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年末なので近年でかなりの知見を得れたオススメ本とかをまとめておく

晦日で2018年の最終日ですので、ここのところの人生が変わるくらいの知見を得たポイントと、それの元になった有用な本をまとめておく。一年以内の話にしようと思うが、2017年に読んだやつも多少は混じっているかもしれない。

 

 

暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

 

まずはなんといっても人類の歴史に対する理解が大幅に変わったことが大きい。スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』が巨大なきっかけになっているのは間違いないのだけど、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』も今年になって読んだと記憶している。そんで『昨日までの世界』も続けて読んで、そうなったらビル・ゲイツの強烈な推しであるユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』も読むわけだ。ちなみに『暴力の人類史』もビル・ゲイツ推薦本。

 

これら本から得れた知見は、ものすごく単純に言えば「現代になればなるほど人類社会からは暴力が減っている」という歴史的な認識だ。ジャレド・ダイアモンドの本も、ユヴァル・ノア・ハラリの本も、大まかに言えば壮大な歴史の話であって、有史以前の人類はどういう生き方をしてきたか、そしてどういう手順で進化してきたのかを整理・考察していくという内容なのだが、これを『暴力の人類史』を前提にして読むと捗る捗る。もちろん逆に読んでも良いとは思う。『昨日までの世界』は、現代でも古代と近い生活習慣を続けている少数民族をモデルに、古代の人類の生活様式を探っていこうという内容なので、『暴力の人類史』で主張している事柄をほぼ裏付ける内容になっていたりする。これも相互に補完していて捗り方が半端ない。

 

なんだか今まで不確かなイメージだけで「昔になればなるほど、棍棒で殴り合うくらいしか出来なかっただろうし、人間なんて森で平和に暮らしてたんだろうなあ?」などとぼんやりと考えていたことが、2割も正解じゃなかったことがわかった。人間は昔にいけばいくほど殺しに躊躇なかったし、暴力のみが支配する世界だったことが強烈にわかる。そしてそういう時代がたいして代わり映えせずに何千年も続いてきたのだった。ここ100年くらいで急激に人類は前進し始めたのだ。そういうことがわかる。

 

歴史好きは読んでおいて間違いない。歴史に対する理解度が100倍くらいになる。

 

文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
 
サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

 

 

フェルマーの最終定理』で有名なサイモン・シンによる『代替医療のトリック』も強烈な一冊だった。なんせ長年にわたってずっと僕の疑問だった「なんで針を体に刺したら病気が治ったりするの?なんで足の裏をもんだら内蔵がよくなったりするの?なんで首を曲げてポキポキとやったら身体に効くの?誰も納得のいく説明してくれないし、全く意味がわからん」という問題について、本一冊でこれ以上ないくらいに明快な答えをくらたからだ。

代替医療解剖 (新潮文庫)

代替医療解剖 (新潮文庫)

 

 

 

「ぜんぶ嘘!ランダム化比較試験の確立によってそれら代替医療は効果なしと証明されている!だいたいの療法は、どっかのおっさんの思いつきが、さしたる検証も経ずに人気で広まっただけ!」

 

鍼灸も、カイロプラクティックも、足裏反射区も、気持ちいいくらいに根拠の無い健康法だった。同時にプラセボ効果の恐ろしさも説明してくれる。おかげでこれからしょうもない療法で頭を悩ませなくて済みそうだ。そしてランダム化比較試験の偉大さを知るとともに、統計学的アプローチや比較試験の導入で医学がみるみると進歩していったのは、ほんの100年くらいの話だという知見を得られた。それまでの人類は医学の分野においても、たいした進歩はみられず同じようなところを堂々めぐりしていたようなものだったらしい。さっきの歴史の話とかぶっているのだ!

 

 

知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

 

『知ってるつもり 無知の科学』は集合知についての知見を与えてくれた。人間は社会的に知られていることは「知っている」として活動する生き物らしい。基本的には外部からつっつかれるまで何の疑問も持たずに生きていってしまう。だからこうやって本を読んだりして「知らなかったこと」を探していくしかない。

 

 

シャーデンフロイデ: 人の不幸を喜ぶ私たちの闇

シャーデンフロイデ: 人の不幸を喜ぶ私たちの闇

 

シャーデンフロイデ:他人の不幸を喜ぶ私たちの闇』は、我々が他人の幸福に不安を覚えて、他人の不幸に快感を覚えるのは何故かということについての学説。これも社会的な生き物だからという解釈で非常に納得させられる。人間はあんがい自分で感情をコントロール出来ない。そういう事を承知しているかどうかでもずいぶんと変わってくるはずだ。

 

 

失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織

失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織

 

『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』失敗を認めないことには失敗を防ぐ事は出来ないというごく当たり前の理屈なのだけど、どうにも人間は失敗を認識できない生き物のようだ。だから比較検証や統計学的アプローチが導入される前は、ほとんど同じ場所にとどまり続けたという歴史の敬意と合致する。人類は様々なテストや統計を通して、近代に入ってからようやく失敗を認識出来るようになったという言い方も可能だ。

 

世界を変えた14の密約

世界を変えた14の密約

 

『世界を変えた14の密約』は陰謀論的なタイトルではあるが、実は世界的に起きている事象のまとめのような本。ざっと読んでいけば次の興味へのインデックスにもなるし、ドメスティックな視点に陥りがちな日本人にとって、世界的な潮流の中での日本の立ち位置を確認するのにも役に立つ。とにかく疑問に思ったらさらに深く調べていけば良い。なんだかんだで、日本独自の問題というのは、それほどは多くないのだという事をわからされる一冊でもある。

 

 

誰もが嘘をついている ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性

誰もが嘘をついている ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性

 

『誰もが嘘をついている ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性』Googleの検索ワードやインターネットなどのビッグデータというのは新しい時代の統計でもある。ぼんやりした思い込みやイメージを、統計的なデータで打ち砕いてくれる内容になっている。まだまだ発展途上の分析ではあるけれど、思い込みによるイメージよりははっきりとした足がかりを与えてくれるし、なかなか衝撃的な調査結果があったりする。とにかく「知ってるつもり」は危険だということを強く認識させてくれた。

 

 

ある世捨て人の物語: 誰にも知られず森で27年間暮らした男

ある世捨て人の物語: 誰にも知られず森で27年間暮らした男

 

『ある世捨て人の物語』『ヒルビリー・エレジー』は、絶対に本にならなかったであろう層の人たちについての物語。前者は一生世間から隠れて暮らしていたはずの人にインタビューを敢行するという発見の話だし、後者は普通は発言しない元白人貧困層が、自らの体験と家族の歴史を本として綴っていったという貴重な史料だ。

 

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

 

ヒルビリー・エレジー』に出てくる現代の白人貧困層の感覚と言動が『暴力の人類史』や『昨日までの世界』の内容とかぶるし、さらに白人貧困層がなぜそういう文化や生活様式を構築していくかは、居住地域や資源や経済の推移の都合という運の要素が強大であって、決して人間の内容が違うという事ではないという点において、タイムスパンは短いながらも『銃・病原菌・鉄』で述べられていることとあまり変わらない。

 

 

いつも「時間がない」あなたに: 欠乏の行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

いつも「時間がない」あなたに: 欠乏の行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

『いつも「時間がない」あなたに:欠乏の行動経済学』これは今年最大の衝撃といって良いかもしれない。貧困層が搾取されているのは、お金や教育だけではなくて思考力もだった!という観点からの分析が述べられている。失敗を繰り返すのも、教育を受け入れられないのも、社会的な欠乏の境遇によって、脳のリソースを著しく奪われているからだとしたらどうだろうか。自己責任論を振りかざしていても、一向に埒があかないはずだ。そして資産のある人間にとっての小さな失敗は、お金に余裕のない人間にとってはありとあらゆる転落への片道切符だというどうしようもない客観的な現実があった。貧富が別れるのは人間のそもそもの能力の差ではなく、欠乏の境遇が人間の能力を決めるという恐怖。貧乏が貧乏を呼ぶとは、すなわち欠乏が欠乏を呼び込む事にほかならなかった。『シャーデンフロイデ:他人の不幸を喜ぶ私たちの闇』や『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』で例に挙げられている内容は、この本の中で提唱されている「集中ボーナス」「トンネリング」という心理状況から説明出来てしまう。目からうろこの本なので絶対にオススメしたい。ラジオでも紹介したがまた詳しく解説したい。

 

とりあえず木村ゆうさんもラジオの内容の感想を書いてくれている。

kimniy8.hatenablog.com

 

他にもいろいろあったとは思うけれど、とりあえず強烈に印象に残ったものを大雑把にまとめておいた。ほとんど翻訳ものが中心だけど、紹介しきれなかったものや国内のは次の機会にでもぼちぼち。

 

ひとつだけ挙げると、わりと古いものだけど『ドキュメント道迷い遭難』のシリーズや八甲田山の本は強烈だった。2018年になって「山で迷ったら絶対に沢に降りないこと!」という知見を得た。基本的に僕は山には登らないのだけど。

ドキュメント 道迷い遭難 (ヤマケイ文庫)

ドキュメント 道迷い遭難 (ヤマケイ文庫)

 
八甲田山 消された真実

八甲田山 消された真実

 

 

サウナ&カプセルホテルと、安ビジネスホテルどちらがオススメなのか?

サウナに泊まるのと、安ビジネスホテルに泊まるのとではどちらが良いかという問題を考えてみる。

 

僕は去年から、すごくサウナにハマっているところがあるので、サウナ&カプセルホテル一択みたいになっているから、結論としてサウナ&カプセルの方が良いみたいになっているが、世の中はサウナ好きばかりではないので、旅行者の観点からどちらが優れているか考えてみる。

 

とりあえず、サウナ&カプセルの良さを挙げてみよう。

 

1.安い

値段ついては誰でもが真っ先に考える事ではないだろうか。サウナ&カプセルは個室のホテルではなく、サウナに併設のカプセルとか、休憩ルームで宿泊するスタイルだけに基本的には安い。中には個室カプセルとか、デラックスルームを備えているものもあるが、それでも一般的なホテルよりは安めに設定されている。普通のカプセルとサウナの利用で3000円台が多いんじゃないだろうか。ちょっと豪華なサウナ&カプセルでも5000円を切っているのが普通だ。もちろんマッサージとか色々のオプションをつければ際限なく高くなっていくが、単に宿泊だけだと3000~5000円の範囲というのがカプセル&サウナの一般的な価格帯。とにかく宿代をケチりたい派の人は、一度はサウナ泊を考えた事があると思う。5000円を超えるビジネスホテルよりは確実に安いのだ。

 

2.お風呂が豪華

いわずもがな。たいていのサウナは、大浴場形式になっている。ビジネスホテルのユニットバスなんかとはわけが違うのである。お風呂でゆったりと出来るオプションを考えても、サウナが魅力的に感じる事はあるはずだ。しかも歯ブラシや髭剃りなんかは無限に使える所も多い。安ビジネスホテルでは一泊あたり1本しか与えられない事も多いので、これについてもアドバンテージかと思える。でもサウナでも1本づつしかくれない所もある。サウナによる。

 

3.サウナに入れる

そのままか。サウナが大好きな人間からしたら、何をおいても優先する事項だったりする。とくに名店とされるサウナ施設は是が非でも利用いしてみたい。サウナ好きにとって、旅行先に有名サウナがある場合は、そのサウナを選択することはほとんど義務だし、逆にサウナを目的としての遠征もありうるほど。それだけに、興味のない人でも、そんな有名店のサウナならば、ちょっと試してみても良いかもしれない。サウナ好きになってしまうことも。

 

4.館内にリラックス出来るスペースやレストランがある

コミックコーナーとか、リクライニングチェアとか、居酒屋スペースとか、ネットカフェブースとか、そういうものがサウナには完備されがちなので、のんびりしたい人には嬉しいかも。ただし、安ビジネスホテルには絶対に無いというものでもない。ただ、一般論として、サウナの方が設備が豪華だ。

 

5.朝食バイキングなどが付いている事がある

当然ながら付いてこないことも多い。サウナの朝食サービスは豪華になってきたように思うが、考えてみれば安ビジネスホテルも、そういうサービスしている所は多い。サウナとかビジネスホテルとか関係なかったわ。ただし、サウナでは24時間レストランは営業していたりする(していないところもある)し、お水は備え付けのウォータークーラーで飲み放題だったりする。ビジネスホテルでは水道水とかを飲むしか無い所が多い。そのへんは地味に嬉しい。

 

6.チェックインが早い時がある

現代のサウナは、昼12時からチェックインで、カプセル以外の設備を利用できるというサービスが増えてきている。先に荷物預けてひとっ風呂浴びてから外出なんて事も可能なので、サウナ利用を検討する際にはチェックしておきたい。ビジネスホテルは14時とか15時とかにチェックインするところが多い。ただしサウナでも、遅い時間からしかチェックインさせてくれないところもある。要は調べてみるしかない。

 

以上がサウナ泊の利点だが、反対にデメリットを考えてみる。デメリットはけっこうあったりする。先に書いたメリットに魅力を感じなければ、素直に安ビジネスホテルに泊まった方が良いということになる。

 

1.高い

のっけから矛盾したような事を言うが、昨今の安ビジネスホテルのなかには、3000円を切ってるようなのも珍しくなくなってきた。1700円くらいで泊まれるところも普通にあったりする。それでむちゃくちゃ汚いドヤみたいなものかというと、案外普通の個室ホテルだったりするのだ。よって、サウナ&カプセルホテルが、宿泊の最安値といった時代はとっくに終了している。日本各地に増殖中のドミトリーなども入れればなおさら。カプセルホテルは、あえて選ぶという時代なのだ。

 

2.連泊に不向き

チェックアウト10時で、チェックインが12時とかいうカプセルホテルの場合、これがビジネスホテルである場合は、連泊だとチェックイン時間とチェックアウト時間が別々であっても、掃除の時間をずらしてもらうとか掃除ナシなどといった対応でずっと滞在してられるのだが、カプセルホテルは一時退館しなくてはならないというシステムになっているところが多い。ちょっとしたことではあるけれど場合によっては面倒だ。

 

3.ロッカーが面倒

滞在中にスマホを使いたいなと思った場合、いちいちロッカーまで戻らなければならない。カプセル内で充電ケーブルを使いたいと思った場合もいちいちロッカーまで行く。ロッカーとカプセルとお風呂が近い施設でもそれなりに荷物の出し入れは面倒なのに、サウナによってはそれぞれがすごく離れている時がある。場合によっては別フロアなんてこともあって絶望感がすごい。そういった事もあって、効率よく荷物の出し入れをするパズル的なスキルが問われる。

 

あと、チェックアウト時に、混雑するロッカーで着替えるのが地味にストレス。ロッカー室はなにしろ狭い。着替えるスペースも何もあったもんではない。そのへんお部屋の中ですべてが完結できる安ビジネスホテルは、部屋のボロさがあったとしても何かと便利だ。カプセルホテルで近年登場してきた個室カプセル(完全に仕切られた部屋の中に個人用ロッカーとカプセルが設置されている)という方式も、そういう観点で作られている。

 

4.移動がしんどい

ロッカーのところでも説明したが、サウナによっては建物の設計が古く、複雑怪奇なルートを辿らねばいけないところがけっこうある。ロッカーがパズルとしたら、間取りは迷路的なゲーム性だ。ダンジョンみたいな施設もある。また、サウナ施設とカプセル施設がそれぞれ別の入り口になっているなんてのもあって面倒くさいところもある。もちろんシンプルで、非常に楽な施設もあるにはあるんだが。お部屋でほとんど完結できる安ビジネスホテルは、全く頭を使わないで良いという利点がある。ゲーム感覚が嫌な人は安ホテルだ。

 

5.カプセルがしんどい

空調の調整があまりできない。狭い。上の段にされると、はしごで上り下りしないといけない、など。最新のカプセルだと、かなり快適にはなってきているが、狭いところでは寝たくないという人には決定的に向かない。ただし、サウナの休憩用リクライニングシートで寝るという選択肢も一応はある。

 

6.持ち込みができない

出来るところもあるが、持ち込み禁止とされているところも多い。たとえ隠して持ち込んだとしてもカプセル内ではあまりどうにもならない。いずれにせよ、ビジネスホテルのように、お部屋に飲食物を持ち込んで楽しむといったことには決定的に不向きになっている。もちろん宿泊客用の冷蔵庫もない。

 

7.プライバシーが確保しにくい

カプセルですので気になる人は気になるだろう。いびきがうるさいときもある。お風呂も個人用というのは無い。気にする人は安ビジネスホテルという選択に。安ビジネスホテルも、部屋内にお風呂無しという物件もあるので注意したい。

 

8.男性しか利用できない

カプセル&サウナは男性専用という施設が圧倒的に多い。この辺は現時点ではどうしようもない。ホテルにしても、かつては女性ひとり客なんてのには対応が悪かった。男女使える施設の拡大が早期に求められる。

 

9.連れ込みが不可能

あかんことではあるが、そんな不埒な事を考えているならサウナ&カプセルはあり得ない!

 

結論としては、自分で書いていて、サウナ&カプセルホテルを無理にすすめる理由はないような気がしてきた。一度も使った事がない人は、利用を考えても良いのでは?という程度。もしくは、他の施設がすべて埋まってしまってて、仕方なく泊まってみるとか。ぜんぜんサウナ&カプセルの良さなんて無いじゃないか。どうなっているんだ。

 

なんだかネガティブになってきたが、僕自身はサウナが大好きなので、無理にでもサウナ泊がしたい派である。以前はこうではなかったのだが。今では一人でも多くの人類にサウナの魅力を知ってほしいとまで考えている。逆説的にいえば、サウナ&カプセルはこんなけ不利要素がありながらファンが大勢いるほどに、サウナという行為に魅力があるって事の証明かもしれない。サウナの使えない宿なんて、もう考えられない!(立派なサウナのあるホテルは、すでに安ビジネスホテルの範疇ではない…)

 

 

 おまけとして簡易な施設紹介。

 


 

梅田の大東洋。男性しか泊まれないが、値段的にはおすすめ。楽天トラベルから予約出来る。

 


 

同じく梅田で男性しか泊まれないが、値段的に大東洋とタメくらいのニュージャパン。カプセルとサウナの往復がちょっと面倒。

 


 

女性が泊まれるカプセル&サウナというと大阪ではミナミ地区にしかない。

しかし最近は安い男女用カプセルというジャンルも増えてきている。

できたばかりで綺麗なのでそっちがおすすめかもしれない。


 

例えば心斎橋のカーゴなどがそれだ。お風呂などは豪華ではないかもしれないが、最新のタイプなので宿泊施設としての快適さはあるかもしれない。

 


 

サウナ好きなら遠征しても泊まりたい名古屋のウェルビー栄店。最高のサウナ体験がそこに。

 


 

名駅店は、移動の楽さと、駅からの近さが自慢。ここもサウナ好きならば満足できる。

少なくとも高校野球から老害おじ監督は消えて欲しい

number.bunshun.jp

またしても、すごく嫌な気持ちになる記事を読んでしまった。高校野球なんてたいした興味もないのだから読まなければ良いのだけど、この時期は好むと好まざるとにかかわらず高校野球の話題に巻き込まれるのだから完全無視も出来ない。

 

ネットでも高校野球の話題がわんさかだし、街に繰り出せば繰り出したで、飲み屋で、サウナのテレビで、高校野球の話題にさらされていくわけだ。目をつぶり耳をふさぐにも限度がある。

 

だから、高校野球の話題に巻き込まれる側の代表として、少しばかり意見を言ったってバチは当たるまいと思って、去年はこんな記事を書いた。

butao.hatenadiary.com

 

この中で取り上げた高校野球の監督インタビュー記事自体は消えてしまっているが、要するに勝利至上主義の山口県あたりの高校の監督が子供を恫喝しまくってドヤ顔してるみたいな話だった。今回目にした記事と大差のない話だ。

 

毎年こんな話が常に出てくるということは、高校野球の変わらないところであり、こんな記事自体にも需要があるんやなと思ってしまう。監督が子供をビシビシ管理してますよというような話を読みたい層が根強くいるのだろう。

 

これに関しては、村民のPARM氏が記事にしてくれているので、いまさら繰り返しああだこうだは言わない。言いたい事はほぼ全て以下の記事に書いてくれている。

parm.hatenablog.com

 

それにしたって「生涯学習」「生涯スポーツ」といった概念が当たり前になりつつある時代に、「スポーツを楽しむ」という思想よりも、勝利至上主義がいまだに強いのは何なんだろうと悲しくなってしまう。学校は経営とかあるからそういう風になっても仕方のない面があるが、われわれ一般人までその価値観に染まる事は無いんじゃないかと思うのだ。

 

野球やらなんやらスポーツって楽しむべきものじゃないのかなと。その先に勝利を目指すという取り組みがあっても良いけれど、まず勝負ありきというのはどういう事かと。

 

高校野球の運営側も、アマチュアの高校生の健全ななんたらかんたらというお題目でやっている大会のくせして、いまだに投球制限も導入されないし、過密日程もおかまいなし。やっていることは完全に興業だし、勝利至上主義を煽っているとしか思えない。

米国高校野球。投球数制限導入とその「抜け穴」問題。(谷口輝世子) - 個人 - Yahoo!ニュース

(ただし日本にさきがけて投球制限を導入している米国でも投げすぎになったりするらしい。こちらは個人的な事情によるものが大きいようだ。)

 

高校野球で甲子園目指せないなら野球やってても仕方がないよ。

プロ選手になれなければ野球やってても仕方がないよ。

 

ここまで露骨に言う人は少ないかもしれないけれど、突き詰めればこんな考えが根底にうかがえる。部活はあくまで部活であって、「学校を卒業するまでの期間限定の活動」という思想がどうにも抜けきらない部分がある。別に期間限定の活動を否定するわけではないけれど、個人の自由だとは思うけれど、学校を卒業した後も好きなスポーツをやり続けたいというのもアリとするのが生涯スポーツの概念だ。

 

もちろん色々な面で続けるのが困難なスポーツもある。野球はまだ草野球というのがそれなりに定着しているが、バレーボールやバスケットボールなんかもそれなりにアマチュア活動があったりするが、草ラグビーとか草アメラグとかは聞いたことがない。でも知らないだけであるのかも…。

 

そう思って「草ラグビー」で検索してみたらそれなりにあった。やっぱりやりたい人はやっているようである。ぜんぜん知らなかったがすばらしい。

 

でもこういう集まりがあるのを僕が全然知らなかったように、様々なスポーツにおける大人のアマチュアの活動って知られていないと思う。メディアで取り上げられるのは高校野球か五輪かプロばかりだからだ。

 

大きな大会を目指したりプロを目指したりするのも全然悪くはないが、世の中そればかりではなくて、ずっと楽しんでいる大人が大勢いるという事を知らしめるのは、子供のスポーツ教育にとっても、それを見守る大人たちにとっても、心の余裕が生まれて良いと思うのだけど…。

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あなたのような才能ある人材に対して、使い捨てることしか考えない日本企業

日本人にはものすごい優秀な人がいるにも関わらず、多くの企業はそういう人材を安く使い捨てようとするという話を書きたい。少しでも人材が評価されて欲しいという願いがあるからだ。

 

こう書くとノーベル賞技術者が、あんまり優遇されていないとか、何らかの資格もってても買い叩かれるとかいう話かと思うかもしれないが実はそうではない。勿論そういった人たちも優遇されるべきというのは前提として、僕が言いたいのは「誰からも評価されていない日本の優秀な労働者」についてだ。もしかしたらこのブログを読んでいるあなたのことやもしれない。

 

評価されるべきスキルを持つ日本の優秀な労働者。そのスキルとは「安い給料でも文句も言わず真面目に働く」というものだ。どんな高学歴であっても技術を持っていても、必ず仕事で結果を出してくれるとは限らない。ところがこのスキルの凄いところは結果をバンバン出しまくる事だ。一種の超能力ともいえる。経営者としてこんな有り難い事はないはずだ。

 

不人気な業種で、たいした給料も提示していないにもかかわらず応募してくる人の中には、こういったスキルの所有者がいたりする。たいしたトラブルもなく2年も続くとしたら可能性はきわめて高い。

 

ところがである。こういった超能力者たちを日本の企業側は冷遇している。

 

「こんな仕事なんて誰でも出来るんだよ!」「お前の代わりなんていくらでもおんねん!」とか言いながら、「安い給料でも文句も言わず真面目に働く」人たちをバカにしたり、安い給料や低い待遇のままにしたりしている。そればかりか、同じ労働者たちのなかでも「安い給料でも文句も言わず真面目に働く」超能力者たちをバカにする風潮すらある。なんでバカにしてるかというと「安い給料でも文句も言わず真面目に働く」なんて事は誰でも出来ると見下しているからだ。

 

本当か?本当に誰でも出来るのか?

 

「じゃあお前がやれよ!時給750円で働いてみろよ!」とか言うと「いや~~ちょっとw」とかいうことになる。実行できる人がいたとしたら本当の超能力者と認める。それか、現在の時給が737円の人(福岡県を除く九州地区か高知県か沖縄県の最低時給)とかだと思う。

 

企業が「安い給料でも文句も言わず真面目に働く」能力者を、「こんなもんいくらでも湧いてくんねん!」と言わんばかりに、「疲労回復したり家族を養なったりするのには全然足りないような待遇」で使い捨てにしてきた結果どうなったか。募集をかけても全然人が集まらなくなってしまった。集まるのは他に行き場がない老人ばかりだ。老人世代はまだ人数が多いが身体も弱いし近い内に亡くなる。これから少子高齢化が進んでいけば「安い給料でも文句も言わず真面目に働く」能力者は益々希少になっていくはずだ。企業間で取り合いになる。

 

「いくらでも替えが利く!」とか言ってた企業の人材評価は完全に間違っていたわけだ。人手不足が叫ばれる昨今だから態度を改めれば良いはずなのに、未だに間違いを認めようとしない。為替の安い国の外国人を雇って誤魔化そうとしている。兵隊の命なんて犬か猫以下くらいの扱いで使い捨てにしていたら、いつの間にか人がいなくなって、老人と子供に頼るようになっていた旧日本軍のメンタルと似通っている。ニシンとかマグロとかウナギとか捕りまくってたら絶滅寸前までいってしまったのも同じ発想だろうか。環境保護とか資源の再生産というものを全く理解していない。

 

かように「安い給料でも文句も言わず真面目に働く」能力者は貴重な存在になりつつあるのだが、「キツい肉体労働でも文句も言わずに働く」能力者なんてもっといなかったりする。しかし「肉体労働なんて誰でも務まるわwww」「ただ立っている警備員なんて誰にも出来るだろwww」とかバカにする人が未だに後を絶たない。これについても「じゃあ、お前がやれよ!!!」と言うが、「いつでもやってやるよwww」とか言いながらスキルを実証してみせる人はほとんどいないというのが悲しい現実。

 

冷静に考えたら、「一日中重い物をもって運びまくる」とか、「スマホもいじらず一日何時間も道に立って見張る」とか、誰でもが簡単に出来る仕事じゃないという結論になる。そりゃ1日限定だったらかなりの人が出来る作業かもしれんが、週に40時間も50時間もそんな事をやれるだろうか。それでも一週間だけとか言われたら、けっこうな人が出来るかもしれない。一ヶ月だけでもそれなりに人は残るだろう。けれど何年もそれをやれと言われたら?ほとんどの人は自分の才能の無さを痛感するはずだ。はっきりいって僕にはそういう才能は無い。チャレンジしてみようとすら思わないのだから、素質すら無いのがわかる。

 

仮に強制収容所みたいなところで、キツい肉体労働をやらなければ殺すとか言われたら渋々やるかもしれないが、そのうち音を上げて殺されるか、疲労やストレスで勝手に亡くなっている公算が高い。

 

ところが、世の中には、デスクワークよりも肉体労働大好きという超能力者もいるし、何時間も道に立っているのが平気という天才もいるのだ。そういう天才に対して、なんで企業も世間も冷たいのか理解が出来ない。一握りの才能なんだから高給を払ってやれよと思う。でもそういう仕事に対しての評価はどんどん下がっていっている。で、人手不足になっている。アホかと。

 

これを読んでいる人の何割かは、人がやりたがらない仕事をする天才かもしれない。自分はもっと優遇されて良いと考えるべきだ。というか週に40時間以上拘束されても、真面目に仕事を続けている時点で非凡な才能だ。才能の無い人たちは辞めるか、亡くなっていったか、もっと不真面目に生きている。

 

資格者だとかプログラムなどの技能があるから俺は関係ないよという人たちもいるかもしれないが、こういう天才たちが潰されてきたのだから、明日は我が身だと謙虚に考えたほうが良いのではないか。高学歴の人とか、語学が達者な人とか、プログラム技術とか作業経験とかある人達が、安くこき使われる時代が来つつあるのを感じないだろうか。人材軽視の思想が広がっていく危機感がある。

 

「高学歴の人は無限にはいない!」「プログラマーはそんなに多くない!」とか強がりを言っても無駄だ。「安い給料でも文句も言わず働く」スキルの持ち主だって限りがある資源だったのに使い捨てられた。ニシンだってサンマだってウナギだって無限にいるわけないのに、平然と絶滅方向にもっていった日本社会を舐めないで欲しい。

 

今はこんな酷い有様だけど、未来的には個人のスキルが尊重される社会になることを願う。「安い給料でも文句も言わず働く」超能力者たちは、本来は高待遇で迎えられるべきだ、というのが僕の主張だ。

 

 

【俺の恵方巻き】思考停止で恵方巻き売るのはもうほどほどにした方が良い。

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毎年この時期になるとどいつもこいつも「俺の恵方巻き」と言いたくなる病気にかかる。僕も言ってしまう。恵方巻きのサイズ・形や、食べ方の風習などが、男どもの野生の習性的なところを何かしら呼び醒ますせいなのだろう。来年は本能になんとか打ち勝って、もうすこし文化的になりたい。思考停止は暗い愉しみがあるのは否定しないけれど。

 

さて、そんな「俺の恵方巻き」デーだが、僕はスーパーで半額になった太巻きを買うのが何となく恒例になっているくらいのものだが(太巻きは好きだから)、道を歩いていてもそこかしこで太巻きの売り込みが凄いのだ。回転寿司屋が店頭で売ってるのは普通かなと思うが、なんでこの店がというお寿司とか関係なさそうな飲食店も参戦していたりする。

 

僕がよく利用している某チェーン系居酒屋は、海産物メインというメニュー構成の店だった。普段からかっぱ巻きみたいなものは出していた関係上だろうけど、Xデーにあわせて日替わりメニューに恵方巻きが登場していた。何を隠そうXデー(2月3日)の夜も僕はたまたま飲みに来ていて、そういうのが出ているのに遭遇したのだ。

 

いくら今夜が「俺の恵方巻き」デーだといっても、酔った帰り道でコンビニやスーパーや寿司屋の店頭で景気良く売られているのを、お土産とか晩御飯代わりにうっかり買ってしまうことがあっても、飲み屋でわざわざ太巻きを食べたいと思うだろうかと不思議だった。

 

シメのご飯物の代わりにという意見もあるだろうけれど、たしかに酔ったあとの太巻きは個人的には嬉しいけれど、安居酒屋で注文する一品としては恵方巻きはなかなか高いのである。税抜きで600円とか700円くらいしたと思う。やっぱり一杯飲み屋で注文するようなもんじゃない。

 

お店では作りすぎたのか、余らせてしまっていたみたいで、ひとりひとり食べませんかと営業をかけていた。常連たちは申し訳なさそうに断っていた。僕は普通に断った。

 

そういう情景をツマミに酒を飲みつつ、こんなお客に精神的負担を強いるくらいなら、なんのために恵方巻きなんか作ったんだという気持ちになった。季節感を出すためにちょっと作ってみようというだけなら、そんな余らせて困るような量を作らないだろうし。反対に、すごく安い値段で提供するとか、いっその事、先着順に配るとかなりするならば、完全にお店のサービスとして理解できる。むしろ嬉しいサービスだ。やってほしい。でも実際はお店の平均価格よりも高いメニューで売り込もうとしていただけ。

 

よしんば、この恵方巻きを注文したとしたら、他のメニューを頼まなくなってしまうのではないか。そのお店は、チェーン系の店舗なので、本部が決めた事を履行しただけなんだろう。

 

本部は恵方巻きのぶんの客単価の上乗せを狙ったのかもしれないが、悪いけれど恵方巻きにそれほどのパワーなんか無い。いくらイベントだ季節モノだといったって、しょせん恵方巻きは恵方巻き。地味なもんである。少なくとも居酒屋のメニューにおいては。(お土産として販売するなら酔った勢いで買うかわからんけど)

 

だから店としては常連客を中心に情にすがった売り込みでもかけるしか無かったのだろうけど、それをみているこちらは完全に白けてしまった。恵方巻きに何を期待しているというのか。

 

そしたらこんな記事があった。こういう話は居酒屋だけではなくて、より恵方巻きを主力に据えているはずのスーパーやコンビニでもきっちりさばけるもんでもなくて、過剰発注して工場の段階で廃棄しているという。

 

そういえばコンビニやスーパーの店員が、店側が仕入れた恵方巻きのノルマをこなすために、自爆して買わされるなんて話はあちこちで聞く。こういうのは店自体に仕入れ量が強制されていたりするので、本部が決めた予算を達成するために規定量を買わされるみたいな話になるのだろう。

 

店舗や店員が尻拭いしてる限りは、恵方巻きにしろ鰻にしろクリスマスケーキにしろ、売上げアップに貢献してるみたいな事実が成立してしまうというのは、何ともバカげた話としか言いようがない。本来はバカが店員やっても売上があがるような作戦を考えるのが経営陣の役目のはずなのに、下っ端にムチ入れて利益を吐き出させる事ばかり考えている。

 

一旦こうと決めたら、業界各社右に倣えでテコでも動かないなんて、旧日本軍の悲劇とまったく構図が一緒としか思えない。鰻なんてそのせいで絶滅しそうになっているというからやりきれない。旧日本軍もクレイジーと言われたが、こういうのは外国からは理解されないだろう。

 

偉い人に言われた事には逆らわずに黙って耐えるのが当たり前みたいな日本の社会構造が、全体の生産性を著しく下げているという一例としか思えない。

 

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デイリーヤマザキ恵方巻き。ここの店舗はクリスマスケーキも大量に仕入れて投げ売りやっていたから他人事ながら心配になってしまった。ほんと、他人事なんだけど。

 

ちなみに、例年のより小さくなっているらしい。コストカット??

 

身分社会だとこんなバカげたことも起きる。社会のためにも労働者に睡眠権をよこせ。 

日本の最低賃金による露骨な地域差別に腹が煮えくり返る思いがする

それによりますと、3大都市圏のうち、東京・神奈川・埼玉・千葉の「東京圏」は転入者が転出者を11万9779人上回り、22年連続で「転入超過」となりました。転入超過の人数は、前の年に比べて1911人増え、2年ぶりの増加となりました。

一方、大阪・兵庫・京都・奈良の「大阪圏」は、転出者が転入者を8825人上回ったほか、愛知・岐阜・三重の「名古屋圏」も、転出者が転入者を4979人上回っていて、いずれも5年連続で「転出超過」となり、「東京圏」への一極集中が続いていることがわかりました。

一極集中化についてのニュース。22年連続で一極集中化の流れが止まってないということだ。僕が住む大阪はかなりの都会であるが、それでもどんどん人が減っていっている。旅行客でごった返してはいるが、住んでいる人は少ないということだ。名古屋圏でも同じ。

 

つまり大阪や名古屋周辺でさえもこうなのだから、札幌・広島・福岡も寂しくなっていっているわけで、それ以外の地方はどんどん人がいなくなっていっている。

 

こういう現象に対して「地方より東京の方が良いからしょうがないやん」とかいう感想を持つ人が多いかもしれないが本当にそうか?これが当たり前のことか?

 

今や総人口の3割以上が首都圏に集中している。1950年には15%くらいのもんだったのが、今や倍以上になっているわけで、そのぶん他の地方の存在感は無くなっていっている。

 

首都圏に人口が集中する理由としては、政治機能やインフラを東京に集中する反面、あらゆる負担を地方に押し付ける政府の地方軽視の政策に拠るのは明白である。大きい所も細かい所も、事例を挙げていけばキリがない。

 

田舎から都市部に人が集まるのはある程度はしょうがないにしても、地方の都市部からも人が首都圏に流出してしまっているのは、経済的な側面だけをとっても失政がすぎるのではないか。この先、首都圏比率がどういうことになっていくのか心配だ。

 

総務省は「東京圏への転入者が多いのは、30歳未満の若い世代が地方から進学や就職を理由に流入しているからと見られる。今後もこうした傾向は続くのではないか」と話しています。

この記事の最後のまとめに総務省のコメントが出て来るがあまりにもひどい。他人事かよと思う。首都圏に集まるように仕向けてるんだから当然だろという意見が透けてみえるようだ。

 

ここで全国の最低時給ランキングを挙げてみようと思う。

1位 東京都 958円

2位 神奈川県 956円

3位 大阪府 909円

4位 埼玉県 871円

4位 愛知県  871円

5位 千葉県 868円

6位 京都府 856円

 

上位7都道府県だけで首都圏が4つランクイン。そして東京都と神奈川県のツートップは、大阪を大きく離している。

 

対して最低時給の最低ランクはこうなっている。

 

29位 鹿児島県 高知県 佐賀県 長崎県 熊本県 大分県 宮崎県 沖縄県

 

これらの県はすべて737円だ!!!沖縄と高知もひどいが、九州に集中しているのも凄い。日本は九州に恨みがあるんじゃというレベル…。

 

もし東京とこれらの県の最低賃金同士が働いたとしたら、1時間ごとに221円の差がついていく。

1日8時間労働したら1768円の差になる。

これで月25日働いたら44200円の差だ。

 

なんで?住んでいる地域が違うだけで?はっきり差別なんじゃ?

ただでさえ地方は何かと暮らしにくい事が多いのに、これじゃ住む人がいなくなるのに加速がついても当然じゃないだろうか。

 

同じ日本国内で、県境をまたぐたびに、賃金にここまでの差をつけられる合理性を説明出来る人はいないのではないか。橋をわたる度に敵の強さが変わるドラクエじゃあるまいし。

 

このいわれなき賃金差別が解消されるだけで、東京一極集中状況はもう少しマシになるんじゃないかと思わざるをえないのだが。

 

東京で働いている人も考えて欲しい。仕事の忙しさがそのままで、月の給料が4万円以上減ったとしたら。それでまともに生活をしていけるだろうかと。

 

↓2年前にも書いた記事。 

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2018衆院選の自民圧勝を受けての考察とこれから

自民党が圧倒的な大勝利。単独で3分の2をとってしまったのだから驚いた。何が驚いたかといって安倍総理自身が自公連立で過半数が目標ラインだと言っていたにも関わらず、彼にとっては嬉しい誤算ともいえる大勝利だったからだ。さんざん国民を舐め腐った総理からしても「まさか」の結果だった。僕も「まさか」と思った。森友や加計学園のような疑惑たっぷりの安倍に、無罪のお墨付きを与えるような大勝利をもたらす国民って一体……。

 

最初から自民勝利は確定していたとはいえ 

誰の目からも最初から自民党が勝つのは見えていた。なぜならば立憲民主党がいかに盛り上がろうが78人しか立候補していないわけでどうしようもない。連合を組める野党は共産と社民しかなく、それぞれがいきなり50も60も議席を取るなんてことは常識的にいってあり得ないわけで、どうあがいても最初から自民党が勝利するのはわかっていた。しかしである。あれだけのスキャンダルがあって、税金の無駄遣いでしかない解散総選挙などという暴挙に出た安倍総理の信認という大テーマもありながら、それでもなお自民の圧倒的勝利というのは一体どう解釈すれば良いのだろうか。

 

勝利は勝利でもかなり議席を減らすのではと予測するのが普通だ。だからこそあの安倍自身をもってしても「自公連立で過半数」などといった弱気な発言が出てきたのだ。しかし多くの有権者にとって今回の選挙は「野党の受け皿がなさ過ぎた」ということに尽きるだろう。(小選挙区制の理不尽さはひとまず置いておく)

 

なにせ一番盛り上がっている立憲民主党の立候補者が少なすぎた。あまつさえ比例投票で票あまりまで出してしまい、みすみす自民に1議席を譲るという痛恨事まで引き起こしてしまったほどだ。ほとんどの選挙区では、立憲民主党の候補が不在であり、自民公明以外では希望、維新、無所属、共産、社民といった選択肢しか無かったのだ。このうちで希望と維新は明確に野党といえる存在ではなく、そうなってくると自民に物申すためには立憲民主とバッティングしない全ての選挙区に候補者を立てている共産党しかないのだが、有権者共産党アレルギーは大変なものだったといえる。

 

自民党の暴走を止めるために共産党に入れるくらいなら、自民党の自浄作用に期待して自民党に入れた方がマシ」

 

これくらい嫌われていたのじゃなかろうか。共産党がたとえ気にくわなくても政治の暴走を止めるにはあえて共産党に入れるくらいしか無いんだが、そんな高等テクニックを有権者の大半に求めるなんてそれこそ不可能事だろう。

 

いくら困ったとはいえ自民党に入れてしまうなんて選択は国民自身の首を締めるバカげた行為でしかないのが現実だとしても、ぼんやりと投票しにきただけの有権者に「けっきょく自民党しか無いんじゃない?」と錯覚させてしまうくらいに共産党のイメージが悪かったわけだ。ぼんやり投票した人には罪がないと言う気持ちはさらさら無いが、頼りがいのない共産党も反省点はいくらでもある。

 

共産党の限界と展望

僕の住んでいる選挙区なんて、現職自民、対抗馬維新、そして共産党の3人だけという典型的な選択肢の無い地区だった。僕自身は共産に入れ続けているので平気だけど、どう考えても他の有権者が「自民への不信感」くらいの理由で共産の候補に入れるとは思えなかった。なにせ現職自民の候補も、対抗馬維新の候補も共に地元出身者で支援も厚い。一方で共産の候補は何の基盤もない地域部外者。そんな有様で2割り近い得票があったのは、むしろ地域住民はかなり頑張った方だと思うが、残念ながら選挙に「がんばり賞」なんてのは存在しない。誰もが予想する通り自民と維新で綺麗に4割くらいづつの票を分け合って、ちょっとの差で現職自民が勝利していた。こんなことが各地の選挙区で起きていたことは安易に想像できる。

 

なぜここまで共産党が敬遠されるかは共産党自身が考えてもらう他にない。「たしかな野党」というのには嘘がなく、主義主張的にはたしかな野党なのだが、正直いって国民の方では野党とみなされてもない。あれだけ無茶苦茶やってて評判の悪い維新にすらも劣る地雷扱いである。自民が無茶苦茶してる代わりに評価が上がっていっても良さそうなものなのにそれすらもない。「他党によるプロパガンダが…」と言い訳するのは簡単だが、それに対抗する策を講じなかったのもまた事実なのだ。

 

それでも今回の選挙で共産党がした立憲民主へのアシストは評価できる。立憲民主の邪魔をしないためにバッティングする小選挙区から候補を降ろすというのは、おそらく共産党がした唯一にして最大の功績だろう。自民党政権に物申したい層からしたら、共産党よりも立憲民主の方が1000倍くらい投票し易いのは間違いない。今後もこの協力体制は続けてもらいたい。それがおそらく今の共産党に出来る唯一の正解ともいえる活動だろうから。党としては何も変えられないというのならばそれしかないだろう。

 

投票率について

投票率は伸び悩んだ。というよりも53%もあるというのは高い方じゃないだろうか。だれだって自民党が勝つのが目に見えている選挙には馬鹿らしくて行く気がしない。前述の僕の選挙区だって、小選挙区の投票については虚しさしかなかった。そして比例区のために行ったようなもんだが、それだってやはり共産党が躍進するという可能性はほとんど無く、立憲民主に頑張ってくれと願いつつ共産に入れるというよくわからない行為になってしまった。ほとんど祈りにも似た自己満足での投票だったといえる。

 

その結果が立憲民主党の躍進と自民党圧倒的的勝利だ。立憲民主党に関しては今後の希望ではあるが、僕自身の選挙としては何の関与もしていない。そして自民党圧勝には虚しさしか残らない。これで選挙に行こうというモチベーションが保てる方がマゾなんじゃないだろうか。逆に自民党などに投票した人はわけもわからない勝利感と達成感を味わったんじゃないだろうか。これではやれんよ。やりきれんと思う。

 

だからせめて立憲民主党の盛り上がりみたいな期待感を、今後も継続させていくのが大切かと思う。「投票すれば勝てそう?」というのが無ければ、「歯を食いしばって投票しましょう」なんて言っても誰もついてこない。「投票しなかった人が共産党に投票していたら勝ってた(立憲民主は物理的に候補がいないので)」なんて絵空事は聞きたくない。

 

わざわざ共産党に投票するような意思を持った人が、選挙を棄権する可能性がそんなに高いだろうか。それは共産党に入れ続けるというマゾ行為をし続けた僕だからはっきり言える。選挙に来なかった人というのは「浮動層」といわれるくらいあやふやな意思で投票している人間たちだ。だから「どうせ自民党が勝つでしょ」というムードに従って選挙を棄権しているのだ。

 

「もうなんかよくわからないから自民でいいや」と思っている人間の多くが、実際に投票しているなんて考えないで欲しい。「なんとなく自民」という人間のうち、実際に投票所に足を運んだのなんか半分以下だろう。だってほっといたって勝てる選挙にわざわざ足を運ぶだろうか。だから仮の話、来なかった有権者を無理矢理投票所に立たせたらどうなるかというと、自民の票が増えるだけというのがどうしょうもない現実なのだ。

 

じゃあ同じ理屈として、「どうせ勝てないから」という理由で選挙に行かなかった人間もいるんじゃないかという人もいるかもしれないが、こう言っちゃなんだが共産党に投票しようなんてのは、かなり意識の高い人間にしか無理な事だ。前述したとおり、「ふわふわした意識」の人からしたら、悲しいかな共産党は「たしかな野党」とは見なされてない。だから共産党に投票する人間なんて、現時点でわざわざ投票所に足を運んでいる僕のようなマゾがほとんど全てと言って良いのじゃないか。行かなかった人をあわせても倍になればまだマシな方。たぶんそんなにもいない。

 

だからこそ浮動票の人らの何割かが、ついうっかり投票したくなるような期待感のある野党が出てこないとダメだし、そういう世論作りがなされていない以上、「選挙行きましょう!」なんて呼びかけても、むしろ自民の票が伸びるだけになってしまうのだ。冷静になって思いかえしてみて欲しいのだけど、「選挙に行きましょう!」と呼びかけている自民党支持者をたくさん見なかっただろうか。今回だけではなく前回の選挙なんかでも。その前も。

 

彼らが何をしてたかというと「選挙には足を運ぶのは面倒だけど、なんとなく自民かなあ」という層を動員していたわけですよ。30代までの若い層にそうした人たちは大勢いる。はっきりいって現時点でも完敗しているのに、さらに増援されるのだからたまったものではない。彼らはそういうことをわかっているから呼びかけるのである。「自民党に入れる人は家で寝ていてください」と呼びかけた人は批難されたものだが、よほどリアリストだったのだ。

 

投票しなかった浮遊層は自分らの味方に違いない、というのはリベラル派の現実逃避でしかない。統計額のサンプル調査の理屈で考えればそんなハズが無いのは明白だ。ただ、決定的に違うのは、浮遊層が現時点で「自民かなあ」と考えている事は、いくらでもコロコロと変わりうるということだ。なにせ投票所に足を運ぶほどの明確な意思は持ち合わせていないのだ。だからこそ世論で勝たないとどうしようもない。メディアのモラルが重視されるのはそういうことだ。

 

mainichi.jp

 

知の訓練 日本にとって政治とは何か (新潮新書)

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2017夏の18きっぷの活用状況と、秋の18きっぷの攻略法について。

9月10日に使用期間が終わった夏の18きっぷだが、使った先を忘備録的に書いておこうと思う。こういうものは今までとりたてて書かなかったが、歳のせいか記憶力が鈍くなってきていてもう記憶がうすらぼんやりしてきている。いや、若いころからきっとぼんやりしていたのだと思う。ぼんやりしているのを認識できるようになったのだ。だから成長のためにもメモをとっておく。

 

一枚目は東加古川への往復に使った。コスパ的には京橋ー東加古川の単純往復で2640円の距離で、もちろん寄り道なんかもしたのでもう少しかかってるにしろ、18きっぷ的に損はしてないが、ものすごい得をしたわけでもない。しかし東加古川のローカル弁当である三六弁当を買うためにわざわざ遠征するなんて普通は無いし、夕方からのスタートという限られた時間の中で考えると十二分の活用といえる。以下はその時の模様と、ネットラジオ放送。

moteradi.com

 

ものすごく時間の余裕のある人なら、あますとこまで18きっぷをしゃぶり尽くすのも良いけれど、いつ休みがとれるかわからないみたいな人は、あまりカツカツせずに5回ぶんトータルで大きく得をすれば良いと考えて、ちょっと空いた時間を活用して、1回ぶんくらいは気楽に使っちゃうのは実にオススメだ。なんだったら1回分のコストである2300円を割りこんでも構わないと思う。期間中はどこでもふらっと行ける切符だという強みを活かしたい。

 

二枚目と三枚目は岡山への一泊旅行に利用。こんどは2日間を完全に使い始発から乗り込む。笠岡にいって笠岡ラーメンを食い、新倉敷を満喫して、岡山のサウナで一泊。次の日は姫路に寄り道しつつわりと素直に帰宅。

 

一日目。

京橋-笠岡4000円。

笠岡-新倉敷320円。

新倉敷-岡山500円。

二日目。

岡山-姫路1490円。

姫路-京橋1660円。

 

もしかしたら二日目は他にも寄り道があったかもしれないが、大まかにはこんな感じだったかと思う。 もちろん日帰りにしたり、香川なんかもひっかけたりすると、大幅にコスパが上昇するのは知っているが、あまり欲張らずこの程度の「得」に抑えておくと色々と捗ったりもする。トータルでは4000円ちかくは浮いているはずなので十分である。

 

さて、残り2枚というキリの良い数字になったところで思いがけない事が起きる。新潟のばじるさんから依頼が来て、2回分の18きっぷが欲しいとのことなので、送料込み5000円で売却してしまったのだ。そりゃ欲張れば2回ぶん残しというのは高値で売却も可能だけど、お世話になっている仲間内で回すぶんにはぜんぜん良いと思う。逆にこちらは、もう少し使える日程の目処がたってきたので、むしろ売却したお金で5回ぶんを買い戻せるチャンスだと捉える。

 

というわけで、金券ショップでサラの18きっぷを買いなおす。これで2回ぶんが5回ぶんに戻った。余談だが、8月の半ばだというのに、金券屋で18きっぷがなかなか売ってなくてちょっと焦った。どうも近年の金券屋は、早めに18きっぷの在庫をはいてしまうみたいだ。もちろん最終手段としてJRで定価で購入するというのも可能だったが、一回あたり100円くらいは安くなるので、どうしても金券屋で買っておきたかった。

 

さて、4回目は岐阜への日帰り旅行に使う。回数が復活したおかげで、こんなフラっとした遊びにも気軽に使えてしまう。日帰りだとコスパが大幅に上がって、6040円ぶんの距離になる。しかも最初に名古屋までちらっと寄り道して、きしめんなんかひっかけてからの岐阜到着(これぞ18きっぷならではの無駄移動!)なので、実は3820円+3020円で6840円以上の移動をしていたりする。はっきりいって関西の18きっぱーは、地理的に日帰り旅行に恵まれすぎていると感じる。

 

5回目6回目は香川へ一泊旅行。これは元々予定していた使いみち。あまり寄り道したりせずにシンプルに移動した。丸亀駅に寄って骨付鳥を堪能したくらいか。やっぱり欲張りすぎないのが近年の自分と18きっぷとの向き合い方になっている。

 

一日目。

京橋-坂出4140円

坂出-丸亀220円

丸亀-高松550円

二日目。

高松-天満4620円

天満-京橋120円

 

7回目8回目は長野県伊那市への一泊旅行。これもなんとなく。行った事のないところに一泊旅行したいと予定していた使いみち。当初の5回ぶんでは絶対に行けなかったので、売却の話がかかったのは良かったと思う。これもシンプルに行き帰りだけに使ったので、時間的にも精神的にもかなり余裕がもてた。こういう旅程であっても、昔だったら始発から終電まで使って、寄り道しまくったり、最長で行ける距離にこだわったりしていたが、そういうのはあまりやらなくなった。鉄道オタ観点でいえば堕落か。僕は鉄道オタではないけれど。

 

一日目。

京橋-伊那市6480円 

二日目。

伊那市-京橋6480円

 

合計で8回ぶん使えたので、なかなか充実の夏シーズンだったと思う。8回ぶんで大雑把に計算して40060円ぶんの電車に乗った。一回ぶんで2200円(金券ショップ価格ベース)を超えていれば得になっているので、アベレージで5000円を超えているこれはもう十分な活用だったと言えるだろう。

 

さて、夏の18きっぷはこんな結果に終わったが、次は秋の18きっぷと言われるJR西日本鉄道の日記念きっぷの活用を考えていたが、今年は発売しないとのことで、すっかりあてが外れてしまった。代わりにこんなものを発売したらしいのだけど、僕には全く利用価値のないものだった。なんせ土日限定でしか使えないというとんでもないもの。30周年かなんか知らんがガッカリである。来年はちゃんと発売されるんだろうかと心配になってくる。

www.westjr.co.jp

 

ちなみに僕があてにしていた鉄道の日記念きっぷについては、過去記事で紹介している。

butao.hatenadiary.com

 

しょうがないので、今年に関しては、もう一つの秋の18きっぷともよばれる「秋の乗り放題パス」の使用を検討することになってしまった。あれほど忌み嫌う「秋の乗り放題パス」を。

 

なぜこの切符を忌み嫌うかは、以下の説明を読んで貰えばわかると思うが、「3日連続でしか使えない」事にある。かつて「鉄道の日記念きっぷ」と呼ばれていた時代(JR西版とはまた違う。ややこしい)は、純粋に3回ぶんの18きっぷだったのだけど、数年前から名称と価格が変わると共に、こんな縛りがついてしまった。だから、それからこっちの切符の存在は自分の中から消えてしまっていた。

www.westjr.co.jp

 

しかし今年は使用してみようかという気持ちになっている。たしかに3日連続となると、10月の7日から22日という短い期間中に3連休を取れる人しか相手してないようにも思える。だけど先に書いたように「フルで得をしようとせず18きっぷ5回ぶんをトータルで考える」という考え方を応用すれば「3日連続しばり」もなんとかなるように思えてきたのだ。

 

例えば連休があるとするなら、フルで移動するのは2日だけで、その前後の日に「ちょっとした移動」を挟むとかいう考え方だ。もしくは飛び石連休でも、それぞれに日帰り旅行を組み込めば、真ん中の日は捨ててしまっても(もしくはしょうもない移動に使ってしまうなどしても)元はとれるかもしれない。

 

とにかく3回で7710円なので、トータルでそれさえ上回っていたらなんとでもなる。極端な話、大阪-東京の片道移動だけで8750円なわけで、あとの2日ぶんはしょうもない移動でも、一応は元は取れてしまう。そう考えると秋の乗り放題パスも、まんざら捨てたものでは無いように思えてきてしまうから不思議だ。だいいち、この切符は知名度が無いので、電車が空いているのが魅力なのだ。

 

要するにどこかに行くきっかけになれば良いわけで、使い勝手の面でずっと避けていた切符だけども、これしか無いというのも何かのチャンスだと思って試してみようと思う。使ってみて実際の具合の方をまたレポートすることにする。

 

コンパス時刻表 2017年 10 月号 [雑誌]

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高校野球はドロドロしたものが見えてしまって全く楽しくない

僕は高校野球は嫌いだ。好きになれない。誤解しないで欲しいのだけど、高校野球の試合を楽しみに見ている人とか、母校の試合結果を気にしている人とかに文句をつけるつもりはない。僕自身だってプロ野球を観戦すること自体は嫌いじゃないけれど、高校生の野球大会にまでは興味が持てないということだ。

 

でも、それを言い出したら、ほとんどの人は野球観戦自体に、本来そこまで興味がないんじゃないかと思うのだ。「OPS」というのが、長打率と出塁率を足した指標であるということすら、知らない人が多いんじゃないか。

 

日本プロ野球の4000打席以上の選手の通算記録で、「OPSの数値が1を超えているのは王貞治だけ」ということも即答できないんじゃないか。

 

ちなみに日本時代だけのイチローの通算は0.943だ。大リーグ時代も入れると、当然ながらもっと低下する。

 

これくらいのことはちょっとでもプロ野球が好きなら即答して欲しい。僕もするようにする。あ、これだと、野球という競技が好きかどうかというより、プロ野球が好きかどうかの話になってしまっていた…。失礼…。

 

まあまあ、そんな感じで、みんな野球に対しての向き合い方は、ほどほどって人は多いはずだ。しかし高校野球だけはやたら興味がある人ってのがついていけない。みんなそれほど野球に強い母校をお持ちなのだろうか。それか、自分の家族が通ってる学校とか。それこそ出場者の身内とか。あと知り合いの息子さんとかが出場してるとか。でも高校野球を気にしている人の多くが、そういう関係者ばかりのような気はしない。

 

個人的な話をすると、僕の通っていた高校は、高校野球に出場してなかったのだった。卒業後に高校野球に出場するようになったとかいう噂はなんとなく聞いたが、それからしばらくして高校自体すらも閉校になってしまったそうだ。だから母校を応援しようというような発想自体が生まれなかったことになる。

 

あと、家族の中に高校球児とか高校野球の監督とかもいないし、そもそも親戚づきあいもしていないから、親類にそういった関係者がいるということもない。友達・知り合いの関係者にも今のところ高校野球に関わっている人がいるという話もないし、もし仮にいたとしても、しょせん友達・知り合いのさらに関係者とかいう間柄なので「ふーん」で終わってしまうと思う。

 

なのに、世間のこの盛り上がりようは「一体どういうことだ!?」とずっと思い続けてきて、疎外感すら覚えて数十年が経つ。みんなもそれほど関係者じゃないでしょうと。普段は野球の話なんかしないのに、高校野球というだけでやたら興奮するのはおかしくないですかと。

 

日本最高峰の試合が観れるとかなら、まだ理解出来るのだけど、しょせん高校生限定の試合じゃないかと思う。なんで16~18歳限定(例外はあれど)の、高校単位で区分けされた野球チームを応援したり、応援しなかったりしなきゃならないのか。

 

先にも書いたとおり、野球にすごく興味があるという人なら、最大規模のアマチュア大会という意味で、高校野球は外せないのだろう。プロ入り前の選手をチェック出来るというのもあると思う。野球ヲタであるなら、高校野球大会は注目度が高いということについては、僕にだって理解は出来る。

 

全国でいちばん野球の上手い高校生が集まっている可能性のある大会だ。ちょっとくらい気にかけてもバチは当たるまいと、頭ではわかっていても身体が拒否してしまう。

 

なんでかというと、いろいろな意味で「不純物」が多すぎるように思うのだ。特に下のような記事を見てしまうと、もう純粋に「高校野球」というものを楽しめない。(かつてリンクしていたものは、古い記事だったので消えてしまったので、2019年の新しい記事に差し替えたが、やはりこんな記事が今も…)

www.nikkansports.com

 

見た目も精神も小汚いおっさんが。恫喝するようにして子供を仕切ってドヤ顔。子供は強制坊主頭。非科学的なシゴキ練習。チームメイトによる陰湿なイジメ。バックネット裏占拠。才能のある選手を県外からスカウト。(ただし現在バックネット裏占拠は解消された。少しは前進だ!)

 

僕が高校野球に感じているイメージは、いずれもダーティーでネガティブなものだったりする。もちろん。あくまで昔からの漠然としたイメージなんで、今の高校野球が正確にはどうなのかは知らない。髪型の強制なんかしてる高校とかは少なくなっているのかもしれない。イジメやシゴキなんていうものとは無縁で、ナイスガイな監督の元にハツラツと野球をやっている部も中にはあるとは思う。しかしだ。上のような記事を読むと「やっぱり…」とか思ってしまう。こういうのがもてはやされる世界なんやと。

bunshun.jp

(2018年の記事があった。やはり坊主ばっかりらしい。なんでや。)

 

あくまでもイメージだが、いまだに高校野球はやたらバントを多用し、一塁にヘッスラ敢行している高校が多いのではないか。こちらは詳しくないので「そんな高校は減っているよ!」とデータと共に反論されたら、いつでも撤回する用意はある。

 

しかしだ。たまにテレビでやっている試合をチラチラ見てると、そんな時にかぎってバントしまくり。ヘッスラしまくりだったりして萎える。なにもバントや一塁ヘッスラがあかんと言っているのではなくて、戦術のひとつではあるとは思うのだが、あくまでも戦術のひとつであって最適解ではないはずだ。なのにやたらこれが好まれる風土に虫唾が走る。

 

いわゆる、アリバイバントや、アリバイヘッスラなんじゃないかという疑惑だ。スポーツの試合に、確実なものなんか何一つないけれど、バントは練習しまくればかなり成功率は高められるし、1点を取るより走者を進めるほうがはるかに簡単だ。だから「仕事した」「責任を果たした」感がすごくある。最悪バントに失敗しても「不運だったね」「作戦に従ったのだから仕方ないね」とか言って貰える。

 

ヘッスラなんか言わずもがな。駆け抜けた方が早いか、ヘッスラの方が早いかは、個々人の資質や状況にもよるというただそれだけの話なのに、とりあえずヘッスラしとけば「ひたむき感」はすごい演出できる。

 

「思いが強いとヘッスラするんだよ」「ヘッスラは早いんだよ」「やったことないやつが偉そうに言うな!」とかいうけれど、そら様々な検証によってはヘッスラが功を奏する場合もあるという話は知っているけれど、プロ選手でも手から突っ込むな!と批判している人がいるやんかと。そもそも「思いが…」とかいう認識が、当たり前のように共有されてしまっている。つまり、ことごとく視線が内向きなのだ。周りにどう思われるかを、すごく気にしている雰囲気が伝わってくる。

 

きわめつけが、負けた後の子供のコメントだ。「期待に応えられなくて申し訳ございません」「すいませんでした」だったりするあれだ。なんで自分たちが負けたのに、誰かに謝らなければならないのだろうか。たとえば、自分のミスのために、チームが負けてしまった。そしてチームメートに「ごめん」というなら、それはまだ少しは理解できる。しかし外野で応援してくれた人に謝る道理がわからない。

 

外野の人であっても、練習や何かを支えてくれたとか、差し入れしてくれたとか、活動費を援助してくれたとか、いろいろあるとは思うけれど、だからといってそういう人らは、勝利に対する投資と思って支援をしていたのだろうか。普通は「子供に好きな野球をやってほしい」という気持ちからそういう行為が生まれるのではないだろうか。

 

でも現実は「とにかくひとつでも勝って欲しい」という周囲の大人たちの気持ちが、重いプレッシャーとなって子供にのしかかっているからこそ「くやしいです」より先に「すんませんでしたぁ」なんて言葉がナチュラルに出るのだと思われる。そんな馬鹿なと思うけれど。

 

そもそも高校野球で名を挙げたい高校が、選手のスカウトや監督の招聘などといった行為にお金を使うわけだから、やはり高校野球の推進というのは投資なのだ。そういう無言のプレッシャーが、子供たちに謝罪の言葉を強要するのだと思う。「おまえらにナンボかかったと思ってんねん」みたいな。野球の試合を見ていたはずなのに、いつのまにか日本社会の縮図を見てるような暗い気持ちになってくる。そうするともうスポーツを純粋に楽しむ事ができなくなってしまうのだ。

 

そこには様々な思惑があるにせよ、良い歳をした大人が子供をダシにして、儲けようとか楽しもうという趣旨がどうにも気に食わない。まわりで「母校の誇り」「おらが村(町でも市でも県でも)の代表」「意地を見せてくれ!」とかいうて囃し立てる。何度もいうけれど、子供が野球出来るように支援したり、頑張っている選手を応援してやることは何も悪くない。でも「勝ってくれ!」みたいなプレッシャーかけるのは何なんだろうと思う。

 

プロ選手やプロ球団なら良い。だって勝つのが仕事だし。プロは金払ってくれるお客さんを気持ちよくさせてなんぼみたいなところもあるから仕方がない。もちろんプロ選手は絶対にお客さんの顔色をうかがえといっているわけではなくて、そういったリスクも込みの商売だよということだ。しかし高校生の野球に対しては、そんなプレッシャーはゼロで良いんじゃないかと思うのだ。部活はアマチュアスポーツだ。アマチュアってのは自分のためにやるからアマチュアなんだし。

 

他にもエースピッチャーの連投とか、大会日程とか、いろいろ言い尽くされていることがあるけど、どれもこれも勝利至上主義に起因する問題点としか思えない。

 

もちろんスポーツでもゲームでも、勝負事で勝利することは大切だ。皆が勝利に向かって努力するからこそ、スポーツやらゲームの純度が保たれているという面はある。しかしだ。それは個々が自主的に取り組むことであって、他人にプレッシャーかけられてやることではないのではなかろうか。

 

なんとなくブラック企業問題との共通点が見えてきた。たとえばブラック労働問題でよく言われるのは、「お金のために頑張るのは間違い」「採算度外視で取り組む姿勢こそ美しい」みたいな主張に対する批判だ。野球に当てはめると、勝利に突き進むために弱音を吐かず野球漬けの毎日を送るという、いわゆるスポ根のことである。この取り組み自体は実は間違っていない。

 

あんまりムキになって全力を出さず、エンジョイ的な努力だけで結果を残す。そんな恵まれた事例も無いとはいえないが、やっぱり凡人といわれる人が、何か突き抜けた結果を残すためには、破天荒なまでの取り組みが求められる瞬間がある。

 

しかしだ。それはあくまで自己満足として行う行為であって、決して他人に強制されてやるもんじゃないのだ。ましてや、その頑張りの上前をはねることで利益をせしめようとしている企業家なんかに、偉そうに言われる筋合いは微塵も無いのである。

 

高校野球も腹立たしいのは、一部の監督なんかは、選手が結果を残す事によって利益を得ているのが明白なこと。学校にしてもそうだ。そういう人らが「ひたむきにやれ!」とか言っても全く面白くもない。髪型を強制するのも外見的に頑張らせいているのがわかりやすいからだろう。あるいは、心の底から親切心で、「ひたむきにやること」の素晴らしさを体験してもらおうと指導をしている人もいるかもしれないが、そういうパターナリズム(父権主義)もかえって恐ろしい。体罰なんかも親心から発生したりする。

 

長々と書いたが、かくいうわけで、日本の高校野球道という世界観がすごく嫌いなのだ。その悪影響は、プロ野球の世界でも垣間見えたりもするので根が深い。出来たらば、もっとゲームに集中出来るような世界になって欲しいのだけど、日本のスポーツ界は、どうかするとすぐに人格形成みたいな方向性に傾きがちだ。たぶんスポーツやゲームに興じる事に対する、後ろめたさみたいなものがあるのだろうと思う。だから「人格形成」とか付加価値をつけたがるのだろう。余計な話だ。

 

なんども書くけれど、単純に高校野球を観戦して楽しんでいる人は良いと思う。でも度外れて高校野球の勝ち負けにこだわっている人はどうかと思う。高校球児がどういう取り組みでやっているかは関係ない。アマチュアに対して外野はプレッシャーかけるなと。

 

昔は一部の大学野球を除けば、大半の球児にとって高校野球が野球人生の最後だった。だから燃え尽きても良かった面もあったかもしれないが、今はプロ野球もあれば独立リーグもある。

 

スポーツを楽しみたい精神が、たかが高校の野球で消費され尽くされるのはあまりにももったいない。時代も変わったのだから、高校の大会だけを必要以上に熱狂したり神聖化するのはそろそろ止めにしないかと思う。立場の弱い子供が関わっている活動だけに、さすがにみてらんない。

 

甲子園という病 (新潮新書)

甲子園という病 (新潮新書)

 

その後に読んだ本。ずっと思ってた事が書かれていた。子供にかけられるプレッシャーが怖い。

 

 

日本が階級社会であることの不利益を考えてみた

電車の運転士が携帯見てただの消防士がうどん屋に行っただのなんだのというクレームがすぐに話題になる社会。このようなTwitterがあったが、まことにもっともな話であって、日本人が仕事や職務に厳しいだけの気質であるならば、国会で政治家が居眠りなんてのは言語道断であって批判集中しなければおかしい。しかし国会での居眠りで罷免された議員などの話は聞いたことがないし、怒られたという話もクレームが殺到しているといった話すらもない。だからこそのテレビで中継されている前での堂々たる昼寝っぷりなのだろう。ここまで開き直られると議員というのは「国会での居眠り権」が保証されているのではと錯覚してしまう。

 

「国会なんて形式的なものだから寝てようが起きてようが影響ないから大丈夫」「議員は多忙なんだから寝させてあげよう」「ちょっとくらいミスがあったとして目くじら立てるのではなく良いところを見るべき」「マスコミが寝ているところばかり映し出すのは悪意がある」などという擁護意見がどんどん出てくる。はっきりいってめちゃくちゃに甘い。

 

たとえば電車の運転士なんかが居眠りしたらそりゃ大事故になる可能性があるから指摘されるのも無理もないが、連日の勤務で疲れが溜まっていてウトウトしてしまうこともあるだろうし、つい携帯を見てしまうこともあると思う。それで大事に至らなければ「ちょっとくらいのミスは大目にみてあげよう」となるかというとそうじゃない。もし運転士の中継番組なんかがあったとしたら非難轟々だろう。鉄道会社にはクレームが殺到すると思う。

 

現場業務は「職務の安全上、寝ないのが仕事」だとしても、じゃあ一般企業の会議で、社員は興味がなければ寝てても携帯いじっていても良いのかといったら、そんな自由すぎる企業はほとんど聞いたことがない。堂々とそんなことしていたら下手したら馘首になる。「寝ても良い」という仕事があったとしても、新薬の臨床とか、何かの実験であるとか、かなり特殊な状況のものに限られる。つまりどんなつまらない仕事であれ、たいていは「寝ないこと」が求められているのであり、「労働契約」とはつまり「睡眠権」の放棄を第一条とする様々な権利の放棄と引き換えに賃金を得ることを意味するといってよい。

 

つまらない仕事にもそれだけの「義務」が科せられる反面、国家の最高機関に挙げられる国会での職務には「睡眠権」が堂々と持ち込まれる。それだけではなく「スマホ」なども持ち込み自由のようだ。たとえばコンビニのバイトがレジで「睡眠権」の行使をしたり、「スマホ」をいじっていたりしたらどう思うのか。たとえ自分が雇い主でなくともカッカして本部にクレームを入れたりする輩が続出するはずだ。電車の運転士や、消防士のささいな行動にクレームを入れる人間がいることからも想像に難くない。そしてクレーム入れられたコンビニチェーンも「レジに客が来た時には働いてたから良いだろうがよ!」などとは開き直らず、ただただ恐縮してみせるはずだ。そして末端の店舗やアルバイト店員に対してペナルティを課したりする。

 

偉ければ偉いほどやりたい放題。それに対して労働者の仕事については周囲の目は厳しい。それがどれだけ時給が安くとも手抜きは認められない。それが日本という国の実情だ。

 

国会議員に文句を言ってはいけないのは「国会議員という立場がひたすら偉い」というコンセンサスが形成されているからだ。そうでなければ「先生」などとは呼ばれない。なぜ国会議員が偉いかというと、多くの人間にとって利害を左右するなにがしかの権限を保持しているからだ。国の業務にアクセス出来るのは国会議員や一部官僚や警察上層部など限られた人間だけであって、国の業務というのは様々な利害に直結しているから、彼らと敵対するよりも仲良くして自分だけ得をしたいという気持ちはわからんでもない。

 

しかし冷静になって考えて欲しいのは、多くの人の利害に直結する国の業務に関わるポジションだからこそ、本来は無能な人間や不公平な人間は排除していかなくてはならないはずだ。ところが実際、そういう立場の人間が厳しい評価の晒される事は稀である。ひたすら甘くされていく。そして下っ端に行けば行くほどに、厳しい評価に晒され続けるという逆転現象が起きる。なんでなのか。

 

それは日本がガチガチの階級社会だからである。江戸時代以前の封建制度における身分社会は誰でも知っていると思うが、その精神は現代に至るまで、天皇陛下を頂点とした階級社会として色濃く残っている。現在の貧富の格差などの経済や社会問題も、とどのつまりは日本における身分社会の精神の発露だと思っている。

 

身分社会や階級社会において大事なことは「上の人間には逆らわない」「下の人間は絶対服従」ということだ。なぜなら無能でも立場を脅かされないのが血縁主義や身分社会というものの醍醐味だからだ。だから上には権力を与え、優遇し、下にはことあるごとに厳しくするように仕組まれていく。社会全体がそういうコンセプトの元で動いていくのだ。だから反抗的な人間は子供の頃から教育を通じて排除されていく。人間を計る指標が「優秀なこと」より「従順なこと」に比重をおかれがちだ。そう考えると横綱審議委員会みたいな不透明な組織が日本社会になぜマッチしているのかがよく理解できる。

 

ガチガチの身分社会が強固に構築され始めるとどうなるかというと、現在の日本を見ても分かる通り経済が破綻していく。経済が破綻すると文化も衰退していく。ありとあらゆる分野がダメになってしまう。

 

簡単な話である。身分社会では要職に就いている人間ほど無能になる傾向にあるからだ。そして上下の流動性の乏しい社会ほど、瑕疵が指摘されず無能がのさばり続ける可能性が高い。そんな組織が、実力主義を方針とする組織と勝負して勝てるだろうか。結果は第2次世界大戦の例を見ても明白だろう。社会の序列やポジションの確保のために多大なリソースを消費してしまう身分社会は、効率の面でいっても実力主義の組織に必ず遅れをとる。時代が下るにつれ世界から身分社会が姿を消しつつあるのは淘汰の結果である。

 

江戸時代のころ、長らく続いた世襲制身分制度によって、日本はいつしか諸外国に対抗できない組織になってしまっていた。黒船というやつだ。その反省から、薩長土肥という実力をもった雄藩が主導になり、無能な江戸幕府を解体し、あらたに明治政府という実力主義による近代社会に生まれ変わろうとしての維新後の日本である。ところがこの新たな組織体も、結局は天皇を中心としたガチガチの身分社会を構築し始めた。再び庶民の活動や権利は大きく制限され、あらゆるところでトップダウン中心の活動が展開されていくようになる。それがどのような悲惨な結末を招いたかは説明するまでもない。

 

明治維新、敗戦後の民主化。直近の二度の繁栄は、階級社会がある程度解体されたからこそもたらされたものだったことをくれぐれも忘れてはいけない。しかしそれを良しとしない勢力が日本には存在する。彼らにとっては、国民の生活が保障された社会よりも、上下の立場が保障された社会の方が魅力的なのだ。身分が固定されていた時代を美しいとか古き良き時代だと礼賛し、人権の拡大とかいった、より多くの国民にとって利益になるような思想を危険視したりする。

 

庶民が「睡眠権」を獲得したいなんて言ったら大反対するに違いない。庶民が週に40時間以上も働かされて、うどんすらもなかなか食えず、ひたすら疲弊していてもおかまいなし。その反面、偉い人は自由に「睡眠権」を行使し、栄養も摂取し、長生きを(しようと)する。ところが庶民は庶民で「偉い人は偉いのだから」と小さい頃から叩き込まれていたりするので、異常な立場に追い込まれている自覚に乏しかったりする。

 

日本が完全に身分社会から脱するにはあと何年かかるのだろうか。

 

国の要職についている人間が堂々と居眠り出来る絵面の異常性。日本国民はそろそろ気がついても良いころなんじゃないかと思うのだけど。

なんで日本人は傘をさすのがこんなに大好きなのか?

毎朝使う電車。終着駅で自動改札を通って外に出るのだけど、ホームから階段を登りそのまま前進すると進めば自動改札機が複数台並んでいる。だけど通勤客などでなかなかに混雑していて、みんな数秒くらいづつは待たされるわけだ。しかしふと右側を見ればもう一台の自動改札機があって、そちらは誰も使っていない。いつ見ても誰も使っていない。だから僕はそちらからすっと外に出る。

 

なんで誰もこっち側から出ないのか不思議でしょうがない。真正面に配置された自動改札機に比べれば死角といえばそうだけど、強いて言えばの話であって、この自動改札機が全く見えなかったという人は誰もいないはずだ。じゃあなんで誰もこっちから出ないのかといえば、ちょっと横道から出るという労力よりも、何も考えず数秒待たされる方がよほど楽だと考えているのだろうか。朝の出勤みたいなつまらない行動をしている時は意識を完全にオフにしていて、「おっ?誰もいない?」「右から出たら早いかも?」なんて思考を巡らせるだけくたびれ儲けということか。

 

たしかに何も考えず正面の自動改札機を待っているのと、横の自動改札機からすっと外に出るのとを比べても、数秒ほど早く外に出たらからといって何も得をしたりはしない。次の電車の乗り継ぎに影響したりしないし、それで会社や学校に遅刻するならば、もとから遅刻しているはずだ。僕がなぜそんなことをするかというと「明らかに空いているレーンがあるのに列に並んでいるという不合理」にイライラするからである。「出たいから出る」と言い換えても良い。

 

日々そんなことを考えていると、ある日とんでもない光景に出くわした。その時はたまたま混んでいない時間帯だった。自動改札機を使う人間もまばらなもので、行列までにはなってなかったのだ。するとどうだろうか。行列になっていた時はあれほど誰も利用しなかった右側の自動改札機レーン。かなりの人間がそちらを通って外に出ている。というか、正面のレーンと、右側のレーンと、見ている限りでは利用率はほとんど同じなのだ。

 

これはどういうことだろう。混雑して、人が通りにくくなっていればなっているほど、人はそちらに集まってしまうとしか考えられない。不合理すぎる事実だ。行列のできるラーメン店には、余計に行列が出来るのと同じことなのかもしれない。この場合は、ラーメン屋なんかと違って、自動改札機レーン同士に、なんらクオリティの差があるわけではないので、より明確に人間の心理が浮き彫りになっている。人間とはなんと釣られやすい生き物なのだろう。

 

本題に入る。雨の日に外を歩いていると、誰も彼も傘をさして歩いている。よほど酷い雨ならば、傘もささずにびしょ濡れで歩いている方がおかしいけれど、ちょっとした小雨程度だったとしても、傘をささずに歩いている人は少数派だったりする。

 

なんでみんなこんなに傘が好きなのだろうかと首を傾げる。僕はよほどの雨でもない限りは傘をささずに歩いてしまう。傘というものがめんどくさいからだ。だから折りたたみ傘なども持ち歩いたりはしない。旅行に出かけるときも用意しない。その代わり、日除けもあって、普段から帽子をかぶっているので、少々の雨だったら帽子があるから気にならない。これでたいていのケースはなんとかなってきた。

 

しかし僕のように傘をさすのを面倒だと思っている人というのは、今までそんなにたくさんお目にかかった事がない。そりゃ「おたくは、雨降ってきたとき、傘をさす派?ささない派?」なんて質問をすることはないけれど、雨の日に外を歩いてみればなんとなくわかる。ほとんどの人が、雨が降っているという情報をキャッチすると、自動判断で傘をさすことになっているようだ。そんななかで、まったく傘をささずに歩いている人というのは、傘をたまたま持ってなくて仕方なくだとか、すぐ近くまでだからダッシュで行こうとか、何らかのイレギュラー感を醸し出している。

 

少しでも濡れたら化粧が流れてしまうとか、酸性雨の影響を気にしているとか、濡れた野良犬みたいな匂いになってしまうのを恐れているとか、そのほか僕の知らない何らかの理由で、絶対に水に濡れられない人も、そりゃ世の中にはいるとは思うけれど、そういう人たちばかりでも無いはずだ。これだけ人が歩いているのだから、もうちょっと傘嫌いがいても良いではないか。

 

しかし思い出してみれば、かつての僕もそんなものだった。出かける時は天気予報をチェックして、雨が降りそうな気配があると傘を持参していた。少しでも濡れるとこの世の終わりみたいな気持ちがあった。なんで雨の日に少しでも濡れたくなかったのかと今思い返しても「わからない」としか言いようがない。強いて言えば「親とか先生がさしなさいと言ったから」だったりする。その理由が「風邪をひくからダメ」だった。実体験して「なるほど」と思ってそうしていたわけではなく、いってみれば呪いみたいなものだ。その呪いで「傘をさすのが大人の分別」と思い込んでしまった。

 

それから人生に色々な体験をして「本当に傘をさすのが大人の分別なのか?」と考え出すようになった。そしてよほど酷い土砂降りでもないならば、少々濡れても別に大丈夫だし、服が水に濡れたくらいで風邪なんかひかないというのもわかってきた。そして今に至る。しかし今だに「なんで傘をささないの?」とか「傘をもって行きなさい」と変な顔をされることは多い。

 

みんなが傘をさすのは、行列にみんなが並んでいるからというのと同じく、「みんながそうしているから」という理由でしかないとしたらどうだろうか。もう一歩進めて「みんながしているのに、していなかったら奇異の視線にさらされるから」ということであるとすればどうだろうか。かつての僕にしたって「雨の日には傘をさしなさい」と他人に言われたから傘をさしていただけで、これという明確な理由は、どれだけ考えても出てこないのが恐ろしい。

 

僕みたいなライフスタイルの人間が他にいないものかと思った。そこで試しに「傘をささない」でググってみたら、たちまちいくつかのサイトがひっかかった。

www.leondesign.co.jp

www.bite-japan.com

itmama.jp

どうやら、日本人で僕みたいな奴は少ないらしく(わかっていたけれど)、いたとしたら外国人らしい。そういえば、たしかに雨の日に歩いていて「お、他に普通に歩いている人がいる!」と思ったら、たいていは外国人だった。

 

なんで日本人は傘をさして、外国人はそれほどささないのかの理由はよくわからない。これらの記事では、気候とか、街並みとかが理由に挙げられているが、日本にしか四季が無いとかいうたぐいが勘違いにも程があるのと同じく、これくらいの雨量や湿度というのは別に日本特有のものでもないはずだ。それに気候なんてものは、同じ日本の中でも、北海道から沖縄までそれぞれかなり違っている。

 

雨の日でも傘を持たずに普通に歩くという活動を、長年にわたって実地で試している僕からしたら、服が濡れて乾きにくくて困ったという経験も無いし、街並みにしたって、都会なら雨を避けて歩ける場所はかなり多い。アーケードや地下街なんて、日本の都市は特に発達している部類ではないか。僕の住んでいる大阪なんて、アーケードと地下街の都市といっても良いくらいだ。それでも人々は傘を手放さない。

 

やっぱり「雨が降ったら傘をさすという日本人の多数派のルールから外れたくない」という理由がいちばん納得がいく。常に多数派に属していたいという感覚だ。行列のラーメンに並びたいとか、みなが歩く方向に進んでいこうとかいうのと同じだ。

 

そう考えていたら検索で出てきたサイトにこのようなものがあった。

sirabee.com

なんか完全に、多数派による少数派に対するイジメとしか思えない。小雨でも傘をささないやつは不潔であると何の脈絡もなく決めつけられるようだ。もちろんこの記事にそう書いてあるだけで、みんながそんな風に考えているかどうかは疑問だ。むしろ「なにも考えていない」というところが正直なところじゃないだろうか。ルールから外れることに対しては極度の恐怖心があるように思う。みんなが傘を持っているのに、自分だけ傘を持っていなかったら、間違った事をしているみたいでそわそわしてしまうのではなかろうか。

 

もちろん、どうしたって雨に濡れるのが嫌いという人が、雨を気にして傘を持ち歩くのは構わないと思う。レインコートでも構わない。パーカーみたいなフード付きの服だってある。それは各人の「こだわり」というやつだ。でも皆が皆、同じ方向性というのは不思議でしょうがない。

 

ちなみに、傘を持ち歩くのが嫌な僕にだって雨に対する「こだわり」はある。靴下だけは絶対に濡らしたくないというものだ。靴下が濡れると、とたんにやる気がなくなってくる。濡れた靴下のままでいるとみるみる体力が低下してしまう。なんでかはわからない。

 

疲れた時に、お風呂に入って全身を洗って、湯上がりに新しい服に着替えると嘘みたいに元気になるという体験をしたことがないだろうか。それが無理ならシャツと下着を着替えるだけでかなり身体が楽になる。それが無理なら、靴下だけでも履き替えるとだいぶ違う。旅先で疲れ果てた時などにやってみることをオススメしたい。靴下なんか100均でも買えるわけだし。

 

反対に、靴下がじけじけとしていると、ものすごく疲れるし、びしゃびしゃになるともう最悪だ。ベトナム戦争をテーマにした映画で、沼地みたいなところを進軍しているときに、軍曹なんかが新兵に向かって「替えの靴下だけは濡らすな!」と注意していたシーンがやけに印象に残っている。米軍でも靴下を重要視しているということは、僕の感覚はそんなに的を外したものではなかったんだなと思っている。理屈はわからないけれど。

だから雨が降りそうな時とか降る可能性がありそうだなと思ったら、防水がそれなりにある靴とかブーツとかを履くようにしている。通気性のよいスニーカーはご法度だ。夏だったらサンダルでも構わない。足は濡れるけれど、靴下を履いてないので、靴下が濡れるようなことにはならない。とにかく靴下が濡れるのが最低なのだ。

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新メニューのグランから見えてくる日本マクドナルドの迷走

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写真は、新発売されたグラン・シリーズのうちのグラン・てりやき。

 

以前このブログで、日本マクドナルド最大の美味バーガーは、ダブルクォーターパウンダー・チーズだと書いた。マクドナルドはクォーターパウンダーをもっと積極的にアピールしなさいと。するとそれで呪いがかかったのかどうか知らないが、日本マクドナルド社は、クォーターパウンダー・チーズと、ダブルクォーターパウンダー・チーズの2メニューをレギュラーメニューから廃止するという電撃的な発表を行った。

butao.hatenadiary.com

日本マクドナルド社に裏切られるのはこれで何度目だろうか。日本マクドナルド史上コスパ最高傑作といわれたマックポークが廃止された時も頭がクラクラしたし、満を持して本国アメリカのメニューから導入されたマックダブル(ダブルチーズバーガーからチーズを一枚抜いただけなのに190円という神がかりバーガー)がいきなり抹消の憂き目に遭わされた時も怒りを覚えて二度とマクドナルドに行くものかと思ったものだ。近年で良かった展開といえば、やはりアメリカメニューから導入されたビッグブレックファストの発売くらいだろうか。内容はしょぼかったけれど。

 

そして今回のクォーターパウンダーチーズ兄弟のリストラ。単品で520円もするハンバーガーは500円の壁が高すぎて受け入れられないとかいう理由だそうだが、本当のところはわからない。抜けたクォーターパウンダーの代わりに新たに登場したグランというバーガーは、一番高いグランクラブハウスで490円という価格設定だから、500円の壁を意識しているのは確かみたいだ。

www.itmedia.co.jp

 

じゃあその新しく登場したグランクラブハウスとやらは、ダブルクォーターパウンダー・チーズの520円に対して、どれほどのお得感を演出したというのだろうか。もちろん気になって自腹で試食するわけだ。

 

酷かった。グランクラブハウスなんてご大層な名前がついていたが、ダブルクォーターパウンダー・チーズとは比較するのも悲しくなるくらいの、ちっぽけでちんけなバーガーだった。たった30円を安くしただけで、ここまで物量に差をつけられなきゃならんのだろうか。使われていたハンバーグは、クォーターパウンダー1枚のサイズにも遠く及ばない。

 

「おいおい、たった30円安いだけで正気か!ダブルクォーターパウンダー・チーズは、クォーターパウンダーが2枚も使われていたんだぞ!パンからはみ出る大きさだったんだぞ!どうしてこうなったんだ!」と頭の中で江原正士声の面白黒人が叫んでいた。500円の壁がどうのこうのといっていたくせに、廃止したダブルクォーターパウンダー・チーズのコスパの良さを、改めて痛感させるバーガーを投入してどうするのかと。

 

このグランシリーズの自慢は、ハンバーグと、パンにあるという。だからボリュームの無さは我慢しろいうことらしい。これはつまり、従来からあるメニューのハンバーグとパンの質には自信が無いというメッセージである。従来からあるハンバーガーが大好きで、わざわざマクドナルドに足を運んでいた客は、どんな顔をして食べれば良いのだろうか。

 

肝心の質が自慢のグランのハンバーグの味だけど、なんだかはっきりせずぼやけたものだ。よく言えば上品な味のハンバーガーともいえる。そういえばモスバーガーなどで使われているハンバーグに近いような気がする。グランのパンは、もっちりとしていて、噛みごたえがあり、これはフレッシュネスバーガーかなんかのパンに似ている気がする。

 

味としては悪くは無い。モスバーガーとフレッシュネスバーガーの中間みたいな味だから、まずいハンバーガーではありえないだろう。490円という価格も、モスバーガーやフレッシュネスバーガーの価格帯からいえば、妥当なラインを出してきたのではないか。

 

しかしだ。最大の問題は「なんでマクドナルドまで足を運んで、モスバーガーやフレッシュネスバーガーのまがい物を注文しなきゃならないのか」ということ。しかも、モスバーガーやフレッシュネスバーガーと同じような金額を出して、だ。だったらモスバーガーか、フレッシュネスバーガーに行くだろう。常識で考えれば。

 

マクドの経営陣の中にはこんな歪んだ考えが蔓延しているのかもしれない。

「マクドナルドの店舗数は、モスバーガーやフレッシュネスバーガーを遥かに凌ぐ。だったら、マクドでモスバーガーやフレッシュネスバーガーが食べれたら最強なんじゃないか?」

 

たしかにマクドナルドの店舗数2898という数字は、1359店舗のモスバーガーや、158店舗しかないフレッシュネスバーガーを大きく上回っている。そりゃ2倍以上の店舗数を誇るマクドナルドで、モスやフレッシュネスみたいなハンバーガーが食べれるなら利便性は高いようにも思う。しかし何かが間違っているような気もする。

 

ここで結論を急ぐのも良いけれど、ちょっと深呼吸して、あらためて数字のいろいろのことを確認しておきたい。

 

とりあえず大事なのは、マクドナルドの売上高についてだ。2012年の2947億1000万円から、回復基調にはあるもの2016年は2266億4600万円になってしまった。この4年で700億近い売上を失っており、いってみればかなり低迷していると言えよう。一般的に流布されている「マクドナルドが苦境に立たされている」というイメージは概ねでいえば正しい。

 

一方で業界第二位のシェアで、マクドナルドと常に対比されるライバルともいえるモスバーガーは、2012年に626億7200万円だったのが、2016年には711億1300万円と推移している。かなり堅調に成長しているとは言える。「モスは支持されている」という印象は間違ってはいない。

 

他のハンバーガーチェーンである、ロッテリアやバーガーキング(どちらも経営はロッテ)や、フレッシュネスバーガーなんていうのはそれよりずっと以下の存在なので、ここではあまり考慮にいれなくて良さそう。ずっと以下の存在だということだけ頭に入れておけば十分だ。

 

さて「マクドナルドが4年で失った売上の700億円はどこへ行ったか?」という問題であるが、上記の数字を見ても、モスバーガーはたった100億しか売上を伸ばしていないから、仮にマクドの客がモスバーガーに流れたといったって、たかが知れている割合だと推測する。

 

そもそもマクドが失った売上だけで、モス全体の売上に匹敵する金額なのであるから、そんなことが起きていたとしたら、いきなりモスの売上が倍増していたり、バーガーキングなりフレッシュネスバーガーなりが、モスに匹敵するかそれを凌ぐ売上で業界2位に躍進するとかいった異常事態になっているはずだ。しかし依然として2位の位置にいるのはモスだし、他のバーガーが好調だったとしても、金額としてはマクドが失った売上には遠く及ばないだろう。だいいち店舗数が違いすぎるのだから当然だ。

 

だとすれば考えられるのは、マクドのかつての売上は、同業他社のハンバーガーチェーンに奪われたというより、幅広い意味での様々な外食産業に奪われたのか、外食産業全体の動向の影響を含んでいるのかのどちらかであろうということ。おそらく両方の理由によって売上が減じたのであって、同業他社への客の流出というのはそれほど大きな要因とはいえないということだ。そもそも、店舗数だってどんどん減らしている。この4年間だけでも10%は減っているのだ。700億円のかなりの割合のところが店舗数減による影響ではなかろうか。

 

大事なことなので確認しておくが、2017年のこの時点ではマクドナルドは日本最大のハンバーガーチェーンであり、その売上は圧倒的ともいえるものだ。それがどれほど圧倒的かというと、2015年度の外食産業ランキングでも第4位に位置しており、マクドよりも売上があったのは、すき家のゼンショーと、ガストのすかいらーくと、甘太郎や贔屓屋のコロワイドグループしかない。売上トップ10は1000億円以上の売上の企業で占められており、マクドナルドのたかが三分の一程度の売上高しかないモスフードサービスなんかが食い込む余地はどこにもない。

 

ものすごく大雑把な分析をすれば、マクドナルドはモスバーガーの3倍の顧客がいるということにもなる。マクドの店舗数が、モスバーガーの3倍近い数で、売上も3倍くらいであるし、当たらずといえども遠からず、妥当な推測といえるのではないか。

 

さて、日々マクドナルドに足を運んでいる、モスバーガーの3倍くらいはいるであろう顧客たちは、なぜマクドナルドに足を運んでいるのだろうか。近くにモスバーガーが無いから仕方なくマクドナルドに行っているのだろうか。そんなわけがあるまい。本当にそうだったら、モスバーガーは今すぐ店舗を3倍に増やした方が良いということになる。

 

モスバーガーの3倍もの人間が、マクドナルドに足を運んでハンバーガーを食べ続ける最大の理由は、単純にマクドナルドが好きだからだ。店が多くて便利だからマクドナルドを食べるのでも、モスバーガーが高くて買えないからマクドナルドで我慢しているわけでもなく、単にマクドナルドの味とブランドが好きなのだ。単に安くお腹を満たしたいというだけなら、今どきスーパーでもコンビニでもハンバーガーは売っている。というか、ハンバーガーじゃなくても良い。立ち食いうどんでもなんでもある。

 

もし、マクドナルドの顧客のうちのかなりの割合が、実はモスバーガーが好きなんだとかいう事実があるのなら、モスバーガーが近くにある地域の店舗はぜんぶ潰れているはずだ。そしてモスバーガーは長蛇の列になっているに違いない。しかしそんな光景は見たことがない。

 

だからマクドナルドの経営陣がするべきことは、マクドナルドの味と雰囲気が好きな顧客を、十分に満足させるサービスを提供し続けることではないか。もともとマクドが好きな人間に、もうちょっとマクドを利用する回数を増やそうと思うようなサービスだ。最初からマクドを毛嫌いして、モスバーガーなどを利用していた層に、マクドに来てもらうようなサービスなんかしてもしょうがない。

 

しかしどうも、日本マクドナルドの経営陣は、よりにもよってマクドナルドのハンバーガーの味と雰囲気が大嫌いらしい。モスバーガーの3倍くらいの顧客が、マクドナルドのハンバーガーの味を求めてやってくる現実に我慢が出来ないとしか思えない。

 

2年くらい前だったか。新商品のハンバーガーのプロモーションのCMを見た時に唖然としていた。どんなハンバーガーか忘れたけど、ちょっと高級路線を狙ったやつだった。CMではそれを試食したテスターたちが口々に「美味しい!」「マクドナルドじゃないみたい!」とか言うのだ。じゃあ今のマクドナルドに満足しているファンは「ハンバーガーの味がわかってない奴ら」ということか。

 

モスバーガーとか他のハンバーガーが好きな人が、マクドナルドのハンバーガーの味をくさすというケースはいくらでもある。そんなもん、味の好みは人それぞれだから仕方がない話だ。マクドナルドの味が気に入らないのなら利用しなければ良い。

 

僕はマクドナルドの味が世界最強というつもりはない。場合によってはバーガーキングのワッパーの方が好きだと常々言っているし、世界にはいくらでも美味しいハンバーガーがあるに違いない。それでもマクドナルドに行く理由はマクドナルドの味を求めて行っているのだ。だからマクドナルドの味をとやかく言う人間なんかほっておくにこしたことはないと思っている。

 

しかしだ。よりにもよっってマクドナルドを経営している会社自体が、自分たちの商品の味やブランドを支持しているファンをこけにするのだ。しかもそのファンの数というのは、外食産業でもトップ5には確実に入るであろう多数派であるにもかかわらず喧嘩上等。こんなビジネスの方針は、革命的にも程がある。

 

なんか思い出しただけで腹たってきたので、そのプロモーションのハンバーガーがどんなやつだったか色々と検索していたら、わりにすぐに出てきた。そのバーガーとは、クラブハウスバーガー・ビーフというやつとクラブハウスバーガー・チキンというやつだった。ぜんぜん意識はしていなかったが、どうも今回のグラン・クラブハウスなどの前身となったバーガーだったようだ。だからグランのプロモーションも前回を踏襲して「マクド嫌いに褒められるバーガー」というのを前面に押し出しているそうだ。経営陣の脳みそがモスバーガーのソースまみれになっているとしか思えない。

 

別にモスバーガーやフレッシュネスバーガーの味が悪いと言いたいわけではない。ただ、マクドナルドの味のファンは異様に多いという事実があるだけだ。多いから偉いとは思わないけれど、多数いるお得意様に喧嘩を売って、少数派である非顧客に媚びを売るというのは商売的には損しか無いと思う。何を考えているのかという話だ。

 

今のマクドナルドの経営陣は、お金儲けよりも「マクドナルドじゃない味のバーガーを普及させる」「マクドナルドの味は抹殺する」ということに情熱を燃やしているようにしか思えない。売れているAppleIIを殺してまでMacintoshの売り込みに全力を傾けたスティーブ・ジョブズかよと思う。もっとも、彼らの理想とするバーガーは、自分らのブランドの三分の一くらいしか売れていない競合店の味に近かったりする。自分たちならもっとたくさん売れると思っているのだろうか。

 

モスバーガーやフレッシュネスバーガーとマクドナルドが並んで営業していたら、僕は迷わずマクドナルドに行くくらいにはマクドナルドを支持している。何度もいうがダブルクォーターパウンダー・チーズは、マクドナルドを超えたマクドナルドというべき傑作バーガーだった。バーガーキングくらいのボリュームがあるのに、間違いなくマクドナルドの味わいだった。しかしグランのどこにマクドナルドっぽさがあるんだろうか?パンも、ハンバーグも、値段も、マクドナルド感ゼロ。マクドナルドっぽくない味というコンセプトで作られたのだから仕方がないが。

 

グランの味がまずいとは別に言わない。味はフレッシュネスバーガーとモスバーガーの合いの子みたいなもんだからぶっちゃけ美味い。でもマクドナルドでこれを食わされたって困る。そんなのが食いたいなら、最初からモスバーガーなどに頻繁に足を運んでいたはずだ。でも我々はモスバーガーじゃなくてマクドナルドを選んだということだ。べつにマクドナルドがマクドナルドらしくないバーガーに挑戦するなとかいう意味じゃない。ただ、現状のマクドナルドに、われわれ顧客が求めているものは、少なくともきっちりと提供して欲しいと思っているだけだ。

 

はっきりいって、クォーターパウンダーを殺すみたいな真似をして登場してきたグランに対する印象は最悪である。だから、味のクオリティとかではなく、コンセプトや好みなど総合的に加味したうえで「日本マクドナルド史上で最大の駄バーガー」と呼ばせてもらいたい。いちおう3種類とも食べたが二度と食べたくない。気分が悪い。

 

マクドファンというのは、何度痛い目にあわされても、やはりマクドの事が気になって、しばらくするとのこのこと会いに行ってしまう。世間によくいるDV被害にあっている女性に例えられがちである。またはスティーブ・ジョブズの相棒だったスティーブ・ウォズニアックみたいなもんだ。(繰り返しこういうたとえが出てくるのは、最近映画『スティーブ・ジョブズ』を何度も観たから)

スティーブ・ジョブズ (吹替版)

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マクドナルドファンというのは、赤と黄色のmの字の看板を見てしまうと、ちょっと心配になって定期的にふらふらと覗いてしまう。そしてよせば良いのにグランなんていう新作の駄バーガーを試してしまう哀しい生物だ。

 

割引クーポン券が誤差クーポン券と化したときも、マックフルーリーが小さくてしょぼくなったときも、マックポーク販売終了のときも、メニュー表が改悪されて見辛くなったときも、マックダブルが抹消されたときもそうだった。そして今回のクォーターパウンダー終了騒動も。なんど打ちのめされても、そのたびに起き上がりmの看板を目指してしまうのだ。

 

マクドナルド経営陣は、毎年マクドナルドに2000億円以上の売上を提供している大勢の、そして長年の、マクドナルドファンの気持ちに少しは忖度していただきたい。それがマクドナルド再生の最短の道ではないか。なんで今いる客を大切にせず、それどころかバカにさえして、より少ないパイを開拓しようとするのか理解に苦しむ。

 

日本マクドナルド経営陣が、マクドナルドじゃない味のハンバーガー屋を目指したいというならば別に止めはしない。700億円くらいの売上のよりコンパクトな商売に鞍替えしたいというならそれはそれで一つの道かもしれない。でも、それだったらマクドナルドの看板は返上していただきたい。マクドナルドはマクドナルドの味が好きな人が経営するべきではないか。マクドナルドのフランチャイズをやりたい会社はいくらでもありそうだ。もしかしたらモスフードサービスとか、ロッテが、マクドナルドのフランチャイズ権を買ってくれるかもしれない。

 

文庫 ファストフードが世界を食いつくす (草思社文庫)

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 最高のマクドナルド映画のひとつとも言える名作。

いまさら『キングコング西野絵本無料事件』を蒸し返して総括してみる

ちょっと前、キングコング西野が自分がプロデュースした絵本を、無料公開したことでものすごく叩かれていた。本屋さんでは2000円で販売している絵本だけど、買えない人のために、ネット上では内容を無料で読めるようにしますと。言ってみればただそれだけのことだけだ。マクドナルドがコーヒーの無料券を配るみたいなありふれた話である。ところがネット民(の一部)からは「キングコング西野は絵描きの仕事を奪う気か!」などと火の手があがる。はては、声優の某との直接の言い合いにまで発展したりした。(和解したんだろうか?)

 

僕はキングコング西野については全く興味の無い人間で、彼のプロデュースした絵本についても「無料でも読みたくない」というスタンスだ。なにしろネット空間には「無料のコンテンツ」が無限といっても良いほど転がっている。言ってみればこういったブログだって「無料のコンテンツ」のひとつだし、YouTubeなんか時間がいくらあっても全部みるなんか不可能だ。そんなかで、全く興味のないキングコング西野の絵本に割けるリソースは一切ない。なんか面白そうなニュースだなあと、彼の無料宣言のブログ記事だけを読ませていただいたが、それだけでもかなり付き合った方だといえる。アクセスにも貢献したはずで、なんぼかお礼を言ってもらいたいくらいのもんだ。いや、これは嘘だけど。

 

それでもわざわざ自分のブログで記事にしている理由は、キングコング西野という存在に興味があるわけではなくて、彼を叩く界隈についてものすごく興味を惹かれたからだ。というか、以前からそういう界隈について、感じる事があったという方が正確か。

 

キングコング西野を叩いている界隈というのは、いわゆる絵師と呼ばれるイラストレーターやら、マンガやら、アニメやら、そういった方面に携わっているか、またはそれらプロ・アマ問わずのクリエイターを信奉している人たちを示している。そういう人たちがすごく怒っていた。なんでそんなに怒るんだというほどに。

 

彼らの最初の主張は「無料公開したら、キングコング西野の絵本制作に携わったクリエイターたちの取り分はどうなるんだ。無責任だ」というのと、「絵本を無料にされたら、他のマンガとか、イラストとか、絵本とかが売れなくなる。自分勝手だ」というものだった。

 

なるほどと一瞬そう思わないでもないけど、ちょっと立ち止まって考えてみればおかしなところがある。

 

キングコング西野は多くのクリエーターを動員して絵本を制作したようだ。映画監督みたいな立場でクオリティの高い絵本を作ったとかなんとかそういう趣旨らしい。クオリティが高いかどうかはこの際はどうでもよくて、動員されたクリエイターたちのギャラはきちんと支払っていると思われる。思うだけでもしかしたら支払っていない可能性もそりゃある。だから「西野が絵本を無料にしたせいで俺のギャラが未払いになった!」とスタッフの誰かが怒っているという話なら「なるほど酷い話だ」となるけれど、今のところはそのような話は漏れ伝わっていない。つまり部外者が「クリエイターの取り分が!」とかいうのは完全に憶測である。「Googleを無料で使わせてGoogle社員の給料はどうするんだ!」とか怒るのと同じくらいトンチンカンな言いがかり。Google社員の給料なんて世界的にみても、かなり優遇されているのは誰だって知っている。

 

絵本が売れないとかイラストが売れないという話にしても根拠がない。キングコング西野の絵本を無料公開して、売れなくなる可能性のものがあるとすれば、それはキングコング西野の絵本そのものに他ならない。「おっ、キングコング西野の絵本が無料公開されているのか!じゃあ、お金を出して『三匹やぎのがらがらどん』を買うのはやめておくか…」なんてことになるわけがない。絶対にない。「キングコング西野の絵本が無料公開されているなら、キングコング西野の絵本を買うのはよそう…」これが普通の思考だろう。「『三匹やぎのがらがらどん』とキングコング西野の絵本どちらを買うか迷ってたけど、キングコング西野の本は無料で読めるなら、『三匹やぎのがらがらどん』を全力で購入しよう」こういうケースもあるだろう。しかし無料公開したら、宣伝効果かなんか知らんが余計に売れたそうだ。良かったねとしか言いようがない。(売れなくなったら面白かったんだけど)

 

三びきのやぎのがらがらどん (世界傑作絵本シリーズ)

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 そもそもおかしいのが、叩いている側の人たちのうちのかなりの人たちが、自分のイラストだのマンガだのを、ネット上で無料公開していたりするのだ。この矛盾を突っ込まれるのを事前に予測して予防線をはっていたのか「創作物をネットで無料公開している人も多いが、あれは一見無料だけど、アフィリエイト広告などで別の方法でお金を得るモデルがあるから良いんだよ」などといけしゃあしゃあと言っている人もいた。何かの冗談かと思った。さすがにこれは釣りの可能性もある。ちなみに、キングコング西野の絵本の無料公開のページは、アフィリエイトの広告バナーまみれである。そらそうだろう。

 

かように、キングコング西野に対する最初の批判は、かぎりなく根拠の薄いものだった。だから僕も「なんでこんなわけわからん言いがかりで他人を叩くのかなー」と全く賛同できなかったわけだけど、叩かれた当人であるキングコング西野自信もブログ上で反論を展開。もともと根拠のない話だっただけに、理屈勝負になると完全に否定派の分が悪くなってしまった。そうすると彼らが次に展開したのは感情論だった。曰く「キングコング西野はクリエイターの仕事を馬鹿にしている」という。「2000円出さないと読まさないのはお金の奴隷である(とブログで彼は自分自身のことについて表現していた)という発言は、それで商売しているクリエイターを馬鹿にしとる」というわけだ。「汗水たらして働く人を馬鹿にしている」とまで言って、人々の情に訴えかける人までいた。

 

ここまでしてキングコング西野に対して怒りたい集団というのは、一体なんなんだろうと考えてしまった。キングコング西野は本当に労働者を馬鹿にしているのだろうか。「俺は才能でむちゃくちゃ儲けてるのに、小銭拾ってあくせく働いてる奴らは頭足りへんなー」とか裏で言ってるんだろうか。あるいは言ってるのかもしれないが、そんなことは第三者には知りようがないことだ。少なくとも性格が良い人ではないだろうとは思う。あんまりよく知らん僕でも「絶対に友達になれへん奴やな」くらいはオーラとして感じる。しかしキングコング西野は僕の雇い主とかではない。キングコング西野と取引しているわけでもない。キングコング西野の商品を買う気は今後も無い。ましてや、キングコング西野が都道府県の最低時給を決める立場にあるわけでもない。だからキングコング西野と僕との利害関係というのは完全にゼロだ。「自分とは無関係の、単なる嫌味な人間」でしかない。

 

キングコング西野に馬鹿にされた!」と怒っている人のなかには、キングコング西野の絵本を買ってしまった人間も含まれる可能性も高い。だったら自分が買った本の価値が下がった(ように思った)事に対しては怒る権利はあると思う。キングコング西野というブランドが気に食わなくなったのなら、本を破り捨てて二度と付き合わないようにするなり、返金要求するなり(認められるかどうかはさておき)、顧客という立場の範囲内で好きにしたら良いと思う。

 

でも怒っている人らが振りかざしていた理由を考えると、どうもそうではない。本を買って損したとか言ってる人はほとんどいなくて、あくまで「社会の道義に反した」みたいなことが重要のようだ。「クリエイター道にも悖る」というわけだ。

 

この「道」ってのは怖い。日本人はスポーツや文化など、なにかにつけて「道」とか言い出しがちだ。ベースボールと書くと単なるスポーツだけど、野球道などというとたちまち息苦しい何かに変化してしまう。審議委員会が出てきて「品格が足りない…」などと言われて、実力や成績は申し分ないにもかかわらず横綱昇格を見送られそうな恐怖がある。

 

 キングコング西野の絵本が売れているというなら、つまりスポーツに例えるならばそれなりに好成績を残した名選手みたいなことになるのかもしれない。だったら名選手でも良いのだけど「品格が足りない」とかいう話にもっていけば、動かしがたいはずの成績にだってケチをつけられる。クリエイターを「道」にしたい勢はこれがやりたかったのだろうか。

 

自分がやっている競技で、自分よりはるか上の成績を挙げた奴がいたとしたら、悔しいけど名選手と認めざるを得ない。でもあいつは嫌な奴だ。できるならば認めたくない。じゃああいつがズルというかルール違反したという事にすればどうだろうか。

 

それが最初の批判の動機だろう。しかしそれが通らないとわかると、「道」的なものを持ち出して品格が足りないと言ってみる。そういうことだと解釈すれば怒っていた人の言い分にも納得がいく。

 

でも、そんな回りくどいやり方が必要だったのだろうか。自分より良い成績を挙げた人の性格が気に入らないからと、いちいち理由をつけて叩くというのはあまりにも浅ましい。絶対にかかわらない他人の性格なんて、本来はどうでも良いことだったりする。

 

それに、ここまで、成績=売上という例え話を展開してきて、誠に申し訳ないのだけど、文化的行為とスポーツの試合というのは当たり前だけどぜんぜん別物である。ある文化的行為から発生した売上を、スポーツのスコアに例えるのは、なるほどひとつの考え方ではあるけれど、それは同じ価値観を有している人の間だけで通じるものだ。だいたいスポーツ同士にしたって、野球とバスケットボールでは1点の意味が違う。野球同士であっても大リーグとプロ野球と草野球の成績を混ぜて比較することなど不可能だ。同一ルールの同一リーグという価値観の共有が絶対に必要なのだ。

 

例えばキングコング西野の絵本がいくら売れたとて、僕はキングコング西野の絵本には全く興味がもてない。売上なんてものはしょせん売上にすぎないもので、文化的行為の優劣を決めるものではないという事実を知っているからだ。

 

だけどビジネスとしてその分野に関わっている人間からしたら、悔しくて腸が煮えくり返る思いがあるかもしれない。僕が売れない絵描きかなんかで、それも絵を描いてるだけで満足というような人間でもなくて、絵の分野で人気になりたいとかいう野心があったとしたら、キングコング西野の小賢しいやり方には相当の嫉妬心をもつと思う。

 

「なんであんなアイデアだけの糞絵本が売れて、俺が一生懸命描いた絵が全く見向きされないんだ!」しかも涼しい顔で「お金には興味ありませんよ~」みたいな事まで言ってのける。イラストの仕事をお金や人気に換えたくて仕方なくて泥臭く立ち回っている自分が本当にバカなんじゃないかなと思えてくるかもしれない。涼しい顔の下にドヤ顔が見え隠れするようなキングコング西野みたいなのは、どうしようもなくイラつく存在だ。

 

「俺の出来ない事を簡単そうにやりやがって!ムカつく!お前なんか死んでまえ!」

これが素直にいえたら話は簡単だった。

 

「俺は俺以外の成功してる奴がにくい。いつかぶっ潰してやるからな!」

穏やかではないが、屈託なくこう発言出来る方がまだ健全ということもあるのだ。

 

「俺にはあんな真似は出来ないよ。だから勝負する気は最初から無いから」

これでも良い。穏やかである。

 

「俺が認められないのはあいつのような奴がいるからでは?」

だけどこれは危険。実にダメな考えだ。

 

キングコング西野が雇い主かなんかで、自分が描いた絵のギャラを未払いとかだったら、たしかに悪いのはキングコング西野だから激しく怒らないといかんわけだが、キングコング西野と自分の活動とは全くつながってないのは明白なのに、「あいつが俺の足を引っ張っている」とナチュラルに思えちゃうとしたら、相当ヤバイところにはまり込んでいるといえる。

 

そもそも絵描きとか物書きとか、楽器演奏や各種スポーツなど、なんでも良いけれど、文化的行為というのはお金にならないのが前提としてある。どこかの企業の社員としてそれらの行為をする場合も多いから、そういった時は規定の賃金が支払われなくてはならないのだけれども、フリーでやっている限りは単なる個人事業主である。依頼や契約がなければ1円にもならないのが個人事業主というものだ。こんなこと当たり前の話なのに、なんかわかってない人をよく見かけるのが不思議だ。

 

どんな手間隙かけた商品でも、どんな名人芸だったとしても、そこに需要が無ければ売れないのだ。2017年の時代にどれほど品質が良くても、VHS規格のテープなんかたいして売れないのと同じで、売れないのは製作者の頑張りが足りないのでも、誰かが足を引っ張っているわけでもない。商売というのは単純に需要と供給でしかないのだ。

 

100時間かけて制作した絵に1000円の値段をつけられたらどうするのか。時給に換算すれば10円である。でも0円にしかならないこともあると考えればたいしたもんだという考えもあるし、「そんな値段じゃ絶対に売らない!」という自由も保証されている。もちろん依頼された仕事をこなしたのに、ギャラ未払いなんていう事件は有りうることで、そういうのはどんどん怒った方が良い。単なる契約違反だから。

 

だけど自分が好きで制作している商品は好きで勝手に作っているわけだから、売れても売れなくてもしょうがないのである。売れようと思って作ったとしても売れないこともある。それだけだ。作ったものが悪かったかどうかとは関係がない。

 

じゃあ作ったものの良し悪しというのを誰が決めるのかというと、厳しいことをいうようだけど自分で決めるしか無い。全世界の全員が悪いといっても、自分が素晴らしいものを作ったという自負のある人なら、それで終わり。なにも問題がない。

 

でもなかなかこのような強固な意志力の持ち主というのは少ないと思うので、いくらかは他人の評価を頼りに自信を深めていくという方向性に持っていくのことが多いと思う。問題は、それがどれくらいの評価なら満足かということで、10人くらいに褒められたら満足な人もいれば、100人1000人でも物足りないという人もいるだろう。反対に尊敬する(または愛する)「あの人」にさえ認めて貰えれば…というセカイ系っぽい人もいる。

 

ところがお金だけが評価の尺度である人というのはやっかいだ。金銭的成功を達成するまで満たされないということになる。前述したとおり、文化的行為はお金にならない。それを成し遂げるためには創作的なスキルよりも、何らかの商売的な才能または時流に乗っているかなどの運といった要素が求められてくるわけだ。キングコング西野は傍から見ていても悔しいくらいに商売の才能と運を持っているように思える。金銭的成功を達成する要件を満たしまくっているわけだ。

 

もし商才や運に恵まれない人が金銭的成功を夢見ていたとしたら悲劇という他にない。商才や運というものは少しずつ培って行くことも可能だけど、そういう人に限ってあまりそっち方面には興味のない職人気質だったりするから余計に哀しい。「俺が評価されないのは世界が間違っているからでは?」とか思ってしまいがちだ。

 

そのようなわけで、キングコング西野の無料絵本事件は、意識と現実の歯車のズレが生み出した一瞬の花火だったのかなという結論になった。今はまったく誰も騒いでいないのがまた余計に虚しい。僕に出来るのはこうして蒸し返してみることくらいだ。

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土井善晴の「一汁一菜でよいという提案」の革命に衝撃を受ける

土井善晴の「一汁一菜でよいという提案」が評判だ。革新的だということだ。何がどう革命なのか知りたくなった。

 

土井善晴は「洗い米」という美味しいご飯の炊き方を提唱してくれたので、個人的に一目置いている料理人ではある。(ただし、料理人という世界に対する造詣は「無」に等しいけど…)

 

この「洗い米」とは簡単なもので、お米を洗ったらザルに上げて一時間放置。その後にお米と同じ量の水をいれて、炊飯器の急速炊きモードで炊く。と、これだけである。

 

炊飯の仕方ひとつとっても派閥がいろいろあって、ザルに上げず水で一時間浸す派とか、水で浸してからザルに上げる派とか、貝殻を入れる派とか、プロの間でも激しく意見がわかれていたりする。土井善晴の「洗い米」が究極の答えかどうかは知らないが、わりに安定して粒のはっきりしたご飯に仕上がる。自分は所謂「ベチャ飯」が大嫌いなので、ベチャ飯になりにくい洗い米メソッドは救世主に思えた。

一汁一菜でよいという提案

一汁一菜でよいという提案

 

そんな土井善晴が提唱している「革命的」な「一汁一菜」とはどういう事かというと、読んで時のごとく「料理なんてものは、ご飯と味噌汁と何か一品くらいのもんで良いんだよ」ということらしい。これのどこが革命的なのか。しかし本のレビューなど読むと大絶賛。土井先生のおかげで救われたとまで書かれている。大げさか。

 

いろいろ意見を読んでみると、どうやら、世間の主婦とかは、食事のたびに何品も何品も作っていたそうである。「ご飯と味噌汁と、何か…漬物とかでも良いので一品」みたいな献立で作ると、手抜きとみなされる家庭があると。「一汁三菜」みたいな事がよく言われるが、ご飯と味噌汁にプラスして、あと3品くらい作っていたということだ。

 

本当か!?

 

にわかには信じられないところがあって、僕なんかの自分で料理する場合は、味噌汁なんて滅多に作らないし、例えば肉が食べたいなと思ったら豚バラを炒めて終わりとか。たまに、すき焼きなんかやってみたりもするが、それは材料費がかかって贅沢なだけであって一品は一品だ。他に何かを作ったりはしない。せいぜいご飯を炊くくらいのものだ。

 

あとは、焼きそばが食べたいとか、うどんが食べたいとか、そういう時はそれのみで十分なわけで、他におかずがあったりはしない。僕の母親の料理もそんな感覚だったので、食事なんてそんなもんだと思っていたし、とりたてて不満なぞ感じたことがない。

 

もちろん、おひたしとか、大根おろしとか、サラダとか、たまたま何品もある場合だってないわけではないれど、自分ではそれほどあれこれ食べたいというのが無い。かぼちゃを炊いたものを食べたいとなれば、それとご飯とか、そんな献立になったりする。

 

それこそ、ご飯と味噌汁と漬物だけとか、納豆とご飯と卵とか、そんなもので済ませてしまうことも多かった。決して少食とかではなくて、何杯かおかわりして食べれば良いと思っていた。

 

だいたい、外食をしても、品数が多いというのはコース料理とか、日本的な食堂の定食とか、食べ放題みたいなものだけだ。例えば餃子の王将に行ってランチだのディナーだのを食べる場合を考えてみよう。

 

そりゃ餃子3個と唐揚げ一個とミニチャーハンとラーメンみたいなスペシャルな定食もあるにはある。しかし基本形としては、酢豚とライスの組み合わせのような、シンプルな定食が源流にあったのではなかったか。

 

ラーメンみたいなものを食べにいく時に、餃子とか半チャーハンとか、ごちゃごちゃつけることも稀で、せいぜいラーメンライス止まりじゃなかろうか。みんなあれこれ付けたい派?いや、お腹が減っていたら大盛りチャーハンも付けちゃうか…とはなるかもしれないけれど…。

 

たしかにあれこれ付けたい時も多いかもしれない。せっかくの外食だし。白状すれば僕も餃子の王将では、スペシャルな定食を注文しがちだった。だって外食だから。スペシャルだから…。家ではシンプル・地味という「ケ」があってこそ、外食という「ハレ」があるんだ。

 

そんな感覚からしたら、スペシャルなハレの定食的なものを、毎度毎度の食事で考えていた家庭があるなんてことに驚愕を覚える。(わからないけど、そういう家庭は一日3食きっちり食べてそう…)

 

そんな面倒な事は今すぐやめて良いし、自分でも面倒と思いながら作っているなら絶対に考え直すべきだ。もちろん好きで好きで作ってるなら止めないが、別にみんながみんなそれを求めているわけじゃないのを知って欲しいのだ。僕みたいな感覚の人間も多いはず。ああ、そうか。だから、土井善晴の一汁一菜の提案は革命だったのか。

 

「一汁三菜という呪縛にとらわれた人々」が世の中には結構いるというのは新しい認識だった。土井善晴おそるべし。畏敬の念を込めて基本のメニューのレシピ本を買っておいた。たまに参考にして作ってみているが、さすがにプロのレシピだけあって美味い。

 

ちなみに「一汁三菜」という言葉は、武家の「本膳料理」という所謂コース料理が元になった考えらしい。なるほど。やはり庶民の普段の食事としては、いささか大仰すぎたわけだ。

土井善晴のレシピ100―料理がわかれば楽しくなる、おいしくなる

土井善晴のレシピ100―料理がわかれば楽しくなる、おいしくなる

 

tettyagi.hatenablog.com

タコの卵のてっちゃぎも一汁一菜で救われたようだ。良かった良かった。

 

「一汁一菜で良い」というのは、「一汁一菜にしろ!」ではないので。そのあたりは誤解なきよう関係者の皆様は御注意下さい。

沖縄のオスプレイ墜落事故で明確になった恐ろしい現実!

沖縄の海にオスプレイが墜落した。

 

オスプレイが墜落した。

 

オスプレイが墜落したのだ。

 

大事なことだから三回書いた。なんでこんな簡単な事実を三度も書かねばならないかというと、「オスプレイが墜落した」という単純な現実が伝わりにくくなっているからだ。恐ろしいことに。

www.yomiuri.co.jp

www.sankei.com

www3.nhk.or.jp

これはほんの一部だけど、読売、産経、毎日、朝日、NHKなどの主要メディアが、オスプレイの墜落を「着水」あるいは「不時着」と報道してしまっている。

 

headlines.yahoo.co.jp

www.nikkan-gendai.com

それに対して、墜落だと報道しているメディアは、琉球新報や、日刊ゲンダイなど、少数派になっている。

 

「何らかの理由により、オスプレイが墜落して、しかし幸いにも搭乗していた兵士たちに死人は出なかった」こういえば話は簡単だった。そこからオスプレイの安全性の議論になり、ひいては米軍基地のリスクという話までは発展できたのかもしれない。しかし「着水」だの「不時着」だのという単純な言葉のごまかしが、その手の議論を水際でシャットアウトしてしまう。

 

「あれは墜落じゃない」「不時着しただけだ」「墜落の定義をのべよ!」

 

主要メディアが言葉を変えてしまったせいで「オスプレイ墜落」という共通認識は成立していない。だからオスプレイの危険性を問う前に「墜落とは何ぞや?」という哲学的な議論を強いられてしまうわけだ。共通認識が違うのだから議論など成立するわけがない。不毛な水掛け論が延々と続きひたすら消耗するだけである。これこそが「墜落」という言葉を使わせなかった側の思惑だ。

 

かつて戦時中の大本営発表に「撤退」「退却」を「転進」と言い換えるというのがあった。それと同じだ。

 

ただの言葉の言い換えと侮ってはいけない。言葉のパワーとは恐ろしいのだ。見えてなかったものが見えるようになり、見えているものが見えなくなるのが「言葉」である。

 

事実「オスプレイ不時着」という報道があったせいで、意図的に海に「着水」したわけで、「オスプレイはコントロール下にあった」などという意見も堂々と飛び出している。「コントロール下にあった機体がバラバラになっていいのか?」などという素朴なつっこみはここでは通らない。言葉によって「オスプレイが墜落した世界」と「オスプレイが不時着した世界」は完全に切り分けられてしまったのだから。これが言葉のもつ魔力であるし、戦時中の日本が大本営発表に注力した理由でもある。そして現代でも同じことが繰り返されはじめている。

 

だから「オスプレイが不時着した世界」では、オスプレイがバラバラになっている事実でさえ「クラッシャブル構造だからわざと派手に壊れるようになっている」などという事実無根の説明さえも持ち出してしまう。そして在沖の海兵隊司令官に「海にコントロールして降りたんだから感謝しろ」とまで言われてしまう始末。「言葉」によって、見えているものも見えなくなってしまうとはまさにこういうことなのだ。

 

各メディアが「言葉」について、いちいち政府や米軍にお伺いを立てる時代が来てしまった。もしくは自主的に先回りして「言葉」を選んでいるのか。いずれにせよ、悔しいが大本営発表の時代がまた繰り返されるのだろう。それに従わない者は「左」とか言われてしまうようだ。

 

しかし現実は現実である。バラバラになったオスプレイは墜落したのであって、危険きわまりない代物にあることは変わりがないし、米軍基地がある限りは安全や安心はない。といっている間に、同じ日に別のオスプレイ胴体着陸していたというニュースが入ってきた。まるでマンガみたいだが、これが現実のようだ。

news.yahoo.co.jp

大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争 (幻冬舎新書)

大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争 (幻冬舎新書)

 

大本営発表」がいかにして形成されていったか、そして「言葉」がどのように人々の行動を縛っていったかを綿密な調査で浮き彫りにした力作。今の時代にこそ読みたい。 

「南京事件」を調査せよ

「南京事件」を調査せよ

 

真実を知りたい!ただただ真実を追求した男!清水記者のこの本を全国民に読んで欲しい。

 

butao.hatenadiary.com

 

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