Twitterとかのプロフィール画像は気分でコロコロと変えるな!
プロフィール画像なんてのはなあ、好きな画像にしたら良い。そのときそのときの気分で変えたら良い。それは個人の勝手だ。
僕の中で二つの相反する主張が戦っている。答えは出そうにない。マンガにして描くとしたら天使と悪魔が殴りあっている絵がずっと続く。ページのおしまいになっても殴りあっている。そして最後のコマのあとに、来週に続くと書いてある。来週の雑誌を読んでもまだ殴り合っている。それが何年も続く。
さて、TwitterやFacebookなどでは、プロフィールの画像というのは、発言の横にアイコンみたいにして表示されるものだ。マンガの人物と吹き出しみたいな関係に似ている。本来はここに自分の写真を使う事を想定して作られている。それぞれの写真が登録されているのだったら問題ない。写真の人物がしゃべっている。実写マンガだ。
けど、近年では、自分の写真を使う人は少ない。特に日本人は顔出しにリスクを感じる人が多いようで、僕のTwitterのタイムラインも写真のプロフィールの人はあんまりいない。かわりに絵とか別の写真を使うことになる。僕もネコのドット絵を使っている。
僕はもう何年もこの絵を使っている。何年か前は別の絵を使っていたけどやはり白黒のドット絵のネコであった。両者は類似性があるし、なによりそれぞれ長いこと使っていたから、この絵をみたらだいたい僕の発言だと一目でわかるようになっている。そういう意味では、僕のプロフィール画像というのは、僕というアイコンの役目をきっちりと果たしている。
対して、プロフィール画像を気分でコロコロと変えたりする派の人。いわゆるアニメアイコン勢なんてのは、そのときそのときで好きなアニメが違っていたりするので、わりと気安くコロコロ変える傾向にあるように思う。他にもアイオタ勢はアイドルの画像を転々としたり。鉄オタ勢は様々な鉄道に変えたり。
こういうのは、個人としての識別度はぐぐっと下がるけれど、その人が所属するクラスタはなんとなく一目で把握出来るので、それはそれでアイコンの役割は果たしているといえるのかもしれない。
「このアニメアイコン勢め!」なんて十把一絡げに表現するのも、それなりの法則性があって活動している集団という認識とある種の信頼感からくる言葉なのかもしれない。
では、電車の画像から、ネコの画像に変わって、アニメアイコンになって、今度は壺の写真になる、とかいう人はどうだろうか。傍目からはまったく脈絡がない。もしかしたら本人的には「今、いちばん気になっていること」をプロフィール画像として提示しているのかもしれんけど、かなり深い付き合いでもなければ理解できない。それどころか、電車からネコになってアニメになって壺になった、なんていう履歴すら、普通の人はまず覚えてないだろう。ただただ、発言とキャラクタービジュアルが一向に結びつかないだけである。アイコンの役割としては最低といえる。
まあ、それだけだったら「ちょっと印象の薄い人」というだけなので構わないのだけど、こうやって脈絡なくプロフィールの画像を変える人は、得てして名前の方も脈絡なくガンガン変えるのが好きだったりするのでやっかいだ。
その変え方ってのは「ぶたお」が「ぶたおちゃん」になったり「ぶたお@ビール」とかなんとか、そういう連続性や関連性があるような生易しいものではない。本当に何の脈絡もない。
昨日までの「ぶたお」がある日「山田長政」になっていたりする。いきなり海外進出したくなるような発想の飛躍。そして二週間後には「ドストエフスキー妙子」だったりする。
そしてそれにともなってアイコンもネコの絵から、電柱の写真、そしてカリフォルニア在住のさる南米系白人弾誓電気技師の顔写真に変更されていく。
カリフォルニア在住のさる南米系白人男性電気技師の顔写真の「ドストエフスキー妙子」さんが、元「ぶたお」だったと分かる人がいったい何人いるというのか。
ある日、自分のタイムラインに、ずっと前からそうやって居るみたいな顔で「ドストエフスキー妙子」がつぶやいていた時の衝撃。実のところは正体はずっと前からいた「ぶたお」だからずっといたんだけど、誰だって少なからずびっくりするはずだ。
「こ、こいつ誰やったっけ……」
そんな時はプロフィールを確認したら良いと思う人も多いと思う。僕もそうした。
そしたらプロフィールには「カリフォルニア在住です…」とかしか書いてない!
前はちゃんと「ネットラジオをしている大阪在住の男性です。サイトのURLは…」とかいろいろ書いてあったのに、だ。どういうことやねん。
縁を切りたいのか!?みんなと縁を切りたいのだろうか!?
それだったらTwitterを辞めれば良いだけである。簡単である。もしくはメンヘラ得意の複垢とか。しかしそういうつもりもないらしくて普通に会話していたりする。
「Twitterだったら@から続く文字列でわかるやん」
たしかに!
でもそれほど皆の文字列をイチイチ覚えているものだろうか。たとえば「@butao」みたいな連想の容易いものだったらすぐに「あ、元ぶたおか」等とわかるかもしれないけど、フォローが増えてくるとけっこう似通った文字列があったりする。他の人の名前ぽいものが、別のひとのIDの文字列に含まれていたり含まれなかったりややこしい。
そもそも、そこまでして、苦労して誰か調べないとアカンという方がおかしい。なぜこんな嫌がらせみたいなことをするのか。そこには深い事情があるのかもしれないけど知りたくは無い。
でもその反面「しょせんTwitterとか遊びなんだから意味なんか無くて気分で適当にやっても良いだろ」という気持ちはある。そういう気持ちに理解はあるけど、あんまり真面目に交流とかはしたくないのかなという寂しさは残る。
「Twitterは真面目に交流する目的でしか使っちゃいかんのか!」とかつっこまれると「うむむ」と考えてしまう。そして「そんなことはないけど……」というあいまいな返事しか出来ない。ただ、僕自身は、他者との交流とか交信を目的に、わりと真剣に利用しているということだけしか言えない。日頃はバカみたいなことをつぶやいたりしてたにしても、だ。
そうこうしているうちに「ドストエフスキー妙子」が「奔走する猪」となりアイコンがデフォルトの卵になっていたりする。プロフィールには「ピギー」とだけ書いている。
タイムラインを疾走する猪を見て僕は途方にくれる。そして電撃的にひらめく。
もしかしたらこういう一連の行動の裏には「どんなに名前や画像やプロフィールをいじくっても、ずっとやりとりしている人にはわかるでしょ!」という意味があったのかも。
たしかにリプライを頻繁にしている人なら、履歴を見れば一発だ。考えたものだ。
一種の心理的バリアーみたいなもんか。フォローされながら巧妙に姿を消す。そこまでみんなに見られるのが苦痛だったのか。そうか。
もしかしたらぜんぜん的外れかもしれないけど、これ以上いくと超能力バトルに突入しそうなのであまり考えたくない。
Twitterのお気に入り機能が引き起こしている超能力戦争の悲劇 - 温玉ブログ
結論としては「SNSなんてものはそれぞれ好きにやれば良し!」である。交流するもしないも自由。そんなバリアで弾かれるなら、君はきっとその人にはあんまり好かれてないのだろうね。食い下がっても揉めるだけだからよしなよ。
まあ、そんな感じで。