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なぜ日本人は無宗教と答える人が多いのかお正月に考えた

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お正月である。日本人は無宗教と言われるけど、この時期は誘い合わせて初詣やらに行く。それも神社やお寺やお構いなしに行く。去年は神社に初詣に行ったけど、今年はお寺にお参りに行くなんてことを平気でする。もちろん「自分は初詣はずっとここに決めているんだ!」てな人もいて、そこは神社だったりお寺だったり、はたまた少ないかもしれないけど神宮寺だったりいろいろだ。教会やモスクに初詣に行く人もいるのだろうか。それはよくわからないけど、初詣といえばほとんどが神社かお寺のどちらか。

 

神社とお寺とどちらに初詣に行く人が多いのかの詳しい数字は知らないけど、きっと神社だろうと思う。けれど日本国民のほとんどは神道の純粋な信者というわけではなくて、亡くなったら仏教のどれかの宗派で葬られる人の方が多い。

 

これは明治以前にあった神仏習合の思想の延長にある。中国から伝わってきた仏教が日本の元々の信仰と合わさって、仏も神も同時に信仰する「何か」の宗教に変異を遂げたのだ。

 

そのうえで仏教成分は「浄土真宗」とか「真言宗」とか「天台宗」とかいろいろの派閥に分かれる。

 

神道成分も派閥としてはいろいろだ。

 

「仏教はどこに所属する?神道はどこに所属する?あるいはどちらか片方でも良いけど…」

 

みたいなのが日本の宗教のあり方になっていった。さらに儒教朱子学といったものも絡んできてわけわからないキメラになった。

 

こういう現象はどこの国でも見られる事で、道教儒教が混然となってたり、仏教とイスラムの神を同時に拝んだり色々だ。ゾンビで有名なブードゥー教だってキリスト教と土着宗教がからみ合って出来た何かだ。

 

そして江戸時代まで進んでいき、キリスト教への弾圧という意味合いで寺請制度というのが出来て、国民は必ずお寺の檀家にならんといかんという事になっていった。そして明治維新を迎える。文明開化。

 

明治政府は1868年に神仏分離令というものを出した。「天皇陛下を中心とした強い国を作るために神仏を一緒に拝んじゃいかん、これからは神社を公式の国の参拝施設にするので寺を破壊せよ。神社の中にお寺を作ってるようなものは寺成分を排除せよ。職をなくした坊主は兵隊にでもなれ!」というものだ。大雑把にいうと。江戸時代の檀家制度に対するアンチテーゼ的なことも強いと思われる。

 

これでかなりたくさんのお寺が破壊されて、国民の信仰は神社が中心になっていったそうだけど、当時を生きていないのでどれだけ凄かったかは実感は無い。

 

ただし1872年には、徹底はやっぱり無理ということで、神社と寺の二本立てで行こうやとなった。

 

そして1889年に公布された大日本帝国憲法には凄い事が書かれていた。

 

「信仰の自由は認める」

 

万世一系をうたい天皇陛下を最高の権力として据え付け、神社以外はイカンとかいっておいてそれ??

 

事実、明治政府は、江戸時代はご法度だったキリスト教の布教活動も認めた。近代国家として宗教の自由を内外にアピールするために「信仰の自由」は認めざるを得なかったというのもある。そのうえでとんでもない見解を示した。

 

「神社とか天皇陛下を敬うのは国としてのスタイルであって、断じて『宗教』ではない!!」

 

すごい。認めなければノーカウントは、福島原発爆発以前からの日本の伝統芸。

 

ともかくとして、こういうわけで、明治まであった日本的宗教基本システム「仏教は○○宗、神道は○○、あるいはどちちらか」は否定され、「国家神道を先ず信じて、オプションで希望するなら仏教だのキリスト教だの付けても良いよ。ただし国家神道を脅かさない範囲で」というプレイ(祈り!)スタイルに変わる。

 

これは日本の敗戦まで続く。

 

そして敗戦後。国家神道という宗教はアメリカに解体されて、明確な制度としては無くなったがトップである天皇陛下とその周辺としては残った。あと神道を束ねる神社本庁という宗教法人は残っているし、国家神道を支持する靖国神社なんていう団体も境内も残されているし存在感もすごい。伊勢神宮神道の組織の中で最上位のものとして健在だ。

 

そこに先に説明した神仏習合の復活ですよ。「仏教は○○宗、神社は○○」みたいなアレ。

 

それでどうなったかというと「天皇陛下を組織のトップに戴き、仏教は○○宗、神社は○○」という新スタイルが登場した。かなりの日本国民が信じているであろうこの宗教には特に名前が無い。

 

主な活動としては、お正月には神社かお寺に参拝に行き、天皇陛下の新年のありがたいお言葉を聞く。亡くなったらお寺かなんかの所有する敷地に、おおむね仏教の宗派で葬られる。で、遺族はお坊さんを読んで法事とかをしがち。そして「信仰は?」と聞かれると「無宗教です」「宗教は信じていない」と答えるのが特徴。

 

ここで「キリスト教」とか「イスラム教」とかはっきり言える人は、この宗教の信者ではない可能性が高い。高いけど「天皇陛下をトップに戴きつつ、仏教は浄土真宗、初詣は明治神宮キリスト教プロテスタント」みたいなスーパーキメラがいないとも限らないから注意だ(なんの?)。

 

この国家神道から派生したような日本教(仮名)の信徒は「宗教的組織に所属していないから宗教ではないよ!」とか言う。

 

でもどこかのお寺の檀家だったりする。どこかの神社の氏子だとか自分で言ったりする。

宗教的組織に入っているからそれ!

もちろん、宗教的組織に加入しているのが、信仰をもっているかの条件ではない。でもあえて言わせて貰った。

 

そうでなくとも日本人のすべては、天皇家を中心とした政府というでっかい組織の一員である。

 

もちろん国を好きに選ぶわけにはいかないけれど「へん!俺は天皇なんて認めたわけじゃねえぜ!」とでもはっきり言わな限りは対外的には宗教組織の一員だろう。ニコニコして天皇陛下の新年の挨拶なんか楽しみにしているならなおさらだ。

 

もちろん信仰には自由があって、どんな宗教を信じるのも人それぞれだ。日本人が宗派スロット組み合わせ自由なキメラ的ガラパゴス宗教を信仰していても良いじゃない。あまりにも皆が同じ宗教の価値観を共有しすぎて、宗教活動が日常になりすぎて、宗教的行為と社会マナーや儀礼の区別がつかなくなってても別に良いじゃない。そういわれればそうだ。

 

だってカトリック教徒だけしか住んでない島か何かがあったら「宗教なにそれ?日曜日に教会に行くのは皆がやるからやってるだけ!」とか、きっと言い出すに違いない。

 

実際そんな地域は世界ではいくらでもあるだろう。

 

親がやってたから、回りがやってたから、気がついてたら入信していた。そんなのが「宗教」だ。この場合は「日本教」とでも言ったら良いか。でも「国家神道」が誰にも黙って復活してきているという説もある。

 

(追記:その後、2019年の、平成天皇退位と新天皇即位の大嘗祭において、「宗教的行事に国家予算を使うのはいかがなものか」という天皇家の意向が、宮内庁に封殺されたという報道をみるに、やはり国家神道復活かと思わざるを得なくなった。)

 

それにしても名前がついてないのは最強すぎると思う。

 

ハッキング対策に表示しない設定のWi-Fiスポットみたいだ。

 

思えば、明治政府が「国家神道は宗教ではない!」と言い張ったのは、最強のセキュリティ対策だった。今でも国家神道は宗教か否かで、学者間でも議論が生じるくらいだ。言い張りは強い。

 

そのセキュリティ対策が、国家神道が縮小化された現在でも続いているものと思われる。いくつもの宗教が連合し複雑化していてその実態もよくわからなくなってきている。何気なく入れた賽銭箱のお金が、よくわからない宗教連合の活動に使われていたりするかもしれない。

 

教徒が「自分は宗教をやっていない」と心から思い込むことで退会の余地すら無いのが凄い。島国効果なのか何なのかわけがわらない。宗教に詳しいわけではないので上手く言えないけど。

 

でも僕は、ある日なんとなく、自分がそんな透明の宗教に入信してしまっているのに気がついてしまった。

 

だから退会することにした。

 

それから、お寺や神社に見学に行くことはあっても、お祈りはしなくなった。賽銭箱にも何も入れない。お金払わんのだったら来んな!とか言われるようになったら行かない。

 

神頼みはやめた。

 

だから、ここ数年はお寺や神社にたまに足を踏み入れることはあっても、初詣というのは一切していない事になる。

 

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