沖縄の海にオスプレイが墜落した。
オスプレイが墜落した。
オスプレイが墜落したのだ。
大事なことだから三回書いた。なんでこんな簡単な事実を三度も書かねばならないかというと、「オスプレイが墜落した」という単純な現実が伝わりにくくなっているからだ。恐ろしいことに。
これはほんの一部だけど、読売、産経、毎日、朝日、NHKなどの主要メディアが、オスプレイの墜落を「着水」あるいは「不時着」と報道してしまっている。
それに対して、墜落だと報道しているメディアは、琉球新報や、日刊ゲンダイなど、少数派になっている。
「何らかの理由により、オスプレイが墜落して、しかし幸いにも搭乗していた兵士たちに死人は出なかった」こういえば話は簡単だった。そこからオスプレイの安全性の議論になり、ひいては米軍基地のリスクという話までは発展できたのかもしれない。しかし「着水」だの「不時着」だのという単純な言葉のごまかしが、その手の議論を水際でシャットアウトしてしまう。
「あれは墜落じゃない」「不時着しただけだ」「墜落の定義をのべよ!」
主要メディアが言葉を変えてしまったせいで「オスプレイ墜落」という共通認識は成立していない。だからオスプレイの危険性を問う前に「墜落とは何ぞや?」という哲学的な議論を強いられてしまうわけだ。共通認識が違うのだから議論など成立するわけがない。不毛な水掛け論が延々と続きひたすら消耗するだけである。これこそが「墜落」という言葉を使わせなかった側の思惑だ。
かつて戦時中の大本営発表に「撤退」「退却」を「転進」と言い換えるというのがあった。それと同じだ。
ただの言葉の言い換えと侮ってはいけない。言葉のパワーとは恐ろしいのだ。見えてなかったものが見えるようになり、見えているものが見えなくなるのが「言葉」である。
事実「オスプレイ不時着」という報道があったせいで、意図的に海に「着水」したわけで、「オスプレイはコントロール下にあった」などという意見も堂々と飛び出している。「コントロール下にあった機体がバラバラになっていいのか?」などという素朴なつっこみはここでは通らない。言葉によって「オスプレイが墜落した世界」と「オスプレイが不時着した世界」は完全に切り分けられてしまったのだから。これが言葉のもつ魔力であるし、戦時中の日本が大本営発表に注力した理由でもある。そして現代でも同じことが繰り返されはじめている。
だから「オスプレイが不時着した世界」では、オスプレイがバラバラになっている事実でさえ「クラッシャブル構造だからわざと派手に壊れるようになっている」などという事実無根の説明さえも持ち出してしまう。そして在沖の海兵隊司令官に「海にコントロールして降りたんだから感謝しろ」とまで言われてしまう始末。「言葉」によって、見えているものも見えなくなってしまうとはまさにこういうことなのだ。
各メディアが「言葉」について、いちいち政府や米軍にお伺いを立てる時代が来てしまった。もしくは自主的に先回りして「言葉」を選んでいるのか。いずれにせよ、悔しいが大本営発表の時代がまた繰り返されるのだろう。それに従わない者は「左」とか言われてしまうようだ。
しかし現実は現実である。バラバラになったオスプレイは墜落したのであって、危険きわまりない代物にあることは変わりがないし、米軍基地がある限りは安全や安心はない。といっている間に、同じ日に別のオスプレイが胴体着陸していたというニュースが入ってきた。まるでマンガみたいだが、これが現実のようだ。
「大本営発表」がいかにして形成されていったか、そして「言葉」がどのように人々の行動を縛っていったかを綿密な調査で浮き彫りにした力作。今の時代にこそ読みたい。
真実を知りたい!ただただ真実を追求した男!清水記者のこの本を全国民に読んで欲しい。