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2019年は2019年で良い!元号なんてもう日本には要らないのがわかった!

本日、4月1日に、新元号が発表されるという事で世間は大騒ぎだったが、いざ聞かされた新元号はなんともしっくりこない、しまらないものであったし、終わってみれば「どうでもいいや」という気持ちだけが強く残るものだった。

 

思えば「平成」のときも同じような印象を受けた。「え?へいせい?なにそれ?しまらないなあ…」と思ったものだ。「へいせい」という語感にも気の抜けたものを感じた。

それから30年間「へいせい」を使い続けたわけだけど、自分の中では「平成」というものに対する感慨というものは最後まで生まれなかった。昭和生まれの僕ではあるが、もはや平成時代を生きた時間の方が長くなってしまった。が、「へいせい」は「昭和」みたいにしっくりくる語感にはなることはついぞ無かった。やっぱり仮モノ感があるというか。

 

平成生まれという人なら、平成はしっくりくるけど今回の元号はちょっと妙な感じ…となってるのかもしれない。わからないけど。

 

そもそも昭和の時は、子供心に西暦との比較も楽だった。昭和と西暦の変換さえ知っていれば済んだもの。昭和49年(僕の誕生年だ)から昭和60年までは何年ある?なんて質問は「バカにしてんのか」である。

 

しかしそこに平成が加わると面倒さが加速した。昭和49年~平成15年は何年ありますか?なんて質問に対して、「1989年が平成元年である」というメタ情報なしにして回答することは不可能になるのだ。

 

そんなこんなで要らぬ面倒(生産性ゼロ!)をかけられたせいもあって、平成時代になってから、むちゃくちゃに元号というものを恨むようになった。そこに今回で3つめの元号が加わるわけだがから、自分の生きた時代のことを考えるだけでも、いちいち和暦を持ち出されたらものすごくややこしい話になってしまう。

 

おりしも僕が幼少期を過ごした80年代くらいから世間はコンピューターブームであった。僕もご多分に漏れずコンピューター関連のものにドハマリしていくわけだ。コンピューター上では西暦を使うのが当たり前だし、和暦で計算するためにはメタデータが必要だし、そもそも不合理極まりないという気持ちが強くなってくる。

 

「なんだ、この邪魔なのは!」

 

平成の30年間は元号制度に対する恨みの30年であった側面もある。書類で和暦で書かされるたびにイライラしたものだ。役所の書類なんて200%、元号表記になってませんか。あれなんでやねんと思う。やはり元号に対して権威付けたかったのかと。

 

それと何故か履歴書って「元号で書かないと駄目」という「手書きでないと駄目」よりも根深い呪いがかけられている気がする。特に僕のような昭和時代を生きた人間からしたら、学歴・職歴欄が面倒すぎた。履歴書などを元号で書かせるというのは「履歴書を書かない人類」を増加させる理由になりうる悪習だろうと思う。

 

「手書きの履歴書を求めるような会社はブラックだからやめとき!」ってのはよく言われるけれど、社内の書類をやたら元号で書かせる会社もブラック率が高いと思っている。ブラックな会社ほど、なんでか元号が大好きだ。そういう会社は効率とか合理性とかを考えたこともない古い体質だからなのだろうと推測される。

 

あと、平成の時は、昭和天皇が亡くなってバタバタしてるうちに決まったから、とくにどうとも思わなかったが、今回は平成天皇が亡くなって急に決まったというわけはなく、生前退位に合わせてのことでスケジュールが万全だった。なのに発表権は政府がガッチリと抑えており、2019年の4月1日に発表するまで何者も漏らすべからずと一方的なお触れが出たわけである。何様やねんと。なんで安倍政権がそんな発表権を独占しとんねんと。国民の誰に問う事もなくトップダウンで決まっていた。

 

だから色々と回りも考える余裕があったわけだけど、「じゃあ、元号って誰が考えるの?」なんて話も出てきていた。僕自身、「平成を誰が考えたか?」なんてことは考えもしなかった。

 

「天皇家に私的な暦が日本国の制度になったものなんだから、そりゃもちろんのこと天皇家で決めてるんじゃないの?」とぼんやり思ってた。だから天皇家を象徴として認めている憲法下に生きる国民としてはありがたく頂戴するのだと。同じように考えていた人も多いのでは?

 

しかし実情は全然ちがってた。元号制定には天皇家は全くかかわらず、政府が選定した有識者が決めるのだと。しかも誰が決めたとかは公表されず、したがって元号決定の責任者は「よくわからない」ということになる。「平成」を考えた人も山本達郎教授とされているが、提案しただけで決定したわけじゃないだろうし、選定のプロセスは秘密にされたままだ。

 

責任者不在とは実に日本的。まるで一部の人間にだけ許された秘技・秘術のようにして決められる元号。しかも元号の根拠とされる天皇家ですら、その選定には一切関わっておらず、一部権力者が密室で決定したもにについて箔押しするだけだ。

 

なんなのこれ?民主主義といえる?どんな中世よ?

 

そもそも今回の元号発表に際し、安倍総理の側近ともいえる菅官房長官が満を持して新元号の色紙を掲げ、安倍総理の談話までもが事前のスケジュールとして準備されていた。

 

まだ天皇陛下が「次の元号は○○に決まりました」とすらなら良いよ。前回のときは昭和天皇は死んでいたバタバタでわからなかったけど、官房長官の小渕が色紙を掲げて示したのも、もしかしたら官房長官というポジションの真の権力を表していたのかも。菅官房長官の今までの数々の不遜な態度も、「俺は官房長官。有事の際は元号を示すほどのポジションだぞ。天皇家の威光を背負ってるのだ!」ということなら納得がいく。

 

あと安倍総理の談話。なんでお前が元号の解説をするの。その役目は天皇陛下がしたらええのんとちゃうの。まるで元号を定めたのは自分だと言わんばかりじゃないか。天皇だったら納得がいくかといえばそうでもないけど、まだ筋道は通っている気がする。なんで天皇家は徹底的に蔑ろにされて、政権関係者ばかりが注目を集めるのに利用しているのか。意味がわからない。

 

また、四書五経などの漢書から採られる伝統のあった元号の文字を、万葉集という国書から採るというのも、安倍政権の世界観に即している気がして実に気持ち悪い。選定のプロセスが全く明かされていないので何も追求できないというのも二重で気持ち悪い。しかし安倍自身がどや顔で解説するってことは、お前の意見が込められているとしか思えんやんけ!という状況ではあるが、あくまでもプロセスは秘技であって闇に包まれているのだ。

 

まあ、いうても、最大の問題点というか違和感は、誰も国民が望んだり採択に関わったりしてないのに、「ある日突然トップダウンで暦を強要される」という事に尽きるのではないか。これは二回も元号の改定に付き合った僕みたいな人間だから強く感じるのだろう。暦みたいな日常使うものを、合理的な理由もなしにいきなり決められるっていう事態からは、「国民の生活を支配したい」という気持ちの悪い主張しか感じない。いきなり通算の年数がリセットされてしまう事について、合理的な説明ができる人間なんかどこにもいないだろう。

 

そして嫌嫌でも使っているうちに、為政者の世界観に知らず知らずに染まっていくという恐怖もある。本当に勘弁してもらいたい。しかも全体の生産性を落としてまで精神を支配されていくわけだ。

 

勘違いしてほしくないのだが、元号大好き!って人が使いたいっていうぶんには構わないし、政府の中に元号を決めたい人間がいるなら勝手にやる自由くらいはあっても良いと思ってる。ただ強要すんなといいたいのだ。

 

しかし元号大好き!って人の多くは、「天皇家の伝統だから」みたいなという理由で好きなんじゃないのかと思うのだけど、天皇家とか蔑ろにされたような空虚な元号についてどう思っているのだろうか。天皇家の「暦を決める」という権力構造が、政府(実質は平成のときも今回も自民党)によって強奪されている気がするのだが。それで良いっていうなら何も言わないが。

 

とにかく僕の言いたいのは「元号の使用を国民に強要するな!西暦で書かせろ!」ということだ。しかしこれからも役所の書類を始めとして、元号の強要は度々行われるのだろうと思う。今までは何となく渋々「平成○年」とか書いてたけど、これからは出来る限り力強く抵抗してくことを宣言したい。こんなもん使ってられるか!である。

 

そういう意味では2019年は僕にとって元号反対元年にあたる。生きている限りは元号は使いたくない。しかしネットの確定申告にまで元号を強要してくる国なので100パーセントは無理かもしれない…。でも出来るだけ頑張って、新元号を、E電とかクールジャパンみたいに死語にしてみたい!

 

www.asahi.com

新元号を知らせるってのも意味不明だけど、FAXってところにも度肝を抜かれた。「FAXがまだ使われているってマジ?」って言われているガラパゴスシステムで、ガラパゴスな元号を世界各国に知らせるってどういうブラックジョークなんだろ…。迷惑やろな…。

 

(追記)

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