決定の責任者は「よくわからない」ということになる。「平成」を考えた人も山本達郎教授とされているが、提案しただけで決定したわけじゃないだろうし、選定のプロセスは秘密にされたままだ。

 

責任者不在とは実に日本的。まるで一部の人間にだけ許された秘技・秘術のようにして決められる元号。しかも元号の根拠とされる天皇家ですら、その選定には一切関わっておらず、一部権力者が密室で決定したもにについて箔押しするだけだ。

 

なんなのこれ?民主主義といえる?どんな中世よ?

 

そもそも今回の元号発表に際し、安倍総理の側近ともいえる菅官房長官が満を持して新元号の色紙を掲げ、安倍総理の談話までもが事前のスケジュールとして準備されていた。

 

まだ天皇陛下が「次の元号は○○に決まりました」と言うなら分かるよ。前回のときは昭和天皇は死んでいたバタバタもあって、官房長官の小渕が色紙を掲げて示したのも代理なのかなくらいに考えていた。しかしもしかしたらあれは官房長官というポジションの真の権力を表していたのかもしれんと思い始めてきた。元号を掲げるお役目とは政府内ではそういう権威職なのかもしれん。菅官房長官の今までの数々の不遜な態度も、「俺は官房長官。有事の際は元号を示すほどのポジションだぞ。天皇家の威光を背負ってるのだ!」ということなら納得がいく。

 

あと安倍総理の談話。なんでお前が元号の解説をするの。その役目は天皇陛下がしたらええのんとちゃうの。まるで元号を定めたのは自分だと言わんばかりじゃないか。天皇だったら納得がいくかといえばそうでもないけど、まだ筋道は通っている気がする。なんで天皇家は徹底的に蔑ろにされて、政権関係者ばかりが注目を集めるのに利用しているのか。意味がわからない。

 

また、四書五経などの漢書から採られる伝統のあったらしい元号の文字を、万葉集という国書から採るというのも、安倍政権の世界観に即している気がして実に気持ち悪い。選定のプロセスが全く明かされていないので何も追求できないというのも二重で気持ち悪い。しかし安倍自身がどや顔で解説するってことは、お前の意見が込められているとしか思えんやんけ!という状況ではあるが、あくまでもプロセスは秘技であって闇に包まれているのだ。

 

まあ、いうても、最大の問題点というか違和感は、誰も国民が望んだり採択に関わったりしてないのに、「ある日突然トップダウンで暦を強要される」という事に尽きるのではないか。これは二回も元号の改定に付き合った僕みたいな人間だから強く感じるのだろう。暦みたいな日常使うものを、合理的な理由もなしにいきなり決められるっていう事態からは、「国民の生活を支配したい」という気持ちの悪い主張しか感じない。いきなり通算の年数がリセットされてしまう事について、合理的な説明ができる人間なんかどこにもいないだろう。

 

そして嫌嫌でも使っているうちに、為政者の世界観に知らず知らずに染まっていくという恐怖もある。本当に勘弁してもらいたい。しかも全体の生産性を落としてまで精神を支配されていくわけだ。

 

勘違いしてほしくないのだが、元号大好き!って人が使いたいっていうぶんには構わないし、政府の中に元号を決めたい人間がいるなら勝手にやる自由くらいはあっても良いと思ってる。ただ強要すんなといいたいのだ。

 

しかし元号大好き!って人の多くは、「天皇家の伝統だから」みたいなという理由で好きなんじゃないのかと思うのだけど、天皇家とか蔑ろにされたような空虚な元号についてどう思っているのだろうか。天皇家の「暦を決める」という権力構造が、政府(実質は平成のときも今回も自民党)によって強奪されている気がするのだが。それで良いっていうなら何も言わないが。

 

とにかく僕の言いたいのは「元号の使用を国民に強要するな!西暦で書かせろ!」ということだ。しかしこれからも役所の書類を始めとして、元号の強要は度々行われるのだろうと思う。今までは何となく渋々「平成○年」とか書いてたけど、これからは出来る限り力強く抵抗してくことを宣言したい。こんなもん使ってられるか!である。

 

そういう意味では2019年は僕にとって元号反対元年にあたる。生きている限りは元号は使いたくない。しかしネットの確定申告にまで元号を強要してくる国なので100パーセントは無理かもしれない…。でも出来るだけ頑張って、新元号を、E電とかクールジャパンみたいに死語にしてみたい!

 

www.asahi.com

新元号を知らせるってのも意味不明だけど、FAXってところにも度肝を抜かれた。「FAXがまだ使われているってマジ?」って言われているガラパゴスシステムで、ガラパゴスな元号を世界各国に知らせるってどういうブラックジョークなんだろ…。迷惑やろな…。

 

(追記)

知の訓練 日本にとって政治とは何か (新潮新書)

知の訓練 日本にとって政治とは何か (新潮新書)

ピエール瀧のコカイン事件における過去作品のリリース停止や改ざんの是非を問う!!

ピエール瀧がコカインをやったというニュースでもちきりだ。

 

その影響でピエール瀧の出演している番組、ゲーム、音楽ソフトなど、ありとあらゆるものの制作や販売が停止してしまった。電気グルーヴのCDが回収されるだけでなく、石野卓球のイベント出演まで中止されるというから驚きだ。

 

僕自身は電気グルーヴのアルバムのうち初期のやつを3枚くらい持ってるだけだし、あとは人生のアルバムを数枚買っていた。もう二十年くらい昔の話になるのだろうか。だからあまりファンでもないし強い思い入れはない。

 

ピエール瀧については漫☆画太郎と組んだ『虐殺!!!ハートフルカンパニー』と、現時点での漫☆画太郎の一番の長編である『樹海少年ZOO1』の原作者としての馴染みしかない。これらは大変に好きな作品だった。あとは『アナと雪の女王』シリーズの雪だるまオラフ役も気に入っていたので、降板になってしまったのは残念に思っている。

 

今回の回収・発売中止騒動に巻き込まれて、漫☆画太郎先生の漫画も!?と思ってamazonに見に行ったら、『虐殺!!!ハートフルカンパニー』は普通に売っていて安心した。『樹海少年ZOO1』はマーケットプレイスにしか無いが、もともと絶版だったのでこれはしょうがない。いまのところプレミアとかついてないので、読んでない人は読んで欲しい。相当おもしろいから。

虐殺!!! ハートフルカンパニー

虐殺!!! ハートフルカンパニー

 

 

さて、ピエール瀧逮捕によって、作品が回収されたりリリースが停止されたりする問題については、ファンや関係各位のあいだで相当に紛糾している。「そんなことする意味あるのか。異常すぎるだろう」と。坂本龍一も以下のようなツイッターをしてニュースになっていた。

坂本龍一は 「音楽に罪はない」としているが、 じゃあ「ピエール瀧自身には罪はあるのだろうか?」というところから検証が必要じゃないだろうか。

 

「なにをバカな、ドラッグをやって警察に逮捕されて本人も認めているのだから確実に罪があるだろう」と考える人は、国家が制定した法律を違反することと、倫理的な罪を混同している恐れがある。

 

どうもこの案件は、単純な問題にみえて、実際はさまざまな争点が入り混じっており、皆が考えているよりも相当に複雑な話かもしれない。どんな話題であれ、争点が入り乱れないケースはなかなかない。みんな同じ話をしてるつもりになっていて、その実は全然違う話をしまくっているなんてことはよくある。それを踏まえない人たちが、てんでバラバラに議論しても、余計に話がこんがらがっていくだけだ。とりあえず主な争点として挙がっているものを思いつくままに列挙してみる。自分がどの話題に興味があるのかを考えてみて欲しい。

 

1.人と作品は切り離して考えるべきか否か。

2.コカイン使用者は加害者なのか。

3.コカイン使用者を商用利用する倫理的な是非。

4.犯罪の商用利用に対する倫理的な是非。

5.過去作品にたいして改ざん権を権利者が独占する問題。

6.配信販売に対する責任。

 

他にもあるかもしれないが、僕が思いつく範囲はだいたいこれくらい。今回はこれらに争点についてひとつひとつ検証していきたい。

 

1.人と作品は切り離して考えるべきか否か。

これはもうしょっちゅう議論されているネタだろう。個人的には、製作者と作品を切り離しての評価なんてのは不可能だと考えてはいる。だって殺人鬼が主役の小説があったとして、作者が本当に人を殺していた人だったと知ってしまった後に、知る前と全く同じ評価になると堂々と答えられる自信はないし、同じになるとは答えたくはない。というか、作者の情報を知れば知るほどに、作品への理解というのが変化していくのは当然だろうと考えている。作品それ自体(世に「テキスト」と表現されるもの)に込められた情報量というのは、みんなが思っているほど多くはないのだ。

 

もちろん、そうじゃない「テキストはテキストでしかないんだ」という人も、世の中には存在することも知っている。そういう人にとっては、「人と作品は別」と言い切れてしまえるのだろう。僕とは違う感覚だが、それはそれで構わないと思う。ホットドッグが至高の料理と考えている人に、そんなもの美味いと考えている奴は馬鹿だとか罵るみたいな意味のないことはしたくない。

 

重要なのは「切り離して考えれない人」と「切り離して考えられる人」が、それぞれ何人かはいて、世界にはそういった違う人たちが確かに存在しているらしいという現実だ。

 

お互いを尊重しようという立場から考えると、「その作品を閲覧するかどうかは個人の判断に任せるべきでは?」という結論に至る。つまりそれがアドルフ・ヒトラーの『わが闘争』であれ何であれ、歴史から完全に抹消するという事は許されないのではないかという事だ。(ただし『わが闘争』は、彼の犯罪に直接関わるメッセージ性が強いものなので取扱い危険物だが)

 

というか、そもそもとして、ピエール瀧がコカインやってる事実によって、彼の関わった作品への評価が変わったとして、それを封印しましょうという話とどう繋がるのか全くわからないのだけど。作品がつまらなくなったり、楽しくなったり、変わらなかったりするだけじゃないの。

 

結論としては、作品と人とは別であれ、別じゃないであれ、ピエール瀧の作品封印問題にはぜんぜん関係のない議論っぽい。今回の件に関しては、これについて話すのは完全に無駄!長々と書いて損をした!(個人的にこだわりのあるネタだったので)

 

2.コカイン使用者は加害者なのか。

これも盛んに議論されている。

 

最初にも述べたように、まず問わなければいけないのは、禁止薬物を使用するのが、はたして悪行なのかということ。殺人事件や、レイプ事件や、窃盗事件などのように、ピエール瀧が禁止薬物を摂取することで被害者が出たのだろうか。

 

ピエール瀧がコカインをキメて車で誰かを轢き殺したとか、誰かを思いっきりドツイたみたいな行為は報告されていない。一人で気持ちよくなっていただけやんと。それがたまたま法律で禁止されていたから逮捕された。ルールには違反したが、人道に違反したとは言い難い。抵抗して暴れたとかも無い。

 

そういう意味では、スピード違反とか駐車違反で捕まったみたいなことに等しい。むしろスピード違反や駐車違反の方が、迷惑をかける度合いや危険度でいえばもう少し悪いのかもしれない。

 

ピエール瀧って特に誰にも迷惑かけてないんじゃあ?」と思うのが正直なところ。迷惑がかかったとしたら、逮捕されることで穴を開けた仕事とか、販売を自粛することで損害を与えたりしたことだろうか。前者はまあ完全に悪いとしても、後者に関しては「じゃあ自粛するのをやめたら?」という反論も可能だ。

 

「違法薬物を買い求めたり、それを摂取したりする人なんか嫌い!」という意見は尊重されて良いと思うし「そんなピエール瀧とは仕事をしたくない」と思ったならそれはそれでひとつの判断だ。ディズニーが、ピエール瀧をアナ雪のキャスティングから下ろすと判断したのも残念だけどしゃあない。過去の吹替を封印するかどうか問題は後で述べる。

 

コカインは常習性があり、販売を禁止されている薬物だ。そんなものを法律を破ってまで販売した人間は確実に悪辣(アルコールやニコチンや砂糖やカフェインなどはどうなのという議論はひとまず置いておく)。

 

とすれば薬物使用者は、違法薬物ビジネスの被害者という見方も出来る。というか、むしろ被害者であるという見方が近年は支配的である。アルコール依存症と同じように病気であると。病人に懲罰を与えるのはナンセンスであり、薬物依存から脱却する支援すべし!ということである。そういう近年の価値観を照らし合わせてみれば、ピエール瀧の行為を悪行として断罪してしまうのは、相当にムリがありそうでもある。

 

ピエール瀧は薬物被害者ではあっても、何かの加害者とはとうてい言えない。社会通念上は、薬物依存の哀れな人でしかないのではないだろうか。もちろんそのイメージで仕事を断るのは自由だとは思うが、過去作品を封印しなきゃ薬物被害者が増えるとかいう話にまで飛躍するとついていけなくなる。

 

3.コカイン使用者を商用利用する倫理的な是非。

つまり、ピエール瀧がコカインを使用するという法律違反を犯して新聞沙汰になったことで得たネームバリューを利用して商売の売上につなげてしまうのは、倫理的にいかがなものかという観点。

 

たしかにそう考えると、コカイン使用で警察沙汰なんてのは、皆が忌み嫌いつつもその魅力に抗しきれないとされる、いわゆる「炎上ビジネス」に近い行為という見方も可能かもしれない。

 

ならばそんな倫理的にスレスレである「炎上ビジネス的な行為」は企業イメージにそぐわないとする理屈も成立するかと考えた。だとすれば販売自粛表明もそれなりに納得がいく対処にも思えてくる。

 

もっとも、ピエール瀧の過去作品の販売停止なりを、以上のような先進的すぎる観点から停止したと公言している企業は僕の知る限りは存在しない。いずれにせよ、こういう理由だったとしても、話題の旬というものはあるわけで、恒久的な作品封印はありえない気がする。

 

4.犯罪の商用利用に対する倫理的な是非。

これも3番めの理由に準ずる観点。酒鬼薔薇聖斗事件の犯人が幻冬舎から本を出版して大儲けしたことについて批判の声があがったが、ああいうのは倫理的にどうなのかということ。犯罪をネタに儲けるのは被害者感情も逆なでる行為だ。アメリカには、そうした行為によって利益を上げた場合は、没収されるという法律すらある。

サムの息子法 - Wikipedia

 

しかし何度もいうが、コカイン使用には被害者はいない。むしろ自分が被害者かもしれない。あと、炎上ビジネス狙いでコカインをやって捕まったわけでもないし、コカイン使用をネタに音楽を作ったり芝居をしたという事実も無い。むしろ仕事を干されてしまっている。

 

だからこの観点でもピエール瀧を批判する意味はなさそうだ。

 

5.過去作品にたいしての改ざん権を権利者が独占する問題。

販売権利者だからといって、気分によって過去の作品を封印することによって、大衆の見る権利を奪うことは許されるのかということ。

 

スター・ウォーズ』ファンの間で盛んに言われている事を思い出す。知らない人のために説明すると、初代の『スター・ウォーズ』三部作は、ジョージ・ルーカス監督の手でたびたびアップデートを加えられていて、昔あったシーンがCG処理で別のものに変えられたりして、当初の映画とは別物になっていっていたのだ。

 

スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』でダース・ベイダーの正体を演じていた俳優さんなどは、後のシリーズでベイダー役を演じたヘイデン・クリステンセンに差し替えられて抹消されてしまった。権利者の一方的な都合によって歴史が改ざんされてしまったのだ。ピエール瀧が出ているのが嫌だから消しましょうなんてのは、まさにこれと変わらない行為だ。

 

もともとの映画に思い入れのあるファンたちは「俺たちが好きだった映画を返せ!」と1997年の最初のアップデート版である『スター・ウォーズ特別編』の上映以降ずっと主張を繰り返していた。なにせこれ以降はスター・ウォーズのソフトは特別編を基準にしており、オリジナル版は無かったものとして、ソフトの販売や制作を停止してしまっていたのだ。ずっとファンの声を無視し続けてきたジョージ・ルーカス側ではあるが、近年になってようやく限定版という形でDVDやBlue-rayを販売したという経緯がある。消されたダース・ベイダー役の人も十数年ぶりに復活できたわけだ。

 

また、人類社会に残る膨大な作品群は、後に犯罪者として起訴された人間や、薬物使用者やレイプ犯やその他いろいろの犯罪者が関わっていたりする。しかしその当時、犯罪など予期しなかった時期に発表されたものについて、後から封印するなんてことは許されるのだろうか。

 

たとば、O.J.シンプソン(94年に殺人罪で起訴、07年に強盗罪で有罪)の出演する『タワーリング・インフェルノ』や『カプリコン・1』などは今でも自由に鑑賞できる。また、ロマン・ポランスキー監督(77年に未成年に対する強姦で有罪)の『ローズマリーの赤ちゃん』『チャイナタウン』だって普通に観れる。コカイン使用した俳優が出演する作品が自由に観れる状態というのは、世間的にそんなに悪影響なことなのだろうか。その理屈はさすがにムリがありそうだ。

 

一定期間は売りたくないというのがあったとてしても、恣意的な理由で永遠に封印するのは、文化に対する責任としてもやってはいけないと思われる。そもそも、ピエール瀧が関わっている作品群というのは、ピエール瀧の単独の仕事というのは極めて少ない。まるでピエール瀧が作品のすべてと言わんばかりの対応は、他のスタッフやキャストや演者などに対してあまりにも配慮に欠けるのでは。「文句はピエール瀧にどうぞ」と言われても納得する人は少ないだろう。

 

6.配信販売に対する責任。

いかにも現代的な争点。

 

今回の話でいえば、ピエール瀧をモデルにしたキャラクターが登場するセガのゲームが配信停止になったが、後にピエール瀧のモデルを別のデータに差し替えて配信を再開するとしよう。その場合、前述した通りの過去作品の改変の問題のみならず、もともとのデータを購入したユーザーも、ダウンロードし直した場合にはピエール瀧が削除されたゲームしか遊べないということも起こり得る。もしかしたら強制アップデートという方法まで行われる可能性すらある。

 

以上については何も確定されたことではないので、現時点では憶測でしかないが、それを危惧してディスク版の確保に走った人が多数いたせいで、中古価格が高騰するという一幕があったくらい。ちなみに、ディズニーのゲームに登場したアナ雪のオラフについては、アップデートで別の声に差し替えられることが決定しているようだ。

 

それとは別に、今流行りのサブスクリプションサービスについての問題点も浮き彫りになっていた。月額料金を支払ってラインナップの音楽などを自由に楽しめるという類のサービスから、電気グルーヴの曲が次々と削除されてしまうという事態が起きた。「電気グルーヴも聞けるから」という理由で加入していた顧客に対しての裏切り行為ではないかというのだ。

 

そりゃいずれにおいても顧客との契約上の法律問題はクリアしてるのかもしれんが、不信感を招くには十分な行為といえる。ただこれにしても、作品封印が妥当とかいう話ではなくて、サブスクリプションとか配信ビジネスに対する問題点の話だから、混ぜて考えると非常に問題がある。「Kindleの本は果たして所有しているの?」問題とかで話した方が良さそうなネタ。

 

 

以上のように6つの視点から考察してきたが、ピエール瀧の関連作品が恒久的に封印されるに足る理屈はどこにも無さそうだ。百歩譲るとしてもペナルティとして一時的な販売自粛がせいぜいだろう。あと、これからの付き合いに関しては、それぞれが考えれば良いことだ。芸能界がピエール瀧を締め出すことで合意したというなら仕方がない。しかし作品の歴史は変えられないし、コカイン使用が悪行であるという理屈は成立しないことは何度も申し上げておく。どこをどう考えても「ルールを破っただけ」の話。法的な罰則は受けるだろうが、社会的制裁を受けるようないわれはない。

 

スピード違反でも未成年時の飲酒・喫煙でもなんでも、一度も法律を破った事の無い人だけが(もちろん捕まってなくてもアウトだ)ピエール瀧に石を投げたら良いんじゃないだろうか。胸を張って「俺は一度も違反してない!」なんて人が本当に出てきたらキモいけど…。

これから京都に観光に行く場合、出来るだけ大阪のホテルを取ることをオススメしたい理由が出来た!?

京都のキムラといえば寺町のすき焼き屋さんだが、もてラジ村のキムラといえば木村ゆう氏である。そんな木村ゆうさんが書いた京都の旅行客離れの記事を読んでいて思い出した事があった。

kimniy8.hatenablog.com

 

今年の1月か2月に、京都の祇園のサウナの名店ルーマプラザにチェックインしようとしたとき、「200円を頂戴します」とフロントで言われてギョッとしたのだ。

 

楽天トラベルを通して支払いは済ませていたので、当然ながらフロントでの支払いは無いものと高をくくっていたからだ。僕は宿泊に対しては、たいていネットからの支払いをするので、現地の宿泊施設でお金を出すことはあまりない。

 

なんでこうなったかを聞いてみると京都市が宿泊税をとるようになったかららしい。

 

宿泊税というものがあるのは前から知っていた。ずいぶん前から東京都が導入していて、大阪府もわりと近年になって導入することになったというニュースを見たことがあるからだ。

 

しかし僕にとってはかなり他人事にニュースだった。実際に宿泊税というのを支払ったことがなかったからだ。

 

宿泊施設を利用しないというのではなくて、東京へは良く泊りがけででかけていたし、地元の大阪でも宿泊することは実際すごく多いのだ。

 

でも宿泊税を意識したことは無い。なぜなら宿泊税は高いホテルにだけかけられると思っていたからだ。

 

東京都の宿泊税

一人あたり宿泊料10000円を超えるホテルで100円

一人あたり宿泊料15000円を超えるホテルで200円

これを一泊ごとに人数分支払う。

<税金の種類><宿泊税> | 東京都主税局

 

大阪府の宿泊税

一人あたり宿泊料10000円を超えるホテルで100円

一人あたり宿泊料15000円を超えるホテルで200円

一人あたり宿泊料20000円を超えるホテルで300円

これを一泊ごとに人数分支払う。

大阪府/大阪府の宿泊税について

 

なんかカードゲームの効果みたいな書き方になってまったが、宿泊税はかような事になっている。つまり僕自身は宿泊料が10000円を超えるようなホテルを利用する機会などほとんどなく、たまーーーーにあったとしても、そういうケースでは料金感覚なんかマヒしてるわけで100円くらいは誤差みたいに思っていて、宿泊税なんか意識できるわけが無かったのだった。

 

だから宿泊税なんていうものは金持ちだけが支払うものであり、僕のような貧乏人があれこれ考えなくて良いものだと思っていたフシがある。

 

しかしだ。なぜか京都市で僕は200円の宿泊税を請求される羽目になった。ルーマプラザの宿泊料は3600円とかそんなもんだ。そりゃサウナ&カプセルとしては、ちょっとだけ豪華な施設ではあるかもしれんが、一般的なホテルの価格からしたらものすごい庶民価格ではないか。4000円にも満たない料金に対して200円も取られるなんて、消費税をダブルがけされたくらい凄い。なんなのだ。どういうことだ。自分に何が起きたのかわからなかった。

 

とりあえず文句のひとつも言いたかったが、フロントのお姉さんと揉めてもしょうがないので、「あ、そうなんですか」なんて平静を装って200円を支払ってから、あわてて京都市の宿泊税について調べてみた。

 

京都市の宿泊税(2018年10月から徴収開始)

一人あたり宿泊料20000円未満は200円

一人あたり宿泊料50000円未満は500円

一人あたり宿泊料50000円以上は1000円

これを一泊ごとに人数分支払う。

京都市:宿泊税について

 

料金だけ見ると、若干高いかなあ…最大1000円は凄いなあ、と思うくらいだが、実は東京都や大阪府の宿泊料とぜんぜん違う!何が違うかをよく見て欲しい!

 

20000円未満は一律200円!!!

 

これだ!これが僕がサウナの宿泊で200円も徴収された暗黒ルールだ!

 

つまり、1000円の宿でも、500円の宿でも、京都市のホテルに泊まったら200円は絶対に取られるのだ。1000円の宿をとったら20%も税金をかけられることになる。

 

反対に50000円もするホテルに泊まる人は1000円の税金をとられるが、2%の税金ということになる。すさまじいまでの逆進性の税金だ。確実に弱い者いじめ。

 

京都で1000円のドミトリーみたいなところで5泊したとしよう。総支払は5000円で宿泊税は1000円とられる。50000円のホテルで一泊した人の1000円と同額。この現象に納得が出来る人とはまともに会話できる気がしない。

 

もちろん東京都と大阪府の宿泊税だって、つきぬけて高いホテルに泊まれば割合は下がっていくわけで、厳密にいえば逆進的な税ということになるが、10000円以下の安宿は免除するという救済処置がある。だから僕は宿泊税なんかほとんど気にすることなくホテルを利用できていたのだった。

 

ひるがえって京都市は何なのか。何がしたいのだろうか。

 

宿泊税の目的にはこのように書かれていた。

「国際文化観光都市としての魅力を高め,及び観光の振興を図る施策に要する費用に充てることを目的としています。」

 

外国人、京都市民、市外からの旅行者すべて、しかも安宿に泊まる人からも一律で200円を徴収することが観光都市としての魅力を高めることになるの?全く意味がわからないのだが。京都市が何をやりたいのかわからない。

 

「京都のホテル混雑を緩和するために宿泊客を少しでも減らしたい」と思って導入したなら納得がいく。「観光は京都だけど、宿泊は大阪のホテルで良いや」と思う旅行者が増えていってもおかしくない政策だ。そういう企みなら上手いルールを作ったものだと思う。僕は京都市にはできるだけ泊まりたくないと思ったし。

 

けど、祇園祭とか、大きなイベントになれば、高い料金でも泊まりたいという観光客はいくらでもいるだろうから、あまり緩和にはならないと思われる。実際にこの時期のホテルは高い。逆に打撃を受けるのは「なんでもない日」だろうし、安い宿ほど客離れにつながるだろう。

 

「安い宿に泊まる客なんか京都に来てほしくない」と考える市民はけっこういると思う。でも、安い宿を経営している側はそうは思ってない。安い宿を経営しているのは、そういう価格帯のサービスの需要をあてこんでいるからであって、足をひっぱるような政策をされたらたまったものではない。

 

だいたい京都市民だって、終電がなくなって泊らないといけないとか、朝早いから安いカプセルに宿泊しようとかなったときに、余計な出費を強いられるわけだからいくらかは損をかぶるのだけど。それでも良いなら良いけど。そして安宿には京都市から撤退して欲しいと考えるなら、それはそれでひとつの考え方なのだろう。

 

近年のインバウンド需要で増加したホテルは、総じて価格帯が安いホテルだったりする。ドミトリーのようなものやカプセルホテルも増えまくった。京都市にそういうホテルが進出してくるのを抑制したいというなら趣旨は一応はわかる。しかし大阪や奈良などに宿泊して京都に観光にくる人が増えるのだとしたら、市内の混雑具合自体は変わらないのかもしれない。

 

しかし僕がギョッとしたように、海外からの旅行者もネットを通じて支払いを済ます人が多いので、知らずに泊まろうとした人がフロントでトラブルになりがちのようだ。こんな悲劇はかわいそうなので、できるだけ周知したいと思って書いた面もある。日本語のブログだけど。日本人も取られるので。

www.kyoto-np.co.jp

 

ちなみに、金沢市も2019年4月から京都市と同じく20000円未満は一律200円徴収というタイプの宿泊税を導入する。金沢としえばアパホテルのお膝元だ。近年、宿泊施設が増えてきていたが、どんな安宿に泊まろうとも200円徴収されるらしいので注意して欲しい。

 

金沢市にどういう勝算があるのかは知らないが、いち貧乏旅行者としては迷惑な限り。行った最には、できるだけ金沢で飲み食いしていたのだけど。どんなところに泊まっても200円とられるなら、宿泊は最小限にしたくなってきた。まあ、そんな程度の人間は迷惑だったというメッセージとして受け取りたい。

 

それと大阪府も2019年6月から、宿泊税の徴収対象を10000円以上から、7000円以上に引き下げるらしい。まだまだ僕の利用している価格帯よりは上だけどジリジリせまってきている恐怖がある。

 

東京都は宿泊税の改正計画は現時点ではあんまり話にあがってないどころか、オリンピックに向けて免除させようという計画まであるらしい。どういうことやねん!?納得いかんとはまさにこのこと。

www.sankei.com

とにかく、関西旅行において、京都に宿泊しようとしている人は、以上のことを心得ておいて欲しい。場合によっては大阪に宿泊しても良い。どうせ近いので。

 

 

僕自身は、京阪沿線民で、京都のアクセスが良いので、ルーマプラザにサウナを愉しみに行っていただけなのに、観光の魅力がどうとかで200円を取られるみたいな事に対してものすごく嫌な気持ちになっている。ルーマプラザ京都にしても、少しでも安くサービスを提供しようとしているはずなのに、市から勝手に200円の値上げをされるわけだ。ルーマプラザに200円払えというなら余計に払っても良いくらいのサービスだと思うけど、単なる税金だというのならバカらしい。

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祇園あたり

 

年末なので近年でかなりの知見を得れたオススメ本とかをまとめておく

晦日で2018年の最終日ですので、ここのところの人生が変わるくらいの知見を得たポイントと、それの元になった有用な本をまとめておく。一年以内の話にしようと思うが、2017年に読んだやつも多少は混じっているかもしれない。

 

 

暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

 

まずはなんといっても人類の歴史に対する理解が大幅に変わったことが大きい。スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』が巨大なきっかけになっているのは間違いないのだけど、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』も今年になって読んだと記憶している。そんで『昨日までの世界』も続けて読んで、そうなったらビル・ゲイツの強烈な推しであるユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』も読むわけだ。ちなみに『暴力の人類史』もビル・ゲイツ推薦本。

 

これら本から得れた知見は、ものすごく単純に言えば「現代になればなるほど人類社会からは暴力が減っている」という歴史的な認識だ。ジャレド・ダイアモンドの本も、ユヴァル・ノア・ハラリの本も、大まかに言えば壮大な歴史の話であって、有史以前の人類はどういう生き方をしてきたか、そしてどういう手順で進化してきたのかを整理・考察していくという内容なのだが、これを『暴力の人類史』を前提にして読むと捗る捗る。もちろん逆に読んでも良いとは思う。『昨日までの世界』は、現代でも古代と近い生活習慣を続けている少数民族をモデルに、古代の人類の生活様式を探っていこうという内容なので、『暴力の人類史』で主張している事柄をほぼ裏付ける内容になっていたりする。これも相互に補完していて捗り方が半端ない。

 

なんだか今まで不確かなイメージだけで「昔になればなるほど、棍棒で殴り合うくらいしか出来なかっただろうし、人間なんて森で平和に暮らしてたんだろうなあ?」などとぼんやりと考えていたことが、2割も正解じゃなかったことがわかった。人間は昔にいけばいくほど殺しに躊躇なかったし、暴力のみが支配する世界だったことが強烈にわかる。そしてそういう時代がたいして代わり映えせずに何千年も続いてきたのだった。ここ100年くらいで急激に人類は前進し始めたのだ。そういうことがわかる。

 

歴史好きは読んでおいて間違いない。歴史に対する理解度が100倍くらいになる。

 

文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
 
サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

 

 

フェルマーの最終定理』で有名なサイモン・シンによる『代替医療のトリック』も強烈な一冊だった。なんせ長年にわたってずっと僕の疑問だった「なんで針を体に刺したら病気が治ったりするの?なんで足の裏をもんだら内蔵がよくなったりするの?なんで首を曲げてポキポキとやったら身体に効くの?誰も納得のいく説明してくれないし、全く意味がわからん」という問題について、本一冊でこれ以上ないくらいに明快な答えをくらたからだ。

代替医療解剖 (新潮文庫)

代替医療解剖 (新潮文庫)

 

 

 

「ぜんぶ嘘!ランダム化比較試験の確立によってそれら代替医療は効果なしと証明されている!だいたいの療法は、どっかのおっさんの思いつきが、さしたる検証も経ずに人気で広まっただけ!」

 

鍼灸も、カイロプラクティックも、足裏反射区も、気持ちいいくらいに根拠の無い健康法だった。同時にプラセボ効果の恐ろしさも説明してくれる。おかげでこれからしょうもない療法で頭を悩ませなくて済みそうだ。そしてランダム化比較試験の偉大さを知るとともに、統計学的アプローチや比較試験の導入で医学がみるみると進歩していったのは、ほんの100年くらいの話だという知見を得られた。それまでの人類は医学の分野においても、たいした進歩はみられず同じようなところを堂々めぐりしていたようなものだったらしい。さっきの歴史の話とかぶっているのだ!

 

 

知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

 

『知ってるつもり 無知の科学』は集合知についての知見を与えてくれた。人間は社会的に知られていることは「知っている」として活動する生き物らしい。基本的には外部からつっつかれるまで何の疑問も持たずに生きていってしまう。だからこうやって本を読んだりして「知らなかったこと」を探していくしかない。

 

 

シャーデンフロイデ: 人の不幸を喜ぶ私たちの闇

シャーデンフロイデ: 人の不幸を喜ぶ私たちの闇

 

シャーデンフロイデ:他人の不幸を喜ぶ私たちの闇』は、我々が他人の幸福に不安を覚えて、他人の不幸に快感を覚えるのは何故かということについての学説。これも社会的な生き物だからという解釈で非常に納得させられる。人間はあんがい自分で感情をコントロール出来ない。そういう事を承知しているかどうかでもずいぶんと変わってくるはずだ。

 

 

失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織

失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織

 

『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』失敗を認めないことには失敗を防ぐ事は出来ないというごく当たり前の理屈なのだけど、どうにも人間は失敗を認識できない生き物のようだ。だから比較検証や統計学的アプローチが導入される前は、ほとんど同じ場所にとどまり続けたという歴史の敬意と合致する。人類は様々なテストや統計を通して、近代に入ってからようやく失敗を認識出来るようになったという言い方も可能だ。

 

世界を変えた14の密約

世界を変えた14の密約

 

『世界を変えた14の密約』は陰謀論的なタイトルではあるが、実は世界的に起きている事象のまとめのような本。ざっと読んでいけば次の興味へのインデックスにもなるし、ドメスティックな視点に陥りがちな日本人にとって、世界的な潮流の中での日本の立ち位置を確認するのにも役に立つ。とにかく疑問に思ったらさらに深く調べていけば良い。なんだかんだで、日本独自の問題というのは、それほどは多くないのだという事をわからされる一冊でもある。

 

 

誰もが嘘をついている ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性

誰もが嘘をついている ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性

 

『誰もが嘘をついている ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性』Googleの検索ワードやインターネットなどのビッグデータというのは新しい時代の統計でもある。ぼんやりした思い込みやイメージを、統計的なデータで打ち砕いてくれる内容になっている。まだまだ発展途上の分析ではあるけれど、思い込みによるイメージよりははっきりとした足がかりを与えてくれるし、なかなか衝撃的な調査結果があったりする。とにかく「知ってるつもり」は危険だということを強く認識させてくれた。

 

 

ある世捨て人の物語: 誰にも知られず森で27年間暮らした男

ある世捨て人の物語: 誰にも知られず森で27年間暮らした男

 

『ある世捨て人の物語』『ヒルビリー・エレジー』は、絶対に本にならなかったであろう層の人たちについての物語。前者は一生世間から隠れて暮らしていたはずの人にインタビューを敢行するという発見の話だし、後者は普通は発言しない元白人貧困層が、自らの体験と家族の歴史を本として綴っていったという貴重な史料だ。

 

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

 

ヒルビリー・エレジー』に出てくる現代の白人貧困層の感覚と言動が『暴力の人類史』や『昨日までの世界』の内容とかぶるし、さらに白人貧困層がなぜそういう文化や生活様式を構築していくかは、居住地域や資源や経済の推移の都合という運の要素が強大であって、決して人間の内容が違うという事ではないという点において、タイムスパンは短いながらも『銃・病原菌・鉄』で述べられていることとあまり変わらない。

 

 

いつも「時間がない」あなたに: 欠乏の行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

いつも「時間がない」あなたに: 欠乏の行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

『いつも「時間がない」あなたに:欠乏の行動経済学』これは今年最大の衝撃といって良いかもしれない。貧困層が搾取されているのは、お金や教育だけではなくて思考力もだった!という観点からの分析が述べられている。失敗を繰り返すのも、教育を受け入れられないのも、社会的な欠乏の境遇によって、脳のリソースを著しく奪われているからだとしたらどうだろうか。自己責任論を振りかざしていても、一向に埒があかないはずだ。そして資産のある人間にとっての小さな失敗は、お金に余裕のない人間にとってはありとあらゆる転落への片道切符だというどうしようもない客観的な現実があった。貧富が別れるのは人間のそもそもの能力の差ではなく、欠乏の境遇が人間の能力を決めるという恐怖。貧乏が貧乏を呼ぶとは、すなわち欠乏が欠乏を呼び込む事にほかならなかった。『シャーデンフロイデ:他人の不幸を喜ぶ私たちの闇』や『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』で例に挙げられている内容は、この本の中で提唱されている「集中ボーナス」「トンネリング」という心理状況から説明出来てしまう。目からうろこの本なので絶対にオススメしたい。ラジオでも紹介したがまた詳しく解説したい。

 

とりあえず木村ゆうさんもラジオの内容の感想を書いてくれている。

kimniy8.hatenablog.com

 

他にもいろいろあったとは思うけれど、とりあえず強烈に印象に残ったものを大雑把にまとめておいた。ほとんど翻訳ものが中心だけど、紹介しきれなかったものや国内のは次の機会にでもぼちぼち。

 

ひとつだけ挙げると、わりと古いものだけど『ドキュメント道迷い遭難』のシリーズや八甲田山の本は強烈だった。2018年になって「山で迷ったら絶対に沢に降りないこと!」という知見を得た。基本的に僕は山には登らないのだけど。

ドキュメント 道迷い遭難 (ヤマケイ文庫)

ドキュメント 道迷い遭難 (ヤマケイ文庫)

 
八甲田山 消された真実

八甲田山 消された真実

 

 

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