この記事を読んで思うところがいろいろあった。
銅像の撤去運動に違和感を覚える人というのは、大別してこの両者に分かれると思う。
「現代の基準で過去を裁くな」という人と「像には罪がない」という人だ。
1.記事にもあるように「現代の基準で過去を裁くな」論の人たち。
これは一度確定した偉人としてのポジションを崩すのを是としないというか、歴史を歴史としてではなく「物語」として認識し受け入れてしまってる人も、多分に含まれるのではないか。つまり「豊臣秀吉は百姓から成り上がって天下人になった」という世界観に子供の頃から慣れ親しんだ世代が、そのあと色々と史料を見聞して新発見もあり研究が進んだ結果、「秀吉は百姓の子とはいえないしそれなりの身分の武士の子やん」とかになってきても、「イメージが崩れるからやめて」とかなってしまう歴史観のアップデート拒否勢。
当たり前だが歴史というのは物語じゃないし、新事実が発見されたり解釈が変わったりするたびにコロコロと変わっていくものなのに、「俺の物語」から一歩も出ない人たちは往々にして頑なだったりする。武田信玄の肖像が昭和まで知られていた禿頭で髭の大柄の図じゃなくて、小狡そうな痩せた男の方が実は歴史的には本物だと言っても「そうは言っても、大柄な貫禄のある像を既に作ってしまったし、甲府の地元としては受け入れない」とかいう人たちが現れたり、司馬遼太郎の小説の中のイメージで歴史を語ったりしてしまう人たちが後を絶たなかったりするのはそういうわけ。
全ての人類に対して、「歴史を正確にイメージする行為と、歴史を物語として捉えることには明確に区別をつけろ!」と言っても難しいのは分かる。とはいえ、議論というのは常に事実ベースと、エビデンスに基づいて行わなければコンセンサスをとりようがない。主観を交えてしまうと余計な混乱を呼び込むだけだし、わけがわかなくなるのだ。うまい解決策が見つからないし困ったもんである。だから「自分の物語」を大切にする人たちには、こうした現実問題には割って入らないようにして欲しいとしか言えない。しかしそれはそれで排除的だし民主主義の思想に反するし何か悪い予感もする。
2.「対象の人物の評価がどうあれ銅像には罪がないし銅像の歴史を否定するのか」論の人たち。
ややこしい。たしかに銅像を建立したこともひとつの歴史的経緯だし、銅像だって歴史的建造物になってたりするし、なんなら美術的価値も出てきたりしている。それ考えると川に叩き落とすなんてのは、カーネルサンダース人形を道頓堀に叩き落とすより酷い行為に見えるのかも。これはこれで、「じゃあ注釈付きで博物館にでも移設しましょうね」と言えば解決のような気がするが、すべての銅像や石像を移設保管なんて出来るわけがないし、その場所にその像があることによって観光名所になってるみたいなこともあるだろう。
長年ずっとそこにあったものを破壊してしまうのは忍びないという気持ちは分からんでもないが、ここについても客観的事実を大事にするか、自分の中の物語を大切にするかの対立軸が見えて来るように思えてならない。歴史に誠意をもつなら、銅像の建立という歴史だって大事だが、その人が歴史上で何を成したのかという面にも誠意を持ちたいと思う。有名だからとか、ぼんやりした偉人イメージだけで讃えられるのは良くないと思うんじゃないだろうか。もうそれは宗教に近いし。せめて「過去に偉人として讃えられた経緯はあってこんな像があるけど、実際は奴隷制度で儲けた人なので尊敬できません」などという注釈はでっかく書いておきたい。でも余計にややこしくなるか。
デカい像はデカい像というだけで尊敬のアイコンになってしまっている。だから像というものは議論の対象になるのだ。やはり後腐れなく撤去が相応しく思うのだけど。いくら有名人だからって、例えばエド・ゲインの像とか宅間守の像とか地元に建てないでしょ。「彼らみたいな犯罪者と違って、像になってる人たちは、少なくとも当時は称賛されてた人らだから良いんだ!」と言い方をしてしまうと思考停止だし、認識のアップデートの妨げだろう。
こういうことをアレコレと考えつつ、じゃあ我が国ではどうかと振り返ってみれば、渋沢栄一が一万円札になるとかいうのを思い出して暗澹たる気持ちになった。渋沢栄一はなるほど日本では歴史的偉人だし有名人だ。しかし思いっきり戦前の価値観での偉人。戦後の価値観に照らし合わせたらとんでもないことをたくさんしてるし、両手をあげて現代で称賛できる対象の人じゃないだろと。昔からお札になってたとかなら仕方がないが(もしそうならそろそろ変えようという議論が出て良いレベル)、少なくとも2024年だかに選定されるのは「日本の価値観は戦前レベルから進歩してません」「もちろん戦争の反省もしとりません」と言ってるようなもんだ。
かたや、日本のあちこちに戦国武将の像なんかが建てられている。それもずっと昔の時代からあったとかではなく、わりと近年に建てたれたものが多い。NHK大河ドラマに合わせて建てられがち。NHK大河ドラマの戦国時代率は異常ともいえる。武士の話だけに区切ればもっと比率は上がるだろう。ドラマは娯楽だから何でも良いのかもしれないが、いちいち共感性の高い人物として描くために、歴史を捻じ曲げて伝搬させている点は気になる。そしてその度に武将の像は増えていくし、近年のゲームなんかの影響による戦国ものブームなんかも確実に後押ししている。2020年になって今川義元の像が静岡駅に建てられたとかいう話には驚愕するしかない。
個人的にいえば、戦国時代には詳しいので(幼少からのゲームや大河ドラマの影響!)、戦国武将の像には親近感は覚えるし、建ってたら見たり撮影してみたいという気持ちは人よりもたぶん強い。けど、なんか武将が偉人扱いされてるのは、さすがに違和感はある。戦国武将なんてのは今でいう武闘派ヤクザみたいな人たちだ。人の首を狩りとって天晴れと言われていた無茶な時代の人。現代の基準で言えば全くもって偉人ではない。清水次郎長みたいに物語のキャラとしての戦国武将と、歴史上の人物としての戦国武将は分けて考えた方が良いのに、その辺を厳密に区別せよというのは万人には不可能な話である。像になってたら偉いと勘違いしてしまいがち。だからもういっそのこと「ひこにゃん」みたいなキャラだったら罪がないのになと思うのだけど。
そうは言っても、柴田勝家像とか、黄金の織田信長像とか、見たらわけもなく興奮してきちゃうし写真も撮影してしまうのだけど。あくまで好きな人向けの像(ポケモンみたいな)として処理してもらいたいと思うけど、それじゃあ予算が集めにくいのか地域の偉人加工されがち。しかしNHK大河ドラマで明智光秀とか、さすがに違和感しかない。明智光秀も像が立ちまくり偉人扱いされていくのだろうか。2020年だというのに!
これを機に、明智光秀が実際はどんな人だったか詳しく勉強してみよう…だったら良いんだけど、物語としてのドラマを真に受けて終わりって人が多いんやろね、と考えると戦国時代好きとしても悲しいと思った。
像も「かつてこんな人がこの辺にいた」という感じで、正確な説明とともに建ってるだけならまあ良いのかもしれんけど。「かつてこの辺の荘園を管理していたが苛烈な取立てで反乱を起こされた人」みたいな像もあって、笑った記憶がある。さすがに名前すら覚えてないわ。(写真は敦賀駅前の日本書紀の人。とくに偉人扱いされてるわけじゃない)