前編の続き。
さて、いよいよ問題の『ゾンビ』だ。ロメロ監督は1969年に『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の快挙によって歴史に特異点を打ち込んだわけだが、「ゾンビ映画」というジャンルを決定付けたのは、1977年に続編兼セルフリメイクともいえる『ゾンビ』を世に送り出したからだ。僕の映画観にも最大ともいえる影響を与えたのは間違いなく『ゾンビ』という作品だ。『ゾンビ』が無かったらゾンビ映画をこんなに好きになってなかったかもしれない。それほどのパワーがこの映画にはあった。そのパワーにあてられてゾンビ映画に取り憑かれた人間を世界中に増殖させてしまった。現在のゾンビ映画ブームは『ゾンビ』が創り出したものだ。
『ゾンビ』のどこが前作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』に比べて画期的だったのか。そのためには『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の革新性をもう一度おさらいしておく必要がある。多少は前編の話と被っている所もあるが、何度でも繰り返すべきところだから構わず繰り返す。ついてきて欲しい。番号をふって順番に検証していく。
1.便宜上「ゾンビ」と呼ばれる「生きている死体(リビングデッド)」との攻防をテーマにしたこと。
それまで映画に登場していたヴードゥー教の呪いによって動かされる死体であるゾンビというモンスターと、ロメロ監督が創造した「生きている死体」というモンスターは本質が全く違っていた。「死んだ人間が蘇ってきて人を襲うようになった」という現象そのものが自然災害のように人類に襲いかかってくるというのがテーマになっている。『人類SOS!』(62)での敵である食人植物のトリフィドの群れや、『地球最後の男』(64)で主人公のヴィンセント・プライスが戦っている新人類=ミュータントが、ロメロのゾンビのイメージの下敷きになっているし、ヒッチコックの『鳥』(63)の死人版という表現の方が本質を付いている。鳥それ自体はモンスターではないが、あらゆる鳥が人間を襲い始めるという怪現象はモンスター的であり自然災害的でもあるし特に説明がつかないのも同じだ。
じゃあなぜ死体が蘇るというアイデアになったかというと、低予算の自主制作映画として、モンスターのメイクなどをしていられなかったという事情がある。だったらそこらの普通の人間を大量に動員するだけで恐怖現象としてでっち上げられる工夫として、死人が蘇るという話になったそうだ。コロンブスの卵としか言いようがない。後にロメロ監督はこのアイデアを自分で流用して『クレイジーズ/恐怖の細菌兵器』(73)という映画を制作している。こちらでは細菌兵器で殺人鬼になった人間たち(やはりノーメイク)と正常な人間と特殊部隊との三つ巴の攻防を描いている。広義ではゾンビ映画のフォーマットに従った映画だった。
2.いきなりクライマックスから始まること。
昔のホラー映画はたいていかったるかった。怪物が現れるまでの事件の発端からいちいち語られてクライマックスでようやくモンスター登場とかそんなのはザラだった。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』では事件の経緯などすっ飛ばして、冒頭からヒロインたちがゾンビに襲われる。どうしてこうして死体が蘇ったかなんて全然わからない。観客も登場人物たちと同じようにいきなり不条理な恐怖空間に叩き込まれる。今でこそ冒頭からクライマックスに突入するような疾走感のある映画は増えたけれど、1969年の時点でこれは凄いとしか言いようがない。「低予算のB級映画なので、どうせいちいちストーリーなんて観てくれないだろうから即物的な展開に」ということでこうなったらしいが、またしてもコロンブスの卵だったわけだ。もちろんロメロの演出が冴えていて、即物的な展開のわりに、内容的に全く破綻を見せないからこその偉業ではある。「説明パートをすっ飛ばす」ことによって、副産物としてミステリー性とスケール感すら生み出してしまった。もちろんこれもロメロ監督の丁寧な演出あってのことであることは忘れてはならない。
3.一種のアクションサスペンス映画と言って良いほどアクションとサスペンスが連続してあること。
これも2の展開の速さの副産物ともいえるかもしれないが、冒頭から物語が転がりまくったおかげで、全編に渡ってアクションとサスペンスが交互に訪れるという「馬鹿にも飽きさせない映画」になっていた。「生きている死体」というモンスターも、基本的には安くあげるためのそこらのノーメイクのおっさんたちなので、特殊な能力をもっているわけではない。だから彼らとの攻防が掴み合いとか殴り合いみたいなアクション性の高いものになっているのは怪我の功名だろうか。怪奇映画というもののオカルトめいた呪いとかで死ぬみたいな茶番は一切ない。どれもこれも実際に画面で展開する物理的なアクションであるし、あとは爆発や銃撃シーンなどであって要するに怪奇映画にあるまじき派手な映画なのだ。スピーディーなストーリー展開と派手に動く画面という低予算のハンディを感じさせないスカッとする映画ともいえる。(もちろんスカッとするだけの単純映画ではないことは内容を知っている方々ならご存知かとは思うが…)
とにかく、そんなわけで、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』という映画は、小屋に立て籠もった登場人物たちが、敵の襲撃に対抗することに終始するというスリルに満ちたアクション映画という側面があるのだ。ウケないはずはない。
4.残虐性やインモラルな要素が強いこと。
蘇った死人が人間の肉を食うという設定がそもそもきわめて残酷な設定だし、映画のタブー意識を軽くぶち壊している。吸血鬼が女性の首筋に噛み付いて血を吸うなどといった設定とはわけが違う。人間をバラバラにして肉片や臓物をもってウロウロする怪物が出て来るなんて映画は考えられなかった。
それと低予算というハンデキャップを打破しようと、当時の映画の様々なお約束をぶち破っているから全く先が読めない映画になっていた。ヒロイン、若いカップル、幼女など、生き残りそうな人物が生き残らない。ヒーローは白人と相場の決まっていた時代に黒人青年が主人公。そしてアクションとかサスペンス映画の主人公というのは普通は間違いを犯さないものだが、この映画においては常に裏目ばかりを引いてしまう。
5.スケール感の大きいSF的な設定。
低予算で上映時間も限られているなかで、極力説明しないという手法を使ってはいるが、時折出てくる断片的な描写でうまくスケール感を出している。例えば、主人公たちはラジオやテレビ放送などで、死体が蘇ってくるという事件がアメリカ全土で発生していることを知る。なにやら宇宙開発に絡む事件ではないかと推測されるようなニュースが流れる。しかし劇中での描写はそれっきりだ。あとは最後に登場する警察隊や自警団くらいであるし、画面内で起きることは予算の範囲内で限定されているが地球規模のスケール感だけはやたらある。画面を限定することで安っぽさがあまりない。これは現代に至るまで様々な低予算映画に流用されまくっている演出法だと思う。また、登場人物がわからないことは、わからないままにほっておくというのも、嘘っぽい説明を加えるよりもかえってリアリティを醸し出していた。予算の無さをドキュメンタリー形式にすることで対処してしまうというのはわりとコロンブスの卵だった。
以上が長くなったが『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』 の革新性と面白さの理由だった。この映画について語りだすといくらでも語れるのでこのあたりにしておく。
さて、それを踏まえて『ゾンビ』(77)はどこが凄かったのかをいよいよ分析していく。ちなみに日本やイタリアや様々な地域において『ゾンビ(Zombie)』として知られているこの作品だけど、アメリカ本国の正式なタイトルは『ドーン・オブ・ザ・デッド』となっている。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は夜だったので、それに対して夜明け(Dawn)という流れになっている。タイトルで時間の経過を示唆しているわけだ。
日本では『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は白黒映画というハンデキャップなど色々の事情で未公開になってしまっていたので、前作との関連性のわからないのもあって『ゾンビ』という直球のタイトルが与えられた。だから日本人にとってロメロ流の「ゾンビ映画」は『ゾンビ』が初体験ということになる。(厳密にいえば『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のフォロワーである『悪魔の墓場』が先に公開されていたり、やはり日本未公開だった『地球最後の男』のリメイクである『地球最後の男オメガマン』が公開されていたりしたが、文脈のわからない日本人にはあまり理解されなかったかと思う。公開当時に観た人の感想を読んだりしてもやっぱりそのようだ。話が長くなりすぎるのでこのへんにしておくが…)
そう、まず『ゾンビ』が凄かったところ。それはテクニカラー方式の全編カラー映画だったことだ。そういうところから始めたいと思う。
1.カラー映画であること。
「『ゾンビ』は1977年の映画だからカラー映画なのは当たり前でしょうが!」とおっしゃる方も多いかもしれないが、1969年の前作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が白黒映画だったことを考えれば凄まじいパワーアップだった。なぜ前作が白黒映画だったかといえば、やはり低予算映画だったのが理由になっている。単純にカラーフィルムが高いのと、白黒だと特殊メイクなどの誤魔化しがやりやすかったからだ。それがゆえに『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は傑作になった面もあるが、一方で白黒がゆえに配給やテレビ放映が限られてしまったのも否めない。現に日本には配給もされずテレビ放映も無かった。しかし続編かつリメイクともいえる『ゾンビ』ではメジャー映画としてテクニカラーの映画にアップグレードされた。イタリアのダリオ・アルジェントが協力して出資者を集めてくれたからだ。その代わりイタリアを含むヨーロッパ・アジア地域の配給権はアルジェントに委ねられた。だから日本で劇場公開された時は、ダリオ・アルジェントとジョージ・A・ロメロの共同監督のイタリア・アメリカ合作映画として公開された。いまだに『ゾンビ』をイタリア映画だと記憶している人がいるのはそのせいだ。とにかく予算が増えてカラー映画になったのは、前作に対してただただアップグレードされた点なので、『ゾンビ』がより多くの観客に受け入れられる要因になったということは覚えておこう。あの名作がカラー化!てなもんである。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のカラー着色版というもあるが長くなりすぎるので触れないでおく。
2.いきなりクライマックスがわかりやすい。
『ゾンビ』はテレビ局から物語が始まる。死者が蘇って人間を襲っているというニュースを報道しているその中心である。そんな報道のさなかテレビ局の人間は次々といなくなる。主人公のフランとスティーブンもテレビ局から逃げ出す局員である。人類社会は終わろうとしているところから物語が始まる。前作と直接のストーリーのつながりはないけれど、あれからさらに事態が先に進んでいたのがわかる。もちろんかったるい経緯説明は抜きである。そこからはもうずっとアクションとサバイバルストーリーが展開していく。世界観もぐっとわかりやすくなって引き込まれてしまう。みんな冒頭から『ゾンビ』の虜になってしまったのだ。
3.アクションとサスペンスが単純に増強されたこと。
前作では予算の都合もあって、掴み合いとか殴り合いのアクションが多かった。主人公たちがもっている武器もライフルが一丁あっただけ。ところが『ゾンビ』は主人公の4人のうちの2人がSWAT隊員ということもあって、M-16アサルトライフルやら拳銃やらライフルやら銃器が豊富に出てくるし派手に撃ちまくる。前作にもちらっとだけ出た警官隊も出番が増えたし、州兵や荒くれ者の暴走族なんかも銃器や爆弾をふんだんに使う。当時としては考えられないくらい銃撃戦や爆発の多いホラー映画だった。というかこれはホラー映画なんだろうかと悩んでしまったくらいだ。アクション映画なんじゃないかと。
これの6年前に制作された『地球最後の男オメガマン』(71)は、たったひとり生き残ったチャールトン・ヘストンが、廃墟の町でミュータント相手にサブマシンガンやライフルを振り回して奮戦する映画だったが、まちがいなく影響を受けていると思われるし、もちろん『ゾンビ』のアクション性の高さはそれを凌駕するものだった。『ゾンビ』以降は「ゾンビ映画」と銃器というのは切っても切れない関係になった。今日のゾンビを射撃するアクションゲームなんかもその影響下で作られたものだ。ゾンビ映画という形のアクション映画を創造してしまったのだ。
4.残酷性やインモラルな要素も増強されている。
普通はメジャー映画になると、日和ったりおとなしくなってしまったりするもんだが、ロメロは『ゾンビ』に関しては全力で行った。今考えるとすごいことだ。例えば前作では子供ゾンビが母親を殺すというショッキングな展開があったが、今回は子供ゾンビが単純に2体に増えていたりする。しかもM-16のオートモードで撃ちまくられて死んだりする。前作のゾンビはただのおっさんたちだったが、今回のはカラー画面で映えるように入念にグロくメイクされていたりする(もちろんただのおっさんも多数混じっているが)。特殊メイクアーティストのトム・サビーニが大活躍している。前作では死人たちが人間の肉や腸なんかを食べているシーンが大変に衝撃的だったが、今回はそういったシーンが増えているうえに、生きたまま身体を食いちぎられたり、腹を引き裂かれてしまうというような、もっと衝撃的なシーンが展開する。しかもカラー画面で。どこまでも突っ走ったロメロ監督偉いという他にない。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の100倍位の衝撃を全世界に与えてしまっている。
5.予算が増えたぶんスケール感も単純増強されている。
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は蘇る死体から逃げて田舎の一軒家に立てこもって戦うという話だった。低予算なので田舎の狭い範囲から一歩も出ない話ではあった。そのリメイクたる『ゾンビ』はアメリカが崩壊する中、ヘリコプターで逃げ出した男女が、あれこれと旅を続けたあげくに巨大ショッピングモールの屋上に着陸して、ショッピングモールに立て籠もり、蘇る死体の大集団や、武装した略奪者たちと戦うという話だ。とんでもないスケールアップである。
田舎の一軒家ですら面白かった立て篭もりサバイバル劇の舞台が、巨大ショッピングモールになるのだから面白くないわけがない。なにしろ様々な商店やスーパーマーケットまで備えたモールである。スーパーの食料品取り放題、服や宝石なども取り放題という夢のような自給自足生活が始まったりする。今までの映画でこのようなワクワクする描写のあったものといえば、やはり『地球最後の男オメガマン』ではデパート内のスーパーマーケットで食料を取り放題というシーンがあった。『ゾンビ』はそれをさらに発展させたものといえる。だから現代のゾンビ映画的なサバイバルアクション系統の作品ではかなりの確立でスーパーやコンビニで商品取り放題みたいなシーンを入れてくるようになった。しかもアメリカのモールなので銃砲店まであるので激しいドラマの予感しかしない。
また、ショッピングモールにたどり着く前にも、プエルトリコ人アパートでの銃撃戦や、田舎の滑走路での戦いなど、場面転換が激しい。モールも巨大だけどさらにトラックターミナルに移動したりと、田舎の一軒家から全く動かなかった前作と打って変わって世界の広がりを見せつけてくれる。予算が増えたぶん、普通にサービスしてくれるロメロ監督はやっぱり最高だった。『ゾンビ』という作品に取り憑かれた人が無限にいるのも理解してもらえると思う。
6.ラストの後味が悪くない。
アメリカン・ニューシネマというムーブメントがあって、アンチハリウッド映画としてハッピーエンドでは終わらない映画がかっこいいみたいなのがあった。たぶん時代的に『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(69)もそのムーブメントの影響下にある作品で、『ワイルドバンチ』(68)や『イージーライダー』(69)ばりの全滅エンドを迎えてしまう。時代性もあってそれはそれで同作の評価を上げているところでもあるし、ホラー映画としての怖さもあるのだけど、メジャー映画やアクション映画としてはスカッとしたところが欲しいのは確かだ。だから『ゾンビ』のラストは物悲しさもあるがわりに希望も感じさせる爽やかな終わりになっている。まさにナイトからドーン(夜明け)といった感じだ。手放しのハッピーエンドではないにしろそれなりのカタルシスがある。
もともとは全滅エンド案もあって一度は撮影されたが、結局メジャー映画だからということでそういう終わりに変更されたようだ。ロメロ監督の判断は正しかったと誰もが思っているはずだ。だけど後の「ゾンビ映画」においては全滅エンドみたいなのが半ばお約束になってしまっているのも事実で、それは『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の影響がそれだけ強かったことを示している。ロメロ監督の盟友スティーブン・キングが書いた小説『ミスト』も、キング流の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』オマージュだったりする。だから映画版のときに騒がれたようなショッキングなオチになっていたりするのだ。
7.音楽など演出もパワーアップ。
『ゾンビ』は制作費を捻出するためにイタリアのアルジェントの協力を仰いだ。その縁でアルジェントにイタリアのプログレッシブ・ロック・バンドのゴブリンを紹介してもらう。アルジェントが編集したイタリア公開版はすべてのサントラをゴブリンが作曲している。北米で公開されたロメロ監督編集版も、メインテーマに関しては繰り返し使っている。おかげでアクション映画としてきわめて軽快な映画として仕上がった。だからみんなゴブリンも込みで『ゾンビ』ファンになっていったのだ。挙句の果てに『ゾンビ』から逆算して『サスペリア』なんかのサントラを買ったりしてるうちにゴブリンファンにもなっていったのだ。それとロメロ監督の映画には『マーティン』(77)から参加するようになったトム・サビーニの存在も大きい。ゾンビの特殊メイクアップは格段の進歩をしていた。これも予算相応のパワーアップといえる。トム・サビーニは『ゾンビ』ではスタントマンをやったり暴走族軍団のひとりとして役者出演までこなす大活躍である。トム・サビーニは続編の『死霊のえじき』(85)でもゾンビメイクをするし、ロメロ監督のメジャー作『クリープショー』(82)『モンキー・シャイン』(88)なんかにも参加してるし、しまいには『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド死霊創世紀』という一作目のリメイク版の監督までしてしまうのだけどそれはまた別の機会に。
8.バージョン違いなどマニア要素が異様に高い。
ダリオ・アルジェント編集版という話をしたが、ご存知の通り『ゾンビ』という映画は大別すると、ダリオ・アルジェント編集のイタリア公開版と、ロメロ監督が編集したアメリカ公開版と、アメリカ公開版にさらにカットシーンなどを付け足して編集を加えたディレクターズカット完全版の3種類がある。さらに日本劇場公開版はイタリア公開版をベースに変な編集を加えていたり、さらにそれのテレビ公開吹き替え版など、細かいバージョン違いがいくつもあるのだ。もちろんどんな映画にもバージョン違いはたくさんあるものだけど、ここまで追求された映画もなかなか無いと思われる。しまいにはイタリア公開版とディレクターズカット完全版のお互い足りない部分をつなぎ合わせて150分を超えるバージョンが勝手に作られたり、3時間を超えるラフ編集版を観たいなどと願うようになったりしてしまうのが『ゾンビ』オタというものだったりする。『ゾンビ』の底なし沼というやつだ。そういう深い追求に応えてしまう要素がこの映画には間違いなくある。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』にはさすがに無かったところだ。
以上が『ゾンビ』がいかに凄い続編だったかの説明である。長くなりすぎたかもしれないが付いてきてくれる人はついてきて欲しい。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』では小さい波だったゾンビ映画ブームが、『ゾンビ』という優れたリメイク作品のせいで、乗るしかないビッグウェーブになった理由が少しでも理解していただけたら幸いである。それには色々の幸運もあったと思うが、なによりもロメロ監督のこだわりが偉大すぎた。死人が生き返るようになった世界で、ショッピングモールに立て籠もって生活するという世界ははっきりいってディストピアであるが、みんなこれに強烈に憧れをもってしまったのが凄いことだと思う。今に続く映画やらコンピューターゲームやらも、いまだに『ゾンビ』の世界観を再現しようと必死になっている。
僕は劇場でこの映画を観た世代ではなかった。日本で『ゾンビ』が公開されたのは1979年だったので当時は6歳。なんとなくゾンビっていう怖いのが流行ってるなと感じた程度。実際に目にしたのはテレビ放映が最初だった。世の中にこんな面白い映画があるのかと思った。そもそもホラー映画とかいう類は子供の頃の僕は大嫌いだったのだ。なにしろ記憶しているなかで最も古い映画館の思い出はダリオ・アルジェント監督の『サスペリア』だった。これが1977年公開だから4歳ということになる。これが怖くて怖くて仕方がなかった。だから基本的にはそれがトラウマになってホラー映画は苦手だったはずなのに、『ゾンビ』があまりにも面白すぎて、気がつけばホラー沼にハマりきってしまっていた。『バタリアン』(85)なんかも勿論ドハマリしたし、『サンゲリア』(79)『死霊の魔窟』(80)『ゾンビ3』(81)なんていうフォロワー作品を通じてイタリアホラー映画にもどっぷり浸かりきってしまっていた。あれほど忌み嫌っていたはずの『サスペリア』なんて大好物になっていて、アルジェント監督の映画もほとんど観てしまっていた。
僕ひとりにとっても、やはりロメロ監督の影響力はすごい。亡くなったきっかけで考察してみたけど、どんな映画監督よりもジョージ・A・ロメロ監督が一番だったと思う。
むちゃくちゃ長くなってしまったがやはり『ゾンビ』の続編の『死霊のえじき』についても語りたいので今回のは中編としておいた。今度こそはもうちょっと短くまとめたいと思っているがどうなるかはわからない。
<前編>
<後編>
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バージョンの多さも『ゾンビ』の魅力であって、みんなどれかしらお気に入りの一本があるものだ。僕はアメリカ公開版が一番好きだが、同じアメリカ公開版でもソフトによって微妙にカットが違ったりする不思議もある。
ゾンビ映画の方法論を別のパターンに使った初期の傑作アクションスリラー。リメイク版も作られたがそちらはいまいちだった。やはりロメロ監督のセンスには及ばない。
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原作ではなくてノベライゼーション。劇中で語られなかった設定なんかも、シナリオに基づいて語られるのでゾンビオタは必ず読んでおきたい。日本語翻訳を出してくれたABC出版には感謝しかない。