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日本人にも聖書やコーランに匹敵する経典があったことを知る

 

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なぜ日本人は無宗教と答える人が多いのかお正月に考えた - 温玉ブログ

 先日はこんなのを書いたけど、その中で日本人の多くが信仰している名前のよくわからない宗教のことを、便宜上「日本教」と書いたら、はてな自動リンクが張られていた。

リンクを読んでみたら山本七平という人が提唱していた言葉だそうだ。僕が考えるような事はとっくに誰かが先に思いついているものだ。そらそうか。

!!!

ここで驚いだ。山本七平という名前には見覚えがある。

Amazon山本七平の本を注文していたところだったのだ。

日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)

日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)

 

 偶然というか必然というか何というか。日本に漂う空気にネガティブな感情を覚えていると、自然と似たような目線になって、似たようなところに引き寄せ合ってしまうものだと感慨深い。

人間は思っていたことしか思えないし、知っていたことしか知ることは出来ない。

この本はなんとなく面白そうだと注文してみただけで、まだ届いてもいないので感想は書けない。

さて、問題の日本教であるけど、日本には昔から日本教というものが受け継がれてきたという話は先のエントリーで書いた。エントリーというと、ブロガーみたいで嬉しい。

信仰は自由だし何の宗教をやっても良いとは思うけど(例え犬のうんこをカリントウだと言いはって食べる宗教であっても本人が幸せならやるべきだ)日本教の嫌なところは信者たちが信仰をしているという自覚がゼロなところだ。

信仰をしているなら犬のうんこを食べたって良い。

でも「信仰をしてないという信仰」はあまりにもあまりもだ。単に信仰心が薄い結果なんじゃないかと思うのだ。

自分でも何を書いているのかわからなくなってきた。

でも信仰心という自覚もないくせに信仰してるみたいな行動だけしてるってのは、何だかセンサーやプログラムの反応だけで動いているロボットみたいで気持ち悪い。

そんなんではウチから沸き起こってくるような信仰心なんて生まれようもない。

アカデミックにいうと哲学的ゾンビみたいな状態か。ちょっと違うかもしれんけど。

もっとくだけた例えでいえば、寂しいとかヒマって理由だけで、何の興味もない趣味のサークルに入り込んで、回りに良い顔しつつ、そこそこ上手くやってるみたいな話に近いんじゃないか。

良く言えば回りの空気を読んで機敏に動いている。

悪く言えば回りに流されているだけ。主体性がゼロ。

これって日本人がよく言われる特徴そのままだ。

日本人の特徴といわれているものは、一説に日本人の7割以上が確実に信仰しているらしい日本教の信者の特徴だったのかもしれない。

日本教徒の信仰心が薄い理由のひとつに、明確な教義というものが無いというのもあると思う。

宗教の教義というのは、人間のモラルの元になるものだ。

何かを判断したり、何かの行動をするときに、何らかのモラルというものが無いと、もう生命体としての本能の赴くままにするしか無くなってしまう。

それじゃイカンというわけで、いろいろの偉い人があらわれて、宗教とか哲学とかいう類のものが開発された。

もちろん「本能の赴くままに」という教義をもった宗教もあるに違いない。でもそれはそれで一つの定義されたモラルだ。

困っている人がいるときに、自分のなけなしのお金を恵んでやるのが正しいのか。

それとも目先の情に流されず、自分のなけなしのお金はガッチリと守るのが正しいのか。

どちらも正しいように思えるけど、どっちも正しくないように思う。

ここに何らかの物差しを示すのが宗教観というやつじゃないか。

でも日本教は、説明したとおり、神道とか仏教の派閥とか、いろいろあって、それぞれの教義はもちろんある。しかしそれらは各自組み換え可能。3つか4つかのスロットに、お好きな宗教をアソートして楽しむ型式をとっているから、お互い同士の教義の噛み合わないこと甚だしい。そもそもそんなことをしている時点で、ひとつひとつに対する思いれも相当に低いに違いない。

だから「信仰なんかしてない」という意識につながるのだろうけど。

日本教信徒のグルーヴ感というのは、所詮「信仰なんかしてない」くらいでしか無いのか。

しかしあった。あったのだ。

そんなバラバラな白けたような日本教徒が、強烈に仰ぎ見て大切にしている統一教義が。

法律だ。

そもそもあらゆる宗派を越えて天皇陛下がトップカリスマとして君臨している日本教であるから、天皇陛下をトップとして組織された日本政府が日本教における最高統一機関なのである。

これは明治政府以来の伝統であるし、もしかしたら江戸時代以前からもそうだったのかもしれないが記録があやふやなので今は言及しないでおく。

であるなら、その最高機関が発布する法律が彼らの教義。

だからあらゆる正義は法律からの逸脱距離で判断される。

何か、日本人が、モラル的な話し合いの場で、やたら法律の遵守に躍起になる理由が見えてきたような気がする。

次に、お金。

これは説明不要。お金は力。政府によって保証された圧倒的なパワーである。これを保有すれば保有するだけ社会の地位が確立されていく。失えば居場所もなくなってしまう。

日本全体を巨大な宗教組織とみるならば、円を持つものほど組織内で高いステージにいける。ということは資本家は徳が高いといえる。

資本家が皆から拝まれるのはそういうわけだ。少しでもその徳にあやかりたいのだ。

反対に、貧乏人や乞食は修行の足りない最下層民だ。だから軽蔑されるし、自己責任と叩かれる。それを助けようとするものも憐れみの目で見られる。貧乏人と付き合うと、徳が下がっていくようだ。

日本人が、豪華な寺や、金ピカの仏像が大好きな理由が見えてきた。

貧乏人に施しをするよりも、でっかい神社にお賽銭を弾んだほうが、ご利益がありそうな気がする。

だって日本教には「汝の敵を愛せよ」なんていう、現世での利害に反する統一された価値観は無いのだから。

もちろん各宗派レベルでは存在する。けど、それぞれのお経を真面目に読んでいる人なんかいるだろうか。

「そういうのは無理に読まなくても、真面目にやらんでも往生出来まっせ」といってバーゲンセールのように信徒を集めてきたのが日本の主流の仏教の歴史だったりする。

だいたい経典を真面目に読んでいる人は、あやふやな日本教なんてやっていないはずだ。たぶん。おそらく。

「宗教なんてくだらない。科学こそ正義。宗教なんて信じてる人は未開人っすよ」とか言っちゃってる人ほど敬虔な日本教徒だったりするのも驚きだ。

まるでそんな人を身近に知っているかのようだけど、実はこれかなり決めつけで語っているのでさしたる根拠はない。

なぜなら、他人とあまり宗教の話はしないからよくわからないのだ。

宗教の話や信仰の話をするのを嫌うのも日本教徒の特徴なのかもしれない。

法律の話やお金の話は歓迎されたりする。

お寺や神社の話は宗教の話とは認識されないからかなり受け入れられる。

たまに熱心に信仰心とか宗教の話に乗ってくる人がいると思えば、どっかのカルト教団の信者だ。

こういうのはお話にならない。

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