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温玉ブログ

ブログで儲けるヒントは絶対に教えません。


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いまさら『キングコング西野絵本無料事件』を蒸し返して総括してみる

ちょっと前、キングコング西野が自分がプロデュースした絵本を、無料公開したことでものすごく叩かれていた。本屋さんでは2000円で販売している絵本だけど、買えない人のために、ネット上では内容を無料で読めるようにしますと。言ってみればただそれだけのことだけだ。マクドナルドがコーヒーの無料券を配るみたいなありふれた話である。ところがネット民(の一部)からは「キングコング西野は絵描きの仕事を奪う気か!」などと火の手があがる。はては、声優の某との直接の言い合いにまで発展したりした。(和解したんだろうか?)

 

僕はキングコング西野については全く興味の無い人間で、彼のプロデュースした絵本についても「無料でも読みたくない」というスタンスだ。なにしろネット空間には「無料のコンテンツ」が無限といっても良いほど転がっている。言ってみればこういったブログだって「無料のコンテンツ」のひとつだし、YouTubeなんか時間がいくらあっても全部みるなんか不可能だ。そんなかで、全く興味のないキングコング西野の絵本に割けるリソースは一切ない。なんか面白そうなニュースだなあと、彼の無料宣言のブログ記事だけを読ませていただいたが、それだけでもかなり付き合った方だといえる。アクセスにも貢献したはずで、なんぼかお礼を言ってもらいたいくらいのもんだ。いや、これは嘘だけど。

 

それでもわざわざ自分のブログで記事にしている理由は、キングコング西野という存在に興味があるわけではなくて、彼を叩く界隈についてものすごく興味を惹かれたからだ。というか、以前からそういう界隈について、感じる事があったという方が正確か。

 

キングコング西野を叩いている界隈というのは、いわゆる絵師と呼ばれるイラストレーターやら、マンガやら、アニメやら、そういった方面に携わっているか、またはそれらプロ・アマ問わずのクリエイターを信奉している人たちを示している。そういう人たちがすごく怒っていた。なんでそんなに怒るんだというほどに。

 

彼らの最初の主張は「無料公開したら、キングコング西野の絵本制作に携わったクリエイターたちの取り分はどうなるんだ。無責任だ」というのと、「絵本を無料にされたら、他のマンガとか、イラストとか、絵本とかが売れなくなる。自分勝手だ」というものだった。

 

なるほどと一瞬そう思わないでもないけど、ちょっと立ち止まって考えてみればおかしなところがある。

 

キングコング西野は多くのクリエーターを動員して絵本を制作したようだ。映画監督みたいな立場でクオリティの高い絵本を作ったとかなんとかそういう趣旨らしい。クオリティが高いかどうかはこの際はどうでもよくて、動員されたクリエイターたちのギャラはきちんと支払っていると思われる。思うだけでもしかしたら支払っていない可能性もそりゃある。だから「西野が絵本を無料にしたせいで俺のギャラが未払いになった!」とスタッフの誰かが怒っているという話なら「なるほど酷い話だ」となるけれど、今のところはそのような話は漏れ伝わっていない。つまり部外者が「クリエイターの取り分が!」とかいうのは完全に憶測である。「Googleを無料で使わせてGoogle社員の給料はどうするんだ!」とか怒るのと同じくらいトンチンカンな言いがかり。Google社員の給料なんて世界的にみても、かなり優遇されているのは誰だって知っている。

 

絵本が売れないとかイラストが売れないという話にしても根拠がない。キングコング西野の絵本を無料公開して、売れなくなる可能性のものがあるとすれば、それはキングコング西野の絵本そのものに他ならない。「おっ、キングコング西野の絵本が無料公開されているのか!じゃあ、お金を出して『三匹やぎのがらがらどん』を買うのはやめておくか…」なんてことになるわけがない。絶対にない。「キングコング西野の絵本が無料公開されているなら、キングコング西野の絵本を買うのはよそう…」これが普通の思考だろう。「『三匹やぎのがらがらどん』とキングコング西野の絵本どちらを買うか迷ってたけど、キングコング西野の本は無料で読めるなら、『三匹やぎのがらがらどん』を全力で購入しよう」こういうケースもあるだろう。しかし無料公開したら、宣伝効果かなんか知らんが余計に売れたそうだ。良かったねとしか言いようがない。(売れなくなったら面白かったんだけど)

 

三びきのやぎのがらがらどん (世界傑作絵本シリーズ)

三びきのやぎのがらがらどん (世界傑作絵本シリーズ)

 

 そもそもおかしいのが、叩いている側の人たちのうちのかなりの人たちが、自分のイラストだのマンガだのを、ネット上で無料公開していたりするのだ。この矛盾を突っ込まれるのを事前に予測して予防線をはっていたのか「創作物をネットで無料公開している人も多いが、あれは一見無料だけど、アフィリエイト広告などで別の方法でお金を得るモデルがあるから良いんだよ」などといけしゃあしゃあと言っている人もいた。何かの冗談かと思った。さすがにこれは釣りの可能性もある。ちなみに、キングコング西野の絵本の無料公開のページは、アフィリエイトの広告バナーまみれである。そらそうだろう。

 

かように、キングコング西野に対する最初の批判は、かぎりなく根拠の薄いものだった。だから僕も「なんでこんなわけわからん言いがかりで他人を叩くのかなー」と全く賛同できなかったわけだけど、叩かれた当人であるキングコング西野自信もブログ上で反論を展開。もともと根拠のない話だっただけに、理屈勝負になると完全に否定派の分が悪くなってしまった。そうすると彼らが次に展開したのは感情論だった。曰く「キングコング西野はクリエイターの仕事を馬鹿にしている」という。「2000円出さないと読まさないのはお金の奴隷である(とブログで彼は自分自身のことについて表現していた)という発言は、それで商売しているクリエイターを馬鹿にしとる」というわけだ。「汗水たらして働く人を馬鹿にしている」とまで言って、人々の情に訴えかける人までいた。

 

ここまでしてキングコング西野に対して怒りたい集団というのは、一体なんなんだろうと考えてしまった。キングコング西野は本当に労働者を馬鹿にしているのだろうか。「俺は才能でむちゃくちゃ儲けてるのに、小銭拾ってあくせく働いてる奴らは頭足りへんなー」とか裏で言ってるんだろうか。あるいは言ってるのかもしれないが、そんなことは第三者には知りようがないことだ。少なくとも性格が良い人ではないだろうとは思う。あんまりよく知らん僕でも「絶対に友達になれへん奴やな」くらいはオーラとして感じる。しかしキングコング西野は僕の雇い主とかではない。キングコング西野と取引しているわけでもない。キングコング西野の商品を買う気は今後も無い。ましてや、キングコング西野が都道府県の最低時給を決める立場にあるわけでもない。だからキングコング西野と僕との利害関係というのは完全にゼロだ。「自分とは無関係の、単なる嫌味な人間」でしかない。

 

キングコング西野に馬鹿にされた!」と怒っている人のなかには、キングコング西野の絵本を買ってしまった人間も含まれる可能性も高い。だったら自分が買った本の価値が下がった(ように思った)事に対しては怒る権利はあると思う。キングコング西野というブランドが気に食わなくなったのなら、本を破り捨てて二度と付き合わないようにするなり、返金要求するなり(認められるかどうかはさておき)、顧客という立場の範囲内で好きにしたら良いと思う。

 

でも怒っている人らが振りかざしていた理由を考えると、どうもそうではない。本を買って損したとか言ってる人はほとんどいなくて、あくまで「社会の道義に反した」みたいなことが重要のようだ。「クリエイター道にも悖る」というわけだ。

 

この「道」ってのは怖い。日本人はスポーツや文化など、なにかにつけて「道」とか言い出しがちだ。ベースボールと書くと単なるスポーツだけど、野球道などというとたちまち息苦しい何かに変化してしまう。審議委員会が出てきて「品格が足りない…」などと言われて、実力や成績は申し分ないにもかかわらず横綱昇格を見送られそうな恐怖がある。

 

 キングコング西野の絵本が売れているというなら、つまりスポーツに例えるならばそれなりに好成績を残した名選手みたいなことになるのかもしれない。だったら名選手でも良いのだけど「品格が足りない」とかいう話にもっていけば、動かしがたいはずの成績にだってケチをつけられる。クリエイターを「道」にしたい勢はこれがやりたかったのだろうか。

 

自分がやっている競技で、自分よりはるか上の成績を挙げた奴がいたとしたら、悔しいけど名選手と認めざるを得ない。でもあいつは嫌な奴だ。できるならば認めたくない。じゃああいつがズルというかルール違反したという事にすればどうだろうか。

 

それが最初の批判の動機だろう。しかしそれが通らないとわかると、「道」的なものを持ち出して品格が足りないと言ってみる。そういうことだと解釈すれば怒っていた人の言い分にも納得がいく。

 

でも、そんな回りくどいやり方が必要だったのだろうか。自分より良い成績を挙げた人の性格が気に入らないからと、いちいち理由をつけて叩くというのはあまりにも浅ましい。絶対にかかわらない他人の性格なんて、本来はどうでも良いことだったりする。

 

それに、ここまで、成績=売上という例え話を展開してきて、誠に申し訳ないのだけど、文化的行為とスポーツの試合というのは当たり前だけどぜんぜん別物である。ある文化的行為から発生した売上を、スポーツのスコアに例えるのは、なるほどひとつの考え方ではあるけれど、それは同じ価値観を有している人の間だけで通じるものだ。だいたいスポーツ同士にしたって、野球とバスケットボールでは1点の意味が違う。野球同士であっても大リーグとプロ野球と草野球の成績を混ぜて比較することなど不可能だ。同一ルールの同一リーグという価値観の共有が絶対に必要なのだ。

 

例えばキングコング西野の絵本がいくら売れたとて、僕はキングコング西野の絵本には全く興味がもてない。売上なんてものはしょせん売上にすぎないもので、文化的行為の優劣を決めるものではないという事実を知っているからだ。

 

だけどビジネスとしてその分野に関わっている人間からしたら、悔しくて腸が煮えくり返る思いがあるかもしれない。僕が売れない絵描きかなんかで、それも絵を描いてるだけで満足というような人間でもなくて、絵の分野で人気になりたいとかいう野心があったとしたら、キングコング西野の小賢しいやり方には相当の嫉妬心をもつと思う。

 

「なんであんなアイデアだけの糞絵本が売れて、俺が一生懸命描いた絵が全く見向きされないんだ!」しかも涼しい顔で「お金には興味ありませんよ~」みたいな事まで言ってのける。イラストの仕事をお金や人気に換えたくて仕方なくて泥臭く立ち回っている自分が本当にバカなんじゃないかなと思えてくるかもしれない。涼しい顔の下にドヤ顔が見え隠れするようなキングコング西野みたいなのは、どうしようもなくイラつく存在だ。

 

「俺の出来ない事を簡単そうにやりやがって!ムカつく!お前なんか死んでまえ!」

これが素直にいえたら話は簡単だった。

 

「俺は俺以外の成功してる奴がにくい。いつかぶっ潰してやるからな!」

穏やかではないが、屈託なくこう発言出来る方がまだ健全ということもあるのだ。

 

「俺にはあんな真似は出来ないよ。だから勝負する気は最初から無いから」

これでも良い。穏やかである。

 

「俺が認められないのはあいつのような奴がいるからでは?」

だけどこれは危険。実にダメな考えだ。

 

キングコング西野が雇い主かなんかで、自分が描いた絵のギャラを未払いとかだったら、たしかに悪いのはキングコング西野だから激しく怒らないといかんわけだが、キングコング西野と自分の活動とは全くつながってないのは明白なのに、「あいつが俺の足を引っ張っている」とナチュラルに思えちゃうとしたら、相当ヤバイところにはまり込んでいるといえる。

 

そもそも絵描きとか物書きとか、楽器演奏や各種スポーツなど、なんでも良いけれど、文化的行為というのはお金にならないのが前提としてある。どこかの企業の社員としてそれらの行為をする場合も多いから、そういった時は規定の賃金が支払われなくてはならないのだけれども、フリーでやっている限りは単なる個人事業主である。依頼や契約がなければ1円にもならないのが個人事業主というものだ。こんなこと当たり前の話なのに、なんかわかってない人をよく見かけるのが不思議だ。

 

どんな手間隙かけた商品でも、どんな名人芸だったとしても、そこに需要が無ければ売れないのだ。2017年の時代にどれほど品質が良くても、VHS規格のテープなんかたいして売れないのと同じで、売れないのは製作者の頑張りが足りないのでも、誰かが足を引っ張っているわけでもない。商売というのは単純に需要と供給でしかないのだ。

 

100時間かけて制作した絵に1000円の値段をつけられたらどうするのか。時給に換算すれば10円である。でも0円にしかならないこともあると考えればたいしたもんだという考えもあるし、「そんな値段じゃ絶対に売らない!」という自由も保証されている。もちろん依頼された仕事をこなしたのに、ギャラ未払いなんていう事件は有りうることで、そういうのはどんどん怒った方が良い。単なる契約違反だから。

 

だけど自分が好きで制作している商品は好きで勝手に作っているわけだから、売れても売れなくてもしょうがないのである。売れようと思って作ったとしても売れないこともある。それだけだ。作ったものが悪かったかどうかとは関係がない。

 

じゃあ作ったものの良し悪しというのを誰が決めるのかというと、厳しいことをいうようだけど自分で決めるしか無い。全世界の全員が悪いといっても、自分が素晴らしいものを作ったという自負のある人なら、それで終わり。なにも問題がない。

 

でもなかなかこのような強固な意志力の持ち主というのは少ないと思うので、いくらかは他人の評価を頼りに自信を深めていくという方向性に持っていくのことが多いと思う。問題は、それがどれくらいの評価なら満足かということで、10人くらいに褒められたら満足な人もいれば、100人1000人でも物足りないという人もいるだろう。反対に尊敬する(または愛する)「あの人」にさえ認めて貰えれば…というセカイ系っぽい人もいる。

 

ところがお金だけが評価の尺度である人というのはやっかいだ。金銭的成功を達成するまで満たされないということになる。前述したとおり、文化的行為はお金にならない。それを成し遂げるためには創作的なスキルよりも、何らかの商売的な才能または時流に乗っているかなどの運といった要素が求められてくるわけだ。キングコング西野は傍から見ていても悔しいくらいに商売の才能と運を持っているように思える。金銭的成功を達成する要件を満たしまくっているわけだ。

 

もし商才や運に恵まれない人が金銭的成功を夢見ていたとしたら悲劇という他にない。商才や運というものは少しずつ培って行くことも可能だけど、そういう人に限ってあまりそっち方面には興味のない職人気質だったりするから余計に哀しい。「俺が評価されないのは世界が間違っているからでは?」とか思ってしまいがちだ。

 

そのようなわけで、キングコング西野の無料絵本事件は、意識と現実の歯車のズレが生み出した一瞬の花火だったのかなという結論になった。今はまったく誰も騒いでいないのがまた余計に虚しい。僕に出来るのはこうして蒸し返してみることくらいだ。

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