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普段テレビに出ないジュリーのコンサートのキャンセル話がやけに大きく扱われる事についての闇

kimniy8.hatenablog.com

あの木村ゆうさんのブログですら取り上げられたジュリーの話題。これに関しては外野が騒ぎすぎだし、なんでファン以外が怒るねんと誰もが不思議に思うだろう。素直な反応としては、木村ゆうさんのブログのような感想になるのが当たり前。そもそもジュリーのファンが騒いだせいでニュースになった話でもないことも知られている。例えば僕の友達でジュリーファンでもある中将タカノリ氏の記事だとこうなっている。

citrus-net.jp

そもそもファンでもないくせに外野で嬉々としてこの件でジュリーを叩いているのは所謂ネトウヨと呼ばれる系統の人たちに多いという不思議があった。Twitterでもその手のアカウントが高確率でジュリー叩きをしていた。代表的な例が、ネトウヨの親玉的な存在である百田尚樹Twitterだろう。

 

今回に関しては、同じ百田尚樹シンパのネトウヨの中にもジュリーファンがいたらしく、猛烈に反発を受けて謝罪するという珍しい事になっている。沖縄米軍基地問題やその他の問題について、度々事実無根のデマを流布しては何ら反省することのない百田だが、このときばかりは本来は自分のシンパ(所謂ネトウヨ勢)からの突き上げだっただけに、訂正するしかなかったということだ。だからネットなんかで喜んでジュリー叩きしているネトウヨ勢の中に、今回に限ってはジュリーファンはいないということになる。

headlines.yahoo.co.jp

これら経緯から考えても、ジュリーのファンたちは、むしろ一連のジュリー叩き報道について賛同するどころか、猛烈な反発心をもっている事がわかる。ジュリーファンの本音としては「なんでこんな報道をされにゃならんの」「俺らのジュリーを悪くいうやつは許せねえ」というわけだ。

 

じゃあ、そもそも論として「なんでコンサートのキャンセル程度の事件が、テレビなどのメディアでこんな大きく報道されたの?」という事になる。囲み記事程度の扱いだったら、ファンが騒ぐわけないし、外野がしゃしゃり出てくる事もなかったし、ネトウヨが喜んで叩くなんてこともなかったし、僕や木村ゆうさんがこのようにブログを書く事もなかったわけだ。この事件が大きく扱われた理由の一端を伺える記事がある。

lite-ra.com

察しの良い人はおわかりかと思うが、キーワードはジュリーが反原発を明確に前面に押し出した稀有な芸能人であることだ。記事内にもあるが、芸能人が反原発を表明することは死を意味する。嘘だと思ったら反原発を明言した芸能人がどれだけいるか調べて欲しい。

 

最も代表的だと思われる存在の山本太郎は、芸能界を干されて政治家になってしまった。原発に反対するなんて事を言えば、テレビに出る機会は著しく制限されてしまうのが実情のようだ。忌野清志郎だって生前はほとんどテレビに出ない人気者として有名だったし。坂本龍一にしたって、宮崎駿にしたって、テレビタレントではないから言える事だったりする。ジュリーは坂本龍一なんかと反原発の署名運動に協力しているようだし、反原発ソングを何曲もリリースしてるくらいだから、文化人枠じゃない歌手・芸能人としては相当につっこんでいる存在だといえる。

 

つまり、ジュリーは芸能人にもかかわらず原発に忖度するどころか、目の敵のような存在になっていた。そんな人のスキャンダルになりそうな事件だからテレビで大きく取り扱ってやろう……まあ、これはあくまで憶測にしか過ぎない。ただし、テレビ側からしたら大スポンサーの電力会社に忖度できるネタであるのは間違いない。というか、普通のジュリーが活躍しているとかいう話題だったらスポンサーが絶対に喜ばないが、これだったら安心して報道できるというのはあるのだ。そしてこのニュースのコメンテーターとして起用されたタレントの立場としては、騒動に対してジュリーにちくりと非難めいた意見を差し挟むのが「テレビタレント的に好ましい態度」といえそうだ。

 

それくらい電力会社がマスメディアに対してのマネーパワーは強いというのが重要。普通はテレビ局がお客様であるスポンサーを接待するくらいなのに、電力会社は逆にテレビの営業幹部を接待するという。なにしろ東電だけで途方もない金額をメディア対策に費やしている。テレビ局もタレントも、忖度するなという方が無理のある話。

 

テレビ局と原発マネーの関わりについてはLITERAの設立人のひとりである川端幹人氏の発言が参考になる。これ読むだけでも原発とメディアの闇がわかるんじゃないだろうか。

togetter.com

そんなわけで、何かと大手メディアに歓迎されていない立場のジュリー(しかも反原発が最大のキーワード)という文脈がわかれば、今回の不思議な騒動もなんとなく納得がいく。そこに反原発憲法改正反対という要素が加われば、ネトウヨ勢に色めき立つなと言うほうがおかしいわけで…。

 

ここで大事なのは「テレビでは反原発は絶対に言えない」「テレビの人気商売で反原発といって利益になることは何もない」という恐ろしい事実だ。そしてジュリーが発言した「60過ぎて言いたい事が言えるようになってきた」という言葉の重みだろう。

原発プロパガンダ (岩波新書)

原発プロパガンダ (岩波新書)

 

あのドキュメンタリーのまさかの続編『南京事件II~歴史修正を検証せよ~』!!

清水記者が取材したドキュメンタリー『南京事件II~歴史修正を検証せよ~』が放送されて反響を呼んでいた。

 

前作のドキュメンタリーは、南京事件がどういう経緯で発生した事件なのかを、裏付けをとりながら徹底的に検証するというものだった。

 

今回の視点は歴史修正という観点で語られる南京事件。番組の冒頭では、降参が決まった日本政府と軍が、重要書類を燃やし続けた事実を説明する。数日にわたって焼き続けたというから膨大な量だ。

終戦時の証拠隠滅

事件の概要についてはここに詳しい。自分たちの保身のために史料を燃やしたしまうというのは重大な歴史犯罪だ。南京事件の概況を教わらなかったのと同様に、日本軍と日本政府による証拠隠滅という事実も、思えば我々は歴史授業で教わらなかった。

 

それがゆえに「南京事件を証明する史料は日本側には残されていない」「中国側だけが勝手に言っているだけ」「従軍慰安婦もなかった」「公式文書なんか無い」「でっち上げ」などといった言説にさらされると「それもそうだな。怪しいかもな」などと簡単に騙されてしまう。

 

残ってないのは当たり前なのだ。燃やされたんだから。しかも何日もかけて燃やしたのだ。これは間違いの無い事実で、燃やした側も「不利になるのだから当たり前だろ」と平然と証言している。それでも、すべての証拠を消し去るのは不可能だった。市ヶ谷では燃え残った機密文書が掘り返され復元た。そしてある新聞社では、当時の南京の様子を取材したときの写真などが密かに保存されていた。ドキュメンタリーではその事実も丹念に追っかけていく。

 

新聞社に残されていた発禁処分になった写真の中には、まさに捕虜を銃剣で突き刺しているという生々しいものもあった。中国が用意した南京事件の一部とされる写真などは出処が不明なものが多いなどとよく言われる。しかし、日本側には、出処のたしかな写真が残されていたのだと知る。

 

また、前回と同様の、当時の兵士たちによる生の証言もとりあげている。虐殺の模様をCGで再現しているのだ。簡素なCGではあるが、実際にこのような手順で大量に人が殺されていったのだとイメージするには十分だ。複数の証言から、似たような事例が報告されているわけで、これをでっち上げとするのは不可能だろう。

 

とどめとして、現職議員である稲田朋美などをはじめとした面々が主張している「南京事件は、捕虜が暴動を起こしたので発砲しただけだ」とする説の根拠も、徹底的に調査して検証している。この説の根拠になっているのは、南京攻略に参加していた両角連隊長への戦後になってのインタビュー記事だった。両角連隊長の証言では、「上からは捕虜を殺せと命令されていたが、開放するつもりで川べりに連れて行った。しかし諸々のトラブルで暴動が起きたので発砲した」とあった。しかし他の証言ではそのような事実が一切確認されていない。そればかりか両角連隊長本人は現場にいなかったという証拠が見つかっている。戦後になって責任を逃れるためについたでまかせである可能性しかない。しかもそれにしたって「捕虜を殺せという命令があった」ところまでは認めてしまっているのだからどうしょうもない。

 

これだけ大勢の人が現場に立ち会って、大量の証拠の残っているはず大事件ですら、ちょっとすると「なかった」ことにされてしまう恐ろしさがある。人間の認識なんてのはきわめて頼りないもので吹けば飛んでしまう。証拠になる文書を処分したり改ざんするような行為を許してしまうと、事実というものがどこにあるのかという事になってしまう。1600年に関ヶ原の戦いがあって、1603年に徳川家康江戸幕府を開いた…なんて話だって、これ文章が残っているから言えるわけである。口伝えの話でしか残らなかったとしたらどうなのか考えてほしい。「むかしむかしあるところで桃太郎が鬼退治しました」みたいな、あやふやな物語が残るだけだ。

 

このドキュメンタリーを見れば、モリカケ問題をなぜしつこく追及しなければならないかがわかるかと思う。たかが文章の改ざんくらい目くじら立てなくても良いじゃないかなんていえなくなるはずだ。南京事件の問題と根っこは同じなのだ。公文書を改ざんしたり隠滅することの恐ろしさは歴史が教えてくれる。過ちは繰り返してはいけない。歴史を学ぶとはそういうことだ。

www.dailymotion.com

www.dailymotion.com

南京攻略のあとにあった重慶爆撃についても、あまりにも無知なことが多い。『戦争のはじまり 重慶爆撃は何を招いたか』もあわせて見ておくことで、真珠湾攻撃から先の事件がなぜ起きたのか理解が深まる。重慶爆撃について詳しく習うことはなかった。戦争の話題でもほとんど取り上げないのではないか。

 

太平洋戦争における一方的な被害者意識というのは、南京事件重慶爆撃の経緯の説明があまりにも不足している。あえて重慶爆撃を話題にしないようにしているとすら思える。まあ、これにしたって、日本側の史料が燃やされているわけで、中国側の被害記録が頼りになっているというのだから情けない話である。重慶爆撃がわかると、諸外国からみた日本と、日本人による感覚の温度差に合点がいくようだ。なるほどそういう話だったのかと腑に落ちる。

 

南京事件にしたってそうだった。いきなり日本軍が乱暴狼藉を働いたという話でしか伝わってこなかったが、ちゃんと前後がわかれば誰だって納得もいく。学校でやらされる歴史授業なんてのは、大幅にピースの無いパズルみたいなものだった。そして、ながいあいだ抜け落ちていたピースのいくつかを、丹念な調査によって埋めてくれたNNNドキュメントの功績は大きい。記録を遺してくれた個人や新聞社などにも感謝するしかない。事実を隠蔽しようとした行為には怒りが湧いてくる。イデオロギーよりも何よりも重要なことは事実だ。だから政府による文書の改ざんや破棄の罪は重いんだ。

 

空爆の歴史―終わらない大量虐殺 (岩波新書)

空爆の歴史―終わらない大量虐殺 (岩波新書)

 

いかに重慶爆撃が「空爆の歴史」に不名誉すぎる大きな一歩を刻んでしまったかというのがよくわかる空爆の歴史の本。その負の遺産は、ドローンによる空爆までつながっていく。

 

「南京事件」を調査せよ (文春文庫)

「南京事件」を調査せよ (文春文庫)

 

清水記者によるドキュメンタリーの補足本。

 

butao.hatenadiary.com

butao.hatenadiary.com

vergil.hateblo.jp

はてなでもとりあげているブログがあったので紹介。かなり詳しく紹介している。

少なくとも高校野球から老害おじ監督は消えて欲しい

number.bunshun.jp

またしても、すごく嫌な気持ちになる記事を読んでしまった。高校野球なんてたいした興味もないのだから読まなければ良いのだけど、この時期は好むと好まざるとにかかわらず高校野球の話題に巻き込まれるのだから完全無視も出来ない。

 

ネットでも高校野球の話題がわんさかだし、街に繰り出せば繰り出したで、飲み屋で、サウナのテレビで、高校野球の話題にさらされていくわけだ。目をつぶり耳をふさぐにも限度がある。

 

だから、高校野球の話題に巻き込まれる側の代表として、少しばかり意見を言ったってバチは当たるまいと思って、去年はこんな記事を書いた。

butao.hatenadiary.com

 

この中で取り上げた高校野球の監督インタビュー記事自体は消えてしまっているが、要するに勝利至上主義の山口県あたりの高校の監督が子供を恫喝しまくってドヤ顔してるみたいな話だった。今回目にした記事と大差のない話だ。

 

毎年こんな話が常に出てくるということは、高校野球の変わらないところであり、こんな記事自体にも需要があるんやなと思ってしまう。監督が子供をビシビシ管理してますよというような話を読みたい層が根強くいるのだろう。

 

これに関しては、村民のPARM氏が記事にしてくれているので、いまさら繰り返しああだこうだは言わない。言いたい事はほぼ全て以下の記事に書いてくれている。

parm.hatenablog.com

 

それにしたって「生涯学習」「生涯スポーツ」といった概念が当たり前になりつつある時代に、「スポーツを楽しむ」という思想よりも、勝利至上主義がいまだに強いのは何なんだろうと悲しくなってしまう。学校は経営とかあるからそういう風になっても仕方のない面があるが、われわれ一般人までその価値観に染まる事は無いんじゃないかと思うのだ。

 

野球やらなんやらスポーツって楽しむべきものじゃないのかなと。その先に勝利を目指すという取り組みがあっても良いけれど、まず勝負ありきというのはどういう事かと。

 

高校野球の運営側も、アマチュアの高校生の健全ななんたらかんたらというお題目でやっている大会のくせして、いまだに投球制限も導入されないし、過密日程もおかまいなし。やっていることは完全に興業だし、勝利至上主義を煽っているとしか思えない。

米国高校野球。投球数制限導入とその「抜け穴」問題。(谷口輝世子) - 個人 - Yahoo!ニュース

(ただし日本にさきがけて投球制限を導入している米国でも投げすぎになったりするらしい。こちらは個人的な事情によるものが大きいようだ。)

 

高校野球で甲子園目指せないなら野球やってても仕方がないよ。

プロ選手になれなければ野球やってても仕方がないよ。

 

ここまで露骨に言う人は少ないかもしれないけれど、突き詰めればこんな考えが根底にうかがえる。部活はあくまで部活であって、「学校を卒業するまでの期間限定の活動」という思想がどうにも抜けきらない部分がある。別に期間限定の活動を否定するわけではないけれど、個人の自由だとは思うけれど、学校を卒業した後も好きなスポーツをやり続けたいというのもアリとするのが生涯スポーツの概念だ。

 

もちろん色々な面で続けるのが困難なスポーツもある。野球はまだ草野球というのがそれなりに定着しているが、バレーボールやバスケットボールなんかもそれなりにアマチュア活動があったりするが、草ラグビーとか草アメラグとかは聞いたことがない。でも知らないだけであるのかも…。

 

そう思って「草ラグビー」で検索してみたらそれなりにあった。やっぱりやりたい人はやっているようである。ぜんぜん知らなかったがすばらしい。

 

でもこういう集まりがあるのを僕が全然知らなかったように、様々なスポーツにおける大人のアマチュアの活動って知られていないと思う。メディアで取り上げられるのは高校野球か五輪かプロばかりだからだ。

 

大きな大会を目指したりプロを目指したりするのも全然悪くはないが、世の中そればかりではなくて、ずっと楽しんでいる大人が大勢いるという事を知らしめるのは、子供のスポーツ教育にとっても、それを見守る大人たちにとっても、心の余裕が生まれて良いと思うのだけど…。

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あなたのような才能ある人材に対して、使い捨てることしか考えない日本企業

日本人にはものすごい優秀な人がいるにも関わらず、多くの企業はそういう人材を安く使い捨てようとするという話を書きたい。少しでも人材が評価されて欲しいという願いがあるからだ。

 

こう書くとノーベル賞技術者が、あんまり優遇されていないとか、何らかの資格もってても買い叩かれるとかいう話かと思うかもしれないが実はそうではない。勿論そういった人たちも優遇されるべきというのは前提として、僕が言いたいのは「誰からも評価されていない日本の優秀な労働者」についてだ。もしかしたらこのブログを読んでいるあなたのことやもしれない。

 

評価されるべきスキルを持つ日本の優秀な労働者。そのスキルとは「安い給料でも文句も言わず真面目に働く」というものだ。どんな高学歴であっても技術を持っていても、必ず仕事で結果を出してくれるとは限らない。ところがこのスキルの凄いところは結果をバンバン出しまくる事だ。一種の超能力ともいえる。経営者としてこんな有り難い事はないはずだ。

 

不人気な業種で、たいした給料も提示していないにもかかわらず応募してくる人の中には、こういったスキルの所有者がいたりする。たいしたトラブルもなく2年も続くとしたら可能性はきわめて高い。

 

ところがである。こういった超能力者たちを日本の企業側は冷遇している。

 

「こんな仕事なんて誰でも出来るんだよ!」「お前の代わりなんていくらでもおんねん!」とか言いながら、「安い給料でも文句も言わず真面目に働く」人たちをバカにしたり、安い給料や低い待遇のままにしたりしている。そればかりか、同じ労働者たちのなかでも「安い給料でも文句も言わず真面目に働く」超能力者たちをバカにする風潮すらある。なんでバカにしてるかというと「安い給料でも文句も言わず真面目に働く」なんて事は誰でも出来ると見下しているからだ。

 

本当か?本当に誰でも出来るのか?

 

「じゃあお前がやれよ!時給750円で働いてみろよ!」とか言うと「いや~~ちょっとw」とかいうことになる。実行できる人がいたとしたら本当の超能力者と認める。それか、現在の時給が737円の人(福岡県を除く九州地区か高知県か沖縄県の最低時給)とかだと思う。

 

企業が「安い給料でも文句も言わず真面目に働く」能力者を、「こんなもんいくらでも湧いてくんねん!」と言わんばかりに、「疲労回復したり家族を養なったりするのには全然足りないような待遇」で使い捨てにしてきた結果どうなったか。募集をかけても全然人が集まらなくなってしまった。集まるのは他に行き場がない老人ばかりだ。老人世代はまだ人数が多いが身体も弱いし近い内に亡くなる。これから少子高齢化が進んでいけば「安い給料でも文句も言わず真面目に働く」能力者は益々希少になっていくはずだ。企業間で取り合いになる。

 

「いくらでも替えが利く!」とか言ってた企業の人材評価は完全に間違っていたわけだ。人手不足が叫ばれる昨今だから態度を改めれば良いはずなのに、未だに間違いを認めようとしない。為替の安い国の外国人を雇って誤魔化そうとしている。兵隊の命なんて犬か猫以下くらいの扱いで使い捨てにしていたら、いつの間にか人がいなくなって、老人と子供に頼るようになっていた旧日本軍のメンタルと似通っている。ニシンとかマグロとかウナギとか捕りまくってたら絶滅寸前までいってしまったのも同じ発想だろうか。環境保護とか資源の再生産というものを全く理解していない。

 

かように「安い給料でも文句も言わず真面目に働く」能力者は貴重な存在になりつつあるのだが、「キツい肉体労働でも文句も言わずに働く」能力者なんてもっといなかったりする。しかし「肉体労働なんて誰でも務まるわwww」「ただ立っている警備員なんて誰にも出来るだろwww」とかバカにする人が未だに後を絶たない。これについても「じゃあ、お前がやれよ!!!」と言うが、「いつでもやってやるよwww」とか言いながらスキルを実証してみせる人はほとんどいないというのが悲しい現実。

 

冷静に考えたら、「一日中重い物をもって運びまくる」とか、「スマホもいじらず一日何時間も道に立って見張る」とか、誰でもが簡単に出来る仕事じゃないという結論になる。そりゃ1日限定だったらかなりの人が出来る作業かもしれんが、週に40時間も50時間もそんな事をやれるだろうか。それでも一週間だけとか言われたら、けっこうな人が出来るかもしれない。一ヶ月だけでもそれなりに人は残るだろう。けれど何年もそれをやれと言われたら?ほとんどの人は自分の才能の無さを痛感するはずだ。はっきりいって僕にはそういう才能は無い。チャレンジしてみようとすら思わないのだから、素質すら無いのがわかる。

 

仮に強制収容所みたいなところで、キツい肉体労働をやらなければ殺すとか言われたら渋々やるかもしれないが、そのうち音を上げて殺されるか、疲労やストレスで勝手に亡くなっている公算が高い。

 

ところが、世の中には、デスクワークよりも肉体労働大好きという超能力者もいるし、何時間も道に立っているのが平気という天才もいるのだ。そういう天才に対して、なんで企業も世間も冷たいのか理解が出来ない。一握りの才能なんだから高給を払ってやれよと思う。でもそういう仕事に対しての評価はどんどん下がっていっている。で、人手不足になっている。アホかと。

 

これを読んでいる人の何割かは、人がやりたがらない仕事をする天才かもしれない。自分はもっと優遇されて良いと考えるべきだ。というか週に40時間以上拘束されても、真面目に仕事を続けている時点で非凡な才能だ。才能の無い人たちは辞めるか、亡くなっていったか、もっと不真面目に生きている。

 

資格者だとかプログラムなどの技能があるから俺は関係ないよという人たちもいるかもしれないが、こういう天才たちが潰されてきたのだから、明日は我が身だと謙虚に考えたほうが良いのではないか。高学歴の人とか、語学が達者な人とか、プログラム技術とか作業経験とかある人達が、安くこき使われる時代が来つつあるのを感じないだろうか。人材軽視の思想が広がっていく危機感がある。

 

「高学歴の人は無限にはいない!」「プログラマーはそんなに多くない!」とか強がりを言っても無駄だ。「安い給料でも文句も言わず働く」スキルの持ち主だって限りがある資源だったのに使い捨てられた。ニシンだってサンマだってウナギだって無限にいるわけないのに、平然と絶滅方向にもっていった日本社会を舐めないで欲しい。

 

今はこんな酷い有様だけど、未来的には個人のスキルが尊重される社会になることを願う。「安い給料でも文句も言わず働く」超能力者たちは、本来は高待遇で迎えられるべきだ、というのが僕の主張だ。

 

 

【俺の恵方巻き】思考停止で恵方巻き売るのはもうほどほどにした方が良い。

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毎年この時期になるとどいつもこいつも「俺の恵方巻き」と言いたくなる病気にかかる。僕も言ってしまう。恵方巻きのサイズ・形や、食べ方の風習などが、男どもの野生の習性的なところを何かしら呼び醒ますせいなのだろう。来年は本能になんとか打ち勝って、もうすこし文化的になりたい。思考停止は暗い愉しみがあるのは否定しないけれど。

 

さて、そんな「俺の恵方巻き」デーだが、僕はスーパーで半額になった太巻きを買うのが何となく恒例になっているくらいのものだが(太巻きは好きだから)、道を歩いていてもそこかしこで太巻きの売り込みが凄いのだ。回転寿司屋が店頭で売ってるのは普通かなと思うが、なんでこの店がというお寿司とか関係なさそうな飲食店も参戦していたりする。

 

僕がよく利用している某チェーン系居酒屋は、海産物メインというメニュー構成の店だった。普段からかっぱ巻きみたいなものは出していた関係上だろうけど、Xデーにあわせて日替わりメニューに恵方巻きが登場していた。何を隠そうXデー(2月3日)の夜も僕はたまたま飲みに来ていて、そういうのが出ているのに遭遇したのだ。

 

いくら今夜が「俺の恵方巻き」デーだといっても、酔った帰り道でコンビニやスーパーや寿司屋の店頭で景気良く売られているのを、お土産とか晩御飯代わりにうっかり買ってしまうことがあっても、飲み屋でわざわざ太巻きを食べたいと思うだろうかと不思議だった。

 

シメのご飯物の代わりにという意見もあるだろうけれど、たしかに酔ったあとの太巻きは個人的には嬉しいけれど、安居酒屋で注文する一品としては恵方巻きはなかなか高いのである。税抜きで600円とか700円くらいしたと思う。やっぱり一杯飲み屋で注文するようなもんじゃない。

 

お店では作りすぎたのか、余らせてしまっていたみたいで、ひとりひとり食べませんかと営業をかけていた。常連たちは申し訳なさそうに断っていた。僕は普通に断った。

 

そういう情景をツマミに酒を飲みつつ、こんなお客に精神的負担を強いるくらいなら、なんのために恵方巻きなんか作ったんだという気持ちになった。季節感を出すためにちょっと作ってみようというだけなら、そんな余らせて困るような量を作らないだろうし。反対に、すごく安い値段で提供するとか、いっその事、先着順に配るとかなりするならば、完全にお店のサービスとして理解できる。むしろ嬉しいサービスだ。やってほしい。でも実際はお店の平均価格よりも高いメニューで売り込もうとしていただけ。

 

よしんば、この恵方巻きを注文したとしたら、他のメニューを頼まなくなってしまうのではないか。そのお店は、チェーン系の店舗なので、本部が決めた事を履行しただけなんだろう。

 

本部は恵方巻きのぶんの客単価の上乗せを狙ったのかもしれないが、悪いけれど恵方巻きにそれほどのパワーなんか無い。いくらイベントだ季節モノだといったって、しょせん恵方巻きは恵方巻き。地味なもんである。少なくとも居酒屋のメニューにおいては。(お土産として販売するなら酔った勢いで買うかわからんけど)

 

だから店としては常連客を中心に情にすがった売り込みでもかけるしか無かったのだろうけど、それをみているこちらは完全に白けてしまった。恵方巻きに何を期待しているというのか。

 

そしたらこんな記事があった。こういう話は居酒屋だけではなくて、より恵方巻きを主力に据えているはずのスーパーやコンビニでもきっちりさばけるもんでもなくて、過剰発注して工場の段階で廃棄しているという。

 

そういえばコンビニやスーパーの店員が、店側が仕入れた恵方巻きのノルマをこなすために、自爆して買わされるなんて話はあちこちで聞く。こういうのは店自体に仕入れ量が強制されていたりするので、本部が決めた予算を達成するために規定量を買わされるみたいな話になるのだろう。

 

店舗や店員が尻拭いしてる限りは、恵方巻きにしろ鰻にしろクリスマスケーキにしろ、売上げアップに貢献してるみたいな事実が成立してしまうというのは、何ともバカげた話としか言いようがない。本来はバカが店員やっても売上があがるような作戦を考えるのが経営陣の役目のはずなのに、下っ端にムチ入れて利益を吐き出させる事ばかり考えている。

 

一旦こうと決めたら、業界各社右に倣えでテコでも動かないなんて、旧日本軍の悲劇とまったく構図が一緒としか思えない。鰻なんてそのせいで絶滅しそうになっているというからやりきれない。旧日本軍もクレイジーと言われたが、こういうのは外国からは理解されないだろう。

 

偉い人に言われた事には逆らわずに黙って耐えるのが当たり前みたいな日本の社会構造が、全体の生産性を著しく下げているという一例としか思えない。

 

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デイリーヤマザキ恵方巻き。ここの店舗はクリスマスケーキも大量に仕入れて投げ売りやっていたから他人事ながら心配になってしまった。ほんと、他人事なんだけど。

 

ちなみに、例年のより小さくなっているらしい。コストカット??

 

身分社会だとこんなバカげたことも起きる。社会のためにも労働者に睡眠権をよこせ。 

日本の最低賃金による露骨な地域差別に腹が煮えくり返る思いがする

それによりますと、3大都市圏のうち、東京・神奈川・埼玉・千葉の「東京圏」は転入者が転出者を11万9779人上回り、22年連続で「転入超過」となりました。転入超過の人数は、前の年に比べて1911人増え、2年ぶりの増加となりました。

一方、大阪・兵庫・京都・奈良の「大阪圏」は、転出者が転入者を8825人上回ったほか、愛知・岐阜・三重の「名古屋圏」も、転出者が転入者を4979人上回っていて、いずれも5年連続で「転出超過」となり、「東京圏」への一極集中が続いていることがわかりました。

一極集中化についてのニュース。22年連続で一極集中化の流れが止まってないということだ。僕が住む大阪はかなりの都会であるが、それでもどんどん人が減っていっている。旅行客でごった返してはいるが、住んでいる人は少ないということだ。名古屋圏でも同じ。

 

つまり大阪や名古屋周辺でさえもこうなのだから、札幌・広島・福岡も寂しくなっていっているわけで、それ以外の地方はどんどん人がいなくなっていっている。

 

こういう現象に対して「地方より東京の方が良いからしょうがないやん」とかいう感想を持つ人が多いかもしれないが本当にそうか?これが当たり前のことか?

 

今や総人口の3割以上が首都圏に集中している。1950年には15%くらいのもんだったのが、今や倍以上になっているわけで、そのぶん他の地方の存在感は無くなっていっている。

 

首都圏に人口が集中する理由としては、政治機能やインフラを東京に集中する反面、あらゆる負担を地方に押し付ける政府の地方軽視の政策に拠るのは明白である。大きい所も細かい所も、事例を挙げていけばキリがない。

 

田舎から都市部に人が集まるのはある程度はしょうがないにしても、地方の都市部からも人が首都圏に流出してしまっているのは、経済的な側面だけをとっても失政がすぎるのではないか。この先、首都圏比率がどういうことになっていくのか心配だ。

 

総務省は「東京圏への転入者が多いのは、30歳未満の若い世代が地方から進学や就職を理由に流入しているからと見られる。今後もこうした傾向は続くのではないか」と話しています。

この記事の最後のまとめに総務省のコメントが出て来るがあまりにもひどい。他人事かよと思う。首都圏に集まるように仕向けてるんだから当然だろという意見が透けてみえるようだ。

 

ここで全国の最低時給ランキングを挙げてみようと思う。

1位 東京都 958円

2位 神奈川県 956円

3位 大阪府 909円

4位 埼玉県 871円

4位 愛知県  871円

5位 千葉県 868円

6位 京都府 856円

 

上位7都道府県だけで首都圏が4つランクイン。そして東京都と神奈川県のツートップは、大阪を大きく離している。

 

対して最低時給の最低ランクはこうなっている。

 

29位 鹿児島県 高知県 佐賀県 長崎県 熊本県 大分県 宮崎県 沖縄県

 

これらの県はすべて737円だ!!!沖縄と高知もひどいが、九州に集中しているのも凄い。日本は九州に恨みがあるんじゃというレベル…。

 

もし東京とこれらの県の最低賃金同士が働いたとしたら、1時間ごとに221円の差がついていく。

1日8時間労働したら1768円の差になる。

これで月25日働いたら44200円の差だ。

 

なんで?住んでいる地域が違うだけで?はっきり差別なんじゃ?

ただでさえ地方は何かと暮らしにくい事が多いのに、これじゃ住む人がいなくなるのに加速がついても当然じゃないだろうか。

 

同じ日本国内で、県境をまたぐたびに、賃金にここまでの差をつけられる合理性を説明出来る人はいないのではないか。橋をわたる度に敵の強さが変わるドラクエじゃあるまいし。

 

このいわれなき賃金差別が解消されるだけで、東京一極集中状況はもう少しマシになるんじゃないかと思わざるをえないのだが。

 

東京で働いている人も考えて欲しい。仕事の忙しさがそのままで、月の給料が4万円以上減ったとしたら。それでまともに生活をしていけるだろうかと。

 

↓2年前にも書いた記事。 

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『殺人犯はそこにいる』勝手にドラマ化事件は著作権だけの問題じゃない!!!

年末にこのような記事を書いた。清水記者の『殺人犯はそこにいる』を流用したドラマがAmazonプライムビデオで配信されている事件についてのことだ。その後にいろいろの新聞やネットニュースでも話題になっていたのでもう随分の人が知ることになったかと思う。

 

現在、Amazonプライムビデオは公式にはだんまりを決め込んでおり、1月5日には件のドラマも最新話が何事もなく配信されたようだ。つまり現時点では著作権やなにがしの権利を侵害しているとは思ってなくて、仮に裁判などになったとて問題がないと踏んでいるのだろう。

 

ただ制作サイドからはいくつかアクションがあり、なかでも企画者でプロデューサーでありこのドラマの最高責任者でもある四宮隆史氏が、著者の清水記者にTwitter上で12月31日に公に直接のコンタクトをとった事が話題になっている。そしてその内容が物議を醸してもいた。以下にそのすべてを引用してみようと思う。

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 「はじめまして」だ。つまり『チェイス第1章』に関して清水記者が何の関与もしてないどころか、ドラマの企画制作の責任者である四宮氏と連絡を交わした事すら無いことが証明されている。「私個人の想い」と前置きしてあるが、「企画の責任者である私個人の想い」であるから、ドラマ制作の主旨と解釈するしかない。Twitter上では清水記者からの返信は無いが四宮氏の主張は延々と続く。

 

 

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そこまで尊敬・敬服・賞賛あるいは称賛している人物の著書を下敷きにドラマを作ろうという時に、相談どころか挨拶すらしないなどというぞんざいな態度をとることがあるだろうか。しかも問題にされて初めてTwitterで声かけるとか。四宮氏の褒め殺しにしか見えないがどうだろうか。これが世渡り力というやつなら呆れてものが言えない。

 

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出版当初にネタ元を読んでいるのを、番組企画者兼プロデューサーが認めている。つまり『殺人犯はそこにいる』の単行本が出た2013年に読んだという事だろうか。じゃあ何で2017年のタイミングでドラマ化を目論んだのかということだが、2016年に文庫化された同書が2017年にかけて、文庫Xキャンペーンなどもあって30万部を超えるベストセラーになっているのと無関係とはとても思えない。タイミング的には完全に合致する。

 

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我々法律家というのは、四宮氏自身が弁護士でもあるという意味だ。ネタ元である著者に無断でドラマ化しておいて、騒がれてから「はじめまして」なんて事をいってしまう問題について、法律家ならば気がつかないわけがない。「法的には問題ない」「裁判されても勝ちうる」という認識だったからだろう。法律知識の悪用という他にない。「危機感と自省の念」をもった法律家のやることだろうか。

 

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「このドラマはフィクションであり、実在の事件とは関係ありません」などとというテロップひとつで、実在の事件をほぼなぞったストーリーのドラマであることを隠蔽しまくっている側の代表がいう言葉とは思えない。ドラマ本編やその他の宣材のなかに、足利事件の「あ」の字も出ない。参考までにドラマ出演者による爆笑インタビュー(悪気は無いのかもしれないがすごい見出しだ)のリンクも貼っておく。

 

これを読んでも実在の事件を扱っていると匂わせる部分はほとんどない。

主演の大谷氏が「実際にこういう事件も歴史の中で起きてますよね」と発言しているところが、辛うじてそれっぽい部分ではあるが「歴史の中で」ではなく「今起きている」が正解だ。主演者すらその事実を知らないのか、口止めされているのかは知らないが、いずれにせよ納得のいかないプロモーションではないか。

 

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何度も言うが、それならなぜ足利事件に対する言及もなく、『殺人犯はそこにいる』や、その他の足利事件を扱った書籍(小林篤氏の『足利事件』や、冤罪にかけられた菅家さん自身の著書など色々ある)は一切紹介しなかったのか。また、そういった関係者に相談するといったことも無かったのか。権利を主張されたり、内容に口出しをされるのが面倒だったからだと推測してしまう。

 

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清水記者に対して「お前の本だけじゃない」と言ってるとしか思えない。法的にグレーを突いているとよほどの自信があるのだろう。言っているような崇高な目的があるのなら、先に上げたような軽薄なプロモーションになるわけがない。

 

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現状のやり方は、事件にかかわったジャーナリストや、事件の被害者たちの誰の想いにも応えてないし、そういう自負があるなら誰かに挨拶や相談くらいはしているはずだ。今回の事件に関しては、エンタテインメントの世界で飯を食っている人間の嫌な部分しか見えてこない。法的にどうなるかは知らないが「話題になればよかろう」という下心しか伝わってこない。

 

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12月31日にわざわざこの発言をしておいて1月5日に新エピソードの配信開始。何を重く受け取って、どう反省したのか。これを理解できる人はいないと思う。

 

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これがディレクター業のかたわらで法律を学び、弁護士資格を取得するに至ったやり手プロデューサーの仕事の進め方というやつなのか。

 

ついでなので以下に四宮隆史氏の著作のAmazonリンクも貼っておこうと思う。知的財産法にずいぶんと詳しいそうだ。エンタテインメント業界で、法律知識と資格を大いに役立てているらしい。今回の案件もその一貫か。知的財産を守ろうという姿勢は全く伝わらない。法律を徹底的に利用する側なのだろう。

小説で読む知的財産法―最新知財ビジネスの法実務

小説で読む知的財産法―最新知財ビジネスの法実務

 

 

ドラマの企画・制作を行ったジョーカーフィルムズが、1月1日に出した声明文も見てみよう。

このドラマは複数の文献や判決文等に記載された、客観的に明らかとなった周知の事実を踏まえて「架空の物語」を創作したものであり、特定の書籍に依拠したものではありません。
また、特定個人の創作的表現を用いることも行なっておりません。あくまでフィクションの作品として描いております。

上に引用した声明文を読めば明白であるが「ノンフィクションは事実の記録なんだから、客観的に資料の一部であって、そこに著作権なんか無いだろ」と真っ向から対決する姿勢である。知的財産権に詳しい四宮隆史氏が自信をもって臨んでいるのだから、かなり勝算があるのに違いないが、法的にどうあれモラルを欠いた行為であることは変わらない。

 

今回のドラマ事件は、単純に著作権の問題では済まない。何度も書くが、実在の事件とほとんど同じ形にもかかわらずフィクションと言いきり、関係者への一切の配慮もなくドラマ化してしまったのは大いに問題だ。しかも遺族や被害者(冤罪被害者の菅家さん含む)の多くが存命であり、真犯人も捕まっていない現在進行系の事件である。

 

エンタテインメントにはエンタテインメントの責任というものがあるのではないか。「フィクションです」というテロップ一本で責任を果たせるような簡単な事ではないはずだ。

 

まさか今回の騒動も含めて「足利事件」を世に知らしめるための活動というわけでもあるまい。そんな炎上商法の言い訳を許してはいけない。

 

脚本家の福田靖氏は劇場版『海猿』や人気になったNHK大河ドラマ龍馬伝』の脚本家だ。四宮隆史氏の会社に所属しマネージメントを受けている。パクりを知らずにこれだけ似せるのは難しい。そもそも「複数の文献」「明らかとなった周知の事実を踏まえて」などと公式に発表もあったわけだし、それが『殺人犯はそこにいる』に何割依存しているかなんて明言はしていない。客観的にドラマを観るかぎり、かなりの部分を利用しているように思えるのだが。

 

「資料として」使われた「客観的にあきらかになった事実」と片付けられた中には、決して軽々しくエンタテインメントとして使ってほしくなかったモノも、たくさん含まれていたはずだ。彼らはそれすら確認しようとはしなかったということだ。

 

責任者の四宮隆史氏をはじめ脚本家の福田靖氏、そして主演俳優などなど、ドラマの関係者たちは、注目さえ集まればなんでも良いと思っているのだろうか。その時は知らなかったという人もいるかもしれないが、これだけ批判を受け散るわけだし、今更シラをきり続けるなら同罪と言われても仕方がないと思う。知ろうとしないことは罪だ。

 

足利事件(冤罪を証明した一冊のこの本) (講談社文庫)

足利事件(冤罪を証明した一冊のこの本) (講談社文庫)

 
殺人犯はそこにいる (新潮文庫 し 53-2)

殺人犯はそこにいる (新潮文庫 し 53-2)

 
冤罪 ある日、私は犯人にされた

冤罪 ある日、私は犯人にされた

 

これらを読んで、軽々しくエンタテインメントにして良いと思ったとすれば、相当に軽薄ではないだろうか。

2018衆院選の自民圧勝を受けての考察とこれから

自民党が圧倒的な大勝利。単独で3分の2をとってしまったのだから驚いた。何が驚いたかといって安倍総理自身が自公連立で過半数が目標ラインだと言っていたにも関わらず、彼にとっては嬉しい誤算ともいえる大勝利だったからだ。さんざん国民を舐め腐った総理からしても「まさか」の結果だった。僕も「まさか」と思った。森友や加計学園のような疑惑たっぷりの安倍に、無罪のお墨付きを与えるような大勝利をもたらす国民って一体……。

 

最初から自民勝利は確定していたとはいえ 

誰の目からも最初から自民党が勝つのは見えていた。なぜならば立憲民主党がいかに盛り上がろうが78人しか立候補していないわけでどうしようもない。連合を組める野党は共産と社民しかなく、それぞれがいきなり50も60も議席を取るなんてことは常識的にいってあり得ないわけで、どうあがいても最初から自民党が勝利するのはわかっていた。しかしである。あれだけのスキャンダルがあって、税金の無駄遣いでしかない解散総選挙などという暴挙に出た安倍総理の信認という大テーマもありながら、それでもなお自民の圧倒的勝利というのは一体どう解釈すれば良いのだろうか。

 

勝利は勝利でもかなり議席を減らすのではと予測するのが普通だ。だからこそあの安倍自身をもってしても「自公連立で過半数」などといった弱気な発言が出てきたのだ。しかし多くの有権者にとって今回の選挙は「野党の受け皿がなさ過ぎた」ということに尽きるだろう。(小選挙区制の理不尽さはひとまず置いておく)

 

なにせ一番盛り上がっている立憲民主党の立候補者が少なすぎた。あまつさえ比例投票で票あまりまで出してしまい、みすみす自民に1議席を譲るという痛恨事まで引き起こしてしまったほどだ。ほとんどの選挙区では、立憲民主党の候補が不在であり、自民公明以外では希望、維新、無所属、共産、社民といった選択肢しか無かったのだ。このうちで希望と維新は明確に野党といえる存在ではなく、そうなってくると自民に物申すためには立憲民主とバッティングしない全ての選挙区に候補者を立てている共産党しかないのだが、有権者共産党アレルギーは大変なものだったといえる。

 

自民党の暴走を止めるために共産党に入れるくらいなら、自民党の自浄作用に期待して自民党に入れた方がマシ」

 

これくらい嫌われていたのじゃなかろうか。共産党がたとえ気にくわなくても政治の暴走を止めるにはあえて共産党に入れるくらいしか無いんだが、そんな高等テクニックを有権者の大半に求めるなんてそれこそ不可能事だろう。

 

いくら困ったとはいえ自民党に入れてしまうなんて選択は国民自身の首を締めるバカげた行為でしかないのが現実だとしても、ぼんやりと投票しにきただけの有権者に「けっきょく自民党しか無いんじゃない?」と錯覚させてしまうくらいに共産党のイメージが悪かったわけだ。ぼんやり投票した人には罪がないと言う気持ちはさらさら無いが、頼りがいのない共産党も反省点はいくらでもある。

 

共産党の限界と展望

僕の住んでいる選挙区なんて、現職自民、対抗馬維新、そして共産党の3人だけという典型的な選択肢の無い地区だった。僕自身は共産に入れ続けているので平気だけど、どう考えても他の有権者が「自民への不信感」くらいの理由で共産の候補に入れるとは思えなかった。なにせ現職自民の候補も、対抗馬維新の候補も共に地元出身者で支援も厚い。一方で共産の候補は何の基盤もない地域部外者。そんな有様で2割り近い得票があったのは、むしろ地域住民はかなり頑張った方だと思うが、残念ながら選挙に「がんばり賞」なんてのは存在しない。誰もが予想する通り自民と維新で綺麗に4割くらいづつの票を分け合って、ちょっとの差で現職自民が勝利していた。こんなことが各地の選挙区で起きていたことは安易に想像できる。

 

なぜここまで共産党が敬遠されるかは共産党自身が考えてもらう他にない。「たしかな野党」というのには嘘がなく、主義主張的にはたしかな野党なのだが、正直いって国民の方では野党とみなされてもない。あれだけ無茶苦茶やってて評判の悪い維新にすらも劣る地雷扱いである。自民が無茶苦茶してる代わりに評価が上がっていっても良さそうなものなのにそれすらもない。「他党によるプロパガンダが…」と言い訳するのは簡単だが、それに対抗する策を講じなかったのもまた事実なのだ。

 

それでも今回の選挙で共産党がした立憲民主へのアシストは評価できる。立憲民主の邪魔をしないためにバッティングする小選挙区から候補を降ろすというのは、おそらく共産党がした唯一にして最大の功績だろう。自民党政権に物申したい層からしたら、共産党よりも立憲民主の方が1000倍くらい投票し易いのは間違いない。今後もこの協力体制は続けてもらいたい。それがおそらく今の共産党に出来る唯一の正解ともいえる活動だろうから。党としては何も変えられないというのならばそれしかないだろう。

 

投票率について

投票率は伸び悩んだ。というよりも53%もあるというのは高い方じゃないだろうか。だれだって自民党が勝つのが目に見えている選挙には馬鹿らしくて行く気がしない。前述の僕の選挙区だって、小選挙区の投票については虚しさしかなかった。そして比例区のために行ったようなもんだが、それだってやはり共産党が躍進するという可能性はほとんど無く、立憲民主に頑張ってくれと願いつつ共産に入れるというよくわからない行為になってしまった。ほとんど祈りにも似た自己満足での投票だったといえる。

 

その結果が立憲民主党の躍進と自民党圧倒的的勝利だ。立憲民主党に関しては今後の希望ではあるが、僕自身の選挙としては何の関与もしていない。そして自民党圧勝には虚しさしか残らない。これで選挙に行こうというモチベーションが保てる方がマゾなんじゃないだろうか。逆に自民党などに投票した人はわけもわからない勝利感と達成感を味わったんじゃないだろうか。これではやれんよ。やりきれんと思う。

 

だからせめて立憲民主党の盛り上がりみたいな期待感を、今後も継続させていくのが大切かと思う。「投票すれば勝てそう?」というのが無ければ、「歯を食いしばって投票しましょう」なんて言っても誰もついてこない。「投票しなかった人が共産党に投票していたら勝ってた(立憲民主は物理的に候補がいないので)」なんて絵空事は聞きたくない。

 

わざわざ共産党に投票するような意思を持った人が、選挙を棄権する可能性がそんなに高いだろうか。それは共産党に入れ続けるというマゾ行為をし続けた僕だからはっきり言える。選挙に来なかった人というのは「浮動層」といわれるくらいあやふやな意思で投票している人間たちだ。だから「どうせ自民党が勝つでしょ」というムードに従って選挙を棄権しているのだ。

 

「もうなんかよくわからないから自民でいいや」と思っている人間の多くが、実際に投票しているなんて考えないで欲しい。「なんとなく自民」という人間のうち、実際に投票所に足を運んだのなんか半分以下だろう。だってほっといたって勝てる選挙にわざわざ足を運ぶだろうか。だから仮の話、来なかった有権者を無理矢理投票所に立たせたらどうなるかというと、自民の票が増えるだけというのがどうしょうもない現実なのだ。

 

じゃあ同じ理屈として、「どうせ勝てないから」という理由で選挙に行かなかった人間もいるんじゃないかという人もいるかもしれないが、こう言っちゃなんだが共産党に投票しようなんてのは、かなり意識の高い人間にしか無理な事だ。前述したとおり、「ふわふわした意識」の人からしたら、悲しいかな共産党は「たしかな野党」とは見なされてない。だから共産党に投票する人間なんて、現時点でわざわざ投票所に足を運んでいる僕のようなマゾがほとんど全てと言って良いのじゃないか。行かなかった人をあわせても倍になればまだマシな方。たぶんそんなにもいない。

 

だからこそ浮動票の人らの何割かが、ついうっかり投票したくなるような期待感のある野党が出てこないとダメだし、そういう世論作りがなされていない以上、「選挙行きましょう!」なんて呼びかけても、むしろ自民の票が伸びるだけになってしまうのだ。冷静になって思いかえしてみて欲しいのだけど、「選挙に行きましょう!」と呼びかけている自民党支持者をたくさん見なかっただろうか。今回だけではなく前回の選挙なんかでも。その前も。

 

彼らが何をしてたかというと「選挙には足を運ぶのは面倒だけど、なんとなく自民かなあ」という層を動員していたわけですよ。30代までの若い層にそうした人たちは大勢いる。はっきりいって現時点でも完敗しているのに、さらに増援されるのだからたまったものではない。彼らはそういうことをわかっているから呼びかけるのである。「自民党に入れる人は家で寝ていてください」と呼びかけた人は批難されたものだが、よほどリアリストだったのだ。

 

投票しなかった浮遊層は自分らの味方に違いない、というのはリベラル派の現実逃避でしかない。統計額のサンプル調査の理屈で考えればそんなハズが無いのは明白だ。ただ、決定的に違うのは、浮遊層が現時点で「自民かなあ」と考えている事は、いくらでもコロコロと変わりうるということだ。なにせ投票所に足を運ぶほどの明確な意思は持ち合わせていないのだ。だからこそ世論で勝たないとどうしようもない。メディアのモラルが重視されるのはそういうことだ。

 

mainichi.jp

 

知の訓練 日本にとって政治とは何か (新潮新書)

知の訓練 日本にとって政治とは何か (新潮新書)

 

2017年衆院選の最大の争点と最高裁判事国民審査の重要性を簡潔にまとめる

今回の総選挙の争点は実に簡単だ。

 

A.安倍総理の続行と自民党独裁政権を望むならば、自民、公明、維新、希望に投票する。

B.民主主義国家の存続と戦争反対を願うならば、立憲民主か共産に投票する。

 

ほぼこれに尽きると思う。AかBかの選択肢しかなく、それぞれの選択肢の中の投票先による違いはほとんど無いと言って良い。

 

安倍総理に少しでも不信感があるならばBの選択肢の他にやりようはなく、Aを選んでしまったり、Aの勢力が勝つようなことがあれば終わりだ。森友学園加計学園による不正についても「国民の信認を得た」とばかりに無視するだろう。なぜならばこの総選挙自体が、森友学園加計学園との癒着を追求された事を躱すための解散だからだ。「そんなに私を疑うならば選挙で白黒つけたろうやないか」ということだ。で、あるにも関わらず、安倍続投の方に投票したらどうなるか?

 

子供でもわかる理屈だろう。

 

だから子供の未来とか北朝鮮とか原発とか消費税とか、いろいろごちゃごちゃ言っているが、最大の争点はそこなので間違えてはいけない。安倍総理に異議があるなら自民党には決して入れてはダメなのだ。(もちろん、子供の未来にしろ原発にしろ消費税にしろ、自民・公明・維新・希望に入れると自動的に真っ暗になるけれど)

 

既にこのようなふざけた話も出ている。

lite-ra.com

 

もう一つ恐ろしい話が、安倍政権の続投が決まると「緊急事態条項」が制定されてしまうことだ。安倍退陣どころか永久政権をも可能にする恐ろしいものだ。国際的な様々な情勢に対応するために改憲が必要とかいう言説に「そうかなあ?」となっている人は今一度考えて欲しい。「緊急事態条項」が導入されてしまえば、あらゆる理不尽が起きても誰も楯突く事が出来なくなってしまうのだ。これは民主主義ではない。

 

安倍政権がJアラートの導入など、さんざん「北朝鮮の脅威」を煽ってきたもの、国民を「そうかなあ?」という気持ちにさせるためだ。しかし実際は「緊急事態条項」や「9条の改憲」といったものこそが危険であり国難なのだ。よく考えて欲しい。

 

とりあえず今回は自民党にブレーキをかけても、考えるだけの時間は稼げる。だから政治の事はよくわからないという人も、立憲民主か共産党に入れて、一旦踏みとどまって議論をするという選択をするべきだ。しかし独裁政権にゴーサインを出してしまえばそれでお終いだ。考える時間は二度と訪れないかもしれない。

 

北朝鮮の脅威」などという使い古されたプロパガンダの手法に煽られてはいけない。「国難」は内部にあるのだ。

sealdspost.com

moteradi.com

 

 

あまり注目を集めないが、衆院選では最高裁判事の国民審査が行われる。

 

これは何も書かないと自動的に「私はあなたを信認します」という票になってしまうというとんでもなくズルい投票システムになっている。だもんで、かなり悪辣な判決を出した最高裁判事であっても、今までの歴史でこの投票によって罷免された判事は一人もいないという恐ろしさがある。

 

本当はよほど立派な判事が現れた場合、「この人に引き続き任せたい」という意味で、特別に◯をつけたものだけを信認票とするのが筋というものだが、現実は先に述べた通り自動的に信認されるようなもんなので、最高裁判事たちが国民の方を意識するなどという事はあり得ない。

 

むしろ任命権を持っている権力の方の顔色伺いをするヒラメ裁判官(上ばっかり見てる)の最高峰の人間たちが最高裁判事であるとすら言える。なぜなら裁判所という組織では上に逆らう人間は決して出世コースに乗れないからだ。つまり最高裁判事は政府の都合の良い判決を下す究極生命体と言い換えてもいい。だから地方裁判所でなら国民の権利を守るようなリベラルで野心的な判決が出ることがあっても、最高裁では絶対に負けるようになっている。

 

地方裁判所より最高裁の方がより高レベルで厳密な審議が行われていて、地方裁判所判事より最高裁判事の方がよりレベルの高い判事なんだというイメージがある。僕なんかもよく知らないのにそう思っていた。しかし中身を知れば何の事はない。最高裁の方がより権力に近いというだけだった。だから最高裁の存在意義は、政権の最終防衛ラインだったりする。だから米軍基地問題原発訴訟も、最高裁という防衛ラインでがっちり跳ね返される事になっている。「国を相手にしたら勝てない」とは具体的にはこういうことだ。

 

そして下の記事を読んで貰えれた分かる通り安倍政権になってからその傾向はさらに加速している。裁判所が権力と癒着しているならば、誰も権力をさばけないということになる。これは危険すぎる。

blogos.com

だから最高裁判事の国民審査は、最高裁判事が国民の目を気にするようになるまで、オール✕をつけ続けるのが正しい行為ともいえるが、今回の審査対象たちがどのような判決を下してきたかは下のリンクからチェック出来る。わからなければオール✕で問題ない。今回の面子に「この先も最高裁判事を続けて欲しい」というような人材は一人もいない。僕が保障する。

 

森友学園問題の記録の保持を認めない判決を出した小池裕、元加計学園の幹事だった木澤克行、辺野古基地問題で翁長知事の訴えを棄却した菅野博之なども含まれている。普通だったら国民感情として彼らの続投はあり得ない。

 

審査対象を一覧で見れるまとめ。

衆院選と同時に行われる最高裁判所裁判官国民審査とは(ポリタス編集部)|ポリタス 衆院選2017ーーそれでも選ぶとしたら

 

最高裁判事の問題点。

lite-ra.com

 

もっと踏み込んで日本の裁判所について知りたい人にもってこいの書籍。選挙まで時間が無いかもしれないが、集中すれば一日で読める本だ。読む暇がないなら、全部に✕をつけてから読んでも良い。それで騙されたというなら苦情を言ってくれて良い。

裁判所の正体:法服を着た役人たち

裁判所の正体:法服を着た役人たち

 
絶望の裁判所 (講談社現代新書)

絶望の裁判所 (講談社現代新書)

 

車椅子の搭乗拒否問題に見るマイノリティ軽視思想の危うさ

先程の記事に書いたTwitterヘイトスピーチ抗議運動叩きに関連して、すぐさま連想した話題があった。それはちょっと前にあったバニラ航空に搭乗拒否をされかけた車椅子男性のニュースだった。

www.news24.jp

ニュースそのものは、歩けない乗客に対して、あまりにも配慮のなかったバニラ航空が、謝罪と業務の改善をするという事で決着が付いていたので、特に何をいうこともないはずなのだが、やたら騒いでいる外野がいたことがTwitterヘイトスピーチ問題とすごく似ているところだった。といってもSNSなんて他人のニュースで騒いでなんぼというサービスともいえるので、当然といえば当然なんだが、アンチに回っている側には大義名分が一切ないにもかかわらず、やたら偉そうという点で相似点があるなと感じた。

 

端的にいうなら「車椅子にあまりにも冷たいバニラ航空はけしからんかったね」というのがこのニュースの通常の反応であって、多くの人もそのような感想をもったのではないだろうか。

 

しかしこれとは違う感想をもった人も大勢いて、「車椅子の方がけしからん、配慮せよ」という主張をしていたりしていて僕らの心胆を大いに寒からしめていた。

 

そういう人たちの意見を簡単に要約すると「車椅子男性はプロのバリアフリー思想活動家であるので、所謂クレーマーみたいなもので一般の障害者とはいえない」「車椅子が生意気なこというな」「嫌なら使うな」「安い航空会社を使っておいて偉そうに」という点だったりする。

 

Twitter社に抗議活動しているのは、抗議活動の専門家なので一般人の意見とはいえない」「抗議のやり方が気に入れない」「ヘイトスピーチが嫌とかいう価値観を押し付けるな」「ヘイトスピーチのあるTwitterが嫌なら使うな」「無料で使ってるくせに偉そうに」……なんというか、批判のポイントがあまりに似ていたのだ。デジャヴーを感じてしまった。

 

ヘイトスピーチにショックを受けたユーザーが「なんとかせい!」と運動を起こし、Twitter社も自ら「ヘイトスピーチは禁止します」と規定を設けている上で「善処します」といってるにも関わらず、第三者による運動に対する批難が止まないにも同じではないか。バニラエアが「配慮が足りませんでした改善します」といって決着した話題だったのに、なぜか第三者が車椅子の人を批難していたりした。

 

バニラエアの件で車椅子の人を「気に入らない」と言っていた人間は、Twitterヘイトスピーチの件でも反ヘイトスピーチを訴えていた人を「気に入らない」と言ってたんじゃなかろうか。両者の発想的なものは同じところから来ているように思うのだがどうか。

 

僕も立場の違いというのは理解する人間なんで「わしはヘイトスピーチが出来るSNSが好きなんや!」「もっと公共の場でヘイトスピーチをさせろ!」って人間が、反ヘイトスピーチ活動についてボロカスに叩きたいという事ならわかる。でもそんな清々しいくらいの主義者なら何もいうことは無かった。それよりも「自分はヘイトスピーチに賛同するわけじゃない。むしろ反対する立場にある。でもああいう運動は…」みたいな事をいう人間の気持ち悪さが気になって仕方が無かった。

 

これは車椅子の件でも同様で「バニラエアはわしの会社や!車椅子は儲からへんから乗せへんのじゃ!」とか、「車椅子の人間と同じ空気を吸いたくないから、バニラエアの方針変更には残念ですね」とか、「バリアフリーなんて吐き気がする!バリア社会にしろ!」とか、そういうわかりやすいクズなら良かったのだけど、「自分は差別心なんて微塵もありませんよ?でも車椅子の人が悪いと思うな…」みたいな事をのたまうわけである。

 

まあ、キーワードになるのは「意見をぶつけてくるやつは気に入らない」ってところだろうか。まともな理由として車椅子の人を批難している人はいなかったと思われる。というか、当事者同士の合意が出来ているものを、第三者が否定するなんてのはよほどの材料が無ければ不可能だろう。

 

バニラ航空、奄美路線での搭乗拒否「階段昇降のできない人は乗れません」 

http://www.kijikiji.com/self/vanilla.htm

上記が搭乗拒否されかけた車椅子の人のHPでの説明なのだけど、これをきっちりと読んだ上で批難している人はほとんど見かけなかった。僕の知る限りは一人もいなかった。というかいうほど興味が無いんだろうと思われる。バリアフリーに対しても、ヘイトスピーチに対しても興味がない。興味がないから「なんとなく気に入らない」だけで批難してみたりもする。その結果がどうなろうと知ったことじゃない。

 

上の説明のなかで恐ろしいのが、158ヶ国200以上の空港を利用したという経験の中で、搭乗拒否を食らったのはたった2回しかなく、どちらも日本の航空会社だったという事実。これは偶然なのだろうか。そりゃ本人は日本人だから、どこの国よりも日本の航空会社を使う機会が多いだろうけれど、そういう機会的なものではなく起きたトラブルをみると何か根本的な不備が原因ような気がする。

 

ヘイトスピーチ問題にしても、バリアフリー問題にしても、要するにマイノリティーとどう向き合っていくかという問題だ。日本人は「空気を読む」に代表されるように付和雷同するのが大好きだ。逆をかえせばメインストリームからはみ出たものに対しては、「臭いものには蓋」という感じで、ものすごく冷たい面があるのではないだろうか。弱者やマイノリティーに配慮するということに関しては後進国といえる。そういう不器用さが「なんだか気に入らない」「意見を言うやつは生意気だ」という感情を生み出しているのではないだろうか。

 

マイノリティ軽視の社会からは、多様性も生まれないので発展性もない。マイノリティを認めない人類からは、人間としての想像力みたいなものは全く感じ取れない。日本社会がそこから脱却できないとしたら残念と言わざるをえない。

 

最強のふたり (吹替版)
 

とりあえず『最強のふたり』でも観て欲しい。

Twitterのヘイトスピーチに対する抗議活動に批判が起きる謎について

www.asahi.com

日本のTwitter社がヘイトスピーチを放置しすぎていたことが問題になっている。そのくせTwitter社の意味不明のアカウント凍結も問題になっていたりもする。普通に活動していただけのアカウントが突如として凍結されるという事例はたびたび報告されていて、しかも凍結理由は決して公開されないという不透明さだ。そういうTwitter社の誠意の無さに業を煮やしたということか、さる市民団体が、ヘイトスピーチツイートを印字して道に敷き詰めるというアピールで、Twitter社に対して抗議した様子がニュースになっていた。

 

これはドイツのTwitter社に対して行われた抗議活動が元ネタになっているようだ。さすがに路上にペイントするという過激な行為は日本で行うのはためらわれたようで、印刷物を敷き詰めるというソフトな形にアレンジされている。

www.itmedia.co.jp

 

さて、これでTwitter社が考えを改めてヘイトスピーチに対して適切な対応をとるようになるかわからないが、ひとつ気になったのは、この抗議活動自体を批難するような言説を唱える人間があちらこちらに現れたことだ。

 

ヘイトスピーチを放置するな!」とSNSの運営会社にせまる行為の一体どこに批難される要素があるのだろうか。ちょっと意味がわからない。

 

いつものことだけど、何か話題が立ち上がると、必ずものすごい論点がズレた人が湧いて出てきて話をややこしくする。そして憤怒にまみれた罵声が飛び交ったり、冷笑の応酬もはじまり、その結果として人々の認識がますます混乱、遅延、錯誤、錯覚していく。これをほっておけば社会が何ひとつ前進しないどころか、むしろその無知蒙昧度というのは上昇する恐れもある。だから今回も僭越ながら、僕が話を整理しようと思う。批判の種類ごとの項目を作っていちいち片付けていこう。

 

Twitterを利用させて貰っているのだから会社に文句言うな!嫌ならやめろ!」

この手の類の意見。「○○人は日本に文句あるなら黙って出て行け!」というヘイトスピーチまるままやないかと。なんで不当なものに対する意見をいうたらあかんねんと。こういう手合は差別主義者の理論を振りかざしているだけなので相手をしてはいけない。

そもそもTwitter社自身が「ヘイトスピーチをしてはいけない」というガイドラインを示しているわけで「Twitter社のルールが気に入らなければ出て行け!」と言われなくてはならないのは、本来ならばヘイトスピーカーの方なのだ。

 

もしそれに対して不満があるならば「ヘイトスピーチの出来るSNSにしろ!」とデモを起こさなければならないのは彼らの方だ。それが逆になっているから「Twitter社は仕事しろ!」となっているわけで。

 

www.buzzfeed.com

この記事は一年前のものだ。ヘイトスピーチTwitterのルール違反であるという認識は定着しただろうか。Twitterを使っている者ならば誰だってそんなふうには思わない。ヘイトスピーチやり放題。それが日本のTwitterの現状だ。だからTwitter社は努力しろということだ。

 

ヘイトスピーチとそうでないものの境目がわからない。勝手に決めるな」

mainichi.jp

頭のわるい人にもわかるように、法務省がわざわざヘイトスピーチの典型例を示してくれている。法律上は「表現の自由に配慮して」これらの発言に罰則というのは無いが、ヘイトスピーチかそうじゃないかといえばヘイトスピーチと認定されるのは間違いがない。Twitter社の規定したルール上では、これらの発言は制限されなければならないはずだ。

 

表現の自由を侵犯するな!」

今回のTwitter社のデモにしても、ヘイトスピーチをやめろと言っている人間も、表現の自由や思想の自由は一切侵犯していない事に注意するべきだ。先程もTwitter社が定めたルールを示した。Twitterヘイトスピーチをする場として相応しくないという事を、まったく知らない人に対して啓蒙していっているわけだ。そして何度もいうがTwitter社は仕事をしろと。

 

禁煙のレストランでタバコを注意されたとして「タバコを吸う権利を侵犯するな!」「タバコが嫌なら店から出て行け!」などと逆ギレする人間がいたとしたら、どう思うだろうか。ちょっと理論が飛躍しすぎていて怖くないだろうか。それだけの話である。

 

「抗議活動のやり方が気持ち悪い!センスが無い!」

知らんがな。あんたがそう思っただけだろいうだけの話だ。何度も言うとおり、Twitter社のルールではヘイトスピーチは認められてないのだから、どのような言い方であっても「Twitter社が規定を守る努力をしてない」という事実は何も変わらない。

 

たとえば禁煙の張り紙をしているレストランで、「店は喫煙者を野放しにしているやないか!」と店に抗議した事に対して、一部の人間がキモいと思ったとしたら、店はそいつを無視しちゃっても良いのだろうか。「うむ、その通り。キモい奴はダメ」とか思っちゃったらとしたら、それはもう理屈で物事を考えることの出来る種類の人間じゃないということになる。感覚の人だ。そういう人とは議論になりようがないし、話をあわせる事が不可能に近い。感覚を同じくする人同士で差別的に盛り上がるぶんには一向にかまわないことだが、さも社会的コンセンサスがあるようにふるまうのはやめて欲しい。

 

だから何度でも言っておく。キモい?知らんがな。

 

バトラーを引用してヘイトスピーチを取り締まるべきではないとする言説も見られるようだ。たしかにバトラーは「表現規制を政府に委ねるべきではない」と著作の中で主張している。しかし場所に応じたルールを決めるなとは言っていないはずだ。法律によってポルノ表現を禁止してしまうことと、あらゆるシーンにおいて無制限にポルノを発表する権利があるのとでは話が全く別だ。これを混同するのでは話にならない。

日本が階級社会であることの不利益を考えてみた

電車の運転士が携帯見てただの消防士がうどん屋に行っただのなんだのというクレームがすぐに話題になる社会。このようなTwitterがあったが、まことにもっともな話であって、日本人が仕事や職務に厳しいだけの気質であるならば、国会で政治家が居眠りなんてのは言語道断であって批判集中しなければおかしい。しかし国会での居眠りで罷免された議員などの話は聞いたことがないし、怒られたという話もクレームが殺到しているといった話すらもない。だからこそのテレビで中継されている前での堂々たる昼寝っぷりなのだろう。ここまで開き直られると議員というのは「国会での居眠り権」が保証されているのではと錯覚してしまう。

 

「国会なんて形式的なものだから寝てようが起きてようが影響ないから大丈夫」「議員は多忙なんだから寝させてあげよう」「ちょっとくらいミスがあったとして目くじら立てるのではなく良いところを見るべき」「マスコミが寝ているところばかり映し出すのは悪意がある」などという擁護意見がどんどん出てくる。はっきりいってめちゃくちゃに甘い。

 

たとえば電車の運転士なんかが居眠りしたらそりゃ大事故になる可能性があるから指摘されるのも無理もないが、連日の勤務で疲れが溜まっていてウトウトしてしまうこともあるだろうし、つい携帯を見てしまうこともあると思う。それで大事に至らなければ「ちょっとくらいのミスは大目にみてあげよう」となるかというとそうじゃない。もし運転士の中継番組なんかがあったとしたら非難轟々だろう。鉄道会社にはクレームが殺到すると思う。

 

現場業務は「職務の安全上、寝ないのが仕事」だとしても、じゃあ一般企業の会議で、社員は興味がなければ寝てても携帯いじっていても良いのかといったら、そんな自由すぎる企業はほとんど聞いたことがない。堂々とそんなことしていたら下手したら馘首になる。「寝ても良い」という仕事があったとしても、新薬の臨床とか、何かの実験であるとか、かなり特殊な状況のものに限られる。つまりどんなつまらない仕事であれ、たいていは「寝ないこと」が求められているのであり、「労働契約」とはつまり「睡眠権」の放棄を第一条とする様々な権利の放棄と引き換えに賃金を得ることを意味するといってよい。

 

つまらない仕事にもそれだけの「義務」が科せられる反面、国家の最高機関に挙げられる国会での職務には「睡眠権」が堂々と持ち込まれる。それだけではなく「スマホ」なども持ち込み自由のようだ。たとえばコンビニのバイトがレジで「睡眠権」の行使をしたり、「スマホ」をいじっていたりしたらどう思うのか。たとえ自分が雇い主でなくともカッカして本部にクレームを入れたりする輩が続出するはずだ。電車の運転士や、消防士のささいな行動にクレームを入れる人間がいることからも想像に難くない。そしてクレーム入れられたコンビニチェーンも「レジに客が来た時には働いてたから良いだろうがよ!」などとは開き直らず、ただただ恐縮してみせるはずだ。そして末端の店舗やアルバイト店員に対してペナルティを課したりする。

 

偉ければ偉いほどやりたい放題。それに対して労働者の仕事については周囲の目は厳しい。それがどれだけ時給が安くとも手抜きは認められない。それが日本という国の実情だ。

 

国会議員に文句を言ってはいけないのは「国会議員という立場がひたすら偉い」というコンセンサスが形成されているからだ。そうでなければ「先生」などとは呼ばれない。なぜ国会議員が偉いかというと、多くの人間にとって利害を左右するなにがしかの権限を保持しているからだ。国の業務にアクセス出来るのは国会議員や一部官僚や警察上層部など限られた人間だけであって、国の業務というのは様々な利害に直結しているから、彼らと敵対するよりも仲良くして自分だけ得をしたいという気持ちはわからんでもない。

 

しかし冷静になって考えて欲しいのは、多くの人の利害に直結する国の業務に関わるポジションだからこそ、本来は無能な人間や不公平な人間は排除していかなくてはならないはずだ。ところが実際、そういう立場の人間が厳しい評価の晒される事は稀である。ひたすら甘くされていく。そして下っ端に行けば行くほどに、厳しい評価に晒され続けるという逆転現象が起きる。なんでなのか。

 

それは日本がガチガチの階級社会だからである。江戸時代以前の封建制度における身分社会は誰でも知っていると思うが、その精神は現代に至るまで、天皇陛下を頂点とした階級社会として色濃く残っている。現在の貧富の格差などの経済や社会問題も、とどのつまりは日本における身分社会の精神の発露だと思っている。

 

身分社会や階級社会において大事なことは「上の人間には逆らわない」「下の人間は絶対服従」ということだ。なぜなら無能でも立場を脅かされないのが血縁主義や身分社会というものの醍醐味だからだ。だから上には権力を与え、優遇し、下にはことあるごとに厳しくするように仕組まれていく。社会全体がそういうコンセプトの元で動いていくのだ。だから反抗的な人間は子供の頃から教育を通じて排除されていく。人間を計る指標が「優秀なこと」より「従順なこと」に比重をおかれがちだ。そう考えると横綱審議委員会みたいな不透明な組織が日本社会になぜマッチしているのかがよく理解できる。

 

ガチガチの身分社会が強固に構築され始めるとどうなるかというと、現在の日本を見ても分かる通り経済が破綻していく。経済が破綻すると文化も衰退していく。ありとあらゆる分野がダメになってしまう。

 

簡単な話である。身分社会では要職に就いている人間ほど無能になる傾向にあるからだ。そして上下の流動性の乏しい社会ほど、瑕疵が指摘されず無能がのさばり続ける可能性が高い。そんな組織が、実力主義を方針とする組織と勝負して勝てるだろうか。結果は第2次世界大戦の例を見ても明白だろう。社会の序列やポジションの確保のために多大なリソースを消費してしまう身分社会は、効率の面でいっても実力主義の組織に必ず遅れをとる。時代が下るにつれ世界から身分社会が姿を消しつつあるのは淘汰の結果である。

 

江戸時代のころ、長らく続いた世襲制身分制度によって、日本はいつしか諸外国に対抗できない組織になってしまっていた。黒船というやつだ。その反省から、薩長土肥という実力をもった雄藩が主導になり、無能な江戸幕府を解体し、あらたに明治政府という実力主義による近代社会に生まれ変わろうとしての維新後の日本である。ところがこの新たな組織体も、結局は天皇を中心としたガチガチの身分社会を構築し始めた。再び庶民の活動や権利は大きく制限され、あらゆるところでトップダウン中心の活動が展開されていくようになる。それがどのような悲惨な結末を招いたかは説明するまでもない。

 

明治維新、敗戦後の民主化。直近の二度の繁栄は、階級社会がある程度解体されたからこそもたらされたものだったことをくれぐれも忘れてはいけない。しかしそれを良しとしない勢力が日本には存在する。彼らにとっては、国民の生活が保障された社会よりも、上下の立場が保障された社会の方が魅力的なのだ。身分が固定されていた時代を美しいとか古き良き時代だと礼賛し、人権の拡大とかいった、より多くの国民にとって利益になるような思想を危険視したりする。

 

庶民が「睡眠権」を獲得したいなんて言ったら大反対するに違いない。庶民が週に40時間以上も働かされて、うどんすらもなかなか食えず、ひたすら疲弊していてもおかまいなし。その反面、偉い人は自由に「睡眠権」を行使し、栄養も摂取し、長生きを(しようと)する。ところが庶民は庶民で「偉い人は偉いのだから」と小さい頃から叩き込まれていたりするので、異常な立場に追い込まれている自覚に乏しかったりする。

 

日本が完全に身分社会から脱するにはあと何年かかるのだろうか。

 

国の要職についている人間が堂々と居眠り出来る絵面の異常性。日本国民はそろそろ気がついても良いころなんじゃないかと思うのだけど。

コンビニなどのポイントカードシステムについての恐怖体験!

「○○ポイントカードはお持ちですか?」レジなどでのこのやり取りが当たり前の日常になってどのくらい経つだろうか。

 

ヨドバシカメラが大阪に進出し始めた頃くらいからポイント還元というのを強く意識し始めたと思う。それ以前もポイントカード類は多少はあったが、やはり電気屋とかパソコンショップ系統の店だった。いわゆる日本橋系のお店。

 

だからポイントの類を日常生活で意識することがあまり無かったけれど、LAWSONやファミリーマートがポイントシステムを導入し始めてから状況が一変。ツタヤのカードを提示すればポイントが貯まるというので、毎回レジで促されるようになるわけだ。

 

ヨドバシカメラなどが商品の10%をポイント還元してくれたのに対して、LAWSONやファミリーマートは1%だった。

 

そう、1%なのだ!!!

 

1000円の買い物をしたとしても10円かえってくるだけ。はっきりいってゴミ以外の何者でもない。

 

だから基本的には無視していても人生において何ら差し支えないけれど、ツタヤのカードはすでに所有しているし、レジで出すだけで少しでもお金がかえってくるなら…と出し続けるわけである。そして、なんとなくコンビニを使う時は、LAWSONやファミマを選んでしまっているような自分がいたりする。人間というのはコントロールされやすいのだ。

 

すると2年もすると1000ポイントとか溜まっていて、塵も積もれば…という諺を思い出すとともに、ファミマとかで10万円以上も使ったという事実にゾッとしたりもした。

 

その頃まではまだ良かったのだ。気がつけばLAWSONは○○カード、セブンイレブンは○○カードという風に、各コンビニごとに違うポイントシステムが導入されていた。そう、LAWSONはけっこう早い段階でツタヤカードが使えなくなって、別の「ポンタカード」とかいう意味のわからないものに変わっていた。いつものようにレジでツタヤの会員書を出そうとしたら「使えません」と冷たく言われたのを思い出す。それまで出せ出せ言ってたくせに実に勝手なものである。店の都合に振り回されるポイントシステムとうものに、いらつきを覚えはじたのは頃ころからだ。

 

そういえば、ブックオフでも、最初にブックオフのカードを作ったらお得ですよと言われて、しばらくそのカードを使い続けて、雀の涙のようなポイントを溜めていたのを思い出した。そしたらやはり突然「ブックオフのカードは廃止でツタヤのカードに統合されました」とか言われてしまった。当然ツタヤのカードは持っているから、統合された方がこっちとしては楽なので、この時は「仕方ないか…」と受け入れた。

 

しかし事件は起きた。しばらくツタヤのカードのポイント(ゴミみたいな還元率)を溜めつつブックオフを引き続き利用していたら、「ツタヤのカードはやめますので、新しいブックオフのカードを作ってください」とある日また言われてしまったのだ。「誰が作るか!」と思わずレジで叫んだ…のは嘘だけど、それくらいの気持ちにはなった。それから何度かブックオフは利用したし近所にもブックオフはあるが、頑なにポイントカードは作っていない。どうせ1%以下の還元率のゴミカードだ。財布を圧迫するだけ損である。

 

なんどもいううにツタヤの会員カードはもとから財布に入っているので、ファミリーマートではポイントを貯め続けていた。するとある年から勝手にルールが改変されて、今まで100円で1円ぶんのポイントをくれるというゴミ還元率だったのが、200円で1円ぶんのポイントということにしますというありがたいお達しがあった。

 

100円で1ポイントというのも気の遠くなるような話だけど、これからは200円で1ポイントという凄まじくどうでも良いものになったのだ。190円の利用だとなんとありがたいことにゼロポイントにしかならない!

 

その代わりファミマでの利用の多いユーザーはランクアップで100円で1ポイントになったりしますよ云々……。はっきりいってその先は読み飛ばしたので詳しいルールなんか今だに知らない。どうせそんなにたくさんファミマで買い物なんかしないのだ。

 

なんかこのやり口には既視感があった。そうだ。楽天ポイントなどが、こういうランクアップシステムで顧客を煽るということをしていた。ブロンズがシルバーになりますみたいな聖闘士星矢みたいなランクアップシステム。心底どうでもいい。しかしツタヤカードと提携しているファミマなどは楽天のやり方が羨ましくなったのだろう。楽天さんは儲かってそうだと。

 

しかし200円ごとに1ポイントとか本当にどうでも良い。そんなこんなで、完全にコンビニでのポイント利用には興味を失ってしまった。しかしそうはいってもツタヤカードは財布に入っているので、なんとなくファミマでは出してしまう弱い自分もいたりする。なんのかんので数年後には1000ポイント以上も溜まってしまっていた。とするとその数年間で20万円以上使ったことになる。別にファミマの利用頻度が増えたわけではないけど、少しだけ頭を抱えた。

 

それから、セブンイレブンやLAWSONのポイントに関しては無視を続けていたが、こういったブログとかで楽天アフィリエイトなんかに手を出すようになった関係で、サークルKサンクス楽天ポイントは貯めるようになってしまった。もちろん200円で1ポイントというゴミ還元率ではあるが。ただし楽天ポイントは他の店舗でもけっこう溜まったりする。ダイコクドラッグとかの5倍ポイントアップなどもあるのだ。といっても元が0.5%以下なので、2.5%以下にしか過ぎないのだけど。

butao.hatenadiary.com

この楽天ポイントは腐れ縁みたいなもんで、それなりに旅行のホテル代金などでお世話にもなったりするので、ついついカードを出したりしているが、さほど買い物でポイントが貯まるのをあてにしているわけでもない。哀しい動物の習性のようなものだ。しかしいつしか楽天での僕は、ゴールド聖闘士をも超えたダイヤモンド聖闘士と化していた。あれほど忌み嫌うランクアップシステムだったのに…。

 

これでも100円1ポイントの時代ならば、ファミマとセブンイレブンとLAWSONが並んでいたら、迷わずファミマに突入していたようなこともあった。恐るべきポイント効果といえる。しかしさすがに0.5%以下なんてのは馬鹿らしいので、そのコンビニがファミマかセブンイレブンかLAWSONかとかはぜんぜん意識はしなくなってしまった。デイリーヤマザキはパンが気になってついつい入ってしまうけれど。そのくらいだ。

 

そんな意識になっていった頃、たいへんな事件が起きてしまった。ある日、コンビニにふらっと入って、コーヒーだかビールだかを買った時だったと思う。「カードをお持ちですか?」と聞かれたので、ついついツタヤカードを出してしまった。すると店員は困ったような様子で「あ、いえ、うちはセブンイレブンなので…」とか言ってきた。自分としては「あれ!?違うかったっけ!?」と道化になるしかなかった。あんまり意識せずに目の前のコンビニに入っただけだったのに。なんでこんな思いをしなくちゃならないのか。

 

そして連続して事件は起きる。数日後「たしかこの辺にファミマかなんかあったよな…」と飛び込んだコンビニで、やはりビールを買おうとした時に「カードをお持ちですか?」と聞かれたので反射的にツタヤカードを出したのだ。なんせ「たしかファミマがあったはず…」と飛び込んだコンビニである。そしたらまたしても店員さんが憐れむような目で「Pontaカードなんですけど…」と言ってきたのである。ハッと我にかえってよくみると、彼女は青の縦ストライプの制服を着ていた。40過ぎたくらいで認知症になってしまったのかとさえ思って落ち込んだ。

 

いい加減にして欲しい。こちらは○○コンビニ限定の商品…金のなんとかとか、からあげクンとかファミチキとか、そういうのを買いにきたのではないのだ。どこにでもあるスーパードライ缶とかサッポロ黒ラベル缶とかが欲しくてやってきたのだ。なんで別々のポイントをいちいち把握せにゃならんのか。なんだかコンビニに入ることさえ嫌になってきた。一生ファミマまたはデイリーヤマザキハセガワストアーみたいなポイントと無縁の店にしか行かない人になってやろうかとさえ思った。これこそカードシステムを導入したファミマの思う壺なんだろうけども。

 

そしてさらに事件は起きる。マクドナルド某店に行った時のこと。「楽天ポイントカードはお持ちですか?」とレジで聞かれてしまった。もちろん持っているのだけど、あまりに面倒だったのでスルーしてしまったが、次に同じマクドナルドを利用したときに、ついつい出してしまった。なんということだ。これからはマクドナルドでは楽天ポイントカードを出すか出さないかを意識しなくてはならなくなってしまった。

 

楽天ポイントに関してはツタヤと同じくすでに所有してしまっているので、ついつい店でポイントを貯める行為に手を染めてしまっている。だから「マクドまでもが!」というポイント社会っぷりに少しイラッとはきたけど、これからマクドナルドを使う時は腹をくくってレジで提出していくしかなさそうだ。

 

しかしその思いは直後に踏みにじられることになる!

 

後日、別のマクドナルドを利用した時の事だ。

レジで「Dポイントカードありますか?」と言われたので、「ああ、楽天カードね…」と財布から出しかけたが「えっ!?」と聞き返してしまった。

「Dポイント!?」「ドコモのDポイントお持ちですか?」「ドコモ!?そんなの持ってないです…」「そうですかぁ…」

 

なんてことだ。マクドナルドは店舗によって対応ポイントが違うらしい。完全に死にたくなった。願わくば、もう二度とレジで「ポイントカードお持ちですか?」とは言わないで欲しい。200円でたった1円得するゴミカードのために、いちいち気苦労を背負い込むなんて間違っている。そんなことは無い社会であって欲しい。(調べたらDポイントの場合は100円で1ポイントらしい。実にどうでもいいけど!)

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なんで日本人は傘をさすのがこんなに大好きなのか?

毎朝使う電車。終着駅で自動改札を通って外に出るのだけど、ホームから階段を登りそのまま前進すると進めば自動改札機が複数台並んでいる。だけど通勤客などでなかなかに混雑していて、みんな数秒くらいづつは待たされるわけだ。しかしふと右側を見ればもう一台の自動改札機があって、そちらは誰も使っていない。いつ見ても誰も使っていない。だから僕はそちらからすっと外に出る。

 

なんで誰もこっち側から出ないのか不思議でしょうがない。真正面に配置された自動改札機に比べれば死角といえばそうだけど、強いて言えばの話であって、この自動改札機が全く見えなかったという人は誰もいないはずだ。じゃあなんで誰もこっちから出ないのかといえば、ちょっと横道から出るという労力よりも、何も考えず数秒待たされる方がよほど楽だと考えているのだろうか。朝の出勤みたいなつまらない行動をしている時は意識を完全にオフにしていて、「おっ?誰もいない?」「右から出たら早いかも?」なんて思考を巡らせるだけくたびれ儲けということか。

 

たしかに何も考えず正面の自動改札機を待っているのと、横の自動改札機からすっと外に出るのとを比べても、数秒ほど早く外に出たらからといって何も得をしたりはしない。次の電車の乗り継ぎに影響したりしないし、それで会社や学校に遅刻するならば、もとから遅刻しているはずだ。僕がなぜそんなことをするかというと「明らかに空いているレーンがあるのに列に並んでいるという不合理」にイライラするからである。「出たいから出る」と言い換えても良い。

 

日々そんなことを考えていると、ある日とんでもない光景に出くわした。その時はたまたま混んでいない時間帯だった。自動改札機を使う人間もまばらなもので、行列までにはなってなかったのだ。するとどうだろうか。行列になっていた時はあれほど誰も利用しなかった右側の自動改札機レーン。かなりの人間がそちらを通って外に出ている。というか、正面のレーンと、右側のレーンと、見ている限りでは利用率はほとんど同じなのだ。

 

これはどういうことだろう。混雑して、人が通りにくくなっていればなっているほど、人はそちらに集まってしまうとしか考えられない。不合理すぎる事実だ。行列のできるラーメン店には、余計に行列が出来るのと同じことなのかもしれない。この場合は、ラーメン屋なんかと違って、自動改札機レーン同士に、なんらクオリティの差があるわけではないので、より明確に人間の心理が浮き彫りになっている。人間とはなんと釣られやすい生き物なのだろう。

 

本題に入る。雨の日に外を歩いていると、誰も彼も傘をさして歩いている。よほど酷い雨ならば、傘もささずにびしょ濡れで歩いている方がおかしいけれど、ちょっとした小雨程度だったとしても、傘をささずに歩いている人は少数派だったりする。

 

なんでみんなこんなに傘が好きなのだろうかと首を傾げる。僕はよほどの雨でもない限りは傘をささずに歩いてしまう。傘というものがめんどくさいからだ。だから折りたたみ傘なども持ち歩いたりはしない。旅行に出かけるときも用意しない。その代わり、日除けもあって、普段から帽子をかぶっているので、少々の雨だったら帽子があるから気にならない。これでたいていのケースはなんとかなってきた。

 

しかし僕のように傘をさすのを面倒だと思っている人というのは、今までそんなにたくさんお目にかかった事がない。そりゃ「おたくは、雨降ってきたとき、傘をさす派?ささない派?」なんて質問をすることはないけれど、雨の日に外を歩いてみればなんとなくわかる。ほとんどの人が、雨が降っているという情報をキャッチすると、自動判断で傘をさすことになっているようだ。そんななかで、まったく傘をささずに歩いている人というのは、傘をたまたま持ってなくて仕方なくだとか、すぐ近くまでだからダッシュで行こうとか、何らかのイレギュラー感を醸し出している。

 

少しでも濡れたら化粧が流れてしまうとか、酸性雨の影響を気にしているとか、濡れた野良犬みたいな匂いになってしまうのを恐れているとか、そのほか僕の知らない何らかの理由で、絶対に水に濡れられない人も、そりゃ世の中にはいるとは思うけれど、そういう人たちばかりでも無いはずだ。これだけ人が歩いているのだから、もうちょっと傘嫌いがいても良いではないか。

 

しかし思い出してみれば、かつての僕もそんなものだった。出かける時は天気予報をチェックして、雨が降りそうな気配があると傘を持参していた。少しでも濡れるとこの世の終わりみたいな気持ちがあった。なんで雨の日に少しでも濡れたくなかったのかと今思い返しても「わからない」としか言いようがない。強いて言えば「親とか先生がさしなさいと言ったから」だったりする。その理由が「風邪をひくからダメ」だった。実体験して「なるほど」と思ってそうしていたわけではなく、いってみれば呪いみたいなものだ。その呪いで「傘をさすのが大人の分別」と思い込んでしまった。

 

それから人生に色々な体験をして「本当に傘をさすのが大人の分別なのか?」と考え出すようになった。そしてよほど酷い土砂降りでもないならば、少々濡れても別に大丈夫だし、服が水に濡れたくらいで風邪なんかひかないというのもわかってきた。そして今に至る。しかし今だに「なんで傘をささないの?」とか「傘をもって行きなさい」と変な顔をされることは多い。

 

みんなが傘をさすのは、行列にみんなが並んでいるからというのと同じく、「みんながそうしているから」という理由でしかないとしたらどうだろうか。もう一歩進めて「みんながしているのに、していなかったら奇異の視線にさらされるから」ということであるとすればどうだろうか。かつての僕にしたって「雨の日には傘をさしなさい」と他人に言われたから傘をさしていただけで、これという明確な理由は、どれだけ考えても出てこないのが恐ろしい。

 

僕みたいなライフスタイルの人間が他にいないものかと思った。そこで試しに「傘をささない」でググってみたら、たちまちいくつかのサイトがひっかかった。

www.leondesign.co.jp

www.bite-japan.com

itmama.jp

どうやら、日本人で僕みたいな奴は少ないらしく(わかっていたけれど)、いたとしたら外国人らしい。そういえば、たしかに雨の日に歩いていて「お、他に普通に歩いている人がいる!」と思ったら、たいていは外国人だった。

 

なんで日本人は傘をさして、外国人はそれほどささないのかの理由はよくわからない。これらの記事では、気候とか、街並みとかが理由に挙げられているが、日本にしか四季が無いとかいうたぐいが勘違いにも程があるのと同じく、これくらいの雨量や湿度というのは別に日本特有のものでもないはずだ。それに気候なんてものは、同じ日本の中でも、北海道から沖縄までそれぞれかなり違っている。

 

雨の日でも傘を持たずに普通に歩くという活動を、長年にわたって実地で試している僕からしたら、服が濡れて乾きにくくて困ったという経験も無いし、街並みにしたって、都会なら雨を避けて歩ける場所はかなり多い。アーケードや地下街なんて、日本の都市は特に発達している部類ではないか。僕の住んでいる大阪なんて、アーケードと地下街の都市といっても良いくらいだ。それでも人々は傘を手放さない。

 

やっぱり「雨が降ったら傘をさすという日本人の多数派のルールから外れたくない」という理由がいちばん納得がいく。常に多数派に属していたいという感覚だ。行列のラーメンに並びたいとか、みなが歩く方向に進んでいこうとかいうのと同じだ。

 

そう考えていたら検索で出てきたサイトにこのようなものがあった。

sirabee.com

なんか完全に、多数派による少数派に対するイジメとしか思えない。小雨でも傘をささないやつは不潔であると何の脈絡もなく決めつけられるようだ。もちろんこの記事にそう書いてあるだけで、みんながそんな風に考えているかどうかは疑問だ。むしろ「なにも考えていない」というところが正直なところじゃないだろうか。ルールから外れることに対しては極度の恐怖心があるように思う。みんなが傘を持っているのに、自分だけ傘を持っていなかったら、間違った事をしているみたいでそわそわしてしまうのではなかろうか。

 

もちろん、どうしたって雨に濡れるのが嫌いという人が、雨を気にして傘を持ち歩くのは構わないと思う。レインコートでも構わない。パーカーみたいなフード付きの服だってある。それは各人の「こだわり」というやつだ。でも皆が皆、同じ方向性というのは不思議でしょうがない。

 

ちなみに、傘を持ち歩くのが嫌な僕にだって雨に対する「こだわり」はある。靴下だけは絶対に濡らしたくないというものだ。靴下が濡れると、とたんにやる気がなくなってくる。濡れた靴下のままでいるとみるみる体力が低下してしまう。なんでかはわからない。

 

疲れた時に、お風呂に入って全身を洗って、湯上がりに新しい服に着替えると嘘みたいに元気になるという体験をしたことがないだろうか。それが無理ならシャツと下着を着替えるだけでかなり身体が楽になる。それが無理なら、靴下だけでも履き替えるとだいぶ違う。旅先で疲れ果てた時などにやってみることをオススメしたい。靴下なんか100均でも買えるわけだし。

 

反対に、靴下がじけじけとしていると、ものすごく疲れるし、びしゃびしゃになるともう最悪だ。ベトナム戦争をテーマにした映画で、沼地みたいなところを進軍しているときに、軍曹なんかが新兵に向かって「替えの靴下だけは濡らすな!」と注意していたシーンがやけに印象に残っている。米軍でも靴下を重要視しているということは、僕の感覚はそんなに的を外したものではなかったんだなと思っている。理屈はわからないけれど。

だから雨が降りそうな時とか降る可能性がありそうだなと思ったら、防水がそれなりにある靴とかブーツとかを履くようにしている。通気性のよいスニーカーはご法度だ。夏だったらサンダルでも構わない。足は濡れるけれど、靴下を履いてないので、靴下が濡れるようなことにはならない。とにかく靴下が濡れるのが最低なのだ。

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いまさら『キングコング西野絵本無料事件』を蒸し返して総括してみる

ちょっと前、キングコング西野が自分がプロデュースした絵本を、無料公開したことでものすごく叩かれていた。本屋さんでは2000円で販売している絵本だけど、買えない人のために、ネット上では内容を無料で読めるようにしますと。言ってみればただそれだけのことだけだ。マクドナルドがコーヒーの無料券を配るみたいなありふれた話である。ところがネット民(の一部)からは「キングコング西野は絵描きの仕事を奪う気か!」などと火の手があがる。はては、声優の某との直接の言い合いにまで発展したりした。(和解したんだろうか?)

 

僕はキングコング西野については全く興味の無い人間で、彼のプロデュースした絵本についても「無料でも読みたくない」というスタンスだ。なにしろネット空間には「無料のコンテンツ」が無限といっても良いほど転がっている。言ってみればこういったブログだって「無料のコンテンツ」のひとつだし、YouTubeなんか時間がいくらあっても全部みるなんか不可能だ。そんなかで、全く興味のないキングコング西野の絵本に割けるリソースは一切ない。なんか面白そうなニュースだなあと、彼の無料宣言のブログ記事だけを読ませていただいたが、それだけでもかなり付き合った方だといえる。アクセスにも貢献したはずで、なんぼかお礼を言ってもらいたいくらいのもんだ。いや、これは嘘だけど。

 

それでもわざわざ自分のブログで記事にしている理由は、キングコング西野という存在に興味があるわけではなくて、彼を叩く界隈についてものすごく興味を惹かれたからだ。というか、以前からそういう界隈について、感じる事があったという方が正確か。

 

キングコング西野を叩いている界隈というのは、いわゆる絵師と呼ばれるイラストレーターやら、マンガやら、アニメやら、そういった方面に携わっているか、またはそれらプロ・アマ問わずのクリエイターを信奉している人たちを示している。そういう人たちがすごく怒っていた。なんでそんなに怒るんだというほどに。

 

彼らの最初の主張は「無料公開したら、キングコング西野の絵本制作に携わったクリエイターたちの取り分はどうなるんだ。無責任だ」というのと、「絵本を無料にされたら、他のマンガとか、イラストとか、絵本とかが売れなくなる。自分勝手だ」というものだった。

 

なるほどと一瞬そう思わないでもないけど、ちょっと立ち止まって考えてみればおかしなところがある。

 

キングコング西野は多くのクリエーターを動員して絵本を制作したようだ。映画監督みたいな立場でクオリティの高い絵本を作ったとかなんとかそういう趣旨らしい。クオリティが高いかどうかはこの際はどうでもよくて、動員されたクリエイターたちのギャラはきちんと支払っていると思われる。思うだけでもしかしたら支払っていない可能性もそりゃある。だから「西野が絵本を無料にしたせいで俺のギャラが未払いになった!」とスタッフの誰かが怒っているという話なら「なるほど酷い話だ」となるけれど、今のところはそのような話は漏れ伝わっていない。つまり部外者が「クリエイターの取り分が!」とかいうのは完全に憶測である。「Googleを無料で使わせてGoogle社員の給料はどうするんだ!」とか怒るのと同じくらいトンチンカンな言いがかり。Google社員の給料なんて世界的にみても、かなり優遇されているのは誰だって知っている。

 

絵本が売れないとかイラストが売れないという話にしても根拠がない。キングコング西野の絵本を無料公開して、売れなくなる可能性のものがあるとすれば、それはキングコング西野の絵本そのものに他ならない。「おっ、キングコング西野の絵本が無料公開されているのか!じゃあ、お金を出して『三匹やぎのがらがらどん』を買うのはやめておくか…」なんてことになるわけがない。絶対にない。「キングコング西野の絵本が無料公開されているなら、キングコング西野の絵本を買うのはよそう…」これが普通の思考だろう。「『三匹やぎのがらがらどん』とキングコング西野の絵本どちらを買うか迷ってたけど、キングコング西野の本は無料で読めるなら、『三匹やぎのがらがらどん』を全力で購入しよう」こういうケースもあるだろう。しかし無料公開したら、宣伝効果かなんか知らんが余計に売れたそうだ。良かったねとしか言いようがない。(売れなくなったら面白かったんだけど)

 

三びきのやぎのがらがらどん (世界傑作絵本シリーズ)

三びきのやぎのがらがらどん (世界傑作絵本シリーズ)

 

 そもそもおかしいのが、叩いている側の人たちのうちのかなりの人たちが、自分のイラストだのマンガだのを、ネット上で無料公開していたりするのだ。この矛盾を突っ込まれるのを事前に予測して予防線をはっていたのか「創作物をネットで無料公開している人も多いが、あれは一見無料だけど、アフィリエイト広告などで別の方法でお金を得るモデルがあるから良いんだよ」などといけしゃあしゃあと言っている人もいた。何かの冗談かと思った。さすがにこれは釣りの可能性もある。ちなみに、キングコング西野の絵本の無料公開のページは、アフィリエイトの広告バナーまみれである。そらそうだろう。

 

かように、キングコング西野に対する最初の批判は、かぎりなく根拠の薄いものだった。だから僕も「なんでこんなわけわからん言いがかりで他人を叩くのかなー」と全く賛同できなかったわけだけど、叩かれた当人であるキングコング西野自信もブログ上で反論を展開。もともと根拠のない話だっただけに、理屈勝負になると完全に否定派の分が悪くなってしまった。そうすると彼らが次に展開したのは感情論だった。曰く「キングコング西野はクリエイターの仕事を馬鹿にしている」という。「2000円出さないと読まさないのはお金の奴隷である(とブログで彼は自分自身のことについて表現していた)という発言は、それで商売しているクリエイターを馬鹿にしとる」というわけだ。「汗水たらして働く人を馬鹿にしている」とまで言って、人々の情に訴えかける人までいた。

 

ここまでしてキングコング西野に対して怒りたい集団というのは、一体なんなんだろうと考えてしまった。キングコング西野は本当に労働者を馬鹿にしているのだろうか。「俺は才能でむちゃくちゃ儲けてるのに、小銭拾ってあくせく働いてる奴らは頭足りへんなー」とか裏で言ってるんだろうか。あるいは言ってるのかもしれないが、そんなことは第三者には知りようがないことだ。少なくとも性格が良い人ではないだろうとは思う。あんまりよく知らん僕でも「絶対に友達になれへん奴やな」くらいはオーラとして感じる。しかしキングコング西野は僕の雇い主とかではない。キングコング西野と取引しているわけでもない。キングコング西野の商品を買う気は今後も無い。ましてや、キングコング西野が都道府県の最低時給を決める立場にあるわけでもない。だからキングコング西野と僕との利害関係というのは完全にゼロだ。「自分とは無関係の、単なる嫌味な人間」でしかない。

 

キングコング西野に馬鹿にされた!」と怒っている人のなかには、キングコング西野の絵本を買ってしまった人間も含まれる可能性も高い。だったら自分が買った本の価値が下がった(ように思った)事に対しては怒る権利はあると思う。キングコング西野というブランドが気に食わなくなったのなら、本を破り捨てて二度と付き合わないようにするなり、返金要求するなり(認められるかどうかはさておき)、顧客という立場の範囲内で好きにしたら良いと思う。

 

でも怒っている人らが振りかざしていた理由を考えると、どうもそうではない。本を買って損したとか言ってる人はほとんどいなくて、あくまで「社会の道義に反した」みたいなことが重要のようだ。「クリエイター道にも悖る」というわけだ。

 

この「道」ってのは怖い。日本人はスポーツや文化など、なにかにつけて「道」とか言い出しがちだ。ベースボールと書くと単なるスポーツだけど、野球道などというとたちまち息苦しい何かに変化してしまう。審議委員会が出てきて「品格が足りない…」などと言われて、実力や成績は申し分ないにもかかわらず横綱昇格を見送られそうな恐怖がある。

 

 キングコング西野の絵本が売れているというなら、つまりスポーツに例えるならばそれなりに好成績を残した名選手みたいなことになるのかもしれない。だったら名選手でも良いのだけど「品格が足りない」とかいう話にもっていけば、動かしがたいはずの成績にだってケチをつけられる。クリエイターを「道」にしたい勢はこれがやりたかったのだろうか。

 

自分がやっている競技で、自分よりはるか上の成績を挙げた奴がいたとしたら、悔しいけど名選手と認めざるを得ない。でもあいつは嫌な奴だ。できるならば認めたくない。じゃああいつがズルというかルール違反したという事にすればどうだろうか。

 

それが最初の批判の動機だろう。しかしそれが通らないとわかると、「道」的なものを持ち出して品格が足りないと言ってみる。そういうことだと解釈すれば怒っていた人の言い分にも納得がいく。

 

でも、そんな回りくどいやり方が必要だったのだろうか。自分より良い成績を挙げた人の性格が気に入らないからと、いちいち理由をつけて叩くというのはあまりにも浅ましい。絶対にかかわらない他人の性格なんて、本来はどうでも良いことだったりする。

 

それに、ここまで、成績=売上という例え話を展開してきて、誠に申し訳ないのだけど、文化的行為とスポーツの試合というのは当たり前だけどぜんぜん別物である。ある文化的行為から発生した売上を、スポーツのスコアに例えるのは、なるほどひとつの考え方ではあるけれど、それは同じ価値観を有している人の間だけで通じるものだ。だいたいスポーツ同士にしたって、野球とバスケットボールでは1点の意味が違う。野球同士であっても大リーグとプロ野球と草野球の成績を混ぜて比較することなど不可能だ。同一ルールの同一リーグという価値観の共有が絶対に必要なのだ。

 

例えばキングコング西野の絵本がいくら売れたとて、僕はキングコング西野の絵本には全く興味がもてない。売上なんてものはしょせん売上にすぎないもので、文化的行為の優劣を決めるものではないという事実を知っているからだ。

 

だけどビジネスとしてその分野に関わっている人間からしたら、悔しくて腸が煮えくり返る思いがあるかもしれない。僕が売れない絵描きかなんかで、それも絵を描いてるだけで満足というような人間でもなくて、絵の分野で人気になりたいとかいう野心があったとしたら、キングコング西野の小賢しいやり方には相当の嫉妬心をもつと思う。

 

「なんであんなアイデアだけの糞絵本が売れて、俺が一生懸命描いた絵が全く見向きされないんだ!」しかも涼しい顔で「お金には興味ありませんよ~」みたいな事まで言ってのける。イラストの仕事をお金や人気に換えたくて仕方なくて泥臭く立ち回っている自分が本当にバカなんじゃないかなと思えてくるかもしれない。涼しい顔の下にドヤ顔が見え隠れするようなキングコング西野みたいなのは、どうしようもなくイラつく存在だ。

 

「俺の出来ない事を簡単そうにやりやがって!ムカつく!お前なんか死んでまえ!」

これが素直にいえたら話は簡単だった。

 

「俺は俺以外の成功してる奴がにくい。いつかぶっ潰してやるからな!」

穏やかではないが、屈託なくこう発言出来る方がまだ健全ということもあるのだ。

 

「俺にはあんな真似は出来ないよ。だから勝負する気は最初から無いから」

これでも良い。穏やかである。

 

「俺が認められないのはあいつのような奴がいるからでは?」

だけどこれは危険。実にダメな考えだ。

 

キングコング西野が雇い主かなんかで、自分が描いた絵のギャラを未払いとかだったら、たしかに悪いのはキングコング西野だから激しく怒らないといかんわけだが、キングコング西野と自分の活動とは全くつながってないのは明白なのに、「あいつが俺の足を引っ張っている」とナチュラルに思えちゃうとしたら、相当ヤバイところにはまり込んでいるといえる。

 

そもそも絵描きとか物書きとか、楽器演奏や各種スポーツなど、なんでも良いけれど、文化的行為というのはお金にならないのが前提としてある。どこかの企業の社員としてそれらの行為をする場合も多いから、そういった時は規定の賃金が支払われなくてはならないのだけれども、フリーでやっている限りは単なる個人事業主である。依頼や契約がなければ1円にもならないのが個人事業主というものだ。こんなこと当たり前の話なのに、なんかわかってない人をよく見かけるのが不思議だ。

 

どんな手間隙かけた商品でも、どんな名人芸だったとしても、そこに需要が無ければ売れないのだ。2017年の時代にどれほど品質が良くても、VHS規格のテープなんかたいして売れないのと同じで、売れないのは製作者の頑張りが足りないのでも、誰かが足を引っ張っているわけでもない。商売というのは単純に需要と供給でしかないのだ。

 

100時間かけて制作した絵に1000円の値段をつけられたらどうするのか。時給に換算すれば10円である。でも0円にしかならないこともあると考えればたいしたもんだという考えもあるし、「そんな値段じゃ絶対に売らない!」という自由も保証されている。もちろん依頼された仕事をこなしたのに、ギャラ未払いなんていう事件は有りうることで、そういうのはどんどん怒った方が良い。単なる契約違反だから。

 

だけど自分が好きで制作している商品は好きで勝手に作っているわけだから、売れても売れなくてもしょうがないのである。売れようと思って作ったとしても売れないこともある。それだけだ。作ったものが悪かったかどうかとは関係がない。

 

じゃあ作ったものの良し悪しというのを誰が決めるのかというと、厳しいことをいうようだけど自分で決めるしか無い。全世界の全員が悪いといっても、自分が素晴らしいものを作ったという自負のある人なら、それで終わり。なにも問題がない。

 

でもなかなかこのような強固な意志力の持ち主というのは少ないと思うので、いくらかは他人の評価を頼りに自信を深めていくという方向性に持っていくのことが多いと思う。問題は、それがどれくらいの評価なら満足かということで、10人くらいに褒められたら満足な人もいれば、100人1000人でも物足りないという人もいるだろう。反対に尊敬する(または愛する)「あの人」にさえ認めて貰えれば…というセカイ系っぽい人もいる。

 

ところがお金だけが評価の尺度である人というのはやっかいだ。金銭的成功を達成するまで満たされないということになる。前述したとおり、文化的行為はお金にならない。それを成し遂げるためには創作的なスキルよりも、何らかの商売的な才能または時流に乗っているかなどの運といった要素が求められてくるわけだ。キングコング西野は傍から見ていても悔しいくらいに商売の才能と運を持っているように思える。金銭的成功を達成する要件を満たしまくっているわけだ。

 

もし商才や運に恵まれない人が金銭的成功を夢見ていたとしたら悲劇という他にない。商才や運というものは少しずつ培って行くことも可能だけど、そういう人に限ってあまりそっち方面には興味のない職人気質だったりするから余計に哀しい。「俺が評価されないのは世界が間違っているからでは?」とか思ってしまいがちだ。

 

そのようなわけで、キングコング西野の無料絵本事件は、意識と現実の歯車のズレが生み出した一瞬の花火だったのかなという結論になった。今はまったく誰も騒いでいないのがまた余計に虚しい。僕に出来るのはこうして蒸し返してみることくらいだ。

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