渋谷区、同性カップルに証明書 条例案「結婚に相当」 :日本経済新聞
日本では行政はこういうことには後ろ向きであると思っていたらまさかの渋谷区。テレビに昔からオカマキャラが出てたりして、同性愛者に寛容なようで、実は社会的には厳しいという現代日本においては革命的な前進だと思う。
新宿2丁目がある新宿区ならわかるのだけどなぜか渋谷区に理解があった。詳しい経緯は知らない。
けれど、それに対して強烈な反対デモがあったようだ。
日の丸が林立するなかで、反同性愛を声高に叫ぶ!
何人集まったのかは知らないが、時代錯誤というか、ものすごい絵面である。いつの時代でも差別というのは恐ろしいが、これが現代ニッポンの姿なのかと思うと身震いがする。どこのカルト宗教団体やねんと思ったら「頑張れ日本!」という右翼団体が主催していた。田母神とかがいた安倍政権ともつながりの深い団体である。
そういう変な団体のやっていることなので、深く理解するのも不可能なのだけど、それでもやっぱり不可解なのは、何で同性愛のパートナー制度ごときを、それほどまでに敵視しなければいけないのかということ。
ホモが嫌いだから。
たしかにそれは理由としては深く理解出来る。ホモフォビア。
KKKなど黒人差別団体などもそうであったように、「嫌い」だから制度として導入されたくない、ゆえに必死に反対運動する、というは人間としての原始的な欲求なのだろう。
でも単純に「俺はクロンボが嫌いなんだよ。見てると虫酸が走る。だからクロンボの権利なんて認めねえ!」っていうて運動をする人というのは、よほどの腹の据わった差別団体でもなかなかいない。
同じように「俺っちはホモなんか大嫌いなんだよ!だから徹底的にあいつらの邪魔してやる!」なんておおっぴらに主張する団体もあまり見たことがない。個人単位ではいるにしても。
そこには何かしら単純嫌悪以外の「もっともらしい理屈」が付与されていて「○○■■…こういうことで、同性愛を認めることは皆様方の不利益に繋がるのです」などといった主張が展開されるものだ。
そうすると「そうかなあ?もしかしたら理屈としては同性愛者ってよくないかもなあ?」などと考えてしまうどっちつかずの人間も出てきてしまいがちだ。
何を隠そうこの僕だって「同性愛者差別の気持ちはゼロだけど、同性愛者を国が制度として積極的に認めると不利益もあるかもしれないなあ?」などと漠然と考えていた時期があったりしたのだ。今にして思えば「あれ?なんか不利益なんかあったっけ?」と首をかしげているが、もっともらしい理屈ってのは、なんとなくもっともらしく聞こえてしまう。とくに、あまり真剣に考えてなかったりすると、そういう考えがするすると頭のなかに忍び込む。
だからよく考えてみて欲しい。同性愛者のパートナーシップの制度というのは、使いたい人が使うだけで、使いたくない人には無関係の制度なのだ。それが何で自分の不利益と繋がるのか。
同性愛者でも何でもない男性二人(あるいは女性二人)が、ある日いきなりパートナーに指名される。自治体の職員が訪ねてきて「だって制度が出来たのだから、せっかくだからさっそく適用させていただきます」とばかりにパートナーを強引に紹介される。もしそのような無茶な制度だったら誰でも反対したくもなる。フォークダンスじゃあるまいし。でも実際はそうではない。
国や自治体が同性愛を推奨するような真似をして、それで出生率が下がったらみんなが困る?
たしかに、ユダヤ教やイスラム教など、サバイバルな環境下で生まれた宗教には、同性愛を敵視するような思想を垣間見ることがある。なんら生産性に寄与しないホモ行為は精神的に恥ずべきことと教えているように読めなくもない。海外のホモフォビアの根底にあるのはそういった宗教観だったりもする。だからフランスなんかでも同性婚合法化に反対でもが巻き起こったりした。
日本においてはユダヤ教やイスラム教の教徒というのはさほど影響力をもっていない。ではホモフォビアのベースにあるのは何だろうかというと、キリスト教ベースの欧米の価値観を強く意識するようになった、明治維新からのことなんだろうと言われている。
それまでは、例えば戦国時代なんかでも、宣教師のフランシスコ・ザビエルがカンカンになるくらいホモセックスが流行していた。それが文明開化の後、欧米のキリスト教先進国からしたら、ホモ行為は未開人の行為とバカにされていると知るやいなや、とたんにタブー視するようになってきた。諸外国から劣等国と見られてやしないかということを、明治政府は強く意識していたということだ。その価値観が今も生きているのだろう。
ちなみに、戦国時代を例に出したが、戦国時代といえば日本の歴史の中でもかなりサバイバル的な環境下の時代であった。やるかやられるかの時代。だとしたら出生率その他生産性の事を考えれば、ユダヤ教やイスラム教よろしく同性愛をタブー視する風潮が生まれてもおかしくないということになるが、実際はその逆で、戦国武将たちはせっせと同性愛に励んだ。
そりゃまあ考えてみれば当たり前なんだが、古代ギリシャ時代のスパルタなんかもそうだが、生きるか死ぬかの戦争の時代というのは、男たちの結束力や団結力というものが真っ先に要求されるのだ。そのためには愛情という要素があったほうが手っ取り早い。もちろん血のつながりというのも重視されるので、武将たちはホモ行為を繰り返す一方では、せっせと子作りにも励んだ。だから、ホモ行為ばかりに耽って、子作りの仕事を放棄するような殿様は「遊んでばかりで堕落している」と批判の対象にされたりもした。かといって女色に吹けるのは良いかというとそうでもない。いずれにせよ遊んでばかりいるやつは堕落者という思想。
じゃあユダヤ教やイスラム教はどうして違うのかという話になってくる。しかしこれについても、よくよく旧約聖書やコーランを読み込んでみると、「明確に同性愛を禁じてる箇所」というのは無いのかもしれないのだ。旧約聖書やコーランで戒められているのは、快楽のみを追い求めた性行為である。そいう性行為は秩序の乱れと堕落である。例えば「ソドムとゴモラの街の男色」というのは、子作りという大義名分もない、純粋な快楽の追求の果ての堕落の象徴としての男色である。これが女色であっても堕落である。その一方で、男性同士の純粋な愛情や結束ということを禁じるような教えはどこにも無かった。ダビデとヨナタンのエピソードなど、聖書にもそのような要素は多分に出ててくる。
とすると結局は、ユダヤ教やイスラム教といったって、戦国武将の感覚と同じやん、と思われる。
だから今では、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教でも、頭ごなしに同性愛差別は良くないのではないかと考える人が大勢いるわけだ。ローマ教皇だって同性愛を認める発言をする時代だ。
そもそも出生率が下がるから困るという考えが噴飯物だった。だってそもそも国とか政府というのは、相互扶助的な組織であるべきだ。子作りや子育てということを支援するのは、国民が減っていけばそれだけ組織として弱くなって、様々な障害に対する耐久性が無くなっていくからだ。病気や怪我に対するサポート体制にしたってそうだ。その中で「結婚しない人同士が助けあって生活していきます」っていうことに意義を唱える意味がどれほどあるのだろう。
自分たちでくっついて支えあうといってるのに無理に引き離して何になる?子作りでも始めるとでも?あるいはそうかもしれない。しかし今は同性愛者でなくたって独身者が数多くいる。同性愛が非国民的な行為であるというなら、同性愛ではない独身者は何だというのか。
いずれにせよ、生き方の多様性が求められている現代社会で、同性愛という生き方の選択を、単なる性的嗜好でありソドムとゴモラのような自分勝手な堕落者であると差別するのは、他者に対してあまりも不寛容すぎやしないか。性的に抑圧された者たちの考え方だ。
というか、ソドムの街を滅ぼす際にしたって、ロトに対して神様は約束した。
「正しいものが10人いれば私は滅ぼさない」
気まぐれで大洪水を巻き起こして世界を沈めたり、バベルの塔を叩き壊したり、唐突にヤコブに徹夜の相撲勝負を挑んだり、エジプトに十の酷いことをしたあの神様だって、これくらいの寛容さは持ちあわせていたのだ。ソドムの街が滅ぼされたのはホモセックスをしたからではない。正しい人間が10人もいなかったからだ。なのになんで「同性愛者は国を滅ぼす!」とか叫んでいる人がいるのだ。そんな不寛容な人間や、他者に対する哀れみをもたない人間や、他人の気持ちを考えない人間が増える方が、国が滅ぶのじゃないか。
同性愛者カップルが、虐待されるダウン症の子供を引き取って育てようとするという映画『チョコレートドーナッツ』が2014年に公開されて話題をよんだ。この映画の中に出てくる人々は「なんかホモはキモいから」という理由だけで、彼らの子育てを妨害しまくった。その結果……。
こんな映画を見て「激泣きしましたー」って言ってる人の中に、よもや差別主義者はいないと思いたいけど……。