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沖縄のオスプレイ墜落事故で明確になった恐ろしい現実!

沖縄の海にオスプレイが墜落した。

 

オスプレイが墜落した。

 

オスプレイが墜落したのだ。

 

大事なことだから三回書いた。なんでこんな簡単な事実を三度も書かねばならないかというと、「オスプレイが墜落した」という単純な現実が伝わりにくくなっているからだ。恐ろしいことに。

www.yomiuri.co.jp

www.sankei.com

www3.nhk.or.jp

これはほんの一部だけど、読売、産経、毎日、朝日、NHKなどの主要メディアが、オスプレイの墜落を「着水」あるいは「不時着」と報道してしまっている。

 

headlines.yahoo.co.jp

www.nikkan-gendai.com

それに対して、墜落だと報道しているメディアは、琉球新報や、日刊ゲンダイなど、少数派になっている。

 

「何らかの理由により、オスプレイが墜落して、しかし幸いにも搭乗していた兵士たちに死人は出なかった」こういえば話は簡単だった。そこからオスプレイの安全性の議論になり、ひいては米軍基地のリスクという話までは発展できたのかもしれない。しかし「着水」だの「不時着」だのという単純な言葉のごまかしが、その手の議論を水際でシャットアウトしてしまう。

 

「あれは墜落じゃない」「不時着しただけだ」「墜落の定義をのべよ!」

 

主要メディアが言葉を変えてしまったせいで「オスプレイ墜落」という共通認識は成立していない。だからオスプレイの危険性を問う前に「墜落とは何ぞや?」という哲学的な議論を強いられてしまうわけだ。共通認識が違うのだから議論など成立するわけがない。不毛な水掛け論が延々と続きひたすら消耗するだけである。これこそが「墜落」という言葉を使わせなかった側の思惑だ。

 

かつて戦時中の大本営発表に「撤退」「退却」を「転進」と言い換えるというのがあった。それと同じだ。

 

ただの言葉の言い換えと侮ってはいけない。言葉のパワーとは恐ろしいのだ。見えてなかったものが見えるようになり、見えているものが見えなくなるのが「言葉」である。

 

事実「オスプレイ不時着」という報道があったせいで、意図的に海に「着水」したわけで、「オスプレイはコントロール下にあった」などという意見も堂々と飛び出している。「コントロール下にあった機体がバラバラになっていいのか?」などという素朴なつっこみはここでは通らない。言葉によって「オスプレイが墜落した世界」と「オスプレイが不時着した世界」は完全に切り分けられてしまったのだから。これが言葉のもつ魔力であるし、戦時中の日本が大本営発表に注力した理由でもある。そして現代でも同じことが繰り返されはじめている。

 

だから「オスプレイが不時着した世界」では、オスプレイがバラバラになっている事実でさえ「クラッシャブル構造だからわざと派手に壊れるようになっている」などという事実無根の説明さえも持ち出してしまう。そして在沖の海兵隊司令官に「海にコントロールして降りたんだから感謝しろ」とまで言われてしまう始末。「言葉」によって、見えているものも見えなくなってしまうとはまさにこういうことなのだ。

 

各メディアが「言葉」について、いちいち政府や米軍にお伺いを立てる時代が来てしまった。もしくは自主的に先回りして「言葉」を選んでいるのか。いずれにせよ、悔しいが大本営発表の時代がまた繰り返されるのだろう。それに従わない者は「左」とか言われてしまうようだ。

 

しかし現実は現実である。バラバラになったオスプレイは墜落したのであって、危険きわまりない代物にあることは変わりがないし、米軍基地がある限りは安全や安心はない。といっている間に、同じ日に別のオスプレイ胴体着陸していたというニュースが入ってきた。まるでマンガみたいだが、これが現実のようだ。

news.yahoo.co.jp

大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争 (幻冬舎新書)

大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争 (幻冬舎新書)

 

大本営発表」がいかにして形成されていったか、そして「言葉」がどのように人々の行動を縛っていったかを綿密な調査で浮き彫りにした力作。今の時代にこそ読みたい。 

「南京事件」を調査せよ

「南京事件」を調査せよ

 

真実を知りたい!ただただ真実を追求した男!清水記者のこの本を全国民に読んで欲しい。

 

butao.hatenadiary.com

 

f:id:butao:20161214184537j:image

『「南京事件」を調査せよ』を読まずに死ねるか!

8月はあわや何も書かないで終わろうとしていたが去る25日に大変な本が刊行されたので紹介せずにはいられなくなった。8月はその他にももろもろ事件があり、もやもやした気持ちになっていたけれど、とりあえずこの一冊の感想にぶつけてみたい。それだけ昨今のいろいろの事柄が集約された本だったと思う。

 

その本とは清水潔『「南京事件」を調査せよ』だ。以前に紹介した『南京事件 兵士たちの遺言』というドキュメンタリー番組を制作するにあたって著者が調査した内容に、追加調査したことなどを交えて書籍化したものだ。あのすごい番組の制作の内幕をより詳しく紹介しているということだ。

 

番組の評価についてはこちらも参照のこと。

www.ntv.co.jp

 

そうなのだ。もてラジでもずっと推している清水記者の新刊だ。読まずには死ねない本だ。「またかよ!」とか言われそうだけど、みんなが清水記者の本を読むまで勧めるのをやめない。必要な本なのだ。とりわけ日本を生きる我々にとっては。だからこの期に及んでも知らない人は、まず『桶川ストーカー殺人事件』を読んで欲しい。何も言わず。何も前知識ももたず。

 

『桶川ストーカー殺人事件』はノンフィクションに属する本なので、実際に不幸な被害者もいるから不謹慎なことなのだが、あえて言わせてもらうと単純に面白い本だ。ミステリーものなどを好きな人はぜひ気軽に手にとってもらいたい。本当にあった話であって、とんでもないミステリーでもある。そして事件に挑むのは著者でもある清水記者だ。清水記者が事件をひたすら追いかけ、やがて警察も把握していないとんでもない真相にたどり着く。ぜんぶ本当のことだから驚愕する。こんな事が実際にありえるなんてという気持ちになる。

 

清水記者はまさに現代の名探偵といえる。ただしシャーロック・ホームズミス・マープルのように、1を聞いて100というように、ズバズバと事件の本質を言い当てる安楽椅子探偵ではない。靴をすり減らしながらあちこち訪ね歩き、司法の壁に阻まれたり、脅されたり、汗と泥にまみれながらも、不屈の意思で事実を積み上げていき、最後に真相にたどり着くというハード・ボイルド式の名探偵だ。

 

清水記者は『桶川ストーカー殺人事件』の後も、北関東連続幼女誘拐事件の調査に乗り出す。こちらも『殺人犯はそこにいる』という一冊にまとまっている。最近になって文庫版も出たので絶対に読んで欲しい。こちらでもたいへんな労力を払って、冤罪の男性も無実を晴らし、隠蔽された連続事件の真相にせまっている。なんどでもいうが、全部事実に即した内容であって、虚構のストーリーではない。しかしミステリー小説でもなかなかここまでのストーリーは作れないのではないかという興味深さで迫ってくる。

 

このように書くと、なんだか茶化したような物言いになってしまって心苦しい面もあるが、興味本位でも良いので、多くの人に読んで欲しいのでこういう紹介にしている。

 

清水記者がその著書で何度も何度も訴えているのは「発表報道」と「調査報道」の違いだ。

 

「発表報道」とは、警察が「○○○○について××××と記者会見で発表しました」というようなことを、ただただ記事としてまとめただけのことを言う。

 

それに対して「調査報道」というのは、記者が自分の意思で、自発的に見聞きしたことや、調査したことを報道することを指す。

 

現代の日本のマスメディアは、圧倒的に前者が多いということだ。記者が足を使って調べたことや、見聞きしたことを自分の頭で考えて記事にまとめたものよりも、いわゆる「公式発表」といったことが紙面の中心になっている。そしてそちらのほうが尊ばれる風潮にすらある。

 

記者クラブに加盟した大新聞による「公式発表」の前には、地方紙や週刊誌の「スッパ抜き記事」などは、「三流紙のたわ言であって、信ぴょう性に欠ける」などという目で見られ兼ねない。記者が労力を費やして調査した記事よりも、警察や政府の記者会見を、ただそのまま書き起こしただけの記事が尊ばれるなんて…。

 

これと似た現象が、かつて日本にもあった。戦時中の「大本営発表」というやつだ。

 

僕らが歴史の時間などに習ったことは「昔の日本人は大本営発表という根も葉もない情報を信じて戦争に協力してしまいました」という事だった。子供のころは「昔の人はバカだなぁ」などと思っていたもんだが、現代の人間は「大本営発表」を笑えるだろうか。現代で「大本営発表」などというと「根も葉もない公式情報」を揶揄する言葉として使われる事が多かったはずだが、気がつけば現代人も「大新聞の書き立てる公式発表」ばかり信じていたりする。「津波原発メルトダウンして危険ですよ」という話よりも「メルトダウンなんて起こっていない」という公式発表を重視したりしていた。当時だっていろいろの事を検証したり見聞きしたりして「日本は戦争に負けてる」と言っていた人もいたはずだ。しかし大半の人は「敵空母撃沈!」みたいな大本営発表の方が心地良かったのだろう。

 

清水記者の信条はあくまでも「真実が知りたい」ということだ。たとえそれが恐ろしい事であっても真実を追求する。警察がどう発表しようと関係がない。おかしな所があれば徹底的に調べてみる。その情熱と労力たるや頭がさがる。結果として桶川ストーカー殺人事件や、北関東連続幼女誘拐事件の真相に迫ることになった。もちろんその他の事件なども調査されていて、それらの活動の一端は『騙されてたまるか 調査報道の裏側』という新書にもいくつか紹介されている。興味をもった方はあわせて読んでいただけたらと思う。

 

前置きのようなものが長くなってしまったが本題は『「南京事件」を調査せよ』という本だ。タイトルにある「調査」とは、ここまでながなが説明してきた、「調査報道」的なスタンスでの調査を意味するということは言うまでもない。そして「南京事件」とカッコでくくられているのは、「いわゆる南京事件」といわれる「事件なのかどうなのかすら定かではない」というあやふやな事象すべてを調査してやる!という清水記者の決意の現れであろう。相手はなにしろ80年ちかく前の「歴史」になりかけているものだ。そして被害者は30万人とも40万人ともいわれている。もしくはゼロとすらも言われている。途方も無い調査に思える。

 

ちなみに「南京大虐殺」についての日本政府の「公式見解」はこうなる。

外務省のHPからの引用だ。

日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/

もし「発表報道」として「南京事件」を取り扱うとするならば、これがそのまま記事になるということだろう。

 

つまり「そりゃ戦争だから民間人に迷惑があったことは否定することは不可能だけど、人数とかはまったくわからないし、1人かもしれないし40万人かもしれないけど、証拠もないし今さら特定することも困難ですよ」というわけだ。

 

被害者の人数すら特定されていない事件……。そんな無責任なものがあって良いのだろうか。

 

『桶川ストーカー殺人事件』では殺害された1人の女子大生の謎を清水記者が調査した。

 

『殺人犯はそこにいる』では5人の幼女の失踪事件を清水記者が調査した。

 

しかし南京の問題に関しては、そもそもの事件がどんなものであったのか、被害者が何人いるのかすらぼやけてしまっている。仮にも事件だといっているものに、諸説あってよくわからないなんてことがあっていいのだろうか。挙句には南京大虐殺なんてものは無かったという話まで飛び出してくる。

 

肝心の事件の経緯にしたって、戦後のどさくさでほとんどの史料が「意図的に」処分されてしまっている(やましいことが満載だったという推測しか出来ない)し、ものすごく時間が経ってしまったことによって、当時のことを知るものもほとんど生き残ってはいない。

 

じゃあ真相を知るためにはどうするのか。実は処分されずに現代まで残っていた史料があったのだ。それは南京攻略戦に従軍した兵士たちの手帳の記録や日記だった。そういう手帳や日記をたくさん集めて保管していた人が福島県にいたのだった。当事者たちの記録。まさに一次史料と呼べる代物だった。これらの記録の裏付けがあるのかという調査が始まる。日付から逆算して、当時そういう事が起こり得たのかとか、複数の記録や他の日記帳、証言などと照らし合わせながら、相互の記述や証言に矛盾点が無いかなどを検証していく。中国まで訪れて聞き込みや現地調査もしていく。とんでもなく骨の折れる作業を清水記者はやっていく。

 

その結果として、南京で行われたとてつもなくおぞましい真実がわかってくる。背筋が凍るような恐ろしい話だった。

 

南京事件」の調査についての中心的な成果は先に紹介したドキュメンタリーでもだいたいやっていたのでそちらを見てもらうのが先かもしれないが、こちらの書籍版ではより詳しく歴史的な背景が説明されている。現代の話からはじまって、南京事件の話、南京事件の後の話、そして南京事件より以前にあったこと。日本では知られていない「旅順虐殺事件」なんかの話も出てくる。それなりに知名度があるはずの重慶爆撃にしたって、実はちゃんと習ったことのある日本人は少ないのではないか。歴史はその一部分だけ切り取っても不可解なものでしか無かったりするが、その前を知れば「さもありなん」と合点がいったりもする。教科書では唐突に「南京大虐殺がありまして…非難されてまして…」とか出てくるから納得できないのもムリはない。

 

本書はそのたくみな構成によって、いやでも歴史の連続性というものを感じ取れるようになっている力作だ。70年、80年前にあった問題は、それ以前にもあった問題でもあるし、今現在を生きる我々にも起こっている問題だったりもする。自分の親の親の問題であり、親の問題であり、自分自身にもつきつけられた問題でもある。「南京事件」というのは教科書の中の話ではなく、今に至る地続きの話であることを人はしばしば忘れてしまう。言ってしまえばたった80年前のことだ。かろうじて生きている人だっているのである。しかし「歴史」という言葉は便利なもので、そこに閉じ込めてしまうとどこか別の世界のお話のようになってしまう。本の中には清水記者の祖父や父親が従軍していた話も出てくる。僕の祖父も職業軍人で戦死している。生まれる前にはこの世にはいなかった祖父がなんのために戦死したのか、後で戦争の本を読んでいて「ああ、こういうことで」と思ったりもした。誰だって歴史のつながりからは逃げられないし一部でもある。

 

「歴史に学ぶ」とは端的にいえば「同じ失敗を繰り返さない」ということなのに「今回は上手くやれるはずだ」なんてつい考えてしまう。だから広島に「過ちは繰り返しません」などと石碑を立てておいて、一方ではアホみたいにたくさん原発を建て続けた挙句、ついには不幸な事故を起こしてしまってたりする。「原発ならコントロール出来るだろう」とか言いながら。それでまた再稼働なんて言っている。性懲りもなく「次はうまくコントロール出来るだろう」とか言ってしまう。人類は永遠に「歴史に学ぶ」という姿勢をもてないのかと呆れてしまう。

 

『「南京事件」を調査せよ』は今に生きる日本人なら全員が読んで欲しい本だ。今このタイミングだからこそ必要だと判断して出された渾身の一冊だ。決して南京事件を謝れとかではない。そんな情緒的な話ではないのだ。とにかく今の日本人にいちばん必要なことは過去の失敗をできるだけ正確に知ることに違いない。知らないことには先に進めないのだ。しっぽを追いかけるアホの犬みたいに、同じ所をぐるぐる廻るのは虚しいじゃないか。

 

清水記者は言う。「知ろうとしないことは罪だ」と。とにかく、知って欲しい。

hon.bunshun.jp

 

「南京事件」を調査せよ (文春文庫)

「南京事件」を調査せよ (文春文庫)

 

 文庫版も発売されてより買いやすくなった!さらに最新取材による追記もあるので今からだったら文庫版が断然オススメ!Kindle版もある!!!

 

butao.hatenadiary.com

ドキュメンタリー版もぜひオススメ!!!

 

桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

 

まずは四の五の言わずにコレを。

 

殺人犯はそこにいる (新潮文庫 し 53-2)

殺人犯はそこにいる (新潮文庫 し 53-2)

 

これは真相に迫っているが未解決なのが恐ろしい。

 

騙されてたまるか―調査報道の裏側―(新潮新書)

騙されてたまるか―調査報道の裏側―(新潮新書)

 

 調査報道についてつっこんで書いている。両事件のダイジェストも。

 

 

尖閣ゲーム

尖閣ゲーム

 

この小説の著者である青木氏も『「南京事件」を調査せよ」に登場して活躍する。ちなみに『尖閣ゲーム』も清水記者監修でもあったりする。二人は仲良し!

みんなに『帰ってきたヒトラー』を観て欲しかった

『帰ってきたヒトラー』という映画を観てきた。ヒトラーが現代のドイツにタイムスリップしてきたらどうなる?というドイツのSF小説がベストセラーになった。それをドイツで映画化したのが本作だ。これがめちゃめちゃおもしろかったので日本国民みんなに観せてやりたいと思った。

 

ベルリン陥落前に、どういうわけか現代のドイツにヒトラーはワープしている。理由は全くわからない。ヒトラーはキオスクで新聞を読み、たちまち事態を把握する。そして新聞をむさぼり読んで現代の社会情勢をどんどん吸収していく。

 

同じ頃、テレビ局をクビになったディレクターが面白いネタを探していた。たまたまカメラに写っていたヒトラーそっくりのヒトラーに目をつけて、彼を本物とは知らずドイツ中を連れまわしてロケハンに出かける。

 

ヒトラーは各地で政治に不満を持っている人を見つけてはその話を聞いてまわる。「移民が何もかも悪いのよ」とかいうオバサンの話を「うんうんその通り」などと聞いてやるのだ。ヒトラーといえばドイツの歴史でも世界の歴史でも、たぶんトップレベルに有名な人だ。だからヒトラーそっくりのヒトラーもあちこちで人気者になっていく。テレビ局に連れて行けばたちまち重役たちのハートを掴んで、テレビ番組への出演が決まる。

 

本物そっくりの演説をぶちかます彼に(本物なのだから当然だけど)観客もテレビの視聴者も目を離せなくなっていく。テレビ局の女社長を味方につけたヒトラーはますます躍進していく。

 

この作品は最初はおおむねヒトラーの一人称的な視点で進んでいく。そして現代でアナクロともいえる大げさな主張や行動を繰り広げれば繰り広げるほど皆に笑われる。でも本人はいたって真面目だからよけいに面白い。

 

観客はそんなヒトラーに「なんだ、ヒトラーといったら怖いイメージあったけど、面白いオジサンなんじゃ?」と親近感をもっていく。

 

しかもヒトラーはいついかなるときも真剣で全力投球だし、力強く「私に任せたまえ!」と言われたら何となく頼りになる感じがする。

 

実際に、ドイツ国家民主党の本部に突撃取材を敢行して相手を言いくるめたり、せっせと各地に足を運んで活動家と仲良くなったり、行動力も半端ではない。

 

それでもって例の軍服でビシーッと決めて立ってるだけで誰がみたって痺れるほどかっこいい。YouTubeでたちまち何百万とアクセスを集めて大人気になっていく。親衛隊を募集すればドイツ中のボンクラが集まってくる。

 

映画を観てるコチラとしてもいつしかヒトラーに肩入れして「おうおう、どんどんヤッちまえ!」という気分になってくる。

 

なにしろ世の中の大半のオヤジは、ダサくて、はっきりしなくて、なんとなく頼りない。その点、ヒトラーはとてつもなくハッキリとものを言う。観ていて正直、スカッとする。

 

でも、現実には、頭頂部ウスラハゲオヤジのようにダサくて、ぼんやりと頼りなくて、もやもやとはっきりしないものの方に、正しいことが多かったりする。でも、口からでまかせであっても、明確な答えを聞きたいのが人類だったりする。どうしたって、理屈より先に、気持ちでスカッとしたいのだ人類は。

 

かくして、映画を観てる人間も、当時のドイツ人が、どうしてヒトラーなんかに付いていってしまったのかを実体験として理解するのだ。ヒトラーの本当の恐ろしさは、そのカッコよさなのだった。

 

人類は、面白くて、親しみがもてて、カッコいいものに弱い!!

 

致命的に弱い!!

 

冷静に考えたら、完全に間違ったものだったとしても、ダサくて正しいものより、カッコよくて間違ったものを選んでしまう。人情といえば聞こえは良いが、人間がハマりやすい落とし穴なのだ。

 

しかし過ちに気がついた時にはもう遅い。ヒトラーはものすごい権力を握ってしまっている。カッコいいヒトラーに逆らう人間は、「社会の落伍者」「痴呆症の老人」「単なる精神異常者」として片付けられていってしまう。社会では「カッコよくないもの」の意見は無価値だったのだ。

 

映画は繰り返し警告する。「カッコいいものには気をつけなさい」と。

 

ヒトラーのような人物にとっては、当時のドイツよりも、テレビやインターネットが普及した現代の方が、はるかに仕事がやりやすい世界だった。だってヒトラーみたいに面白くてカッコ良くて人心を掌握するのに長けた人物は、メディアの力と組み合わせると恐ろしいスピードで人気者になれるのだ。

 

そんな人気者が合法的に選挙に打って出たらどうなるのか?

 

戦前のヒトラーも選挙の力を借りて権力者にのし上がったが、それ以上のスマートさで権力を奪えるだろう。だって、選挙システムのなかに、人気者を阻止する仕組みは無いもの。だから現代日本でも橋下徹みたいなタレント議員がいくらでも生まれる。そんな時代だから、ヒトラーだって、当たり前のようにテレビ芸人やユーチューバーから権力を目指すのだ。

 

ヒトラーはほくそ笑む。国際情勢が不安定で誰もが社会に不満をもつこの時代は最高だと。そこかしこに争いの火種が無数にあり、みんなが「この道しか無い!」とはっきりと導いてくれる力強いリーダーを求めているのだ。だからヒトラーはいくらでものし上がれる。

 

ヒトラーが現代に蘇るというと荒唐無稽なブラックコメディのようであるが、ヒトラーという人物のもつ「人間的な親しみやすさ」という怪物性を描いたホラー映画でもある。

 

特に我々日本人としては「中東からの移民のせいでー」といってるドイツの人らを笑えない。日本人の中にも何かというと「中国人がー」とか「朝鮮がー」とか言っている人が大勢いる。こういう人らを束ねて「うんうん、わかるよ、じゃあ純血の日本人だけで、美しい日本を作ろう!」と力強く訴える人が出てきたとしたら?いやいやいや、冗談じゃない!

 

そしてこれを執筆している明後日には、運命的な選挙を控えている。この選挙の結果如何によっては、日本国民は現代にヒトラーのようなものを蘇らせてしまうのかもしれない。そんな日を前にして観た『帰ってきたヒトラー』は僕にとってはホラー映画を超えたホラー映画だった。

 

選挙システムは、ヒトラーに対しては、あまりにも無力なのではないのか!?

 

もうあまり選挙まで時間も無いけど、よかったら日本人は選挙前に『帰ってきたヒトラー』を観て欲しい。そして本当に恐ろしいとは何だということを考えてみて欲しい。まあ、もちろん、選挙後に観ても構わない。

 

ちなみに、原作の小説はまだ読んでいない。映画版はドキュメンタリーの手法(ヒットラー役の俳優が、実際に街行く人にそのままの格好でインタビューを敢行するという方法で撮影している)も駆使して、かなり現実と虚構の境目があやふやに作っていた。それもあって、映画館が出てきたあとも、まだヒトラーが復活してきた世界にいるように錯覚したものだ。

 

映画ではヒトラーという有名人がタイムスリップしてきたみたいに、実に分かりやすい話になっているけれど、現実の世界では、誰も過去から蘇ったりしてきていないのに、社会そのものがタイムマシンに詰め込まれて過去に送られようとしてるみたいだ。恐ろしい。

 

日本もドイツも70年前と同じことを繰り返すのだけはダメだ。

 

現代に帰ってきたヒトラーはこういって皆を扇動する。

 

「次こそは上手くやってみせる!」

 

歴史に学ばない姿勢の最たる言葉!!!

帰ってきたヒトラー 上下合本版 (河出文庫)

帰ってきたヒトラー 上下合本版 (河出文庫)

 

 

 

ヒトラー ~最期の12日間~ Blu-ray

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 『帰ってきたヒトラー』にはこの映画のパロディがある。動画で流行った総統が怒るシーンだ。


総統閣下シリーズ元ネタ 一部公開3.webm

こういうシーン。

 

劇画ヒットラー (ちくま文庫)

劇画ヒットラー (ちくま文庫)

 

 水木しげる先生のマンガはヒットラーの一生を学ぶ上でいちばん手っ取り早い!これもヒットラーをひとりの人間として描いているので等身大なおっさんとしてイメージしやすい!ものすごく細かく調べて描いていて感心する。

 

moteradi.com

 

 

追悼!水木しげる先生が、やなせたかし先生に及ばなかった部分!

水木しげる先生が亡くなった!

 

とても悲しい気持ちになった!

 

なぜ悲しいかというと、水木しげる先生は「生きていることこそが楽しい」を体現したような人だからだ。

 

60よりも、70よりも、80よりも、90になると余計に楽しい。

 

長生きすればするほど単純に幸福感が増してくる。

 

何かの本かインタビューで語っていた。

 

だからそんな言葉を聞くと僕も勇気が出てきたし、30になっても40になっても、人生が楽しくなってくる予感しかしなかった。だから水木しげる先生には、可能ならば100でも200でも生きて、ずっと希望でいて欲しかった気がする。

 

93歳というのは大往生という気がしない。水木しげる先生に関しては。

 

やなせたかし先生が亡くなった時も悲しかった。

 

やなせたかし先生も従軍経験者で、中国戦線に行っておられて、そこでの体験は水木先生のような九死に一生を得るといったような悲惨なものではなく、あんがいのんびりしたものだったらしい。それでも一貫して戦争には反対という姿勢は崩さなかったし、アンパンマンという革命的なヒーロー像を創りだした。

 

アンパンマンが革命的なのは、「お腹の空いた人に腹いっぱい食わせてやることこそが唯一の正義」という思想で創られた正義の味方だからだ。しかも自分の身を削って…。

 

やなせ先生も、80すぎても90なっても、人生楽しみまくってる感じがしたし、人を喜ばせることに妥協しないところに好感が持てた。しかし、本当は悲しい事や辛い事をいっぱい抱えていたようだ。まさにアンパンマンみたいな人。そんな人だからやはり100でも200まででも生きて欲しかったが、そういうわけにもいかないのが世の中のままにならないところでもあるし辛いところでもある。

 

やなせたかし先生は94歳で亡くなった。

 

水木しげる先生は93歳だった。

 

漫画界の妖怪といわれた水木先生も、やなせたかし先生の歳までは生きて無かったのが意外だ。

 

長生きした漫画家お二人に共通しているのは、睡眠をとても大切にしていたこと。

 

睡眠すればするほど幸福になる!とまで語っていた水木しげる先生。娘が寝坊しても絶対に怒るなと言っていたほどであるらしい。たしかに、眠る時間を削れば削るほど不幸になるような気はする。これは実感としてわかる。

 

ただ、あまりにも時間がなさすぎて、ついつい夜更かししてしまうのだけど…。

 

水木さんはどんなに忙しい時でも10時間は寝るようにしたと述べているが本当か嘘か。しかし鬼太郎が大ヒットして、余裕が出てからは間違いなくたっぷり寝ていたには違いないだろう。

 

わかっちゃいるとか言いながらも、睡眠時間を削りがちな自分は、90まで生きるのは無理だなと思ったりはする。いつか、本当に理解する日がくると良いけど…。

 

総員玉砕せよ! (講談社文庫)

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ねぼけ人生 (ちくま文庫)

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人生なんて夢だけど

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人材派遣業と付き合うと会社が潰れる理由

もてラジ村民ブログを読んでいると色々と面白いネタが転がっている。

 

今回はアウトソースについての問題。アウトソースというとかっこいい気がする。スマートな経営というか。そういえば在りし日のホリエモンがドヤ顔で語っていたのもアウトソース化の話だった。

kimniy8.hatenablog.com

 

自分は仕事をとってきて、あとはなんでもかんでも専門業者に頼めば良い。ビジネスとしては至極もっともな意見だ。右から左に仕事をふって、自分はアイデアだけを挟んで利ざやを稼ぐ。在庫も専門技術も人材も抱えない。いかにも頭脳労働て感じがする。

 

たしかにそれはそうなのだけど、それが出来たら苦労しないという問題もある。誰だってそうしたい。しかしそんな夢みたいなことは誰にでもは出来ないから、とりあえずは、店や作業所を構え、人材を雇い、在庫もかかえ、専門技術を磨いたりするのだ。

 

そんなまっとうな商売や会社をやっててそこそこ売り上げるようになってきた。必ず忍び寄ってくるのがアウトソーシングの甘い罠。

 

たいていは自分で望むことではなくて相手からの勧誘によるものだ。ここがポイントなんだろう。

 

いちばんわかりやすくて、今の御時世でもっとも話題になるのは、なんといっても人材派遣業というやつではないか。

 

人材派遣というのは、求人と雇用に関する業務のアウトソーシングだ。言われなくてもわかるだろうけど。人材派遣には恐ろしい罠が潜んでいたりする。

 

派遣というと、労働者が搾取されてひどい目にあうというイメージばかりあるけれど、これ実は会社も相当に搾取されているのだ。

 

なぜって、誰でも知っているだろうけど、人材派遣会社から派遣されてきたバイトに、会社はかなりの時給を払っている。求人、雇用、解雇、これらの業務をすべて人材派遣業が代行してくれるわけで、それらの面倒事をすべて引き受けてくれるなら、少々時給に色をつけて払っても差し引きではお得になるという理屈。

 

なるほどたしかにそんな気がしてくる。集まるかどうかわからん求人広告出すだけでも費用というのはバカにならんのだ。そしていらなくなった人材の解雇だって、普通の人が考えているよりずっと厄介な仕事だ。

 

それを全部やらなくていいなら……。

 

人手の確保に苦しんでいる経営者は多い。そこでうっかり人材派遣業者の口車に乗ってしまうのである。

 

人材派遣業者の介入で失われるもの。

 

労働者のクオリティ。なにしろ、人件費のピンハネこそが人材派遣業の収入源なのだ。醍醐味といっていい。

 

考えてもみてほしい。最低時給スレスレで雇ってきた人間を、1000円を軽く超える時給で雇う羽目になるのだ。この不合理を受け入れる事が出来る人間はよほど感覚が鈍いか、かなり運良く人材に恵まれたか、もともと多大な利益幅を確保出来ていた事業かのどれかなのだろう。

 

しかし求人広告費もかからなくなったし、人事部の経費も削れたし、たとえ時給780円レベルの人間に1500円払ってたとしても、やはりトントンなんじゃないの?

 

そこが癌だったりする。人材派遣業の介入によって、労働のクオリティーだけはなく、求人や人事のノウハウだって失われてしまう。効果のある求人方法、労働者の見極め、上手い解雇の仕方。そういったものは簡単には培えない。それら一切合財を捨てて、立派な人材派遣業依存体制が出来上がる。

 

これは最悪だ。人材派遣業に利益を提供するために仕事を受注してるようなもんである。

 

そんなヘボな人材しかよこさない人材派遣業なんて信用なくなって契約を切られてしまうんじゃないか?

 

そうかもしれないけど、今の御時世はどこの人材派遣業だって似たり寄ったり。だから人材派遣業体質になってしまった会社に残された選択肢としては、悪辣なA社から、悪辣なB社に契約を変更することくらいだ。

 

人材派遣業も、会社をみて商売しているから、経費が潤沢にある大企業相手にはかなり便宜を図って仕事をもらいにいく反面、こういう切羽詰まっている会社はとことんカモにしようとする。いくら人材派遣業社を変更したって同じである。本当にやるべきことは人材派遣業と縁を切ることなのに。

 

そういう脇の甘い会社であるから、当然のことながら銀行からの借り入れだって多い。すると銀行の金利の支払いにも利益が吸い上げられている。

 

そして他にも業者に丸投げしてる業務も多いやろし、そもそも自社の本業というのが下請け業務だったりして、そっちでもひたすら価格を叩かれてたりしてるとしたら目も当てられない……。

 

あかん、悲しくなってきた。なんでこんな会社をやってしまっているのだろうか。これでどこに利益が残るんだ?

 

そうなってくると最後に手を付けるのは、従来からの人件費だったりする。古株の技術のある社員の給料を叩く。リストラの名目で退職させてみたり。もしくはむやみにサービス残業をさせてみたり。こうして会社からの人離れは加速する。

 

人材派遣業に手を出したばっかりに骨と皮だけしか残らないような会社…。(こんなもんに手を出す会社は、元から色々な方面で問題を抱えていたという説が有力だけど)

 

丸投げというのは、旨味をぜんぶ吸い上げたダシがらみたいなんを、飢え死にしそうになってる相手にチラつかせて儲けることをいうわけで、ただその業務が「めんどいから」とか、「ノウハウがないから」とかいう理由で丸投げすると、ハイエナみたいな連中に旨味も何もかもみんな持っていかれることになる。

 

国家の食糧問題にしてもそうだろう。自分ところで作らなくても、他所の国から輸入すれば良いとか言ってると、いざというときに何も出来なくなってしまう。ほんとに困窮している人間には、誰だって高値で売りつけようとするもんだ。世界一の輸入大国のアメリカは、世界でも有数の石油生産国で小麦やとうもろこし市場を牛耳っているという事実を忘れてはいけない。

 

アウトソーシングとか、コンサルティングみたいなもんには、うっかり騙されることなかれ。よほどの閃きでもないかぎり、自分でコツコツやらんもんが儲かるわけがないのである。

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『南京事件 兵士たちの遺言』(ギャラクシー賞ドキュメント優秀賞)は絶対に観ておくべし

NNNドキュメント南京事件 兵士たちの遺言』という番組が10月に放送されて大きな話題をよんでいる。

 

南京で起きた虐殺事件の一端を、複数の兵士による日記から推測し、その日記の信ぴょう性も、日本中国をまたにかける執念の調査により、完全に裏付けしてしまったのだ。

 

従軍兵士の日記を三十冊以上も収集した研究家の長年の努力には頭がさがるし、日記の裏付け調査を丹念にすすめていった番組スタッフの努力は称賛に値する。

 

南京大虐殺といえば「当時の日本軍が南京を陥落せしめた時に民間人を含む大変に多くの中国人を殺害せしめた」という具合に学校で教えられてきた。なぜ日本軍はそんなにたくさん中国人を殺害する必要があったのか。

 

東京裁判で認定された殺害数は20万人。戦後の中国側の発表では30万人が殺害されたとなっている。途方も無い虐殺ということになる。

 

ただ漠然と「大虐殺があったから大虐殺があったのだ」と教えられてきた僕らは「本能的な納得のいかなさ」を感じていた。

 

じゃあなにか、日本軍というか日本人は言語道断の蛮人であって、悪逆非道の集団だから、そのような空前絶後の犯行に及んだということか。

 

同じ日本人として認めがたい話である。身近な日本人にそんな蛮人はいないのであって、意味もなく何十万人も殺すなどという話はにわかに信じがたい。

 

しかも被害者が30万人になったり40万人になったりいい加減ではないか。この話はひょっとしたら胡散臭いんじゃないか。

 

南京大虐殺否定説は、そういう反動から発生したのだと思う。

 

それはそれで行き過ぎということで、ちょっと間をとって「南京事件」みたいな言い方にしましょうというのが近年の流れなのだと思う。たぶん。

 

たしかに10が20になったりしたら困る。かといって0にしちゃうのはもっとイカンかったのかもしれん。でもまあ、それもこれも、「あまりにも我々が南京事件について知ってることが少ない」ことが原因になってるのではないか。

 

それにしても、なんでだ?

 

なんで南京では数万人以上の規模の殺戮が行われたのか?

 

どういった軍隊がそんな事をしでかすんだ…。

 

同じ日本人として、日本人が鬼畜の集団だとは思いたくない。でも、じゃあ何がどうなってこんな問題になっているのか。わけがわからない。

 

そもそも日本政府なり日本軍なりが、南京での出来事の記録を一切保持していないからいけない。戦後に重要な書類は焼き捨てたという話がいくらもある。本当にやましいことがなければそんな事はしないだろ。

 

このドキュメントは、みんなが考えていたような、ぼんやりした南京事件について様々な疑問を完璧に解消する内容になっていた。

 

番組自体はネットを探せば観ることが出来るのでぜひ探して自分の目で確かめて欲しい。

www.dailymotion.com

 

番組の中の調査で明確になっていたのは、日本軍は当初の予定にはない南京攻略戦によって、たいへんに食料が欠乏していたという事実。「食料は現地で調達よせ」というのが上層部の命令だった。

 

ここにおおよそ近代軍隊とは呼べない野盗の集団が生まれる。行く先々の村で、略奪、強姦、殺人などを繰り返しながら南京に迫る日本軍。

 

ここの日記の記述が生々しく恐ろしい。

 

「実に戦争なんて面白い」

 

フィクションではなかなかお目にかかれない意見だ。ぞっとする。

 

そして南京が陥落する。何万人という捕虜。ここまで略奪を繰り返して進軍してきた日本軍である。捕虜に食わせる食料なんぞあるわけがない。

 

たちまち捕虜は厄介者となる。かといって開放して敵に利するのも癪だ。

 

じゃあ殺してしまおう。

 

なんという短絡思考。たしかに短絡的だ。だけどその背景にあったのは、「上海に上陸した軍を、ついでにそのまま南京に向けたら良いじゃないか。準備がない?じゃあ現地で調達させろよ」という恐るべき上層部の短絡思考だ。軍隊なんだったら、綿密な計画を立てろよ。兵站を軽視すんなよ。「飯くらい敵地を漁ればあるだろ」ってなんだそれは。ジンギスカンだってそんな無茶苦茶はしなかった。

 

インパール作戦の悲劇にしたって、「上層部の思いつき」に軍が従った結果だ。今では笑い話にもならない計画で何万人も死んだ。他の戦場でも、ずさんな計画によって、日本軍は飢え死ぬか、野盗のように現地人を襲撃するしかなくなったりした。日本軍の戦死者の六割は餓死者だという研究もあるくらいだ。無計画のせいで死んだ者を入れるとどれくらいになるのか。

 

なんでこうも思いつきや出たとこ勝負が多いのかと呆れてしまう。これが近代化された組織の有り様だろうか。誰か上の人間が思いつく。現場はそれに従う。その結果がどんな悲劇を生もうがただ従う。その理不尽さや無計画なところは、今も変わらないのではないか。

 

実際には誰の名目で、どのような命令があったのか、全くわかっていない。なにしろ、記録が全く残されていないからだ。

 

司令官であった松井石根大将も「私は命令していない」と言い張ったまま死刑になった。

 

番組を見てもらえばわかるが、捕虜の処刑組織的に遂行され、何人もの兵士の日記の記録によって裏付けがとれている。司令官が「まったく知らない」というのは無理がありそうだ。松井大将は一体何を隠していたのだろうか。なにを守っていたのか。

 

詳しくは番組の動画を見て欲しい。このドキュメントをプロディースしたのは『桶川ストーカー殺人事件 遺言』や『騙されてたまるか』で有名な、調査報道のプロフェッショナルの清水潔記者だ。調査報道とは、自分の足で調べた事実を元に、報道する行為である。まさに現代の探偵といえる。現代の探偵が、歴史上の事件まである程度の解明をしてしまったのだから恐れ入る。

 

本来は、誰の目にもとまらぬまま、埋もれてしまっていたかもしれない、一般兵士たちの日記。そこに封印されていたある事実を、歴史の闇から救い上げたこの番組の功績は大きい。人類の愚かさの記念碑として、日本人の愚かさの記念碑として、いつまでも語り継がれるべきものだ。

 

<追記>

2016.6.2.このドキュメンタリーがテレビ・ラジオなどの優秀作品に贈られるギャラクシー賞のドキュメント優秀賞を受賞した。このような良質な報道が評価されたことはまずはめでたい。

 

<追記2>

 2017年現在「南京事件 兵士たちの遺言」のワードでググると、この番組はデタラメであるというような中傷サイトが数多く上位に現れるようになっている。どれもこれも適当すぎる言いがかりで、番組の内容すら見ずに書いているとしか思えないものばかりで嘆かわしい。なぜこんな事になったかというと、産経新聞が特集記事まで使ってこの番組に言いがかりをつけるという報道にあるまじき行為に出たことが強く影響していると思われる。詳しくはこちらを。

www.excite.co.jp

 

butao.hatenadiary.com

 

「南京事件」を調査せよ (文春文庫)

「南京事件」を調査せよ (文春文庫)

 

 文庫版が発売されている。追加取材や、まえがき、あとがきが大幅に書き足されているので、これからなら文庫版がオススメである。Kindle版も文庫版になっている。

 

桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

 

 

殺人犯はそこにいる: 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件
 

 

騙されてたまるか 調査報道の裏側 (新潮新書)

騙されてたまるか 調査報道の裏側 (新潮新書)

 

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ブレンディのCM動画は観るな。そして続編の方はもっと観るな。

www.youtube.com

上記のブレンディのCFがものすごいってんで話題になってたので観てみたらぶっとんでた。なみのホラー映画よりも怖い。たった2分半によくこれだけ様々な背筋の寒くなる要素を凝縮したと思う。2分半とは思えない長さを感じた。普通のCFでは無いだろう。どこで公開されてるのか。僕はテレビは見ないからテレビで流れているのかどうかは知らない。

 

そんな僕がこれを知ったのは、てっちゃぎさんのブログがあってこそだ。というか、てっちゃぎがブログにしたためてわざわざlineで送ってきてくれた。ありがとうてっちゃぎ。

tettyagi.hatenablog.com

まず何のCFかさっぱりわからないところが怖い。子供たちがみんな鼻輪をつけているのが怖い。何の説明もなく。そして学校の卒業式みたいな場面が出てきて、一人づつ呼びだされている。しかしおかしい。卒業証書を渡されるとともに、なんか就職先みたいなものまで言い渡される。職業訓練校みたいなあれ?よくわからんけど世界観が……。

 

山田ファームに配属が決まった鼻輪をつけた男の子はそれなりの顔。

ロデオパークや、動物園に決まった子はめちゃめちゃ嬉しそう。

 

動物関係がそんなに好きなのか?

 

闘牛場に配属が決まったオラついたDQNはめちゃめちゃ暴れて取り押さえられる。

田中ビーフに配属が決まった子は泣き崩れて周りも「気の毒に」「かわいそう」みたいなざわつきがおきる。懐かしの『バトル・ロワイアル』を思い出す。(特に映画のほう)

 

そこに「進路は時に不平等な現実をつきつけてくる」と暗いナレーションが入る。

 

なんかわからんけどすごいディストピア感がある。やっぱりこいつら奴隷かなんかなんか。そして映しだされた卒業証書や後ろの横断幕を見ると卒業式じゃなかった。

 

「卒牛証書授与式」

 

卒牛!!

卒牛!!!

 

つまりこいつら奴隷どころか牛だったのだ。山田ファームだったらのんびり農業かなんかに従事できるということでとりあえず安泰。動物園やロデオで見世物にされるのは考えうる限り最高の進路らしい。

 

そしてもちろん闘牛場と田中ビーフは死刑宣告だ。

 

ものすごい勉強したり努力したりして、見世物として天寿をまっとうするポジションを目指す。出来の悪いやつも闘牛としての死の見せ場が用意される。箸にも棒にもかからないやつは、せめて食肉として有効活用される。やっぱりディストピア感がすごい。

 

人を牛になぞらえて社会を皮肉っているとか、牛を擬人化して映像にしたとか、いろいろの解釈が可能なんだろうけど、僕は全体からただようただならぬディストピア感を最大限に支持して、こいつらは遺伝子操作で極度なまでの人間化を施されたバイオ牛なんだと理解したい。まあ、いってみれば、遺伝子工学で創りだされた件(くだん)といえるだろう。件といえば、凶事を予言するといわれる、人と牛のあいの子の妖怪だ。

 

SF小説の大家である小松左京のホラー小説に「くだんのはは」という禍々しい作品がある。鼻輪をした高校生たちの見るものを不安に陥れる風貌は、まさに「くだん」から発する妖気だったに違いない。

くだんのはは (ハルキ文庫)

くだんのはは (ハルキ文庫)

 

家畜牛の管理と飼育の効率性と質の追求の行き着く先が、牛の人間化だったというSFホラーはありそうである。ディストピアSF小説は逃げ場なんかどこにもない感がものすごく怖い。『1984』とか。『動物農場』とか。『すばらしい新世界』とか。『家畜人ヤプー』とか。映画だったら『未来世紀ブラジル』だ。

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

 

 

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

 

 牛たちは、人間のような知能と肉体を与えられて、自分が最高に輝くように努力をさせられる。自分の人生のために頑張っているように勘違いさせられているがぜんぶ人間の利益のための努力だ。ヒューマノイド牛たちが、見世物になっても、食肉になっても、どれもこれもニンマリとした顔で享受するのは人間たちだ。ヒロインにあたる女生徒の両親みたいな人も、鼻輪をつけているのが不気味である。牛の親が、牛の子供を、人間さまの最高の役にたつ牛になるように、願っている。牛の親はなんの役目を担っているのかはわからない。あ、種牛か。

 

卒牛証書とは、文字通り「牛を卒業した」証明書を渡す儀式だ。あるものは、屠殺という方法によって「牛を卒業」して「肉」になるのだろうけど、それ以外のものは「件(くだん)」としてやっていくことを認められるのだ。

 

ヒロインはめちゃめちゃ勉強し、死ぬ気で飯をつめ込んだり、運動したりして、極度に乳を肥大化することに成功する。そしてその結果勝ち取った役目は「濃い乳を出し続けなさい」だった。

 

卒牛証書をわたしながらニンマリする校長。

 

こ、こいつには鼻輪がない!

 

つまり校長は本来ならばこいつらヒューマノイド牛たちの敵!飼育管理施設の所長かなんかだったのだ!

 

遺伝子操作された牛(件)の乳はきわめて母乳に近いのだろう。そんな牛乳を供給する役目を仰せつかり感無量の女生徒。つうことはたぶん、人間に近い遺伝子構造を利用して、臓器バンクにされるヒューマノイド牛なんかもいるのだろうという連想にいきつく。そんな役目に決定されるよりは、母乳係の方がまだ幸せっちゃあ幸せか。しらん。

 

そしてそんなバイオな母乳がたっぷり入ったミルクコーヒーがブレンディ?

 

おいおいなんのコマーシャルやねん!そうだったこれはCFだったのだ!

 

うわぁ、こんな壮大なストーリー見せられたら、ブレンディ飲みたくなるわあ……ってなるかバカ!

 

これはどうも、ブレンディのCFの体を借りて、短編映画を撮影したということらしい。こういう短編映画のスポンサーがたまたまブレンディだったと考えればオーケーだ。だから少々無理があったもオーケーなのだ。

 

だからこれも

Blendy特濃ムービーシアター

とかではなく

 

AGF提供ブレンディ恐怖SF短編劇場

 

こう冠がついてりゃ納得できる。

 

飼いならされた高校生たち。鼻輪と奴隷感。女子高生は動物園で見世物か、搾乳=セクシャルな消費をされるのが最高のポジション。日本の社会をひどく皮肉っているように思う。たった2分半でここまでやれれば十分なんでは。

 

いうても僕は背筋が寒くなった。家畜が人になるか、人が家畜にされるのかは知らん。なんどもいうが、件(くだん)は凶事を予言すると言われている。

 

「この短編映画は、バイオ件たちの姿を描きつつ、日本の暗い未来を予言しているのだ!警戒を怠るな!」

 

というようにでも好意的な解釈をする方が、作った人(だれか知らん)も喜んでくれるのではと思うのだけど。まんがいちそうじゃなかったとしても、少なくとも精神衛生上は良いと思う。

 

ちなみにこれは2014年にキャンペーンで公開された作品らしい。もう特設サイトも閉鎖されている。なんでいまごろ話題になってるのかは知らない。そして当時は続編もあったようだ。続編もYouTubeにあがっているのだろうか…と思ってたらあった。しかしSFホラー色はまったく無くなっていた。

 

というか、つながりすらほとんどあってないような!?なんじゃこりゃ!?見なくていいよ!?

www.youtube.com

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誰も言わない新国立競技場問題の本質

新国立競技場問題についての新聞記事とかテレビ報道とかほとんど知らないけど、何が問題でどうしてコストがあれほど膨れ上がっているかは、あれこれ報道を読んだりするまでもなく簡単に理解出来る。

 

問題はアーチ状を含むデザインにはないし、ザハ氏がどうこういう話でもない。ラグビーとかそういう話でももちろんない。そんな瑣末なことをああだこうだもっともらしく論じている人が多いのが本当に嘆かわしい。完全に誘導にかかっているとしか思えない。誘導とはなにかといと本質への追求をかわすためのことだ。しかし問題の本質は誰の目からみても明らかではないか。

 

なんでこんな当たり前の事を、誰も問題にしたり怒ったりしないのか不思議でしょうがない。日本全体があまりもの堕落し過ぎていてわけがわからなくなってしまったのか。

 

本質はどこにあるのかといえば「国としては3000億円くらい使いたかった」ということに尽きるのではないか。国際的に著名なザハ氏が起用されたのだって、大規模な工事が予想されるデザインにゴーサインが出たのだって、「国として先進的なデザインを求めていた」というわけでは決してなくて、「そのほうがたくさんお金を使う名目として適当だから」に他ならない。

 

東京五輪だなんだって挙国一致体制が出来上がっているのだから、3000億円くらいは予算引き出しても何とか押しきれるだろうという思惑が、政治家、官僚、ゼネコン各社にあったという事だ。

 

そんな真剣に五輪やりたくてやりたくて情熱を燃やす人間が日本の中枢部にいると本気で思う人はいるか!?そんなもんないだろ!?金でしょ!?

 

そこまで堕ちているのですよ日本というのは。いくら日本スゴイ本を出版したってダメなもんはダメだ。そんなもん出しまくっているのが落ち目の証拠である。

 

ザハ氏の事務所の主張では「最初から業者が決まっているようだったしコストダウンの話には耳を貸す気は無かったようである」というような主張してるのも無理からぬ話である。

 

せっかく苦労して膨れ上がらせた予算なのだ。ここから入札でコストをダンピングしようなんて話は、この事業計画の関係者にとってはまさに「余計なお世話」以外の何者でもないのだ。

 

新国立競技場建設をダシに、いかに国家予算を山分けするか」が焦点だったのだから。

 

この国の事業計画というのはほとんどこんなもんである。モラルハザードもいくところまでいっている。

 

箱物行政は杜撰なものが多いという話はいくらでも転がっている。公共事業で作ったはずの施設。立派な建物と最新鋭の設備。しかし細部では不備がやたら目につく。それも通常の利用に支障をきたすレベルで。たとえば芝居する劇場なのに、搬入口や楽屋を作り忘れたなんて笑い話があるくらいだ。でも税金を投入してるのだ。笑ってられない。

 

なんでそうなるか。誰かが真剣にそれを必要として取り組んだ計画ではないからだ。柱になる責任者が不在だからだ。そこにはお金を山分けしようという利害関係者しかないない。そんな目的で計画された事業である。誰が実際の建物の事を気にするものか。もし最初にそれを必要とした人物なり団体なりがいたとしても、それはただただダシとして使われただけ。だからおかしな点があっても、利害関係者の不都合には口を挟めない。安藤忠雄だってなんだって。自分もかわいいし。

 

こういったモラルハザードがなぜ起こりえるのかといえば、ストッパーが不在だからだろう。箱物行政をいくら批判したとしても、自民党が勝ち続けてきたという歴史がある。国民の中にもどこか、山分け計画のおこぼれにあずかれるんじゃないかといういやらしい下心がある。この政治家あってこの国民ありだ。「デカイ公共事業があれば金が回る」式の理論だ。しかしちょっと冷静になればそんな理屈は無いことがわかる。金は大手ゼネコンや政治関係者の間で山分けされるだけである。下はくたびれ儲け。そして金食い虫の施設に税金を吸い取られる。つまりまた提携企業だけが儲かるのである。日本国民はそれでも、トリクルダウンなんて夢幻をアホみたいに追うのか。

 

さすがに今回の新国立競技場の金額はでかすぎたようで問題になった。いくらモラルハザードとはいえ、ちょっとばかり国民を舐めすぎたということだろう。白紙に戻すとかいっている。しかしそれでそれほど修正されるのか。もうこの段階において数十億くらいは戻ってこない金があるとか言ってる始末。

 

結局は軽く1000億くらいは平気で使いそうだけども。こういう問題を議論すらしてないってのはどうにかならないのか。そりゃ身も蓋もないといえば身も蓋もない現実だけど。しかしそれに本当に蓋をしてしまってどうするのだろうか。大本営発表を信じ続けて焼け野原までやる歴史を繰り返すのだろうか。

 

騙されてたまるか 調査報道の裏側 (新潮新書)

騙されてたまるか 調査報道の裏側 (新潮新書)

 

 

日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか

日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか

 

 

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コンビニから見える賃金差別のとんでもない実態

日本では、最低賃金というのが都道府県別に決定されており、同じ仕事であっても働いている地域で賃金差別を受けてしまう事実を皆さんは知っているだろうか。知ってるちゃ知ってるし、知らないっちゃ知らない感じの知識か。最低賃金というのは知っているけど、これって都道府県別だっけ?という人は多いだろう。そして社会常識であるから頭では知ってはいるけど、しかしこれを問題視するところまではいかない人も多いかもしれない。だけど僕はこれは凄い差別じゃないかと思う。しかも生活する場だけで差別されるというとんでもない悪質な類の差別だ。

 

例えば大阪の中心地である梅田の、とあるコンビニの店頭に貼りだされていた店員募集で示されていた時給は、850円だった。これを高いとみるか安いとみるか。大阪府最低賃金では、時給は838円以上にすべしとあるので、それよりかは12円は高いのである。とすれば最低ランクの給料ではないということだ。しかし東京都内ではコンビニで働いて時給850円ということはない。なぜなら東京都の最低賃金が定めるところの時給は888円だからだ。だから時給850円でコンビニで働らかせているところがあればはっきり違法であるので、大手チェーンのコンビニがそんな危ない橋を渡るようなことはしないので、東京都内でコンビニで働いている以上は888円はもらえるのだ。最低でもだ。もし大阪の梅田のように、最低賃金に対して12円の下駄をはかせるくらいがコンビニ時給の相場だとしたら、900円はもらえるということだ。もちろん大阪でも時給900円のコンビニが無いわけではないが、例に示したような850円のコンビニだってある。梅田の都心部でかなり客の多いコンビニでもだ。しかし東京だったら、どんな僻地の暇なコンビニだって最低でも888円は払わなければならない。同じ仕事をしていても、東京というだけで888円は保証されている。しかし大阪というだけで838円で雇われる可能性が常にある。東京においては838円なんて時給は絶対にありえない。違法の仕事でないかぎりはどんなしょうもない仕事でも888円からスタートなのだ。何度も繰り返すが、大阪だと888円というのはそこそこ張り込んでも働き手が欲しいという値段なのに、東京だと最低ランクの給与なのである。神奈川だって887円という最低賃金がある。

 

最低の評価をされたとしても838円スタートと888円スタートじゃかなり違う。しかもコンビニバイトである。そりゃ優秀なコンビニバイトと、程度の低いバイトがいるだろうけど、どんなにヘボでも最低賃金はもらえるので、この差は埋まらないのだ。

 

大阪なんかはまだ良い。マシな方だ。これが高知や沖縄だったら677円が最低賃金なのだ。高知や沖縄にはコンビニは無いのか?そんなわけがない。ファミリーマートやローソンがある。売ってるものだってサービスだってほぼ同じ。もちろん仕事だって同じ。なのに東京だとどんなヘボ店員でもどんな暇店舗でも888円はもらえる仕事を、那覇市の繁華街のど真ん中のコンビニだったら、もしかしたら677円しかもらえないかもしれない。いや、さすがに677円てことは無いかもしれないけど、700円てことは十分に有り得る。

 

試しに「那覇市 コンビニ」でググってみたら、那覇市ココストアというコンビニはまさに677円という最低賃金で求人を出していた。ココストアなんて聞いたことない?愛知県が本社の、いちおう全国チェーンコンビニである。わずかずつではわるけど関東や関西にも店舗がある。そんなコンビニが677円しか時給を払わない。それはココストアなんかいうマイナーなコンビニだからか?同じ条件でファミマの求人を探してみたら700円。やはり予想通りではないか。

 

ファミマで一時間働いて700円。何度も何度も言うが、全く同じ仕事をしても、東京だったら700円なんてことはない。最低ランクですら888円は貰えるのだ。そしてファミマで売っている品物は、沖縄だからといってコーラーが安いとかはない。同じだけ働いても、東京のコンビニ店員に比べて、沖縄のコンビニ店員は、自分とこの商品がバカ高い。手が出ない。

 

そのぶん、沖縄は家賃が安いだろうって?そうですか?じゃあ沖縄に住みますか?家賃は安いかもしれんが、コンビニの商品やマクドナルドの商品が高いのは事実だ。そしてAmazonその他のネットサービスだって、沖縄だからといって手心を加えてくれるだろうか。本にしたって、コンピューターにしたって、沖縄価格なんてものは無い。全国同じ値段だ。その上、沖縄は余計に配送料がかかる。 配送料が内地より得なのは、沖縄独自の商品だけ……。

 

これは沖縄だけではなくて高知だって同じだ。はっきりいって家賃くらいしかアドバンテージないのに、地方で安い給料を貰って嬉しいのか。その地方で生まれ育った人は離れたくないと思っているかもしれないけど、ひたすら不利な事が多い。どうしたって東京に出て行って暮らした方が良いと判断するかもしれない。総合的にどう判断するかは、そりゃ人それぞれだろうけど、地方はどんどん人がいなくなって、首都圏の人口が過剰に膨れ上がっているという事実は動かしがたい。国が仕組みとして、率先して一極集中を促進しているのは間違いがない。その大きな流れにしたがって国民は動いているのだ。賃金格差はその一環として存在しているに違いない。いや賃金差別と言い直したい。同じ仕事で同じ賃金がもらえないというのは、どう理屈をこね繰り返したところで差別でしかないだろう。

 

少なくともこういった単純な賃金差別くらいは是正しないと、地方に人が住み続けるという選択は、ただただ不利だけを強いられることにならないか。この差別に声をあげている人はあまりないように思う。だからせめて温玉ブログでは「賃金差別をやめろ!」と小さい声をあげてみる。

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安倍&橋下という最低タッグが生み出すもの

ものすごく良くない方向に世間が動いているようだ。そして胸糞悪いニュースでずっと賑わっている。胸糞悪い事は触れたくないけど、日本で暮らしていくうえで、どうしても触れなきゃどうしようもないと感じたから触れようと思う。年末年始にも胸くそ悪い事件がいっぱいあったけど、そんなものすっかり吹っ飛んでしまった。それくらい日本がよくないところに進んでいるのだろうと思う。
 
もちろんその胸くそ悪い話というのは、安倍内閣がゴリ押ししようとしている集団的自衛権についてだ。
 
集団的自衛権憲法違反であるとはっきりと決まっている。だからきっとこの戦争法案を通すために、安部内閣憲法の改定を強行するだろうと予想していた。しかし事実は僕の想像なんかはるかに斜め上をいっており、安部内閣憲法はそのままにしておいての強行突破をはかってきたのだ。
 
もちろん野党の反発は半端ないし、自民党内にも反発者が出てくる始末。さすがにこの情勢はやばいと思ったのか。憲法学者のうちで御用学者として安部に従ったのはわずか三人。原発のときは御用学者というのはいくらでも湧いて出てきたことを考えると、今回はどれだけ強引で無茶なことをやっているかわかるというものだ。それでも安部は強行しようとしている。この自信の根拠はどこか。なんでこんな強気なのか。
 
もちろんバックにアメリカ様がついてるというのもあるけど、なにより先の総選挙の空前の大勝利が背景にあるのは間違いない。原発を再稼働するとか、消費税をあげるとか、無茶苦茶を言っても国民は黙ってついてきてしまったのだ。それだったら戦争法案だってゴリ押し出来る。なにしろ日本を取り戻すのだから。二度の総選挙の大勝利が安部に与えた万能感たるや凄まじいものがあると推測される。事実、国民も、マスコミも、完全に安部に従ってきた。ヒットラーもかくやである。
 
しかしヒットラーだって政権を完全に掌握するためにはあらゆる策を弄している。安部首相にそれだけの準備があったのか。そんなものはもちろんない。安部首相をそんな策士だと考える人間はどこにもいるまい。彼は与えられたポジションで、ただただ棚ぼた式でたまたま勝利を手にしてきただけである。準備もなければ覚悟もない。勝利だけを手に入れて、根拠のない自信を深めていったやっかいな存在だ。そして依然としてそのポジションだけはある。きわめて危険な存在であるには違いない。
 
 
今回の違憲問題での周囲の猛反発は、安部にとって2007年の辞職以来の挫折をもたらすのだろうか。これまで盲目的に安部にしっぽを振ってきたマスコミでさえ、さすがに潮目の変化を感じて、躊躇し出している。相変わらず猛烈な援護射撃を加えているのはNHKだ。NHKは比較的に中立だなんて思ってた自分が恥ずかしくなる。NHKというのは完全に権力のコントロール下にあるメディアだった。組織の成り立ちからいって当然だったのだけど。
 
 
同じく万能感に包まれながらの挫折と屈辱を、一足先に味わった男がいる。橋下徹である。選挙での圧倒的な勝利を背景に、関西てあらゆるゴリ押しを通そうとしてきた。そして関西マスコミは完全に橋下の思うがままだった。しかし最後の最後で見誤った住民投票。これにきっちりと敗北して顔を真赤にしたものだ。政治家をやめるとまで言いはなった。
 
しかし、まともな神経をしていたら、この男の言うことなんて20000パーセント信用出来ないことはわかっている。
 
同じ道を行きつつある安部首相が呼び寄せたのが、この橋下なのだから話はわかりやすい。
 
野望一歩手前で転げ落ちた男と、野望一歩手前で転げ落ちつつある男の最強タッグである。
 
安部首相に呼び出されて、三時間話し込んだ末に橋下徹がやったこと。
 
Twitterでの民主党批判だった。
 
お前は子供か!!!
 
わかりやす過ぎる。あまりにも単純。橋下徹って頭が良さそうってイメージがあるし、実際に頭の回転も早いんだろうけど、やってる事はあまりにも単純。アホ丸出し。
 
こんなわかりやすい人間が、本当に頭いいといえるのだろうか。
 
おそらくは、こんなシンプルかつ頭の悪いやり方の方が、世の中で勝利を重ねていく上では、もっとも効率が良いんだろう。たぶんそうだ。それで橋下氏は世の中で勝利し続けてきた。世の中アホしかいないなら、アホの王様になるのがいちばんである。賢いがゆえに、効率を求めて、アホになっていくというのは、なんとも皮肉なことであるが、結果だけを求めたかったのが橋下徹という男なのだから仕方がない。それだからこそ今のポジションがあるのだ。大阪市長としての結果には不満があるにせよ。
 
しかしまだチャンスはある。安部政権に食い込みまくれば一発で逆転である。もとより権力指向しかない男である。大阪がどうとか、東京一極集中がとか言ってたが、それもこれも与党、つまり既存の権力に対して一定の影響力を得るための方便であることは、まともな見識をもつ人からは完全に見透かされていた。大阪府知事に売って出たのも、都知事よりもはるかに現実味があったからに他ならないし、旨味もあると考えたからである。
 
それから順風満帆に進んでいた野望。それがあと一歩というところで手が届かなかった。しかしその実績を買われて既存権力のトップに助力を乞われるのだから望むところであった。得意顔して参上しないわけにはいくまい。
 
安部を賢いと考える人間はおるまい。どう考えても橋下徹の方が賢いであろう。でも賢くなさそうな安部に尻尾を振って、実にわかりやすい芸をしてみせる橋下徹は賢いのだろうか。安部なんていうアホは、懐に入りさえすれば自分が食い殺せると考えているのか。いずれにせよ、安部政権や橋下徹を応援してしまう人間に賢いのは居そうにはない。
 
アホ丸出しの安部首相とか、その取り巻きが少しでも素晴らしいと思えたならば、ちょっとは自分の見識というやつを疑ってみるべきではないだろうか。

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大阪府民に大阪都構想支持者は少ないという現実

橋下大阪市長大阪都構想の是非を問う第一段階である大阪市解体についての住民投票が5月17日に行われた。結果はみさんご存知の通り、僅差で反対票が上回り大阪市解体は阻止された。

 

大阪府民ではあるけど、大阪市民では無い僕にとっては投票権の無い選挙であったので、完全に蚊帳の外におかれたわけだけど、毎日のように通っている大阪市のことであるし、大阪都構想自体が大阪府全体に多大な影響を及ぼすものだ。なのに大阪市民にしか選挙権が無いという理不尽さがまずそもそも気に入らなかった。そして今回の住民投票のルールは特にとんでもなかった。

 

投票率に関係なく賛成(あるいは反対)が一票でも多ければ選挙が成立する。」

 

これは酷くないか?

 

大阪の未来を問う選挙なのに、大阪市民しか参加が出来ない上に、投票率如何にかかわらず成立してしまうなんてあまりにも住民無視の「とにかく勝てばよかろうなのだ」式ではないか。

 

大阪都構想てなんやようわからん…」という人は、ようわからんがゆえに投票に行かない。「よくわからないものはとりあえずNO」なんて積極姿勢をもっている人なんてかなり少ないのだ。「興味ないわ」という人だって同じだ。興味ないものになんでわざわざNOを言うために選挙に行くのか。

 

それに対して「橋下さん信じている!橋下さんのいう都構想はきっと素晴らしい!」という考え方の人は、かなり高い確率で賛成に投じるために選挙に足を運ぶ。もし、こういう人が市民の過半数いたのなら仕方がない。本当は「府民の過半数」といいたいところだけど、仮に大阪市民の過半数が橋下市長についていきたいと意思表示したなら、不本意ではあるが、住民投票の結果として受け入れるしかないだろう。しかし実際は「投票のうちの1票でも多い方で決める」というルールなのだ。完全に大阪都構想に有利な状況での住民投票だった。

 

で、選挙の投票結果がどうなったか。投票率は約66パーセントという高い関心の選挙になった。そして結果としてはギリギリのところで反対が賛成を上回った。

 

これをもって市民の半分近くは橋下市長を応援していたんだなあ、などとぼんやりした感想をもつのはやめて欲しい。それだったら、先に述べた「都構想支持者の積極性」という原則を考えれば、住民投票は橋下派の圧勝に終わっていたはずだ。でも66パーセントの投票率で、なおかつ接戦だったというのが実際だ。

 

つまり大雑把にいって大阪市有権者の33パーセントが橋下支持で、67パーセントくらいは「橋下市長の構想をそないに評価しているわけでもない」層であると言える。そして67パーセントのうちの半分近くは「橋下市長の構想に積極的にNO」と言いたかった層である。

 

結論として、大阪都構想を支持したのは、大阪市民の半分どころか3分の1以下ということだ。

 

大阪府民だったらわかることだけど、橋下氏が大阪府知事に就任した2008年からこっち、別に大阪府民の暮らしも、大阪市民の暮らしも、目立って良くなったところとかは無い。それは「府知事だと満足な仕事が出来ない!」とか言いだした橋下氏が大阪市長に収まってからも同じだった。そのかわり橋下氏は、様々な施設や市民サービスの廃止には積極的だった。「これで府や市の赤字を解消出来る」とドヤ顔でアピールしていたが、住民にとっては、ただただサービスが悪くなっただけだ。それだけ市の収益を劇的に改善したと胸を張るのなら、その浮いた予算で、住民に対するサービスは向上出来たのではないのか。橋下市長になって劇的な変化があったことで思い出せるのは、地下鉄の廃墟みたいだったトイレが綺麗になったことくらいか。しかし同じ時期に、JRだって私鉄だって、トイレの改装はしていた。

 

そして挙句に言い始めたのは「大阪府大阪市の二重行政じゃ満足な仕事が出来ない!」だ。これが都構想の正体だ。

 

大阪府知事では住民を満足させる政治が出来ない。大阪市長でも住民を満足させる政治が出来ない。だから大阪市を4つの区分けにして、大阪都知事というものに収まらなくてはダメだ。そうじゃないと仕事が出来ない。

 

なんなんだろうかこれは。だいたい今の大阪府の知事は、橋下市長と古くから付き合いがあり大阪維新の会の幹事長という大親派ではないか。これ以上ないくらいのタッグチームだ。それでも大阪を良く出来ないというなら橋下は無能だし、無能でないならば、何らかの悪意があってやっていると解釈するしかない。

 

長い橋下政権下の暮らしの中で、そういうことを肌で感じてきた府民は少なくないはずだ。が、まだ橋下市長のイメージ戦略に夢を見ている人もいる。特に大阪とかかわりが薄い人に多いとみえて、選挙後は特に府民以外の声が強かったように思う。イメージ先行型の橋下政治ならではの現象ではないだろうか。

 

言っちゃなんだけど、橋下政治の中身の無さというのは、実際に関わっている人間にしかなかなか見えてこないと思う。しかし府外の声の煩わしたときたら。20代が70代の票に負けただの、大阪市の南北の地域差の意見の対立が、とかいう架空の話まででっちあげられて、府民としちゃあ不愉快な思いしかなかった。

 

そりゃ「改革者橋下vs老害抵抗勢力」という図式はマンガとしては面白いだろう。しかし大阪の住人にとったら、そんな面白い話でもなんでもない。映画やマンガみたいなストーリーは、大阪府内の現実には存在しなかったのだ。世代間闘争なんてものも別になかった。いつもの政治家の権力闘争があっただけである。

 

20代の票が、70代の票だけで覆されたとかいう印象操作はひどいものだ。ちゃんと計算した人がいたけど、20代の方の有権者は70代よりも多かったのだ。20代がいくら選挙に行っても無駄といかいう話も完全にデタラメで、もし20代の投票率がもっと高くて、賛成反対の比率がそのままだと仮定したら、選挙の結果は覆っていたそうだ。

 

しかしその仮定はあまり意味をなさない。なぜならば都構想の賛成者のほとんどは投票に行っただろうし、残りの有権者は「あまり興味が無い」あるいは「都構想というのはよくわからない」「住民投票を知らなかった」という消極的な層に違いないからだ。これが橋下政治のプロパガンダの現実的な限界だったわけで「浮動票も橋下支持者だったら」などといい出して良いならば、それこそ何でもありの世界になってしまう。

 

もうひとつ酷い印象操作は、大阪市の区による対立地図。あれも後でちゃんと実数を出したNHKなどの表を見ると、ほとんどどの区も拮抗していた。僅差で上回った意見だけを取り沙汰して「この区は賛成、反対」とレッテル貼りをしていたにすぎない。恐ろしいことだ。

 

そもそも世代間の意見対立や、地区による意見対立という解釈も、共にひどいレッテル貼りに違いない。例えば二十代のすべてが都構想に賛成で、七十代のすべてが都構想に反対なら、なるほどそういうこともあるのかもしれないが、二十代にだって都構想に反対していた人もいるのだ。逆に七十代にだって橋下支持者はいたのだ。そういう人の意見を無視してすべて世代で区切って、それぞれの多数派の意見でもってひとまとめにするというのは誰の断りをもってやっていることなのか。あまりにも乱暴極まりないやり方ではないか。

 

そういう口ばっかりの無茶なプロパガンダに「なるほどそうだったのか」と膝を叩いて安易に乗ってしまっている人が支持してるのが「大阪都構想」とか「橋下改革」とかいうものであると考えると、やっぱりどうしたって胡散臭い感じしかしないのだけど。

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宮崎駿の主張には理があるのか?

まさに我田引水なんだけど、釈然としないことなので温玉ブログでもこの事について触れたい。そもそも辺野古基地とジュゴンについての話は何度もこちらで取り上げていることでもあるし。

 

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Twitterだの見なければ良いのだけど、どうしたって目についてしまうことがある。なかでも宮崎駿は子供たちの未来よりジュゴンや自然を守れというのか?」なんて批判をうっかり読んでしまった日には頭がくらくらして倒れそうになる。

 

子供たちの未来のために、自然とか、ジュゴンとか残してやろうていうのがこの運動の主旨だし、子供たちの未来のためにろくでもない戦争に関わることは反対していこうというのは当たり前のことじゃなかったのか。

 

「子供たちの未来のために集団的自衛権と米軍基地をプレゼントしてやろう。」

 

かなり……狂ってるような気がするのは僕だけだろうか。

 

しかし日本では狂って無いのかもしれない。日本人的な感覚でいえば当たり前のことなのかも。

 

沖縄戦といえば未曾有の戦死者を出した戦いとしてご存知かと思う。県民の多くが死んでしまって死にすぎたせいで何人死んだかわからないくらいだ。

 

海軍の守備隊の大田実指令が自決する前の最後の電信は有名だ。

 

沖縄県民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 

かくして、日本政府(ひいては天皇陛下)から「後世特別の御高配」として県民にプレゼントされたのが現在の米軍基地である。

 

米軍基地は良いものという認識。ただし自分たちの近所にあってもらっては困る。こういう日本感覚がずっと養われてしまっていたのでは。それだったらとんちんかんな宮崎駿批判も納得できないけど理解はできる。米軍基地を原発に置き換えても同じことになるようだ。

 

原発はぜったいに必要だけど都内に作って貰っては困る。でも君たちも原発で利益を得ているんでしょ。どうせこんな田舎ではろくな商売もないでしょ。」

 

うううむ。まったく米軍基地と同じロジックである。

 

米軍基地のまわりでレイプ事件や墜落事故が起きても知らん振り。

 

米軍基地が無ければ中国がたちまち襲ってくるというならば、それこそ皇居のそばに設置してもらって防衛して貰えば良いのだし、都内で電気が足りないとか本気で思ってるなら原発かって都内にいっぱい作れば良いのだけど。

 

それを指摘すると「わかってない」みたいにしたり顔で言う輩たち。僕は本当に、心底、そういう人たちが嫌いである。顔も嫌いだ。

 

そういえば宮崎駿原発批判をしたときも「じゃあ電気を使ってアニメとか作るなよ!」と口汚く罵ったりした人たちがいたっけか。じゃあ原発止まっている現在はお前らが電気を使うなよって正論で返したいところだけど。そもそも原発の発電量なんて公式発表でさえ三割程度だったんだから、原発推進するならその三割で生きろよと。そして沖縄には原発は無いってことは無視したりする。

 

こういう感覚を狂っているって思わないようでは、日本人の民度というも地に落ちてると言わざるを得ないんじゃないか。そもそも民度が高かった時代があったのかと疑問にさえ思えてきた。

 

マッカーサー「日本人の精神年齢は12歳」と言ったのは正しかった。歴史と伝統文化だけは無駄に長いけど、そもそも民衆として成熟する期間なんて、それこそ明治維新からこっちしか無かったのじゃないか。

 

海外の情報なんかにも、なんとかかんとかアクセスできるようになったのも戦後の何十年かでしかないのでは。とくにインターネットの普及が大きい。そういう歴史経緯や環境面などを考慮すると、自分たちが国内で教えられている「信頼できる情報」てやつは、実はかなり偏ったものなのだと、もっと謙虚かつ慎重になったほうが良い。

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今世紀中に派遣労働者が開放されることはないかも

少し前だけど、かなり絶望的な気分になれる本を読んでいた。

 

アメリカ黒人の歴史 新版 (岩波新書)

アメリカ黒人の歴史 新版 (岩波新書)

 

 『アメリカ黒人の歴史』。実にストレートなタイトルである。本の内容もストレートなもので、アメリカ黒人の歴史をつらつらと記述している。アメリカにおける黒人の歴史を語っていくと、それはすなわち奴隷と差別の歴史になってしまう。

 

アメリカ黒人の歴史は1619年から始まる。1619年というと日本では江戸時代だ。関ヶ原の合戦で勇名を馳せた島津義弘が亡くなった年であるけどそんなことはこの際には関係がない。

 

意外なことだけど、1619年に最初にアメリカに上陸した黒人たちは、いわゆる奴隷という身分でもなかった。年季奉公人という立場だった。

 

ようするに「4~7年くらい働いたら身分を認めて開放します」という契約で連れてこられた労働者だったのだ。そして黒人と一緒に白人の年季奉公人もたくさん連れてこられていた。

 

しかし次第に年季奉公人たちは自分たちに課せられた不利な契約に対する不平不満が募るようになってくる。そして白人も黒人も結託して反乱やストライキなども行われるようになった。そこで地主などは、扱いづらい白人の奉公人を雇うのをやめて、コストが安くコントロールしやすい黒人労働者のほうに労働力をシフトさせていくようになる。

 

そして黒人の奉公人の数はどんどんどんどん増加していった。

 

ほとんどの奉公人が黒人に置き換わったときに「彼らを人間扱いするのをやめよう」という風潮が完成することになる。ヨーロッパの植民地では奴隷が当たり前だった時代なので当然の流れではあるかもしれなかったが、ついに法律によって奴隷という存在が決定的に制定されてしまったのだ。法律では奴隷は所有物でしかないので、雇い主が煮ても焼いても自由にしてよかった。

 

恐ろしい話だ。

 

もちろん白人のなかにも、奴隷制度を悪と考えていた人は少なからずいた。しかし奴隷を必要としていた資本家はたくさんいた。社会的に奴隷が認められている以上は、奴隷制度に反対する意見というのは(いくつかの運動の成果はあったにせよ)基本的には封殺されるしかなかった。

 

で、ご存知、南北戦争のときのリンカーンによる有名な奴隷解放宣言。

 

1863年のことだ。

 

1863年!!!

 

ちょっとまって欲しい。黒人が最初にアメリカに連れてこられて不利な労働を強いられはじめたのは1619年だ。その頃から黒人労働者は苦痛に耐えて生きてきたのだ。

 

なんと、250年もの歳月が経って、やっと開放される見込みがたったのだ。とんでもないことだ。

 

それからもアメリカ黒人の苦難は続く。

 

差別の嵐である。

 

なにせ、奴隷としては開放されたものの、法律は依然として人種差別を否定しなかった。

 

これに抵抗しようとする有色人種は袋叩きにあった。

 

有名なキング牧師が登場して、法律の上での人種差別を撤廃することに成功するのが1964年だ。

 

1964年!!!

 

奴隷解放宣言から100年くらい経っている!!!!

 

最初の黒人労働者が不利な労働を強いられた時代から考えて欲しい。

 

350年ちかくの歳月が経っているのだ。

 

それから時は流れて50年ほど経過した現代。アメリカ黒人はどうなったか。

 

白人警察に不当に射殺されたりして暴動が起きている!!!!!!

 

もう400年近くもアメリカでの黒人の扱いは低いままだということになる。

 

安い労働力として搾取することに端を発するアメリカ黒人の不幸がまだ解消されていない。

 

単純に時の経過を追うだけでも、暗い気持ちにさせられるアメリカ黒人歴史本である。

 

こんな本を読んだ後に、ふと日本において考えると、非常に酷い待遇で契約させられている派遣労働者や低賃金労働が開放されるのはいつなのかと考えてしまう。

 

歴史を考えていくと、もしかして100年後、200年後ということも。

 

そして酷さのピークはまだ来ていないという可能性も。

 

日本人の低賃金労働者では間に合わないから外国から労働力を輸入しようという考え方。完全に黒人奴隷の歴史と同じであることも追記しておこう。

 

いろいろ絶望的な気分になってしまった。

 

低賃金労働はよくない!是正されるべき!と考えている日本人も多いし、そういう運動もあるにはあるのだけど、現状を見るとあまり盛り上がっているようには見えないのがなんとも……。

 

日本にキング牧師って出現するんですかね?

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警察官ってだけで市民よりも何段も偉い理由

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お久しぶりです。

 

ちょっとブログを書く暇が無かったので間があいてしまった。書きたいことはいっぱいあるのだけど、僕は夜しか書きたくない。しかし最近は夜の時間があんまり無くなってしまった。そしてその少ない時間にもビールをねじ込んだりして飲んでしまっては何かを書く時間が無いのも当たり前だ。

 

そしてもうひとつ時間が無かった理由が、さいきん本を何冊か手に入れて寝る前に夢中で読んでいたというのもある。

 

自分のやっているネットラジオでもさんざんに語ってけれど、『桶川ストーカー殺人事件』という本を読んでわなわなとなっていた。警察の横暴を綴った実録本である。なので、続けて、同じ清水潔記者の書いた『殺人犯はそこにいる』という本も注文して夢中で読んでいたのである。

殺人犯はそこにいる: 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件
 

 ここで詳しくこれらの本の内容を説明することはしない。前述のネットラジオを聞いていただければ『桶川ストーカー殺人事件』の本の概要は知っていただけるだろうし、『殺人犯はそこにいる』につても、また機会があればお話しようかと思う。

 

この両方の本に共通して徹底的に描写されているのは日本の警察の偉さである。

 

偉いといっても、偉大であるとか、立派であるとか、尊敬に値するなどといったものではない。

 

日本の警察は、ただただ偉いということだ。

 

警察がクロといったものはクロになる。そして警察が悪と決めたら最後、証拠がどうあれ悪なのだ。容疑者といっても、容疑者とされている根拠すら希薄な相手に、平気で拷問のような取り調べを行ったりする。そのうえで罪悪感もゼロ。疑われる方が悪いってなもんである。

 

警察官と関わりになって、多少なりとも理不尽な目に遭わされた経験のある人間ならば、おわかりかと思うけれど、一般市民としては警察に逆らうことなんてまるで出来ない。

 

そのほとんど逆らえない事に挑戦し続けているのが『桶川ストーカー殺人事件』や『犯人はそこにいる』の著者の清水記者である。それがどれだけの労力を払わなければならないことなのかは、著書の内容から切々と伝わってくる。そしてそれでも警察権力に完全に抗うことは無理なのである。

 

そもそもなんで警察官というのはこれほどまでに偉いのだろうかと単純に疑問だ。警察官だけではなくて、検察官も、裁判官もであるが。

 

ようするに、政府から、何某かの権限を与えられている機関というのは、それだけで偉いということなんだろうけど、権限というのはそれが大きければ大きいほど、行使には慎重になるべきなのが、本来のあるべき姿なのだと思う。ところが、その権限を、自らの利益の誘導に行使するならば、それはそくざに強大な権力になる。

 

人間はそれほど立派な生き物ではないから、わりと簡単に権限を行使したりしてしまう。だから日本という政府の中にはたくさんの権力集団がいて、お互いの縄張りを守るために睨みを効かせているというよろしくない状態が生まれている。その中でも警察権力というのは相当に強力であるし偉さの上位にいる。

 

なにせ前述の本の中にもあるのだけど、本部長クラスが登場すると、即座に会話の舞台が銀座の料亭とかになる。

 

我々は「県警のトップとかなんだからそらそうだろう」とか普通に考えがちだけど本当にそうか?

 

なんで「国の法律を取り締まる仕事を担っている組織のかなり上の方の階級にいる」というだけでそんなに優遇されなくちゃならんのか。ほとんどの国民が一生涯縁のないであろう銀座の料亭で接待されるのが、本部長なら当たり前というのは一体何なのか。

 

解釈としては、本部長なんてのは、警察という権力組織の大幹部であるから、たいへんな権力者であるから、これの機嫌を損ねてしまうととんでもない事になりかねないということだ。つまり、警察ってのは、与えられた権限を、好き放題に振りかざして当たり前、という感覚を国民が普通に共有しているってことだ。

 

だから、ちょっとでも利にさとい人間ならば、警察関係者を、平民よりも十段も二十段も上に置くわけだ。

 

まるで時代劇における牢名主である。

 

まあ、もっといえば、時代劇に出てくる奉行所の与力や同心なんかでもあるのだけど。

 

与力や同心ってのはお侍である。かつては、お侍は、農民や町民よりも上の存在として法で規定されていた。与力なんてのは、お侍の中でも上位に位置する旗本であったりするわけなので、農民にとっては神の如き偉さである。そういうのが規定されているのが身分社会である。

 

現代的な法律のなかでは、警察官は平民よりも偉い存在であるとはどこにも規定されていない。

 

ただ権限が与えられているに過ぎないのだが、その権限の行使によって、平民よりも常に上位に位置できるとしたら、それはもう平等でも何でも無いんじゃないかと思えるのだけど。

 

もちろん現代社会において「平等の達成」なんてものは、いまだに実現していない永遠の事業であることはわかっている。

 

けれど、建前や理想としても平等なんてのはなくて、「警察の偉い人」にはへーこらするのが普通。警察本部長は銀座の料亭が普通。なんて感覚は、なんだかなあと思うのであるけど。合法ヤクザなんていう言葉が生まれるのは必然なんではないか。

 

アメリカの警察官が「危険な犯人を射殺しても良い権限」を拡大行使して、気に入らない(有色人種など)を平気で射殺するなんて話もすごく怖いけれども。

 

ここで安易に「アメリカに比べたらマシ」なんて結論に至っては何も見えなくなるわけで。

 

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沖縄県民が県知事に騙されている可能性!?

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暗い気持ちになる辺野古基地移設問題。

 

知事の指示の取り消しが決まるなら何のための知事の権限なのか。そして知事を選挙で選んだ県民の声を踏みつけにするのか。これが日本政府、ひいては自民党のやり方なのである。自民党の意向により沖縄のサンゴ礁は荒らされ、そしてジュゴンは死ぬ。ジュゴン沖縄県民なのに。

 

しかし知事と政府とのやりとりのなかで、ひとつだけ解せぬところがある。

 

翁長知事は、沖縄防衛局が名護市辺野古沖でのすべての作業を1週間以内に中止しない場合、前の知事が出した、埋め立て工事で岩礁を破壊する許可を取り消す姿勢を示していました。

 

姿勢だけ?

 

なぜ取り消さないのだ? 

 

本当に基地に反対なら、許可を取り消す事に何の躊躇があるのだろうか?

 

取り消さない理由が全くわからない。もしあるとしたら前に書いた記事でも引用したブログの情報にある通り、知事は土建で利益をあげようとしているので、ポーズだけ反対派ということ以外にちょっと思いつかない。

 

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そう考えると、翁長県知事は、前知事の許可の取り消しをチラつかせるだけチラつかせて、本音としては工事を邪魔するつもりはなく、自分の後援者に利益を誘導しようとしているだけということになる。そうだとしたら、このタイミングで農林水産省に知事の権限をストップさせられるのは非情に都合がよいことになる。

 

「頑張ったけど政府の命令で何も出来ませんでした」と堂々と県民に言えるのだ。

 

まだそうとは決まってないかもしれないが、結果的にそうだったら、あまりにも県民をバカにしてないだろうか。他人の気持ちをもてあそぶ悪魔の所業といえる。

 

それもこれも辺野古基地の建設が強行されるかどうかで判断できることだろうけど、建設されてしまってジュゴンも死滅してからしか本当の事がわからないというのは悲しい。なにしろ「ジュゴン沖縄県民」なのだ。

 

 

 

沖縄県有権者で基地に反対していた人は「頑張ったけど力及ばずでした」なんてズルい言い訳に騙されないで欲しい。

 

政治家の良し悪しを判断するうえで、イメージ戦略に乗ることがもっともよくない。何をして、何をしなかったのか、が重要なのである。税金を下げますといって下げなかったら下げる気は無いのであるし、基地に反対しますといって反対しきれなかったのなら反対する気は無いのである。原発を止めるといったのなら、何があっても止めるべきなのである。それで暗殺されたらしょうがないと割り切るしかない……。

 

何度も言うが、中国に珊瑚を荒らされるから、移設は仕方がないという前に、自分たちで荒らしてどうすんねんと。やられる前にやるしかないので戦争は仕方がないといって国民を殺しまくっといて、結局アメリカに降参するのが被害がいちばん軽かったという前の戦争と同じ馬鹿さ加減なのである。まあ、そのアメリカの基地問題で揉めているというのが、とんでもない皮肉なのだけど。戦前戦中はアメリカに無茶苦茶されると言ってた政府が、こんどはアメリカ様に出て行かれたら中国に無茶苦茶されると言っている。所詮こんなもんなのだ。庶民はいつだって偉い人間の適当な理屈に振り回されるのだ。

 

こちらは内地から見てるだけなので、何の援護射撃もできないのが残念ですが、引き続き温玉ブログでは辺野古基地移設には反対の姿勢を示し続けていこうと思っております。

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