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『「南京事件」を調査せよ』を読まずに死ねるか!

8月はあわや何も書かないで終わろうとしていたが去る25日に大変な本が刊行されたので紹介せずにはいられなくなった。8月はその他にももろもろ事件があり、もやもやした気持ちになっていたけれど、とりあえずこの一冊の感想にぶつけてみたい。それだけ昨今のいろいろの事柄が集約された本だったと思う。

 

その本とは清水潔『「南京事件」を調査せよ』だ。以前に紹介した『南京事件 兵士たちの遺言』というドキュメンタリー番組を制作するにあたって著者が調査した内容に、追加調査したことなどを交えて書籍化したものだ。あのすごい番組の制作の内幕をより詳しく紹介しているということだ。

 

番組の評価についてはこちらも参照のこと。

www.ntv.co.jp

 

そうなのだ。もてラジでもずっと推している清水記者の新刊だ。読まずには死ねない本だ。「またかよ!」とか言われそうだけど、みんなが清水記者の本を読むまで勧めるのをやめない。必要な本なのだ。とりわけ日本を生きる我々にとっては。だからこの期に及んでも知らない人は、まず『桶川ストーカー殺人事件』を読んで欲しい。何も言わず。何も前知識ももたず。

 

『桶川ストーカー殺人事件』はノンフィクションに属する本なので、実際に不幸な被害者もいるから不謹慎なことなのだが、あえて言わせてもらうと単純に面白い本だ。ミステリーものなどを好きな人はぜひ気軽に手にとってもらいたい。本当にあった話であって、とんでもないミステリーでもある。そして事件に挑むのは著者でもある清水記者だ。清水記者が事件をひたすら追いかけ、やがて警察も把握していないとんでもない真相にたどり着く。ぜんぶ本当のことだから驚愕する。こんな事が実際にありえるなんてという気持ちになる。

 

清水記者はまさに現代の名探偵といえる。ただしシャーロック・ホームズミス・マープルのように、1を聞いて100というように、ズバズバと事件の本質を言い当てる安楽椅子探偵ではない。靴をすり減らしながらあちこち訪ね歩き、司法の壁に阻まれたり、脅されたり、汗と泥にまみれながらも、不屈の意思で事実を積み上げていき、最後に真相にたどり着くというハード・ボイルド式の名探偵だ。

 

清水記者は『桶川ストーカー殺人事件』の後も、北関東連続幼女誘拐事件の調査に乗り出す。こちらも『殺人犯はそこにいる』という一冊にまとまっている。最近になって文庫版も出たので絶対に読んで欲しい。こちらでもたいへんな労力を払って、冤罪の男性も無実を晴らし、隠蔽された連続事件の真相にせまっている。なんどでもいうが、全部事実に即した内容であって、虚構のストーリーではない。しかしミステリー小説でもなかなかここまでのストーリーは作れないのではないかという興味深さで迫ってくる。

 

このように書くと、なんだか茶化したような物言いになってしまって心苦しい面もあるが、興味本位でも良いので、多くの人に読んで欲しいのでこういう紹介にしている。

 

清水記者がその著書で何度も何度も訴えているのは「発表報道」と「調査報道」の違いだ。

 

「発表報道」とは、警察が「○○○○について××××と記者会見で発表しました」というようなことを、ただただ記事としてまとめただけのことを言う。

 

それに対して「調査報道」というのは、記者が自分の意思で、自発的に見聞きしたことや、調査したことを報道することを指す。

 

現代の日本のマスメディアは、圧倒的に前者が多いということだ。記者が足を使って調べたことや、見聞きしたことを自分の頭で考えて記事にまとめたものよりも、いわゆる「公式発表」といったことが紙面の中心になっている。そしてそちらのほうが尊ばれる風潮にすらある。

 

記者クラブに加盟した大新聞による「公式発表」の前には、地方紙や週刊誌の「スッパ抜き記事」などは、「三流紙のたわ言であって、信ぴょう性に欠ける」などという目で見られ兼ねない。記者が労力を費やして調査した記事よりも、警察や政府の記者会見を、ただそのまま書き起こしただけの記事が尊ばれるなんて…。

 

これと似た現象が、かつて日本にもあった。戦時中の「大本営発表」というやつだ。

 

僕らが歴史の時間などに習ったことは「昔の日本人は大本営発表という根も葉もない情報を信じて戦争に協力してしまいました」という事だった。子供のころは「昔の人はバカだなぁ」などと思っていたもんだが、現代の人間は「大本営発表」を笑えるだろうか。現代で「大本営発表」などというと「根も葉もない公式情報」を揶揄する言葉として使われる事が多かったはずだが、気がつけば現代人も「大新聞の書き立てる公式発表」ばかり信じていたりする。「津波原発メルトダウンして危険ですよ」という話よりも「メルトダウンなんて起こっていない」という公式発表を重視したりしていた。当時だっていろいろの事を検証したり見聞きしたりして「日本は戦争に負けてる」と言っていた人もいたはずだ。しかし大半の人は「敵空母撃沈!」みたいな大本営発表の方が心地良かったのだろう。

 

清水記者の信条はあくまでも「真実が知りたい」ということだ。たとえそれが恐ろしい事であっても真実を追求する。警察がどう発表しようと関係がない。おかしな所があれば徹底的に調べてみる。その情熱と労力たるや頭がさがる。結果として桶川ストーカー殺人事件や、北関東連続幼女誘拐事件の真相に迫ることになった。もちろんその他の事件なども調査されていて、それらの活動の一端は『騙されてたまるか 調査報道の裏側』という新書にもいくつか紹介されている。興味をもった方はあわせて読んでいただけたらと思う。

 

前置きのようなものが長くなってしまったが本題は『「南京事件」を調査せよ』という本だ。タイトルにある「調査」とは、ここまでながなが説明してきた、「調査報道」的なスタンスでの調査を意味するということは言うまでもない。そして「南京事件」とカッコでくくられているのは、「いわゆる南京事件」といわれる「事件なのかどうなのかすら定かではない」というあやふやな事象すべてを調査してやる!という清水記者の決意の現れであろう。相手はなにしろ80年ちかく前の「歴史」になりかけているものだ。そして被害者は30万人とも40万人ともいわれている。もしくはゼロとすらも言われている。途方も無い調査に思える。

 

ちなみに「南京大虐殺」についての日本政府の「公式見解」はこうなる。

外務省のHPからの引用だ。

日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/

もし「発表報道」として「南京事件」を取り扱うとするならば、これがそのまま記事になるということだろう。

 

つまり「そりゃ戦争だから民間人に迷惑があったことは否定することは不可能だけど、人数とかはまったくわからないし、1人かもしれないし40万人かもしれないけど、証拠もないし今さら特定することも困難ですよ」というわけだ。

 

被害者の人数すら特定されていない事件……。そんな無責任なものがあって良いのだろうか。

 

『桶川ストーカー殺人事件』では殺害された1人の女子大生の謎を清水記者が調査した。

 

『殺人犯はそこにいる』では5人の幼女の失踪事件を清水記者が調査した。

 

しかし南京の問題に関しては、そもそもの事件がどんなものであったのか、被害者が何人いるのかすらぼやけてしまっている。仮にも事件だといっているものに、諸説あってよくわからないなんてことがあっていいのだろうか。挙句には南京大虐殺なんてものは無かったという話まで飛び出してくる。

 

肝心の事件の経緯にしたって、戦後のどさくさでほとんどの史料が「意図的に」処分されてしまっている(やましいことが満載だったという推測しか出来ない)し、ものすごく時間が経ってしまったことによって、当時のことを知るものもほとんど生き残ってはいない。

 

じゃあ真相を知るためにはどうするのか。実は処分されずに現代まで残っていた史料があったのだ。それは南京攻略戦に従軍した兵士たちの手帳の記録や日記だった。そういう手帳や日記をたくさん集めて保管していた人が福島県にいたのだった。当事者たちの記録。まさに一次史料と呼べる代物だった。これらの記録の裏付けがあるのかという調査が始まる。日付から逆算して、当時そういう事が起こり得たのかとか、複数の記録や他の日記帳、証言などと照らし合わせながら、相互の記述や証言に矛盾点が無いかなどを検証していく。中国まで訪れて聞き込みや現地調査もしていく。とんでもなく骨の折れる作業を清水記者はやっていく。

 

その結果として、南京で行われたとてつもなくおぞましい真実がわかってくる。背筋が凍るような恐ろしい話だった。

 

南京事件」の調査についての中心的な成果は先に紹介したドキュメンタリーでもだいたいやっていたのでそちらを見てもらうのが先かもしれないが、こちらの書籍版ではより詳しく歴史的な背景が説明されている。現代の話からはじまって、南京事件の話、南京事件の後の話、そして南京事件より以前にあったこと。日本では知られていない「旅順虐殺事件」なんかの話も出てくる。それなりに知名度があるはずの重慶爆撃にしたって、実はちゃんと習ったことのある日本人は少ないのではないか。歴史はその一部分だけ切り取っても不可解なものでしか無かったりするが、その前を知れば「さもありなん」と合点がいったりもする。教科書では唐突に「南京大虐殺がありまして…非難されてまして…」とか出てくるから納得できないのもムリはない。

 

本書はそのたくみな構成によって、いやでも歴史の連続性というものを感じ取れるようになっている力作だ。70年、80年前にあった問題は、それ以前にもあった問題でもあるし、今現在を生きる我々にも起こっている問題だったりもする。自分の親の親の問題であり、親の問題であり、自分自身にもつきつけられた問題でもある。「南京事件」というのは教科書の中の話ではなく、今に至る地続きの話であることを人はしばしば忘れてしまう。言ってしまえばたった80年前のことだ。かろうじて生きている人だっているのである。しかし「歴史」という言葉は便利なもので、そこに閉じ込めてしまうとどこか別の世界のお話のようになってしまう。本の中には清水記者の祖父や父親が従軍していた話も出てくる。僕の祖父も職業軍人で戦死している。生まれる前にはこの世にはいなかった祖父がなんのために戦死したのか、後で戦争の本を読んでいて「ああ、こういうことで」と思ったりもした。誰だって歴史のつながりからは逃げられないし一部でもある。

 

「歴史に学ぶ」とは端的にいえば「同じ失敗を繰り返さない」ということなのに「今回は上手くやれるはずだ」なんてつい考えてしまう。だから広島に「過ちは繰り返しません」などと石碑を立てておいて、一方ではアホみたいにたくさん原発を建て続けた挙句、ついには不幸な事故を起こしてしまってたりする。「原発ならコントロール出来るだろう」とか言いながら。それでまた再稼働なんて言っている。性懲りもなく「次はうまくコントロール出来るだろう」とか言ってしまう。人類は永遠に「歴史に学ぶ」という姿勢をもてないのかと呆れてしまう。

 

『「南京事件」を調査せよ』は今に生きる日本人なら全員が読んで欲しい本だ。今このタイミングだからこそ必要だと判断して出された渾身の一冊だ。決して南京事件を謝れとかではない。そんな情緒的な話ではないのだ。とにかく今の日本人にいちばん必要なことは過去の失敗をできるだけ正確に知ることに違いない。知らないことには先に進めないのだ。しっぽを追いかけるアホの犬みたいに、同じ所をぐるぐる廻るのは虚しいじゃないか。

 

清水記者は言う。「知ろうとしないことは罪だ」と。とにかく、知って欲しい。

hon.bunshun.jp

 

「南京事件」を調査せよ (文春文庫)

「南京事件」を調査せよ (文春文庫)

 

 文庫版も発売されてより買いやすくなった!さらに最新取材による追記もあるので今からだったら文庫版が断然オススメ!Kindle版もある!!!

 

butao.hatenadiary.com

ドキュメンタリー版もぜひオススメ!!!

 

桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

 

まずは四の五の言わずにコレを。

 

殺人犯はそこにいる (新潮文庫 し 53-2)

殺人犯はそこにいる (新潮文庫 し 53-2)

 

これは真相に迫っているが未解決なのが恐ろしい。

 

騙されてたまるか―調査報道の裏側―(新潮新書)

騙されてたまるか―調査報道の裏側―(新潮新書)

 

 調査報道についてつっこんで書いている。両事件のダイジェストも。

 

 

尖閣ゲーム

尖閣ゲーム

 

この小説の著者である青木氏も『「南京事件」を調査せよ」に登場して活躍する。ちなみに『尖閣ゲーム』も清水記者監修でもあったりする。二人は仲良し!

ネットで何かのレビューを書きがちな人に絶対に言っておきたいこと!!!

今のご時世でネットで調べ物とかすると、必ずといって良いほどユーザーレビューがついてくる。ユーザーレビューの2大サイトといえば、僕の利用頻度で主観的に判断させてもらうけど、Amazon食べログじゃないかと思う。

 

Amazonは本とかDVDとか日用品とか、様々な商品について、面白さとか使用感なんかをレビューしている。なにしろ買おうとする商品の、実際の使用者からの情報なんで、ついつい読んでしまう。まあ、便利だとは思う。

 

食べログは、飲食店を利用した人の感想が読める。これも、店側の言い分だけではわからない問題点とか魅力を知ることが出来るので重宝してしまう。そもそも飲食店というのは、通販商品とかとちがって、自分たちでネットでの情報の発信すらしてない店も多いわけで、そうなると利用者のレビューだけが情報源だったりする。どんなメニューがあるかとか、営業時間とか、営業スタイルとか…。

 

街でふと見かけたお店の名前をネットに打ち込むと、たいていは食べログがひっかかって、ユーザーのレビューが読めるから、入店前の下調べとしては、相当に便利なものだ。

 

とはいえ、そういうネットレビューにも弊害がないわけではない。いや、むしろ、大いにあるかもしれない。

 

弊害のひとつとして、情報の不正確さだ。商品を提供する側や、飲食店側の情報ではなく、あくまでもユーザーのレビューだから、一見して公平な視点での評価が 読めるような錯覚があるが、そんなことはありえない。たまたま、ものすごく偏った考えの人とか、悪意のある人しかレビューしてなかったとしたら、その商品や店はダメだという 印象しか残らない。これは不幸なことだと思う。

 

僕が見る限りは、人気商品や人気店に関しては、レビューがたくさんついていることが多く、賛否両論読めるようになっていて、そういう商品や店はやはり人気だけあって、批判的意見よりは肯定的な意見が上回っていたりして、「正義は勝つ」 じゃないけど、分母が大きければ大きいほど、歪んだ意見は淘汰されてより公正なものに近づいているというような印象はある。あくまで印象だ。

 

でも、レビューが何個以上ついてるのからが公正なのかという問題については、誰も答える事は出来ないように思う。

 

50個か。100個か。多ければ多いほど良いとしか言いようがない。でも、たとえ、10000個レビューがついても、不公平なこともあると思う。

 

じゃ あ、反対に、レビューが3個しかない飲食店があったとする。どう考えたってたった3つの意見で、公平な意見をすくい取るなんて不可能だろうと考える。でも、 しょせんはレビュー3つ付くのが精一杯の店でしかないのだから、公平とか偏っているとか無関係に、そんな店は信用出来ないと切り捨てるという過激思想が立ち上がってくる。

 

レビュー数至上主義者の誕生だ。

 

マクドナルドが一番売れているからマクドナルドが世界一美味しいレストランである。」

コカ・コーラが一番売れているからコカ・コーラが世界一美味しい飲み物である。」

 

レビュー数至上主義は、上記と同じくらい危険な思想だ。この危険さについては、いちいち説明するまでもないだろう。「行列の出来るラーメン屋こそが美味いラーメン屋だ」というのと同じだ。もちろん僕はこの考えには賛同できない。それにそもそも、支持者の多い少ないというのもネットだけの話だし。実際は大人気店でも、「たまたまネットでレビューを書くような層は利用していない店だった」ということもよくある。これは注意して欲しい。

 

あと、レビューには、なぜか点数をつける機能があって、星の数に換算されて表示されたりしがちだ。そして平均点数が出たりする。食べログとかAmazonもそうなっている。

 

まったくの無意味という他にない。

 

その店や商品を使用したユーザーの感想は、たとえそれがどんな偏った意見であっても、なにがしかの参考にはなる。シチュエーションを詳しく書いてくれればくれるほど、情報としての有益性はあがる。

 

でも、どこのだれかもしれない人による点数評価がなんになろう?

 

どうしても数値で評価したかったら、良い・悪いの二段階で十分ではないか。せいぜい我慢できて、良い・普通・悪いの三段階までだ。

 

5段階評価以上になると手に負えない。相対評価なのか絶対評価なのかもわからない。てんでバラバラの基準の数値が並んでいくだけだ。そんなアヤフヤなものを平均化して、高得点とってるからってどういう意味があるのか。

 

「この店のレビューした人は、おおむねテンションが高かったんやなー…」くらいの意味しかないのではないか。それはそれで「注目が集まってます!」って指標にはなるかもしれないので、参考になるといえばなるのだけど。

 

ユーザーのテンションゲージだと考えると、5段階評価はそれなりに役に立つ!?でもやはり、行列が出来ている店のラーメン程度の参考にしかならない。むしろ邪魔な情報かもしれない。

 

5段階評価は渋々認めたとしても、絶対に許しがたいのは100段階評価だ。これはレビューサイトみたいなものには少ないけれど、個人で何かのレビューをしたときに書きがちである。レビューの最後に、(65点)みたいなことを。

 

「お前、その65点に、どれだけの責任もてんねん!?」と言いたい。お前がつけた65点と67点の違いを、相対評価以外のところで言えるのかと。

 

なんで人は百段階評価をしたがるのだろうか。100点満点方式のテストを受けさせ続けられた日本の教育の弊害だろうか。小中高のテストから、ABCDEの評価だったらこれほど100段階評価は流行らなかったかもしれない。

 

その人ひとりのレビューのファンで追い続けるならまだしも(いや、それでも、100段階評価を、きっちりと管理出来る人間なんかはほとんどいないが)たまに見せられた感想とかで、そういう点数とかがついてたらイラッとする。

 

なぜか映画の感想とか、100段階評価で採点したがる人が多いような気がする。

 

もっと過激なヤツになると、映像・脚本・編集・俳優・映像・音楽といった具合に、それぞれの項目を100段階で評価していたり。正気をうたがうのでやめて欲しい。

 

結論。レビューするなら文字で書いてくれ。点数は(Amazonとか機能的につけなきゃならん時をのぞいて)勘弁して欲しい。とくに100段階評価はギャグである。

 

レビューについては言いたいことがあるのでまたいつか続きを書こう。

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butao.hatenadiary.com

 

マクドナルドで不味いバーガーを食わされる理由がわかってきた!?

ギガマックことギガビッグマックが調子が良いみたいである。けっこうな人がギガマックを食べたんではないか。

butao.hatenadiary.com

僕も前回はこのようなギガマック体験記を書いたくらいだ。そしたらまわりでも、久しぶりにマクドナルドでけっこうな金額を払ったという話が出てくる。やっぱりみんな気になっていたようである。プロモーションとしては成功だったのだろう。

 

その結果出てくるのは、新メニューが「美味かったよ派」「不味かったよ派」だ。そりゃまーそうなんだろうけど、こういうプロモーションでマクドに足を運ぶ人というのは、もともとマクドナルドの味が好きな層には違いない。何かの事情で何年もマクドナルドから離れていたとしても、「新しいの出たのなら久しぶりに行ってやろうかな?」と思ったような人間だ。だから「不味かったよ派」を、正確に表現するなら「期待したマクドナルドの味になっていたとは思えない派」とも呼べるかもしれない。

 

だから「だいたいマクドナルドのハンバーガーなんて人の食べるもんじゃ無いんだよねー」とか、ことある事に言ってくるような人間は、この場合はお呼びではないわけだ。それだけはキッチリしておきたい。

 

ギガビッグマックの件だけど、周囲の否定的な意見の聞き取り調査をしていくと、おおよそ2つの理由によるダメ出しに大別される。あるいは両方の意見をもった人も多い。

 

「740円は高い!高すぎる!」

「グチャグチャで美味しくなかった」

 

僕なんかは味には文句が無かったが「740円が高すぎる」という派だった。厳粛な気持ちで試食した結果の感想としては、740円も出すようなハンバーガーにはとうてい思えなかった。

 

これに対して「グチャグチャで美味しく無かった」というのはどういう理由によるのかと調査をしていくと、バンズがソースでぐちゃぐちゃになっていて、非常に不味い状態になっていたというものだった。ハンバーガーというのは、というかサンドイッチ全般に言えるのだけど、パンの部分はカラッとしてる方が美味しい。ここが水分に侵食されすぎると、サンドイッチちゅうものは、美味しくいただけないことが多い。

 

僕が食べたギガビッグマックは、ソースもレタスも適量に入っており、バンズが侵食されるなんてことは無かった。これがゆえに、僕は「大きいビッグマック」あるいは「大きいメガマック」として清く正しく味わうことが出来たのかもしれない。それに対して「グチャグチャでひどかった」という感想をもった人は「ビッグマック+グチャグチャ」なバーガーを食べたことになる。

 

前回の記事で「マクドナルドのソースや野菜は無料で増量が出来る」と書いた。「グチャグチャで不味かった」という感想を述べた人が、もしソースや野菜を増量しておいて「グチャグチャだった」というなら無視するしかない。しかし、グチャグチャなバーガーが嫌いと言ってる人が、そんな注文していたら統合失調症みたいなもんなので、それはあり得ないと思う。

 

じゃあ考えられることは、美味しくなかったと評価されたギガビッグマックを提供した店舗の店員が適切なソース量を理解せずに、普通の注文したお客にも増量クラスのソースや野菜をブチ込んだということになる。

 

逆に、僕が食べた店舗、あるいは店員は、ギガビッグマックに適切なソース量をキチンと理解して、その通りに作ったわけだ。だからグチャグチャになってなかったし、味に関してはキチンとしていた。

 

マクドナルドに店ごとの味の違いがあるのか?

 

ある。これは声を大にして言いたいが、あるのである。というか、普通は、どんなチェーン店でも、店舗ごとに味というのは違うものなのだ。人間がやってることだから当然のことなんだけど、なぜかこの問題は人々の中から無視されやすい。


「チェーン店は同じ食材・同じマニュアルでやってるのだから、どこでも同じ味です!」これはあくまで店側のお題目に過ぎなくて、調理の上手い店員と下手な店員はどうしたって存在する。そしてセントラルキッチン方式による同じ食材というのだってあくまで理想に過ぎなくて、さまざまな都合により、材料の仕入先だって店ごとに違ってきたりする。


同じ看板を掲げていても、直営店とフランチャイズということでもかなりやり方は違う。フランチャイズによっては程度は自由裁量が認められている場合もあって、そうすると料理提供にもかなり独自解釈が入ってたりする。


だから、僕らがチェーン店の評価をする時は、あまり看板でひとくくりにはせず、餃子の王将天六店の味は……とか、天下一品寝屋川店は……とか、そういう厳密さで臨むようにしている。わかる人にはわかってもらえると思うけど、わからない人には「は?」という世界かもしれない。


そこでマクドナルドである。これだって他のチェーンに対して例外ではなく、あくまでマクドナルドも店単位で語られるべき存在だ。しかしこれまでマクドナルド〇〇店は良いというような話が、あまり聞こえてこなかったのは、良くも悪くも店ごとの味のブレを客に意識させないくらいの精度を長年にわたって保っていたからに他ならない。マクドナルドってのは、マズイときは全店にわたって不味かったし、美味い時はほぼ全店で美味かったのだ。そういう印象は確かにあった。


しかし、現時点では、先に述べたような「ギガ・マック問題」とも呼べるようなものが発生してしまっている。これはなぜなのか。


ひとつの記事がヒントを与えてくれた。

blog.shinma.tokyo

これによると、ある時点から、マクドナルドは直営比率を下げて、フランチャイズ比率が上がってるらしい。フランチャイズっていうのは、さきほども述べた通りチェーン形態の中でも、独自解釈が入りやすい営業形態である。ましてや、何十店舗も束ねているような力のあるフランチャイズが出てくると、本部に対して発言権をもったりすることもある。そうするとむしろ積極的にマニュアルを改変したりといった事さえ起きる。


そもそも、日本マクドナルド自体が、アメリカのマクドナルドに対して大幅な独自裁量を認められてる組織だということを思い出して欲しい。日本のマクドと、アメリカのマクドは、メニューが違うのだ。日本マクドナルド内のフランチャイズ店舗比率の増加によって同一クオリティの維持が難しくなっているという分析は、将来的に味やサービスのバラつきが今より激しくなるかもしれない可能性を示唆している。「どこのマクドナルドで食べるか?」が重要になってくる時代がくるかもしれない。


僕にとってはチェーン店の統一性というのはあまり興味がないので、どんどんやってくれと思ってる。不思議なもんで、店ごとにブレの激しいチェーンほど客を惹きつける場合もある。厳密にはチェーンではなく暖簾分けだけど、たとえばラーメン二郎とか。あれも店ごとにファンがついていて、自分の贔屓の店以外をものすごくこき下ろしてみたりとなかなか楽しい。


いずれマクドナルドでも、〇〇店オリジナルバーガーとか出てきたら面白いのではないか。(〇〇店オリジナルセットみたいなのは昔からけっこうあったけど)


マクドナルド淀屋橋ネクスト1店のチーズバーガー……ありゃ良い味出してたぜ」


なんて話を出来るようになったら素敵ではないか。本部による支配体制の低下は、ただ単に不味いバーガー食わされるというマイナスだけではないと思うのだ。鉄壁のチェーン体制にカオスが生まれれば、出し抜こうとするフランチャイズだって登場する。イチ消費者としては、あらたなマクドナルドのあり方に期待せずにはいられない。


ちなみに、淀屋橋ネクスト1店のチーズバーガーが良い味出してたのというのは実話だ。ここが直営店なのかフランチャイズなのかは知らない。しかし個人的にここ十年でいちばん美味いチーズバーガーだったのは間違いない。閉店間際に注文した奇跡だろうか。


関係ないけど、生活圏内に、バーガーキングが欲しい。高いからそんなに食わないだろうけど。

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文章の世界的プロが教える文章が上手くなるたったひとつのつまんない方法

文章が上手いとはどういうことだ?

上手い文章と、下手な文章の違いは?

 

基本的な文法の誤りなら誰でも指摘できる。そして誤字脱字も。だけど「上手い文章とは何か?」という問についての答えを、満点で出せる人はなかなかいないのではないか。上手い文章の定義について、いろいろと探してみたけれど、誰も明確な答えは教えてくれなかった。

 

僕自身にしたって、べつだん上手い文章というのが書けるわけではない。曲がりなりにも、文章で金を得たり、こんなブログを書いていたりするわけだけど、そうだからといって、胸をはって「自分は文章が上手い!センスがある!」なんて言えるほどの、自信も度胸も根拠も持ち合わせていない。

 

そうした僕が、文章が上達する方法を書くというのも変な話だけども、マラソンの中級者くらいが、ズブの素人に対してアドヴァイスしてるようなものと捉えれくれれば結構だ。だから、練習法なんかとっくに確立していて、何度もウルトラマラソンを完走したよ、とかいうようなレベルに人だったら、どうぞ読み飛ばしてほしい。

 

文章を上達させる方法は実は単純なことだ。まさかとは思っていたが、僕も最近までは確信がもてなかった。でも、事実なのだ。上手い文章を書きたいならこれしかない。

 

まずはひたすら大量の本を読むこと。そして書くこと。

 

たったこれだけだ。文章というのは、ちょっとしたコツとか、工夫でなんとかなるもんではないのだ。そんなものはせいぜいスパイスみたいなものだ。スパイスをぶっかけまくって誤魔化そうとしたって、すっからかんの鼻につくだけの味にしかならない。

 

「文章が上手くなりたければ大量の本を読みなさい。そしてから書きなさい。」

 

小学校でも中学校でも、そして大人になってからも、この恐るべきシンプルな事実を、誰も僕に教えてくれなかった。なんで教えてくれなかったのか。

 

そういえば、著名な作家は例外なく読書家だった。なんでもっと早く気が付かなかったのか。僕がそういう諸々を理解してきた頃には、すでに40歳が見えていた。間抜けにも程がある。似たような人が出てきたら困るので、あえて書いておこうと思う。

 

作家のような文章上手からの文章指南に、もっとも欠けている事柄があるとすれば、「上手い文章を書きたい人間が、実は読書家ではない可能性の考慮」ということだ。作家なんかやっている人間にしてみれば、そんな理不尽は考えられないことなのだろうけれど、思っている以上に世の中にはむちゃくちゃな人がいるのである。

 

なぜ今回、基本的な文章上達法について、改めて書いておこと考えたかというと、その道の大家の書いた「文章指南書」のいくつかおいて、文章上達法における読書の重要性が、明確に指摘されていたからだ。おかげで長年のもやもやが払拭された。やっぱりそうだったのだ。

 

その一冊は、丸谷才一の『文章読本』である。日本の著名な作家による『文章読本』というのは数冊が出ていて、三島由紀夫版や谷崎潤一郎版もあるのだけど、文章の上達という意味では、役に立つのは丸谷才一のものだけだ。

 

丸谷才一は「名文を書くためには名文をいっぱい読め」という実践的な事を勧めている。逆にいえば、「名文をいっぱい読め」という文章上達法を心得ているならば、丸谷才一の『文章読本』は読む必要が無いともいえる。だけど、「名文をいっぱい読む」のを心得ているならば、名文家として知られる丸谷才一を読まないのはおかしいのでは無いのかとも思う。だから、けっきょくは読むしかない本だろう。

 

いうまでもなく、谷崎潤一郎版や、三島由紀夫版も、余力があれば読むべきである。名文かつ、面白いのは間違いないのだから。そして文章上達のためには「名文をいっぱい読む」のが必要だから、やはりどうしたって無駄にはならない。なにしろ、谷崎潤一郎三島由紀夫なのである。

 

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 

もう一冊。

 

同じく「どっさりと本を読め」とストレートに教えてくれる、世界的に高名な現役作家による文章指南書があった。こちらはより明確に僕らに指示してくれる。丸谷才一の主張が「名文を書くには名文を読め」だったのに対して、「良い小説も、悪い小説も、最高の講師たりえる」と教えてくれるのは、かのスティーブン・キングである。

 

「出来の悪い小説は、特別に招かれた人気作家が受け持つ一学期分の講義に匹敵する」とまで書いている。それをいくつかの実例をまじえつつ説明してくれている。いわゆる悪文の例というやつ。

 

スティーブン・キングが、どのような文章をこき下ろしているか。それは実際に読んでもらいたい。そしてキングが批判してるような文章を書かないように注意していけば、少なくとも「上手い文章への階段」の何段めかまでは確実に登ったといえる。

 

この本では、キングが自身の生い立ちから小説家としてデビューするまでの話にはじまって、文章や小説に対しての心構え、交通事故で死にかけた時の体験までを書き綴っている。スティーブン・キングという作家が、まるまる一冊の本になったようなもんだ。彼の小説自体は何冊も読んでいたが、意外なことに彼の個人的なことについて知ったのはこれがはじめてだった。交通事故で死にかけていたことも、アルコール依存症や、ドラッグ中毒だったことも知らなかった。

 

この本のタイトルは『書くことについて』。かつては『小説作法』という名前で出ていたものの追補版である。実際の執筆作業の一部まで、実例をあげて公開しているのだから気前がいい。別に小説家を目指していなくても読んで損のない内容だ。

 

当然のことながら、キングの小説を何冊か読んでいるとずっと楽しめる。「たくさん読むこと」が良い文章を書く近道なのだから、キングの小説だって何冊かは読んでおくべきだろう。個人的には『クージョ』と『ペット・セマタリー』が大好きだ。『死のロングウォーク』や『キャリー』も良い。

書くことについて (小学館文庫)

書くことについて (小学館文庫)

 

 

クージョ (新潮文庫)

クージョ (新潮文庫)

 

キングは年間に70~80冊の小説を(純粋に楽しみにために)読むそうだ。いわゆる読書家という人間のレベルからいって、極端に多い数字ではないけれど、キングくらいの文章を書けるようになるためには、少なくとも同じくらいは読んでいないと話にならないということがわかってくる。今すぐ上手い文章を書くことは不可能にしても、読むことはいつだって誰にだって出来るのだからやるべきだ。本を読むのはたのしいことだ。

 

キングはこう述べている。

 

「三流が二流になることは出来ない。一流が超一流になることも出来ない。しかし二流が一流になることは可能だ。」

 

文章の才能についてのべた言葉だけど、何についてにも言えることだと思う。自分の好きな言葉のひとつとして加えておきたい。

プロが教える!?良い居酒屋(飲み屋)の条件とは!?

来る日も来る日も、「良い居酒屋とは何ぞや?」と自問自答しつつ、暇を見つけては日本中を探索しまくっている酒場客のプロである僕が、良い店の判断の仕方をみなさんに教えようと思う。

 

良い居酒屋の条件は簡単だ。単純明快。たったひとつのルールで決まる。

 

つきだし料、席料、お通し、テーブルチャージ。そういうものが一切無い店だ。

 

たとえばある店で、生ビールが400円だとしよう。そしてポテトサラダが300円としよう。生ビールを飲んでポテトサラダをつまむ。そして店を出る。

 

お会計が1000円也……。どういうことだ!?なにが起こった!?時間でも止められたのか!?

 

いやいや、落ち着いて欲しい。これが計算間違いとか、伝票を取り違えたとかで無い限り、理由はたった一つしかない。つまり、注文したもの以外に、つきだし料ってやつが300円プラスされていたのだ。

 

そういえば、生ビールを注文したときに、なんだか妙な小鉢がついていたような…と思い当たるフシがある。たいしておいしくも無かったけれど、サービスか何かと思ってパクパク食べてたけど、あれ、しっかりお金を請求されていたのですな。

 

僕はもう二十年やそこら、居酒屋やバーや立ち飲み屋なんかでお酒を飲んできたが、あのつきだしシステムだけは未だに我慢が出来ない。なんで注文したもの以外のものが強制的に出てきて、謎の料金が税金みたいに上乗せされるのだ。この不可解な因習のせいで、居酒屋とかバーというやつが、安心して飲み食い出来ない空間になっていた。

 

お酒関係で、初めて入る店が、なんだか怖い感じに思えるのは、それが大きいんじゃないか。これだけいろいろの店に行くようになっている僕だけど、はじめて入ったお店で会計するときにはちょっぴり緊張がある。

 

長年の経験から、テーブルチャージがつくかつかないかは予想つくのだけど、それでも余計なお金をつけられると「ああやっぱり」とか思うし、意外に注文した値段だけだったりすると「ほっと」したりもする。

 

たかだか数百円なんだからいいやんか、と言われるかもしれない。でも本当にいいのか?

 

たとえば喫茶店で500円のコーヒー飲んで出ようと思ったら、700円を請求されたらどうします?600円のお好み焼きを食べたら900円請求されたりしたら?

 

普通はありえないことだけど、お酒を飲む店では普通にありえることなのである。しかも、500円とか600円とかではなくて、数千円ぶんも飲み食いすることだって普通にある居酒屋なのに、さらに余計にとられるって、一体どういう理屈なんだろうか。

 

ショットバーなんか行こうものなら、ちょっとピーナッツかじっただけで700円とか上乗せられる。しかもそんな店ではお酒だって一杯700円とか1000円とか普通にするのに。下手したらテーブルチャージとして、数千円もとられる店だってある。ただ、その店に居たというだけで…。

 

そういう店の特徴としては、外に出ているメニューや看板などには、テーブルチャージとかつきだし料についての表示が無いのが常だ。だから騙し討ちみたいな形で徴収されるわけだけど、そのときに慌てず騒がず「あ、そんなもんか」という顔して、さらりと支払えるのが大人の客とされる。決して「ビール一本でなんぼやねん!どういう計算やねん!」などと騒いではいけない。

 

だから僕も「あ、2700円ね」なんて、大人の顔してさらりと払ってきたわけだけど、計算の合わないお店に対しては、腸が煮えくり返っていたというのが本音だ。つきだし料とかテーブルチャージといったものをとる店で、これはと思える店というのは、20年くらいの経験の中で数えるほどしか巡りあったことがない。

 

よっぽど居心地の良い空間を提供されるとか、よほど凝ったつきだしを出してくれるとかでしか、数百円の強制徴収の埋め合わせは出来ないのではないか。選択肢があまりないような土地だったら、最終的な支払いが「それなり」なのを知っていたら、「まあ、分かってて行ってるし、しゃあない…」みたいな。

 

極稀に、つきだしだけで、酒の肴が完結してるような店もある。押し付けがましく出てくる小鉢とかピーナッツなんかいうのじゃなくて、それだけで自動的に酒を何杯か楽しんで、追加の料理なんてほぼ必要がないというような。あれこれ口出ししなくても、ひとしきり楽しんで、二千円だの三千円だの払って帰るというような。これはこれで大人な空間という気はする。

 

しかし、こんなのは本当に稀な話で、酒を飲んだ客への税金のように、単に人数分のつきだし料を徴収したいだけの店がほとんどだ。

 

つきだし料をとると、それがたとえ300円でも、客単価の底上げになるから良いってのはわかるんだけど、それなら飲食の値段に最初から盛り込んで勝負して欲しい。

 

ビールが500円の店で、ビール三杯飲んだら1500円だ。

 

ビールが400円で、つきだし料が300円の店で、三杯飲んでも1500円だろう。

 

後者の店で四杯目を飲めば1900円で、ビールが500円の店なら2000円だ。逆転する。

 

しかしそんな問題じゃない。

 

ビールが500円の店ならばビールを一杯飲んで、500円だけ払って帰る自由があるのだ。

 

つきだしを取られる店なら800円払って帰る以外の選択は無い。

 

つきだしの無い店では、ビールを3杯飲んで出ても1500円。3日にわけで飲んでも1500円。

 

300円のつきだしのある店で400円のビールを1杯づつ3日間飲んだらどうなるか。おそろしいことに2400円。

 

つきだしの店には自由なんてない。3杯は飲んで帰らないと損してしまう。

 

あと、大勢で飲んだ時の、割り勘にも大いに影響するのがつきだしというやつだ。だから宴会の多い居酒屋チェーンなんか、積極的につきだしシステムを採用している。頭数が増えれば増えるほどに美味しいから。最近は不景気で、つきだしシステムを採用しなくなってきた居酒屋チェーンも多いけれど。不景気は嫌だが、それについては喜ばしいことではあるかもしれない。

 

あと、大手居酒屋チェーンのなかには「つきだしは要らないです」というと、つきだし料金をカットしてくれるところがあるけれど、そういうことはメニューの端に小さく書いているだけだったりする。何もいわなければ強制的に出てくるわけで、やはり騙し討ちでしかない。「もっと正々堂々と商売できんのか!?」と思ってしまう。

 

繰り返していうが、食べたくもない小鉢に300円取られるなんて、バカにかかる税金以外の何者でもない。

 

しかし、ちょっとした小鉢とか、お菓子とか、出してくれて、つきだし料なんか一切とらないというような神様みたいな店も世の中にはあるから油断できない。こういう店にあたると、店主の心意気というか、情というか、ちょっとほだされてしまいそうになる。

 

それどころか、大瓶ビールを300円で提供しつつ、おつまみのお菓子をいちいちくれるという奇跡のような立ち飲み屋も世の中には存在していたのだ。どこのスーパーを探しても、大瓶ビール300円で売っているとこなんて無いはずだ。あまつさえ、大瓶ビールを注文するたびに、柿ピーの小袋を2つくれていた。

 

どんな福祉事業!?

 

その店がどうなかったかというと、一年前くらいに閉店してしまった。けっきょく全体で2年くらいしか営業してなかった。そらそうか。

 

上のような例はやり過ぎかもしれないが、とにかく、良い居酒屋の条件とは、「つきだし料をとられない」ということにつきる。

 

なので、いちどそういう観点から、居酒屋を評価してみることをオススメする。

 

少々メニューの値段が高くても、騙し討ちみたいなつきだし料をとってない店というのは、やはりそれだけ信用できるところが多いもんだ。

 

それにしたって、つきだしとかお通しみたいな、飲食店の古い因習にはもやもやする。一見、安い看板で釣っておいて……というのが、あらゆる商売でまかり通っていないだろうか。なんなんだろうか、このアンフェアさは。

 

ワタミグループの店と、酔虎伝、八剣伝などのマルシェグループは、「お通しカット」という呪文を使えば、お通しをカット出来ると公式にあるので、どんどん使っていこう。日本から騙し討ちの風習がなくなることを切に願っている。外国人観光客からの受けも悪い!

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人材派遣業と付き合うと会社が潰れる理由

もてラジ村民ブログを読んでいると色々と面白いネタが転がっている。

 

今回はアウトソースについての問題。アウトソースというとかっこいい気がする。スマートな経営というか。そういえば在りし日のホリエモンがドヤ顔で語っていたのもアウトソース化の話だった。

kimniy8.hatenablog.com

 

自分は仕事をとってきて、あとはなんでもかんでも専門業者に頼めば良い。ビジネスとしては至極もっともな意見だ。右から左に仕事をふって、自分はアイデアだけを挟んで利ざやを稼ぐ。在庫も専門技術も人材も抱えない。いかにも頭脳労働て感じがする。

 

たしかにそれはそうなのだけど、それが出来たら苦労しないという問題もある。誰だってそうしたい。しかしそんな夢みたいなことは誰にでもは出来ないから、とりあえずは、店や作業所を構え、人材を雇い、在庫もかかえ、専門技術を磨いたりするのだ。

 

そんなまっとうな商売や会社をやっててそこそこ売り上げるようになってきた。必ず忍び寄ってくるのがアウトソーシングの甘い罠。

 

たいていは自分で望むことではなくて相手からの勧誘によるものだ。ここがポイントなんだろう。

 

いちばんわかりやすくて、今の御時世でもっとも話題になるのは、なんといっても人材派遣業というやつではないか。

 

人材派遣というのは、求人と雇用に関する業務のアウトソーシングだ。言われなくてもわかるだろうけど。人材派遣には恐ろしい罠が潜んでいたりする。

 

派遣というと、労働者が搾取されてひどい目にあうというイメージばかりあるけれど、これ実は会社も相当に搾取されているのだ。

 

なぜって、誰でも知っているだろうけど、人材派遣会社から派遣されてきたバイトに、会社はかなりの時給を払っている。求人、雇用、解雇、これらの業務をすべて人材派遣業が代行してくれるわけで、それらの面倒事をすべて引き受けてくれるなら、少々時給に色をつけて払っても差し引きではお得になるという理屈。

 

なるほどたしかにそんな気がしてくる。集まるかどうかわからん求人広告出すだけでも費用というのはバカにならんのだ。そしていらなくなった人材の解雇だって、普通の人が考えているよりずっと厄介な仕事だ。

 

それを全部やらなくていいなら……。

 

人手の確保に苦しんでいる経営者は多い。そこでうっかり人材派遣業者の口車に乗ってしまうのである。

 

人材派遣業者の介入で失われるもの。

 

労働者のクオリティ。なにしろ、人件費のピンハネこそが人材派遣業の収入源なのだ。醍醐味といっていい。

 

考えてもみてほしい。最低時給スレスレで雇ってきた人間を、1000円を軽く超える時給で雇う羽目になるのだ。この不合理を受け入れる事が出来る人間はよほど感覚が鈍いか、かなり運良く人材に恵まれたか、もともと多大な利益幅を確保出来ていた事業かのどれかなのだろう。

 

しかし求人広告費もかからなくなったし、人事部の経費も削れたし、たとえ時給780円レベルの人間に1500円払ってたとしても、やはりトントンなんじゃないの?

 

そこが癌だったりする。人材派遣業の介入によって、労働のクオリティーだけはなく、求人や人事のノウハウだって失われてしまう。効果のある求人方法、労働者の見極め、上手い解雇の仕方。そういったものは簡単には培えない。それら一切合財を捨てて、立派な人材派遣業依存体制が出来上がる。

 

これは最悪だ。人材派遣業に利益を提供するために仕事を受注してるようなもんである。

 

そんなヘボな人材しかよこさない人材派遣業なんて信用なくなって契約を切られてしまうんじゃないか?

 

そうかもしれないけど、今の御時世はどこの人材派遣業だって似たり寄ったり。だから人材派遣業体質になってしまった会社に残された選択肢としては、悪辣なA社から、悪辣なB社に契約を変更することくらいだ。

 

人材派遣業も、会社をみて商売しているから、経費が潤沢にある大企業相手にはかなり便宜を図って仕事をもらいにいく反面、こういう切羽詰まっている会社はとことんカモにしようとする。いくら人材派遣業社を変更したって同じである。本当にやるべきことは人材派遣業と縁を切ることなのに。

 

そういう脇の甘い会社であるから、当然のことながら銀行からの借り入れだって多い。すると銀行の金利の支払いにも利益が吸い上げられている。

 

そして他にも業者に丸投げしてる業務も多いやろし、そもそも自社の本業というのが下請け業務だったりして、そっちでもひたすら価格を叩かれてたりしてるとしたら目も当てられない……。

 

あかん、悲しくなってきた。なんでこんな会社をやってしまっているのだろうか。これでどこに利益が残るんだ?

 

そうなってくると最後に手を付けるのは、従来からの人件費だったりする。古株の技術のある社員の給料を叩く。リストラの名目で退職させてみたり。もしくはむやみにサービス残業をさせてみたり。こうして会社からの人離れは加速する。

 

人材派遣業に手を出したばっかりに骨と皮だけしか残らないような会社…。(こんなもんに手を出す会社は、元から色々な方面で問題を抱えていたという説が有力だけど)

 

丸投げというのは、旨味をぜんぶ吸い上げたダシがらみたいなんを、飢え死にしそうになってる相手にチラつかせて儲けることをいうわけで、ただその業務が「めんどいから」とか、「ノウハウがないから」とかいう理由で丸投げすると、ハイエナみたいな連中に旨味も何もかもみんな持っていかれることになる。

 

国家の食糧問題にしてもそうだろう。自分ところで作らなくても、他所の国から輸入すれば良いとか言ってると、いざというときに何も出来なくなってしまう。ほんとに困窮している人間には、誰だって高値で売りつけようとするもんだ。世界一の輸入大国のアメリカは、世界でも有数の石油生産国で小麦やとうもろこし市場を牛耳っているという事実を忘れてはいけない。

 

アウトソーシングとか、コンサルティングみたいなもんには、うっかり騙されることなかれ。よほどの閃きでもないかぎり、自分でコツコツやらんもんが儲かるわけがないのである。

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ホラーのジャンルでいちばん怖いのはソーシャルホラー

tettyagi.hatenablog.com

てっちゃぎのブログがまた怖いマンガばっかり取り上げているのでこわい。ホラーマンガよりこわいホラーマンガだ。あ、ホラーマンガなんだな、このマンガは。やっぱり。内容はどこに出しても恥ずかしくないくらいホラー。

 

アル中の母親に育てられ、養父にボコボコにされてきた過去をもつヒロインが、やがて大人の女になり、1人の男性と出会い結婚する。暗い過去をもつ女だけど、やっと幸せになるんだわー!

 

というのは勘違いだって、そういう暗い過去をもってしまった女が選んでしまう理想の男性というのは、得てしてろくでなしだったりするのである。そう、結ばれた旦那は自分の養父に輪をかけたようなアル中の暴力人間だった。

 

そして子供の頃の数倍パワーアップした虐待を受ける。やっと幸せになるんだわー!っていう気持ちは一体なんだったのか。地獄から一瞬天国、そして超地獄に再突入する人生だった。まるでダイエットのリバウンドみたいだ。ダイエットの失敗のパターンとして、大柄が一瞬小柄になるんだが、超大柄になって帰ってくるみたいな。一瞬、収縮して、再爆発というのは、あらゆることに通じる真理なのかもしれない。株価とか。

 

で、超暴力旦那から超虐待を受ける嫁が選んだストレス解消は酒。アルコール。たちまちアル中になるヒロイン。あれほど忌み嫌っていたアル中主婦に。気がついたら自分がなってしまっていたなんて。

 

そして成長した息子にまでアル中母としてボコボコにされる。

 

なんでこんな超地獄になってしまったのか。何が悪かったんや。

 

そんな酷い旦那と別れてしまえばいいのに。なんで我慢するんや。アホなのかこいつは。

 

人々は好きなことをいうが、そいつらはアル中の母に育てられて、養父にボコボコにされ、学校でいじめられまくるというような生き地獄のような人生を送ったことがない。同じ人生を送ったら誰だってこうなってしまうかもしれないということは考えない。

 

よしんば旦那と離婚して、超地獄から一瞬開放されたとしよう。そんな女性が、次に選ぶのは、きっとまた暴力人間なのだ。

 

なんで!?

 

なんでってあんた、そう生まれてきた。あるいは、そういう生き方をずっとしてきたから、という他に説明のしようがない。そういう人間なんだ。

 

逃げ場のない恐怖。恐怖の連鎖だ。この恐怖はその人が生きている間はずっと続くかもしれない。多くのケースでそのようである。連鎖を断ち切って逃げられる人は稀。ダイエットとか禁煙に似ているかもしれない。一時的には痩せるのに成功したり、数年くらいの禁煙は出来るもんだ。しかし長くは続かない。またタバコを吸い出す人は吸いだすし、忘れていた恐怖は立ち上がってくるのだ。

 

しかも恐ろしいのは親がアルコール依存症アダルトチルドレン)だったとか、虐待を受けて育ったみたいな、自分ではコントロールしようのない理不尽な事情がきっかけだったりする。どうしたらよかったのか。どうしようもないのか。運が悪かったとしか言えないのか。人間の指向性というのは何をきっかけに決定されていくのだろうか。アダルトチルドレンの子供はアダルトチルドレンなのか。

 

人は環境からいろんなものを受け継いで成長していくものとされている。その中でもアダルトチルドレンに代表されるような要素は社会的に不利しかない。こういう特性をもってしまうと、暴力人間と付き合ってしまったり、自分も社会とうまく付き合っていくことが出来ずに破滅に陥りやすい。逃げ場のない恐怖がそこにはまっている。なにしろ自分という人間の特性が社会においては破滅を呼びこむのだ。

 

まさにホラー映画である。自分の特性と社会との関わりがただひたすら不利益しか生み出さず、やがてほうきで掃き出されるゴミのように社会から除去されていく。そういう恐怖を描いた作品カテゴリーというのは確かにある。

 

例えばエミール・ゾラの『居酒屋』なんかがそうである。映画でいえば『何がジェーンに起こったか?』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なんかもそうだ。

 

居酒屋 (新潮文庫 (ソ-1-3))

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何がジェーンに起ったか? 【ワイド版】 [DVD]

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ダンサー・イン・ザ・ダーク(Blu-ray Disc)

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 僕はこういうのをソーシャルホラーというジャンルとしてカテゴリーしている。目の前で展開している身近な恐怖だけにとにかく怖い。幽霊やゾンビなんてお目にかかったことがないけど、ソーシャルホラーの主人公は、目の前にバンバン登場する。身震いが止まらないとはこのことだ。

 

これがゾンビだったら脳を破壊するとか(それでもダメなやつもいるけど)吸血鬼だったらニンニクや太陽や心臓に杭か流れる川とかヘルシング教授とか弱点がある。吸血鬼ってなんとも弱点が多いモンスターだ。

 

しかし社会とか環境には弱点がない。自分を変えていくしか対応策がない。ところがその社会とか環境によって対応力を奪われている状態だったら?

 

お手上げだ。将棋でいえば詰んでいる。逃げることすら出来ない。これは極限の恐怖ではないだろうか。

 

もしくはソーシャルホラーにおいては、主人公それ自身がモンスターといえるのかもしれない。社会にとってモンスターとして認定された自分。倒すべき、いや、倒されるべきは自分だったことがわかる絶望。

 

思えば『地球最後の男』はそんな小説だった。(デンゼル・ワシントン主演の『アイ・アム・レジェンド』はそれの映画化だけど、ちょっとばかりテーマが違ってた。)

 

ソーシャルホラーは目の前の恐怖だ。たまらない嫌悪感と恐怖。人によってはあまりの恐怖に観てみぬふりをするくらいだ。コワすぎて認識すら出来ないともいえる。

 

とにもかくにも、本当にあった悲惨な話系のものがソーシャルホラーであるのは間違いない。またそのような作品があればぼちぼち紹介していきたい。誰が得をするのかは知らんけど。

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藤子不二雄になれなかった二人~赤塚不二夫と長谷邦夫~

karasugawa.hateblo.jp

一月半まるまるブログを放置してしまっていた。新しいもてラジ村民の方も加わった(上ブログです)のでこの機会に少しづつでもブログを更新していこうと思う。

 

それにしたってブログを書く時間を捻出するのも大変なもんである。一日一時間の時間がとれないのかというと取れないわけでもないけど、もてラジの更新もブログみたいなもんなので、そっちの作業にも追われるのだ。そしてビールだって飲みたい。飯も食いたい。

 

「おいおい、飯を食うのにそんなに時間がとられるってのか」と驚かれる方もおられるかもしれんけど、僕はとられるという他にない。一日のうちでご飯を食べるのは、旅行にいったとかよほどのことが無いかぎり、よほどのことっていうのは誰かと会食するとかも含むのだけど、そういうことも少ないので、基本的には夜しか食べない。だったら他人様に比較して3分の1じゃないかと言われそうである。確かにそうなのかもしれんんけど、ここにかける僕の思いというのは三倍であるとも言える。だから長くなってしまう。

 

そういうわけで必要以上に酒を飲み飯を食らうという状態が出来上がってしまうのかもしれない。一日のストレスを一点集中でぶつけるがごとくに。そうなってしまうと二時間…。いや下手をすると三時間くらい飲食に費やしてしまうのかも。ビールを飲むのを優先してしまうというのもひとえにこういう事情において、それも飲酒と食事がボータレスになった、夜の宴会的な営みが原因なんじゃないかと考えるわけで。それもささやかな個人宴会であったり、安居酒屋に足を運んだりといった事がほとんどなんだけど。それでも時間はみるみると消費されていってしまう。

 

でもしょうがないではないか。それしか僕はストレスを解消する術を知らない。

 

いやいやいやいや。こうしてブログを書いたり、絵を描いたり(何を隠そう、僕は絵を描いたりも好きだったのだ)、本を読んだり、映画を観たりという楽しみもある。それでもストレスは解消されるのかもしらん。

 

でも、ついつい日常的な生命維持活動である食事というものに、時間を優先的に費やしてしまいがちだ。そして少しでもまとまった時間があると旅行に行ってしまう。旅先で何をするかというとビールを飲んでるわけだ。ここでも親の仇みたいに、ビールを飲んで、飯を食らっている。なんだ、ただの怠惰か。というわけで、暇な人は飲みに誘ってみて欲しい。

 

ちなみにブログを停止している間にも、岡山、香川、兵庫、鳥取、京都、岐阜などに足を運んでいた。鳥取だけはバスという手段だったが、他はすべて鉄道での移動だ。18きっぷを中心に移動したわけだが(夏のシーズンだ)普通の在来線切符も併用した。

 

これからも何かまとまった時間が出来たら、すぐに大阪以外のところに出掛けてしまうだろう。そういうのが唯一の気分転換といえば気分転換なのでしょうがない。そのおかげで観れる映画や、読める本がみるみると減ってしまうのは痛恨ではあるが、やっぱりどうにもならないのだ。カバンの中にはいつも本を入れているけれど、なかなか集中して読もうという時間がこない。

 

何が悪いのかというとスマホが悪いのかもしれない。スマホが無ければもっと本を読むくらいは出来たのかも。本を開く集中力をスマホが奪う。使いふるしのiPhone4Sですらこんな有様である。スティーブ・ジョブズはどえらいもんを人類に渡した。彼は自分の子供には絶対に触らせなかったという逸話がある。正しい。実に正しい。

 

スマホというものは、人の時間をこんだけ奪いながらも、ブログを書くには著しく使いにくい。タブレットも同様だ。やはりノートパソコンが必要であるというのが僕の結論。奪うだけで何もクリエイトさせないタブレットPCはまったく酷いもんだ。しかしこれがないならないで、たまに訪れる寝る前の映画タイムすら無くなってしまうので痛し痒しである。Kindle電子書籍にも随分とお世話になってしまっている。

 

そんなわけで本の方はめっきりと読む量が減ってしまったが、電子書籍の読書はメキメキと増えていってしまっている。最近読んだ電子書籍で面白かったのは以下の二冊だ。

 

日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書)

日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書)

 

 日本軍はアメリカ軍にどのように分析されて、どのように対処されていたのか。アメリカ軍の視点から徹底的に「日本軍の実情」を探ろうとした本。捕虜になった兵士。つまり日本軍に捕虜にされた米英の兵士からの日本軍の印象がものすごく興味深い。

 

「チクショー!ヤルゾー!ヤリマス!センニンキリ!」

 

補給もなく、窮地に立たされた日本兵たちが、毎日このような珍妙な儀式を敢行して盛り上がろうとしていたという報告。日本側の証言では、こんな変な話が出てくることも無いのではないか。現代のブラック企業の居酒屋でも「アリガトウゴザイマス!ヨロコンデ!」みたいな掛け声を出し合って朝礼だの終礼だのやって奮い立たせているのがあるけど、それの源流じゃないのかという指摘があった。たしかに…。

 

 

伝説 トキワ荘の真実 グループ・ゼロ

伝説 トキワ荘の真実 グループ・ゼロ

 

知る人ぞ知る赤塚不二夫のブレーンを長年にわたってつとめていた長谷邦夫(ながたにくにお)という人の描いたトキワ荘物語。

 

長谷邦夫トキワ荘の自伝としては『漫画に愛を叫んだ男たち』が有名だけど、これはわりと近年に描かれたマンガ形式の本だ。テラさんの親友として知られる漫画家の棚下照生の視点にたって、トキワ荘手塚治虫を描写しようとしているのがとても興味深い。

 

かの『まんが道』では長谷邦夫はどういうわけか一回登場したこっきりだったので、覚えている人すら少ないと思う。しかし史実ではトキワ荘に通いつめていて、赤塚不二夫石森章太郎とずっと行動を共にしていた同士であった。

 

後に長谷邦夫は「貸本漫画でやってたから、新漫画党(藤子不二雄やテラさんや赤塚石森のグループ)に入れてもらえなかった」と自分の漫画で描いてる。新漫画党員じゃないから(党員資格のない人だったから)という理由で、『まんが道』の物語からはオミットされてしまったのかもしれない。棚下照生に至っては『まんが道』では存在すら語られなかった。つげ義春もだけど。つげ義春も貸本出身の人だった。

 

そんな『まんが道」の世界に入れなかった側の視点のトキワ荘物語には驚きしかない。いや、驚きというよりも、「本当はこんなだったのか」という芝居の裏側でも覗いた感覚が近いかも。『まんが道』しか知らない人はぜひ以下の作品もあわせて読むのをオススメしたい。『伝説トキワ荘の真実』は、いちばん最後に読むことをおすすめする。いきなり読んだらわけわからんから。

 

長年赤塚不二夫の相棒として働いてきた長谷邦夫だが、ついに藤子不二雄の二人のような関係になれなかったことを非常に悔やんでいる様子だ。藤子不二雄コンビを描写するときの羨望の眼差しが切ない。

 

長谷邦夫赤塚不二夫が存命のあいだに袂を分かってる。喧嘩別れみたいにフジオプロから飛び出したのだ。赤塚不二夫のアル中が原因である。赤塚不二夫が生前にまとめた自伝でも、長谷邦夫とのケンカ別れについてはあまり触れていないのが悲しい。バツが悪かったのだと思う。若い時のエピソードはいっぱい書いているのだけど。

 

サンデーの赤塚番をしていた武居記者が、赤塚不二夫との思い出をまとめた『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』においても、「赤塚は早い段階で長谷のことを好きじゃなかったはずだ」と述懐している。しかし「長谷邦夫の代わりはいないのだ。別れてはいけなかった」というようなことも書いてあった。

 

なんだか最後はマンガの話ばかりになってしまった。

 

赤塚不二夫 天才ニャロメ伝

赤塚不二夫 天才ニャロメ伝

 

 

 

漫画に愛を叫んだ男たち トキワ荘物語

漫画に愛を叫んだ男たち トキワ荘物語

 

 

これでいいのだ―赤塚不二夫自叙伝 (文春文庫)

これでいいのだ―赤塚不二夫自叙伝 (文春文庫)

 

 

トキワ荘の青春―ぼくの漫画修行時代 (講談社文庫)

トキワ荘の青春―ぼくの漫画修行時代 (講談社文庫)

 

 

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butao.hatenadiary.com

 

 

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人生が不幸な人ほど長生きしなさい

「人間万事塞翁」が馬という言葉がある。人生で起きる先の事なんかわからないから、良いことが起きたとか悪いことが起きたとか、いちいち必要以上に喜んだり悲しんだりしてもしょうがないよ、といった意味だ。

 

僕なんかがことさらドヤ顔で説明するまでもなく、誰もが知っている中国の故事成語だと思われる。 この故事成語を習ったのは小学校くらいのときだったか。若い頃は「ふーん」としか思わなかった言葉だけど、40くらいまで生きてくると「なるほど!たしかにそうだったわい!」と膝を打つくらいに味わい深い言葉である。

 

人生における良いも悪いもしょせん裏表の関係にすぎなくて、その時は良かったことがあとになって悪いことだったりするし、あの時に人生もう終わりだなんて絶望していたことが、後に良いことの伏線になっていたりする。 ほんとに先のことなんかわからない。ジタバタするだけ無駄なのである。人生が続くかぎりどんな悪いことが起きても、つぎに良いことが起きればみんな一度にひっくり返るのである。まるでオセロ(リバーシっていうゲームをオセロと呼ぶのは日本だけ?)のようなもんだ。どんなピンチの連続であっても、映画のおしまいまで見るまでは、それがハッピーエンドか、バッドエンドか、絶対にわからないみたいなものだ。その映画のもっている意味なんてのは、ラストを考える監督のさじ加減ひとつで決まる。 だから現状で人生に満足してないなら、ひたすら長生きしてみるべきなのかもしれない。

 

何度もいうけど人生は奇妙なもんなのである。嘘だと思ったら、ぜひ長生きしてみてほしい。「人間万事塞翁が馬」という言葉をつくづく噛みしめる瞬間がきっとあるはずだ。そうなったら今が楽しくなくても、先が少し楽しみになってくる。 ただひとつだけ言えるとしたら、死ぬ直前に起こったことが悪かったらそれはもう悪いとしか言いようがない。でも死ぬなんてのは、それ自体そもそも悪いことなので、あまり気にする必要もないかもしれない。とすれば、人間なんて最後はバッドエンドが確定しているともいえる。だとしたらやはりジタバタしたり、必要以上に舞い上がってもつまらんばっかりだ。 なるほどやはり「人間万事塞翁が馬」という言葉には説得力しかない。

 

さて、「人間万事塞翁が馬」の「人間」てのは「にんげん」と読んでも全然よいけど、ここはひとつあえて「じんかん」と読んでみよう。たったこれだけで、わけもなくぐぐっと「知ったかぶり度」があがってくる。

 

人間万事塞翁が馬」という言葉の「人間」というのはいわゆる「人」のことではない。人間=じんかん、すなわち「世間」とか「人の住んでいる世界そのもの」を指す言葉である。今では全く使われなくなった言葉だけど、他にもさる有名な一節に使われているので、たいていの日本人は無意識でみんな知っていると思う。 「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」 織田信長でやたら有名になった『敦盛』の一節である。ここの「人間」も「人の住んでいる世界」という意味なので「じんかん」と読んでも良い。 「人間五十年」というのはつまり「人の住んでいる世界での五十年」という意味だ。そして「人間」に対して「下天」というのは、いくつかある神様の世界の一つである。下天での一昼夜は、人間の世界で計算すると五十年になる。「世間でいう五十年といったって、神様の世界からしたら、ほんの一昼夜のあっという間の出来事にしか過ぎないよ」というのがこの一節の意味である。

 

けれど現代では「人間」という言葉が、そういう意味では使われなくなったので「当時の人間(にんげん)の一生は五十年と考えられていた」とかいう全然違った解釈が生まれてしまっていたりする。 このように、言葉の意味というのは時代とともにどんどん変わる。「その文章を、いつの時代の、誰が書いたのか」ってことは見落とされがちだけど、かなり重要だったりする。

 

テキストっていうのは、みんなが思っているほどには、情報を含んでいないもんである。

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コンビニから見える賃金差別のとんでもない実態

日本では、最低賃金というのが都道府県別に決定されており、同じ仕事であっても働いている地域で賃金差別を受けてしまう事実を皆さんは知っているだろうか。知ってるちゃ知ってるし、知らないっちゃ知らない感じの知識か。最低賃金というのは知っているけど、これって都道府県別だっけ?という人は多いだろう。そして社会常識であるから頭では知ってはいるけど、しかしこれを問題視するところまではいかない人も多いかもしれない。だけど僕はこれは凄い差別じゃないかと思う。しかも生活する場だけで差別されるというとんでもない悪質な類の差別だ。

 

例えば大阪の中心地である梅田の、とあるコンビニの店頭に貼りだされていた店員募集で示されていた時給は、850円だった。これを高いとみるか安いとみるか。大阪府最低賃金では、時給は838円以上にすべしとあるので、それよりかは12円は高いのである。とすれば最低ランクの給料ではないということだ。しかし東京都内ではコンビニで働いて時給850円ということはない。なぜなら東京都の最低賃金が定めるところの時給は888円だからだ。だから時給850円でコンビニで働らかせているところがあればはっきり違法であるので、大手チェーンのコンビニがそんな危ない橋を渡るようなことはしないので、東京都内でコンビニで働いている以上は888円はもらえるのだ。最低でもだ。もし大阪の梅田のように、最低賃金に対して12円の下駄をはかせるくらいがコンビニ時給の相場だとしたら、900円はもらえるということだ。もちろん大阪でも時給900円のコンビニが無いわけではないが、例に示したような850円のコンビニだってある。梅田の都心部でかなり客の多いコンビニでもだ。しかし東京だったら、どんな僻地の暇なコンビニだって最低でも888円は払わなければならない。同じ仕事をしていても、東京というだけで888円は保証されている。しかし大阪というだけで838円で雇われる可能性が常にある。東京においては838円なんて時給は絶対にありえない。違法の仕事でないかぎりはどんなしょうもない仕事でも888円からスタートなのだ。何度も繰り返すが、大阪だと888円というのはそこそこ張り込んでも働き手が欲しいという値段なのに、東京だと最低ランクの給与なのである。神奈川だって887円という最低賃金がある。

 

最低の評価をされたとしても838円スタートと888円スタートじゃかなり違う。しかもコンビニバイトである。そりゃ優秀なコンビニバイトと、程度の低いバイトがいるだろうけど、どんなにヘボでも最低賃金はもらえるので、この差は埋まらないのだ。

 

大阪なんかはまだ良い。マシな方だ。これが高知や沖縄だったら677円が最低賃金なのだ。高知や沖縄にはコンビニは無いのか?そんなわけがない。ファミリーマートやローソンがある。売ってるものだってサービスだってほぼ同じ。もちろん仕事だって同じ。なのに東京だとどんなヘボ店員でもどんな暇店舗でも888円はもらえる仕事を、那覇市の繁華街のど真ん中のコンビニだったら、もしかしたら677円しかもらえないかもしれない。いや、さすがに677円てことは無いかもしれないけど、700円てことは十分に有り得る。

 

試しに「那覇市 コンビニ」でググってみたら、那覇市ココストアというコンビニはまさに677円という最低賃金で求人を出していた。ココストアなんて聞いたことない?愛知県が本社の、いちおう全国チェーンコンビニである。わずかずつではわるけど関東や関西にも店舗がある。そんなコンビニが677円しか時給を払わない。それはココストアなんかいうマイナーなコンビニだからか?同じ条件でファミマの求人を探してみたら700円。やはり予想通りではないか。

 

ファミマで一時間働いて700円。何度も何度も言うが、全く同じ仕事をしても、東京だったら700円なんてことはない。最低ランクですら888円は貰えるのだ。そしてファミマで売っている品物は、沖縄だからといってコーラーが安いとかはない。同じだけ働いても、東京のコンビニ店員に比べて、沖縄のコンビニ店員は、自分とこの商品がバカ高い。手が出ない。

 

そのぶん、沖縄は家賃が安いだろうって?そうですか?じゃあ沖縄に住みますか?家賃は安いかもしれんが、コンビニの商品やマクドナルドの商品が高いのは事実だ。そしてAmazonその他のネットサービスだって、沖縄だからといって手心を加えてくれるだろうか。本にしたって、コンピューターにしたって、沖縄価格なんてものは無い。全国同じ値段だ。その上、沖縄は余計に配送料がかかる。 配送料が内地より得なのは、沖縄独自の商品だけ……。

 

これは沖縄だけではなくて高知だって同じだ。はっきりいって家賃くらいしかアドバンテージないのに、地方で安い給料を貰って嬉しいのか。その地方で生まれ育った人は離れたくないと思っているかもしれないけど、ひたすら不利な事が多い。どうしたって東京に出て行って暮らした方が良いと判断するかもしれない。総合的にどう判断するかは、そりゃ人それぞれだろうけど、地方はどんどん人がいなくなって、首都圏の人口が過剰に膨れ上がっているという事実は動かしがたい。国が仕組みとして、率先して一極集中を促進しているのは間違いがない。その大きな流れにしたがって国民は動いているのだ。賃金格差はその一環として存在しているに違いない。いや賃金差別と言い直したい。同じ仕事で同じ賃金がもらえないというのは、どう理屈をこね繰り返したところで差別でしかないだろう。

 

少なくともこういった単純な賃金差別くらいは是正しないと、地方に人が住み続けるという選択は、ただただ不利だけを強いられることにならないか。この差別に声をあげている人はあまりないように思う。だからせめて温玉ブログでは「賃金差別をやめろ!」と小さい声をあげてみる。

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安倍&橋下という最低タッグが生み出すもの

ものすごく良くない方向に世間が動いているようだ。そして胸糞悪いニュースでずっと賑わっている。胸糞悪い事は触れたくないけど、日本で暮らしていくうえで、どうしても触れなきゃどうしようもないと感じたから触れようと思う。年末年始にも胸くそ悪い事件がいっぱいあったけど、そんなものすっかり吹っ飛んでしまった。それくらい日本がよくないところに進んでいるのだろうと思う。
 
もちろんその胸くそ悪い話というのは、安倍内閣がゴリ押ししようとしている集団的自衛権についてだ。
 
集団的自衛権憲法違反であるとはっきりと決まっている。だからきっとこの戦争法案を通すために、安部内閣憲法の改定を強行するだろうと予想していた。しかし事実は僕の想像なんかはるかに斜め上をいっており、安部内閣憲法はそのままにしておいての強行突破をはかってきたのだ。
 
もちろん野党の反発は半端ないし、自民党内にも反発者が出てくる始末。さすがにこの情勢はやばいと思ったのか。憲法学者のうちで御用学者として安部に従ったのはわずか三人。原発のときは御用学者というのはいくらでも湧いて出てきたことを考えると、今回はどれだけ強引で無茶なことをやっているかわかるというものだ。それでも安部は強行しようとしている。この自信の根拠はどこか。なんでこんな強気なのか。
 
もちろんバックにアメリカ様がついてるというのもあるけど、なにより先の総選挙の空前の大勝利が背景にあるのは間違いない。原発を再稼働するとか、消費税をあげるとか、無茶苦茶を言っても国民は黙ってついてきてしまったのだ。それだったら戦争法案だってゴリ押し出来る。なにしろ日本を取り戻すのだから。二度の総選挙の大勝利が安部に与えた万能感たるや凄まじいものがあると推測される。事実、国民も、マスコミも、完全に安部に従ってきた。ヒットラーもかくやである。
 
しかしヒットラーだって政権を完全に掌握するためにはあらゆる策を弄している。安部首相にそれだけの準備があったのか。そんなものはもちろんない。安部首相をそんな策士だと考える人間はどこにもいるまい。彼は与えられたポジションで、ただただ棚ぼた式でたまたま勝利を手にしてきただけである。準備もなければ覚悟もない。勝利だけを手に入れて、根拠のない自信を深めていったやっかいな存在だ。そして依然としてそのポジションだけはある。きわめて危険な存在であるには違いない。
 
 
今回の違憲問題での周囲の猛反発は、安部にとって2007年の辞職以来の挫折をもたらすのだろうか。これまで盲目的に安部にしっぽを振ってきたマスコミでさえ、さすがに潮目の変化を感じて、躊躇し出している。相変わらず猛烈な援護射撃を加えているのはNHKだ。NHKは比較的に中立だなんて思ってた自分が恥ずかしくなる。NHKというのは完全に権力のコントロール下にあるメディアだった。組織の成り立ちからいって当然だったのだけど。
 
 
同じく万能感に包まれながらの挫折と屈辱を、一足先に味わった男がいる。橋下徹である。選挙での圧倒的な勝利を背景に、関西てあらゆるゴリ押しを通そうとしてきた。そして関西マスコミは完全に橋下の思うがままだった。しかし最後の最後で見誤った住民投票。これにきっちりと敗北して顔を真赤にしたものだ。政治家をやめるとまで言いはなった。
 
しかし、まともな神経をしていたら、この男の言うことなんて20000パーセント信用出来ないことはわかっている。
 
同じ道を行きつつある安部首相が呼び寄せたのが、この橋下なのだから話はわかりやすい。
 
野望一歩手前で転げ落ちた男と、野望一歩手前で転げ落ちつつある男の最強タッグである。
 
安部首相に呼び出されて、三時間話し込んだ末に橋下徹がやったこと。
 
Twitterでの民主党批判だった。
 
お前は子供か!!!
 
わかりやす過ぎる。あまりにも単純。橋下徹って頭が良さそうってイメージがあるし、実際に頭の回転も早いんだろうけど、やってる事はあまりにも単純。アホ丸出し。
 
こんなわかりやすい人間が、本当に頭いいといえるのだろうか。
 
おそらくは、こんなシンプルかつ頭の悪いやり方の方が、世の中で勝利を重ねていく上では、もっとも効率が良いんだろう。たぶんそうだ。それで橋下氏は世の中で勝利し続けてきた。世の中アホしかいないなら、アホの王様になるのがいちばんである。賢いがゆえに、効率を求めて、アホになっていくというのは、なんとも皮肉なことであるが、結果だけを求めたかったのが橋下徹という男なのだから仕方がない。それだからこそ今のポジションがあるのだ。大阪市長としての結果には不満があるにせよ。
 
しかしまだチャンスはある。安部政権に食い込みまくれば一発で逆転である。もとより権力指向しかない男である。大阪がどうとか、東京一極集中がとか言ってたが、それもこれも与党、つまり既存の権力に対して一定の影響力を得るための方便であることは、まともな見識をもつ人からは完全に見透かされていた。大阪府知事に売って出たのも、都知事よりもはるかに現実味があったからに他ならないし、旨味もあると考えたからである。
 
それから順風満帆に進んでいた野望。それがあと一歩というところで手が届かなかった。しかしその実績を買われて既存権力のトップに助力を乞われるのだから望むところであった。得意顔して参上しないわけにはいくまい。
 
安部を賢いと考える人間はおるまい。どう考えても橋下徹の方が賢いであろう。でも賢くなさそうな安部に尻尾を振って、実にわかりやすい芸をしてみせる橋下徹は賢いのだろうか。安部なんていうアホは、懐に入りさえすれば自分が食い殺せると考えているのか。いずれにせよ、安部政権や橋下徹を応援してしまう人間に賢いのは居そうにはない。
 
アホ丸出しの安部首相とか、その取り巻きが少しでも素晴らしいと思えたならば、ちょっとは自分の見識というやつを疑ってみるべきではないだろうか。

butao.hatenadiary.com

 

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宮崎駿の主張には理があるのか?

まさに我田引水なんだけど、釈然としないことなので温玉ブログでもこの事について触れたい。そもそも辺野古基地とジュゴンについての話は何度もこちらで取り上げていることでもあるし。

 

moteradi.com

 

Twitterだの見なければ良いのだけど、どうしたって目についてしまうことがある。なかでも宮崎駿は子供たちの未来よりジュゴンや自然を守れというのか?」なんて批判をうっかり読んでしまった日には頭がくらくらして倒れそうになる。

 

子供たちの未来のために、自然とか、ジュゴンとか残してやろうていうのがこの運動の主旨だし、子供たちの未来のためにろくでもない戦争に関わることは反対していこうというのは当たり前のことじゃなかったのか。

 

「子供たちの未来のために集団的自衛権と米軍基地をプレゼントしてやろう。」

 

かなり……狂ってるような気がするのは僕だけだろうか。

 

しかし日本では狂って無いのかもしれない。日本人的な感覚でいえば当たり前のことなのかも。

 

沖縄戦といえば未曾有の戦死者を出した戦いとしてご存知かと思う。県民の多くが死んでしまって死にすぎたせいで何人死んだかわからないくらいだ。

 

海軍の守備隊の大田実指令が自決する前の最後の電信は有名だ。

 

沖縄県民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 

かくして、日本政府(ひいては天皇陛下)から「後世特別の御高配」として県民にプレゼントされたのが現在の米軍基地である。

 

米軍基地は良いものという認識。ただし自分たちの近所にあってもらっては困る。こういう日本感覚がずっと養われてしまっていたのでは。それだったらとんちんかんな宮崎駿批判も納得できないけど理解はできる。米軍基地を原発に置き換えても同じことになるようだ。

 

原発はぜったいに必要だけど都内に作って貰っては困る。でも君たちも原発で利益を得ているんでしょ。どうせこんな田舎ではろくな商売もないでしょ。」

 

うううむ。まったく米軍基地と同じロジックである。

 

米軍基地のまわりでレイプ事件や墜落事故が起きても知らん振り。

 

米軍基地が無ければ中国がたちまち襲ってくるというならば、それこそ皇居のそばに設置してもらって防衛して貰えば良いのだし、都内で電気が足りないとか本気で思ってるなら原発かって都内にいっぱい作れば良いのだけど。

 

それを指摘すると「わかってない」みたいにしたり顔で言う輩たち。僕は本当に、心底、そういう人たちが嫌いである。顔も嫌いだ。

 

そういえば宮崎駿原発批判をしたときも「じゃあ電気を使ってアニメとか作るなよ!」と口汚く罵ったりした人たちがいたっけか。じゃあ原発止まっている現在はお前らが電気を使うなよって正論で返したいところだけど。そもそも原発の発電量なんて公式発表でさえ三割程度だったんだから、原発推進するならその三割で生きろよと。そして沖縄には原発は無いってことは無視したりする。

 

こういう感覚を狂っているって思わないようでは、日本人の民度というも地に落ちてると言わざるを得ないんじゃないか。そもそも民度が高かった時代があったのかと疑問にさえ思えてきた。

 

マッカーサー「日本人の精神年齢は12歳」と言ったのは正しかった。歴史と伝統文化だけは無駄に長いけど、そもそも民衆として成熟する期間なんて、それこそ明治維新からこっちしか無かったのじゃないか。

 

海外の情報なんかにも、なんとかかんとかアクセスできるようになったのも戦後の何十年かでしかないのでは。とくにインターネットの普及が大きい。そういう歴史経緯や環境面などを考慮すると、自分たちが国内で教えられている「信頼できる情報」てやつは、実はかなり偏ったものなのだと、もっと謙虚かつ慎重になったほうが良い。

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今世紀中に派遣労働者が開放されることはないかも

少し前だけど、かなり絶望的な気分になれる本を読んでいた。

 

アメリカ黒人の歴史 新版 (岩波新書)

アメリカ黒人の歴史 新版 (岩波新書)

 

 『アメリカ黒人の歴史』。実にストレートなタイトルである。本の内容もストレートなもので、アメリカ黒人の歴史をつらつらと記述している。アメリカにおける黒人の歴史を語っていくと、それはすなわち奴隷と差別の歴史になってしまう。

 

アメリカ黒人の歴史は1619年から始まる。1619年というと日本では江戸時代だ。関ヶ原の合戦で勇名を馳せた島津義弘が亡くなった年であるけどそんなことはこの際には関係がない。

 

意外なことだけど、1619年に最初にアメリカに上陸した黒人たちは、いわゆる奴隷という身分でもなかった。年季奉公人という立場だった。

 

ようするに「4~7年くらい働いたら身分を認めて開放します」という契約で連れてこられた労働者だったのだ。そして黒人と一緒に白人の年季奉公人もたくさん連れてこられていた。

 

しかし次第に年季奉公人たちは自分たちに課せられた不利な契約に対する不平不満が募るようになってくる。そして白人も黒人も結託して反乱やストライキなども行われるようになった。そこで地主などは、扱いづらい白人の奉公人を雇うのをやめて、コストが安くコントロールしやすい黒人労働者のほうに労働力をシフトさせていくようになる。

 

そして黒人の奉公人の数はどんどんどんどん増加していった。

 

ほとんどの奉公人が黒人に置き換わったときに「彼らを人間扱いするのをやめよう」という風潮が完成することになる。ヨーロッパの植民地では奴隷が当たり前だった時代なので当然の流れではあるかもしれなかったが、ついに法律によって奴隷という存在が決定的に制定されてしまったのだ。法律では奴隷は所有物でしかないので、雇い主が煮ても焼いても自由にしてよかった。

 

恐ろしい話だ。

 

もちろん白人のなかにも、奴隷制度を悪と考えていた人は少なからずいた。しかし奴隷を必要としていた資本家はたくさんいた。社会的に奴隷が認められている以上は、奴隷制度に反対する意見というのは(いくつかの運動の成果はあったにせよ)基本的には封殺されるしかなかった。

 

で、ご存知、南北戦争のときのリンカーンによる有名な奴隷解放宣言。

 

1863年のことだ。

 

1863年!!!

 

ちょっとまって欲しい。黒人が最初にアメリカに連れてこられて不利な労働を強いられはじめたのは1619年だ。その頃から黒人労働者は苦痛に耐えて生きてきたのだ。

 

なんと、250年もの歳月が経って、やっと開放される見込みがたったのだ。とんでもないことだ。

 

それからもアメリカ黒人の苦難は続く。

 

差別の嵐である。

 

なにせ、奴隷としては開放されたものの、法律は依然として人種差別を否定しなかった。

 

これに抵抗しようとする有色人種は袋叩きにあった。

 

有名なキング牧師が登場して、法律の上での人種差別を撤廃することに成功するのが1964年だ。

 

1964年!!!

 

奴隷解放宣言から100年くらい経っている!!!!

 

最初の黒人労働者が不利な労働を強いられた時代から考えて欲しい。

 

350年ちかくの歳月が経っているのだ。

 

それから時は流れて50年ほど経過した現代。アメリカ黒人はどうなったか。

 

白人警察に不当に射殺されたりして暴動が起きている!!!!!!

 

もう400年近くもアメリカでの黒人の扱いは低いままだということになる。

 

安い労働力として搾取することに端を発するアメリカ黒人の不幸がまだ解消されていない。

 

単純に時の経過を追うだけでも、暗い気持ちにさせられるアメリカ黒人歴史本である。

 

こんな本を読んだ後に、ふと日本において考えると、非常に酷い待遇で契約させられている派遣労働者や低賃金労働が開放されるのはいつなのかと考えてしまう。

 

歴史を考えていくと、もしかして100年後、200年後ということも。

 

そして酷さのピークはまだ来ていないという可能性も。

 

日本人の低賃金労働者では間に合わないから外国から労働力を輸入しようという考え方。完全に黒人奴隷の歴史と同じであることも追記しておこう。

 

いろいろ絶望的な気分になってしまった。

 

低賃金労働はよくない!是正されるべき!と考えている日本人も多いし、そういう運動もあるにはあるのだけど、現状を見るとあまり盛り上がっているようには見えないのがなんとも……。

 

日本にキング牧師って出現するんですかね?

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年収を1000万円にするための自己投資とは

 

リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間

リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間

 
リッツ・カールトンが大切にするサービスを超える瞬間

リッツ・カールトンが大切にするサービスを超える瞬間

 

 リッツカールトンの日本支社長の書いたリッツカールトンの新しいサービスの仕方を紹介した本を読んだ。リッツカールトンなんか泊まったことのない僕だけど、リッツカールトンのサービスのやり方や仕組みなどとても興味を惹かれるものが多くて、読んでいるうちに、一度リッツカールトンに泊まってみたいという気持ちになってしまった。リッツカールトンホテルそのものの宣伝本としても秀逸だと思う。

 

この本の中で得に記憶に残るエピソード。

 

誰の言葉かしらないけど「年収を上げたければ収入の5パーセントを自己投資にあてろ」という言葉があるそうだ。僕は初めて聞いた。あまり年収アップとか、自己投資なんてものに興味が無かったせいかもしれない。世の中のサラリーマンには馴染みのある言葉なのかも。

 

それについてアメリカのリッツカールトンの営業部長みたいな人が否定する。

 

「年収の5パーセントを自己投資にあてても、それは今の年収を維持する役目にしかならない。年収をあげたいなら、欲しい年収の5パーセントを自己投資にあてるべきだ」

 

なるほど、そういう考えがあるのか。

 

たとえば僕が年収を1000万円にしたいなら、年に50万円ほどを自己投資にあてるべきだということだ。

 

年に50万円……。

 

月々、4万円ちょっとを自己投資にあてるということだ。

 

当然ながら僕は年収が1000万円もあるわけではないので、月々4万円以上の出費というのはとんでもなく痛い。痛いけど、本当に年収を1000万円にしたければ、それくらいの覚悟は必要ということだ。

 

500万円にしたいなら、2万円程度でも良いだろうけど。一旦、年収を500万円にしてから、1000万円を目指すという手立てだって考えられる。そのへんは各自が決めたら良いことだろう。

 

しかし一口に自己投資といったって、何をしたら良いのかということになると、少し難しい問題である。

 

学校に通う?それは間違いなく自己投資だろう。

 

スポーツや運動をするのも良いと思う。

 

行ったことの無い場所や、美術館や博物館を見学するのも良いかもしれない。

 

カルチュアセンターに通って習い事するのも良いだろう。料理教室なんかでは、恋愛なんかも発展するという話は昔からある。たとえ年収があがらずとも、そういう楽しみがあればそれはそれで良いのではないだろうか。

 

読書も大切だと思う。僕の自己投資といえば主に読書かもしれない。けれど現代において読書なんてかなり入れ込まない限りは、実に安上がりの投資だ。

 

月に一万円もあれば、たいがいの読書は出来る。

 

読書だけで自己投資するなら年に12万円。もし営業部長の言葉が本当ならば、それで目指せる年収は240万円ということになる。後は運が良ければもっと年収があがることもあるかもしれない。

 

それで充分と思う人もいるだろうし、それじゃ足りないという人もいるだろう。僕はどっちかというと、年収240万円でも構わないといえば構わない。けど、リッツカールトンの営業部長の言葉を真に受けて1000万円を目指してみるというのも、それはそれで面白いかもしれない。

 

本によれば「最高のサービスを提供している」というリッツカールトンホテルを僕は体験していない。だからひとつ、あえて用事もないリッツカールトンホテルに泊まってみるというのも、僕にとったら自己投資になるのかもしれない。

 

日本でリッツカールトンホテルがあるのは今のところ大阪の梅田だけである。行こうと思えばすぐにいける場所。

 

そしてリッツカールトンホテルの宿泊は4万円ちょっとのが多い。

 

4万円ちょっと!

 

1000万円を目指すための月々にかけるべき自己投資額と奇妙に一致する。

 

なんかいろいろと上手く出来過ぎていて怖いなあ。

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ビールは時々刻々と腐っていく飲み物

ビールが好きと常々言っているけど、ビール飲みとしていちばん言わせてもらいたいのは、ビールは新鮮なものが一番であるということ。

 

ビール好きといっても、世界の津々浦々古今東西のビールを知り尽くしているわけじゃないから偉そうに言えないけど、少なくとも世間でもっとも流通しているラガービールに関しては新鮮なものが正義だと思っている。

 

つまりアサヒスーパードライとか、サッポロ黒ラベルとか、キリンラガーとか、オリオンビールとか、ハイネケンとか、バドワイザーとか…そういったみんながよく飲んでいるタイプのビールだ。

 

「一時間前は九時であった。一時間後は11時であろう。かくのごとく時々刻々われわれは熟していく。しかしまた時々刻々われわれは腐っていく」

 

ウィリアム・シェイクスピア『お気に召すまま』で道化師のタッチストーンのセリフであるが、ことビールに関しては、生まれた瞬間から腐っていくのみといっても過言では無いのかもしれない。

 

抜けるような炭酸。さわやかな麦の甘味。そして天然水でも飲んでるかのような爽やかなのどごし。そして後からじんわりと感じる心地よいホップの苦さ。

 

新鮮なビールの味の条件はたったこれだけだ。ビール工場で出来たてを試飲というと、たいていはこんな味なのだ。そういう味に近ければ近いほど、ビールとしては正解なのだ。

 

古くなったビールには、もちゃっとする苦味とか、へんな酸味とか、いろいろの味がベタベタと余計に張り付いてくることになる。時間の経過とともに、ビールの味は複雑みが増してくる。悪い意味で。

 

だからコンビニで買ったビールだろうが、居酒屋で出てきたビールだろうが、それが古いか新しいかを判断するのは比較的簡単で、味がシンプルなものほど新鮮だと思って結構なようだ。

 

昔は、そんな新鮮なビールを家庭で飲むことは不可能だった。しかし冷蔵輸送技術の向上がもたらした奇跡。スーパーやコンビニなんかでも、驚くほど新鮮な味のビールが飲めることがある。それこそ工場で試飲するみたいな。

 

たとえば昔だったらアサヒスーパードライなんて大嫌いだった。

 

美味しんぼ』じゃないけど、舌にスプーンを押し付けた味と言われたらなるほどと思うほどに変な味だと思ったもんだ。

 

それがである。何年か前にアサヒの工場で試飲してみたら驚いたことにけっこう癖のないスッキリした味わい。これがスーパードライの本来の味なのかと。

 

それから改めて缶でスーパードライを飲んでみたら工場で飲んだ味に近かった。じゃあ昔嫌いだったスーパードライってのは、ようするに半分腐ったようなビールだったのかなと思ったもんだ。

 

それからスーパードライは、特別嫌いなビールでも無くなった。居酒屋でメニューにあればそれで良いかなと思うほどには。

 

ちなみに今売っているスーパードライを、ずっと放置していたら、昔嫌いだった味になるのかどうかの実験はしていない。単にスーパードライ本体の製法が変わっている可能性も無きにしもあらず。そうだとしたら、アサヒも、かつてのスーパードライは不味かったってのを自覚していたということになるけど。

 

それはそうとして冷蔵輸送技術の向上で飲めるようになったといえば、生酒というのもある。生酒というのは、大雑把にいうと、日本酒コーナーで「要冷蔵」というラベルが貼ってあって冷蔵ケースに入れられているお酒のこと。あれは、かつては、酒蔵で飲むより他に仕方が無かったものだ。今では生酒なんて普通に酒屋で売られている。

 

火入れ処理をしていなくて酵母が生きている生酒はたしかに美味い。かといって火入れ処理して酵母の成長が止まっている酒が美味しくないかというとそうでもない。何を言いたいのかわからなくなってきた。だけど、やっぱり、酒だって、あまり置き過ぎると良くないだろうとは思う。

 

ビールだって今は加熱処理していない生ビール(ドラフトビール)が多いけれど、サッポロラガーのように、加熱処理しているビールだってまだまだ売られている。そっちもファンが多い。生ビールのサッポロ黒ラベル、クラシックな味わいの加熱処理のサッポロラガー。僕はどちらも好きだ。

 

 

 

なんだか益々よくわからなくなってきたが、どちらにせよ、ビールは早めに飲むのが一番である。冷蔵輸送技術の発展に乾杯である。

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