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『自分探し』はしたほうがいい?

『自分探し』と称していろいろと旅行にいったり活動したりする人をあざ笑うというのは定番の行為になっている。たかが自分を探しに行くのに何も地球の裏側まで行かなくても良いじゃないかと。

 

アーネスト・ヘミングウェイの『日はまた昇る』か何かにも、そういう自分探しに旅行に行くを揶揄するセリフがあった気がする。近年の日本に限らず、けっこう歴史があるのかもしれない。

自分探しが止まらない (ソフトバンク新書)

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 そんな『自分探し』について。『自分探し』とは何だという質問。以前の僕にとっては抽象的でなかなか難しい問題に思えた。即答が難しかった。

 

本当の自分を知るとは?やりたいことを探すことだろうか。しかしやりたいことってなんだろう。やりたいことって探しにいかなければならないことか?僕はビールが飲みたいとか、たくさん寝ていたいとか、友達をおしゃべりしたいとか、やりたいことなんか探すまでもなく、いくらでも思いつける。とびっきりの美女とセックスしたいとかでも良いじゃないか。何もやりたいことが見つからないなんて本当は無いんじゃないか。

 

もしくは自分の隠された才能みたいなものだろうか。いきなりやってみたらモノスゴイ才能があった。映画やマンガの主人公みたいに、ちょっとやってみたらたちまちその道のベテランをぶっちぎる天才児だったみたいな。でも残念ながら、人間は少なくとも20年以上生きてきたら、自分が運動が得意とか、絵が得意とか、記憶力や数字に強いとか、多少の傾向はわかってくるもんだ。そのうちでもぶっちぎった能力があったら、とっくにその道に進んでいるのだ。そりゃまあ、どの道にしろ、とことん突き詰めていったらどうなるかは知れないことだけど、結果を出すまで、あちらこちらに頭をぶつけながらしか成長できないくらいのことはわかっている。「じゃあ好きなことをやれば?」と他人は気安く言うものだけど、ビールを飲んだりたくさん寝てるだけではお金にならないのが辛いところだ。

 

そんなことをぐるぐるぐるぐる考えていたら一向に『自分探し』というものの正体が掴めなかったし、いつまでたっても「得体のしれない何か」という印象を拭えなかった。結局わからないもの。そりゃ批判もしたくなる。

 

そんな僕だったけど、今になっては『自分探し』ってやっぱり必要じゃないかと思うようになった。自分を探すってのはつまり「自分が幸福になる方法について明確に知っておくこと」だというシンプルな答えがわかってきたからだ。どうすれば自分が幸せになれるか。何をもって幸せと定義するか。僕はそれを知るために旅行というのが大変に役に立った。自分を探すために旅行に行くと言ってた人は、見当違いなことをしてたわけではなかったということになる。ちょっと鼻で笑ったりしたこともあったので今では申し訳ない気持ちでいっぱいである。ただ、僕の場合は、地球の裏側までは行く必要なかったけど。

 

たとえば、福井県を代表するやきとりチェーンである秋吉。大阪にも昔から店があったので僕は若いうちからよく利用していた。ここの人気メニューは「純けい」という親鳥の硬い肉のやきとりである。これが僕はかなり好きだった。親鳥特有の歯ごたえ。その硬さはまるでミノとかてっちゃんみたいな、なかなか噛み切れないホルモン焼きのようでもある。若鶏のサクサクした歯ごたえの焼き鳥に慣れていると面食らうこと間違いなし。そして噛み締めたらじゅっとでる肉汁。表面にたっぷりと振りかけられた塩。そしてタレ。それらが入り混じって得も言われぬ快楽になる。

 

しかし、これを僕が「本当にいちばん好き」と思えるようになったのはここ5年以内のことかもしれない。それを言えるまで、いろいろの焼き鳥に浮気した。旅行に出かけては、日本のあちこちで焼き鳥を食べた。ときには焼き鳥と称する串にさした豚肉まで食べまくった。香川では骨付き地鶏といって、硬い親鳥の肉を骨付きで出す豪快なものも食べた。愛媛県の今治焼き鳥だって食べた。名古屋の手羽先も食べた。どれもこれもたいへんに美味かったけれど、やっぱりなんだかんだいって秋吉の純けいをトータルで超えるものは見つかってない。ということにやっと気がついたのだ。

 

これから先に、秋吉の純けいを超える焼き鳥に出会うかどうかなんて、そりゃもちろんわからない。けれど、今のところ間違いなく僕にとっての焼き鳥暫定トップは秋吉の純けいである。焼き鳥屋の秋吉にはいろいろのメニューがあるけど、僕が秋吉に足を運んだときは、純けいと瓶ビールという注文しかしない。余計な回り道は必要がない。(店舗によっては「アブラミ」という注文をすることもあるがそれはまた別の機会に…)

 

だから、僕という男は、秋吉にいって純けいを食べまくると相当に幸せになることがわかっている。食べまくるといっても、じゃあ秋吉で純けいを何本くらい食べたら良いのか。

 

実はそれもわかっていて、30本がベストだ。実は先月あたりに富山県にいったおり、現地の秋吉(福井県を含む北陸エリアの秋吉は秋吉の本場なのでぜひ食べたい)で、本腰を入れて純けいを注文しまくってみてカウントしていたのだ。

 

いくら食べまくりたい串といえど説明したとおり純けいは硬い肉である。30本あたりで僕の顎は疲れ果てて肉をうまく噛み砕けなくなってくることがわかった。そうすると美味さよりも顎がつかれた辛さが勝ってきて、幸福グラフが下降線に転じる。そのピークで切り上げるのがいちばん幸福度が高い。

 

それがわかれば話が早い。秋吉に行った時には、純けいを10本づつ頼んで三回転。食べることに集中するときは、瓶ビールは1本でも構わないというのもわかった。ビールもたくさん飲みたい気分のときは串の本数を減らすべきだろう。

 

だから僕が「秋吉の純けいを食べまくりたい!」と思ったときは、いずれにせよ30本という数字を出ないということになる。自分が食べたい量をピタッと答えられるのはたいへん気分がよろしい。

 

自分の食べたいことやりたいことを問われて「なんでもいいから満足させて」という態度はたいへんに子供っぽい。だからピタッと欲しい数字が言えるというのは、大人として実に正しいあり方のような気がする。

 

香川のさぬきうどんなら、僕は5玉ぶんで幸福のピークを迎える。それ以上つめこむと楽しさ一転で地獄の苦しみを味わうことになるのは何度も経験済み。それもこれもアホみたいに延々と繰り返された香川うどん旅行の果てに「理解」したことである。

 

僕にとっての『自分探し』ってのはこれである。

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