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『男はつらいよ お帰り 寅さん』を観てつらかった話をする!?

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寅さんシリーズを劇場で観る!それも最終作であろう作品を!

 

寅さん映画といえば、かつて昭和後期のお正月の風物詩だった。最初はお盆と正月に公開していたものが、さすがにキツいということでお正月だけ公開の映画になって生成を迎えた。それでも毎年やってたのは凄い話だし、毎年観に行っていた人たちも凄かった。

 

渥美清がまだ生きていた頃。僕は寅さん映画にまったく興味のない人類だった。親父がテレビで見てるのをぼんやり見てる程度。「とらや」の面々とのやりとりなどは子供心にもそれなりに楽しかったが、旅先でのマドンナとのなんだかんだの話になると、恋愛経験のない子供は飽きて自分の部屋に帰ったりするのが定番。だからちゃんと『男はつらいよ』を通して見た事とかは無かったわけだ。ましてや映画館で観るとか考えられなかった。なんでこんな毎年やってる変わりばえもしないストーリィの映画を、わざわざ劇場まで行って観る奴がおるねんと。いくらなんでも、あれは時代遅れじゃないかと思っていたし。男はつらいよの最終作が1995年公開だから、当時の僕は20歳を超えたばかり。普通その歳までで、寅さん映画を楽しみにしてる人間はあまりいないから無理なからん話。ちなみに『トラック野郎』シリーズはわりと好きで、テレビでかかってたらよく観ていた。あれは子供受けが大変に良かった。

 

そして月日は流れ、二年ほど前だか、Amazonプライムビデオで『男はつらいよ』全48作品の配信があった。あいかわらず寅さん映画なんか興味がなかった自分だが、年齢だけは当時の『男はつらいよ』を超楽しみにしていた人たちと変わらん歳になっていた。そういうのもあってなのか、全48作品が無料という圧倒的なスケールのお得感に突き動かされたのかは知らないが、「どれ、1作目から順に観ていくか…」とか思ってしまったのだった。そして第1作目から観る。ああ、こんな話だったのかと。いや、でも結構ストーリーには覚えがあった。なんだかんだで、テレビ放映を無意識に観ていたのだろう。でもキチンと一つの映画として通して観ると非常に面白かった。そもそも1969年の夏に公開なので、その頃の風景がばっちり映ってるのがたまらない。僕が生まれる何年も前の東京の景色。そして各種の風俗、行き交う人々。こんなだったのかと感慨深い。

 

寅さん映画とは、僕が生まれる前、そして子供の頃に見た過ぎ去りし時代の風景が、年代ごとにきっちりとスクリーンに刻み込まれた稀有なシリーズだったのだ。それだけでもたまらんのに、ドラマの方もまた面白い。そして主役の寅さんというキャラクターの完成度の高さも、40歳を過ぎてやっと理解できたのだ。これは子供が観てもわからないのは仕方がない。さすがに子供だと圧倒的に経験が足りて無いもの。

 

寅さんの魅力は一言でいうと「あまりにもリアルすぎるやっかいおじさんが映画の主役をはってる」だった。寅さんみたいな人は東京の下町だけじゃなくどこでもいるし、僕の住んでる関西にもたくさんいる。北海道から沖縄までいるし、おそらくだが海外にも沢山いるのだろう。世間や家族と上手く折り合えない人たち。ややもすれば現代では人格障害と診断されかねないような言動をとる人たち。こんな人たちを沢山見てきた気がする。寅さんは極めてリアルに、そういう人たちの立ち居振る舞いを再現していた。娯楽映画でここまでやっていいの?と心配になるくらい。

 

寅さん映画の物語というのは、寅さんの「生きにくさ」がテーマだ。悪気はなくとも、どうしたって社会からはじき出されずにはいられない認知の歪み。寅さんが良かれと思ってやったことで必ず騒動が起きる。これが寅さん映画の永遠のすべての軸になっている。これは他人事ではなくて、『男はつらいよ』の観客だって、寅さん的な「生きにくさ」は大なり小なり抱えているわけだ。僕にしたって「生きにくい」のは変わらない。ギリギリのところで寅さんにならなくて済んでるだけだ。そんな生きにくい男が主役の『男はつらいよ』が、じゃあなんで陰惨な社会派映画にはなってなくて、どことなくホンワカ気分の物語として観れるかというと、寅さんがいつでも戻れる「とらや」の実家としての太さと、超人的なまでの家族の愛情があると思う。寅さん映画は現代を舞台にした「貴種流離譚」になってたと思う。寅さんは見かけはボロなヤクザだけど、柴又の帝釈天すぐそばという好立地の老舗団子屋の先代の御落胤という立場なのである。

 

寅さん映画を観る人は多かれ少なかれ寅さん的な生きにくさを抱えてたりするし、下手したら寅さんそのものの人も多かったんじゃないだろうか。そういう人にとっての「とらや」は憧れの異世界に近い存在だった。「寅さんは良いよね〜ああいう生き方に憧れるよね〜」とかいうおじが偶にいるが、完全に勘違いをしていると思う。あなたが憧れているのは寅さんではなく寅さんの家族だから。朝起きて顔や性格が寅さんになってたら嫌すぎるが、「とらや」が自分の実家である異世界に転生をしたい恵まれていない人たちはたくさんいると思う。

 

つまり、「主人公たる寅さんは圧倒的にリアル!」で、「舞台になる『とらや』や周囲を固めるおいちゃんおばちゃんさくら博は圧倒的なファンタジー!」なのだ。この組み合わせが『男はつらいよ』シリーズの魅力の柱かと思う。そんなこんなで、僕は寅さん映画にハマっていったのだった。

 

ものすごく前置きが長くなったが、そういうわけで寅さんの初期のシリーズは順番に見ていって、寅さんの設定とか世界観の知識を深めていった。さすがに48作めまでは未だたどり着いてないニワカだが、それなりの思い入れは出来てきたので「寅さんの新作があるなら一度スクリーンで観てみたい!おそらくこれがラストだろうし…」となっていた。

 

最初で最後の『男はつらいよ』の封切り待ち体験。そりゃまあ渥美清が亡くなってからの無理矢理な続編だろうから、多少つまらなくても構わない。とにかくスクリーンで新作でパァーパパパパパパパパパァ〜〜〜チャラリ〜ラ〜なんて主題歌が流れてタイトルが出ただけで泣ける自信はついている。それだけで見れば満足できる筈だった。筈だったのだ……。

 

何も情報を仕入れずに劇場に行った。レイトショーでガラガラ。さすがの寅さんとはいえ、お年寄りには遅い時間はキツいのか。ガラガラなのはしょうがないかなと思いつつ上映を待つ。数人だけいる客はあきらかに高齢者。そのなかで下手したら自分が一番若手かもしれない。そして上映が始まる。恒例の夢のシーンは、寅さんに代わって主役をはるらしい諏訪満男が観る夢となっている。で、いよいよ来た。オープニングだ。「あ!桑田佳祐が主題歌を歌ってる!」桑田佳祐が歌うというのだけは予め知っていた。まあ、オリジナルの味わいは無いにしろ桑田佳祐も音楽のプロである。それなりのものは聴かせてくれるのかなと。しかしオープニングが始まって予想の斜め上というか、度肝を抜かれた。桑田佳祐の歌声…うーんやはり桑田佳祐は桑田佳祐全開でしかなく微妙だなあと思ってたら、なんとあの江戸川土手に桑田佳祐自身がいるのである!しかも寅さんのコスプレをして!寅さんのコスプレをした桑田佳祐が気持ちよさそうに歌っている!どういうことだこれは!?

 

お馴染みのオープニングで泣く泣かないどころの騒ぎでは無くなった。かわりに普通に泣きたくなった。歌ってた主役俳優が亡くなってるんだから、別人が起用されるのは構わない。本当は録音を使えよという話だけど、新しいイメージに挑戦するのは悪くないだろう。でも、歌ってるそいつが画面いっぱいに出てきて、しかも寅さんコスプレして熱唱するオープニングの意味はなんなんだと。これじゃ桑田佳祐のPVやん。本当にPVにしか見えなかった。桑田佳祐が主題歌を歌うのは良い。それのPVがいつもの土手で寅さんの格好して熱唱する桑田佳祐で、映画の出演者もチラホラ登場する。それも構わないというか、むしろ映画の主題歌になった曲のPVやMVはそういった手法をとられることが多い。でも本編にそういう映像を組み込む趣旨は?何を狙ってやったのか理解できなかった。『男はつらいよ』のOPとして、桑田佳祐のPVをハメこむことが、アリかナシかといえば圧倒的にナシだろう。いちばん盛り上がるところのはずだったのに、むちゃくちゃに盛り下がった。

 

ストーリーは、小説家になった諏訪満男が、実家のくるまや(旧とらや)に亡くなった妻の法事で帰るところから始まる。名もしれない満男の妻とかどうでも良くて、とらやの面々がどうなったかは熱心なファンからしたら最も関心のあるところ。旧とらやこと、くるまやは何とカフェーとして営業してる。どういうことなんだと。おいちゃんとおばちゃんは故人。これは寅さんと同じで俳優さんが亡くなってるから仕方がない。じゃあ寅さんはというと、どうなったのか誰も言及しない。渥美清が亡くなってる以上は生きては無いのだろうが、映画の中ではどこか知らないところで野垂死したらしく、あれだけ毎年帰ってきてたのに、二十年以上帰ってきてないままになってるらしい。まあまあ納得できる設定ではあるだろう。

 

最初の1作目も二十年帰ってこなかった寅さんが帰ってくるようになってからの騒動から始まるし、それから二十年以上帰り続けて、またぱたりと二十年以上帰って来なくなってそのままになってる。綺麗なオチにはなってると思う。奄美大島にハブでも取りに行ったのかもしれないし、現実通りガンで倒れたのかもしれない。

 

さて、満男の妻の法要が始まるのだが、ここに御前様がやってくる。歳はとりたくないねえとか言いながら。意味がわからなかった。1作目から御前様を演じた笠智衆は93年に亡くなっている。そのまま亡くなった設定で良いはずだ。調べたらシリーズ46作目で、登場シーンは無いものの、セリフで生きてる設定になったままらしい。だもんで、今作でも2代目俳優を立てたということだろうが、無理がありすぎる。笠智衆が生きてたら115歳とかになる。「歳はとりたくないねえ」とかいうレベルじゃないだろう。リビングレジェンド住職として世界で話題になるはず。だから冒頭で御前様がチラッと出てくるのは意味が無さすぎる。演出意図が分からないのだ。それから、熱心なファンの知らないところで、くるまやが団子屋からお洒落なカフェーに生まれ変わってるのも意味がわからない。誰に断ってそんな改造をしたんだと。

 

2019年の時点で、とらやのモデルになった亀家本舗、高木屋、門前とらやの3店舗は健在だそうだ。寅さん映画におけるくるまや(旧とらや)は、それらのお店に負けてしまったということか。高木屋なんかたびたび映画に映り込むし、今回もスクリーン上で元気に営業している様子をアピールしているのに。これが山田監督が思う2019年という時代の切り取りだとしたら相当ズレてる。柴又なんてノスタルジーを売りにしまくった土地じゃないか。くるまや(旧とらや)なんか今や貴重なコンテンツになってるはず。しかも駅前には寅さん像が建ってて、男はつらいよ記念館まである時代だ。……これがいけなかったんだろうな。寅さん映画の世界とこちらの世界との唯一といっても良い違い。キャラクターが実在しないとか、とらやが実際は無いとかそういう当たり前なことは抜きにすれば、『男はつらいよ』の世界と現実を隔てる壁は、『男はつらいよ』の世界には『男はつらいよ』という映画シリーズが存在しないことなのだ。だから寅さんも渥美清も、どこいっても有名じゃない。寅さんが寅さんとしてチヤホヤされるのは柴又界隈だけなのだ。

 

シリーズ48作目までならばそれも大した問題ではなかったのだが、最終作になるはずだった48作めから2年後に、寅さん記念館が出来たのが不味かった。1999年には寅さんのブロンズ像まで出来た。2017年にはさくらの像まで。べつにこれが悪いわけじゃなかったのだが、もう寅さん映画は打ち止めだという前提があっての行為。まさか2019年に新作があるだなんて誰も思ってもなかった。時代時代の柴又の風景を切り取ってきた寅さん映画にとって、寅さんとさくらの像があって寅さん記念館が客を集めている柴又の様子を無かった事にしてしまうと、パラレルワールドへ加速をつけて突入するしかなくなる。銅像が映らないよう工夫された柴又駅前の撮影の苦しさったら無かった。もちろんこれだけが問題ではないのだが、それによってタガの外れたかのような荒唐無稽な映画になってしまったような気がしないでもない。

 

はっきりいって、この作品からは2019年の匂いがまったくしない。映画としての段取りから展開から物語から、ただよってくる90年代後半臭は一体何なんだろうか。この作品の撮影自体は2019年ではあるが、監督の頭の中は49作めを撮るはずだった永遠の1996年のままだったのかもしれない。満男がマンションでパソコンで原稿を打っている姿、娘とのやりとり、編集者との打ち合わせ、すべてに2019年が見えてこない。96年あたりの映画と言われれば納得してしまう。満男がサイン会をしている大型書店。そこで本を物色しているゴクミの姿を見ても、たしかにそこは2019年の某書店で撮影されたものなのだろうが、画面を通して出てくる90年代後半感はなんなのだろうか。カメラを通してすべてを96年あたりにしてしまう恐ろしいフィルターがそこにある。

 

今回のマドンナであるゴクミは、外国人と結婚して家庭をもち、長年にわたり国連職員かなんかで活躍してきたキャリアウーマンとして描かれている。けど、ぜんぜん2019年風の独立した女性に見えない。国連の活動報告もなんだか紋切型でもっちゃりしてるし、スライドショーでもやってるようなノリがある。何十年かぶりに満男とゴクミが再会して、実家の車屋の住居部分に招かれて鍋パーティーとかする。そして「二階片付けといたから泊まっていったら?」とか言われる。今の時代、世界を飛び回ってる国連女性職員が、宿も確保せずに、着の身着のままでふらっと来ますか?葛飾柴又に?日本滞在中は同じホテルに連泊してるに決まってるやん。最初からスケジュールを組んで動いてるんだから。どんな昭和ストーリーやねんと。

 

まあまあ、そこは二百歩くらい譲って、いまや昭和脳のおばあちゃんであるさくらが、昔の感覚で良かれと思って勧めたものであって、ゴクミもその好意を無駄にしたくないからこそ、あえてホテルには帰らず泊まっていったと解釈することも可能ではある。あるが、そこあとがいけない。鍋会が終わってさくらが後片付けする。率先して片付けを手伝うゴクミ。「やっぱり良いムスメさんやね」とそれを見てる博と満男。葛飾柴又クオリティーではそうなのかもしれんが、世界を飛び回ってる国連ゴクミがすることか!?しかも海外生活が長くてすっかり外国語イントネーションになってるゴクミなのに、日本の田舎や下町の男尊女卑ムーブ対応!?しかも自分が泊まる二階の部屋の布団を敷く手伝いも私がしますから、とか言ってる!?2019年の視点で見ると、いろいろと頭が混乱してくる演出だったといえる。それもゴクミが空気を読んでそうしてたといえばそうだし、「外国に長くいるとたまには畳で布団で寝たいものよ?」という意見も個人のものであるからどんな意見でもアリだとは思うが、古い価値観に忖度する度量を示すというシーンでも別になかったりするから、山田が本気で「昔ながらの価値観の女性の素晴らしさ」を称えるために演出したシーンにしか思えない。これ見るような年寄りが大好きなノリだ。そこには2019年の時代性もなにも見えてこない。

 

そんな感じで、最後までこの映画には見るべきところがほとんどなかった。かつてあんなに名作を撮ってきた山田とは思えない耄碌した内容だった。今作の意義があるとすれば、寅さんの死やさくらたちのその後を確認できたことと(しなくても全く問題はないにせよ)、あとはせいぜいスクリーン上で名場面集が観れたということくらいだろう。

 

最後は寅さん映画には珍しくエンドロールがあって渥美清の歌が流れる。オープニングでフラストレーション溜まってる観客に対して、エンディングで本人による主題歌が流れることで溜飲が下がる仕組みだが、やはり強引に作られたフラストレーションにすぎないのだから楽しくもなんともない。『アナと雪の女王』のような主題歌の歌手が違うことによるような効果は望むべくもない。劇中で最初に主題歌を歌っていたエルサ(イディナ・キム・メンゼル/松たか子)はそもそも主役の1人である。桑田佳祐はこの世界にとって何なのだという最初の疑問に立ち戻るわけだ。

 

さくらがスマホを取り出してポチポチするシーンが一箇所だけあって「あ!?そういえばこれ現代劇だった!?」と思ってしまった。本当に悲しい映画(シャシン)でしたよ。まさか続編はもうないでしょうねえ!?

男はつらいよ HDリマスター版(第1作)

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  • 発売日: 2014/12/17
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