72時間の期限は経過した。湯川氏は首を切られて殺害されたらしい。
あれだけ大々的にやっていたわりに事後報告のような煮え切らない幕切れだった。
そして残された後藤氏はヨルダンに拘束された死刑囚との人質交換の材料に変更されている。人質画像の不自然さの指摘などもあったように、もしかしたら湯川氏は昨年のうちに殺害されていたという説は正しいのかもしれない。そうすると後藤氏が生きているのかどうかもよくわからない。
ともかく、こうやって日本にいてネットニュース見ながら、マイコンをパコパコ叩いているような身分でははっきりとしたことは何ひとつわからない。
しかし案の定、待ってましたとばかりの安部首相の「テロを許さない」演説。アメリカなど諸国の支持表明。人の命を政治のカードにしているのはどっちなんだと言いたくなる。
常識的に考えるならば、イスラム国としちゃ、とくに日本に喧嘩を売るメリットは無いと思われる。いたずらに喧嘩を売って宗教対立も何もない日本を参戦させても仕方がない。そうすると日本に対する働きかけとしては、イスラム国と敵対している国との連携を揺るがすのが目的であろう。中東諸国に経済支援をしたり、アメリカに追従されては困るから、そんなことをしても損するだけだぞと脅したいわけだ。
新たな人質の条件であるヨルダンの死刑囚の開放にしたって、日本国がヨルダンに対して「ウチの国民が殺されるので開放して」などと訴えてヨルダンがこれを無視して人質が殺されるなりすれば、日本はヨルダンに対して良い気持ちはしないだろう。
責任をよそになすりつけて怒りの矛先をイスラム国以外に向けさせるというのは上手いやり方だ。
じゃあ我らの安部首相はどう考えているのかといえば「本当に悪いのはイスラム国。我々はテロには屈しない」と毅然とした態度で表明するのだろう。
さすが鋭い!相手の姑息な策には惑わされない安部首相!
…ということではなくて、最初からそう決めているのだもの。何がどうなってもアメリカに追従するシナリオ以外に日本には道が無いことになっている。石油が上がろうが下がろうが天然ガスが産出しようがしまいがウランが確保できようができまいが、とにかく原発以外に道はない!というのと同じくだ。
国益とか、駆け引きとか、そんなのを超えた結論なのだ。人質の命なんて問題は最初からどこにもない。
イスラム国はそこまでわかってて仕掛けているのだろうか。日本情勢に明るい人間が何人いるんだろう。そこらへんの感覚は日本は普通の国とはまるで違うというのに。
政府がアメリカべったりなのはわかっていてもさすがに人質見殺しともなれば、国民から、「安倍どうなってんのや!国民の命よりアメリカとイスラエルとかが大事なんか!」って突き上げがきて身動きが取りにくくなる。イスラム国としてはこれくらいの期待はしているのかもしれない。
しかし残念ながらそれもない。
「自己責任=JIKO SEKININ」を国際語として定着させ、人質画像にクソコラして世界を驚かせた日本国民である。
「安倍は人質を見殺しにすんな!」と一部の人間はデモなんかするかもしれない。いや、今もしている。しかし「あいつらはサヨク」で片付いてしまうのが恐るべきニッポン国民。これは「日本が気に入らないなら出て行け!」というコンボまで繋がる。
たいていの国だったら「国益=国民の生命の保証」とかんがえるのが常識のようである。
しかし日本では「国益=国民の命を捨てても守らなければならないもの」というのが常識なのだ
同様の概念に「会社の利益=一般社員が犠牲になっても確保するもの」というものもある。
日本においての「国益」とは一部の人間の利益をさす言葉である。
今回の人質の命だけの問題ではなくて、イスラム問題に首をつっこんでアメリカに褒めてもらって得をする国民がどれだけいるっていうのだ。しかしよくわからない国益のために死に物狂いでつっこんでくるのがニッポンなのだ。
イスラム国はその理不尽さと恐ろしさを今こそ理解するべきである。