実はしばらく前からnoteに執筆を始めてたんです。こちらです。
じゃあこちらのはてなブログはどうしようという話。ほんとどうしよう。なにかの棲み分け案があればいいのだけど。せっかくなので活用したい。
実はしばらく前からnoteに執筆を始めてたんです。こちらです。
じゃあこちらのはてなブログはどうしようという話。ほんとどうしよう。なにかの棲み分け案があればいいのだけど。せっかくなので活用したい。
この記事を読んで思うところがいろいろあった。
銅像の撤去運動に違和感を覚える人というのは、大別してこの両者に分かれると思う。
「現代の基準で過去を裁くな」という人と「像には罪がない」という人だ。
これは一度確定した偉人としてのポジションを崩すのを是としないというか、歴史を歴史としてではなく「物語」として認識し受け入れてしまってる人も、多分に含まれるのではないか。つまり「豊臣秀吉は百姓から成り上がって天下人になった」という世界観に子供の頃から慣れ親しんだ世代が、そのあと色々と史料を見聞して新発見もあり研究が進んだ結果、「秀吉は百姓の子とはいえないしそれなりの身分の武士の子やん」とかになってきても、「イメージが崩れるからやめて」とかなってしまう歴史観のアップデート拒否勢。
当たり前だが歴史というのは物語じゃないし、新事実が発見されたり解釈が変わったりするたびにコロコロと変わっていくものなのに、「俺の物語」から一歩も出ない人たちは往々にして頑なだったりする。武田信玄の肖像が昭和まで知られていた禿頭で髭の大柄の図じゃなくて、小狡そうな痩せた男の方が実は歴史的には本物だと言っても「そうは言っても、大柄な貫禄のある像を既に作ってしまったし、甲府の地元としては受け入れない」とかいう人たちが現れたり、司馬遼太郎の小説の中のイメージで歴史を語ったりしてしまう人たちが後を絶たなかったりするのはそういうわけ。
全ての人類に対して、「歴史を正確にイメージする行為と、歴史を物語として捉えることには明確に区別をつけろ!」と言っても難しいのは分かる。とはいえ、議論というのは常に事実ベースと、エビデンスに基づいて行わなければコンセンサスをとりようがない。主観を交えてしまうと余計な混乱を呼び込むだけだし、わけがわかなくなるのだ。うまい解決策が見つからないし困ったもんである。だから「自分の物語」を大切にする人たちには、こうした現実問題には割って入らないようにして欲しいとしか言えない。しかしそれはそれで排除的だし民主主義の思想に反するし何か悪い予感もする。
ややこしい。たしかに銅像を建立したこともひとつの歴史的経緯だし、銅像だって歴史的建造物になってたりするし、なんなら美術的価値も出てきたりしている。それ考えると川に叩き落とすなんてのは、カーネルサンダース人形を道頓堀に叩き落とすより酷い行為に見えるのかも。これはこれで、「じゃあ注釈付きで博物館にでも移設しましょうね」と言えば解決のような気がするが、すべての銅像や石像を移設保管なんて出来るわけがないし、その場所にその像があることによって観光名所になってるみたいなこともあるだろう。
長年ずっとそこにあったものを破壊してしまうのは忍びないという気持ちは分からんでもないが、ここについても客観的事実を大事にするか、自分の中の物語を大切にするかの対立軸が見えて来るように思えてならない。歴史に誠意をもつなら、銅像の建立という歴史だって大事だが、その人が歴史上で何を成したのかという面にも誠意を持ちたいと思う。有名だからとか、ぼんやりした偉人イメージだけで讃えられるのは良くないと思うんじゃないだろうか。もうそれは宗教に近いし。せめて「過去に偉人として讃えられた経緯はあってこんな像があるけど、実際は奴隷制度で儲けた人なので尊敬できません」などという注釈はでっかく書いておきたい。でも余計にややこしくなるか。
デカい像はデカい像というだけで尊敬のアイコンになってしまっている。だから像というものは議論の対象になるのだ。やはり後腐れなく撤去が相応しく思うのだけど。いくら有名人だからって、例えばエド・ゲインの像とか宅間守の像とか地元に建てないでしょ。「彼らみたいな犯罪者と違って、像になってる人たちは、少なくとも当時は称賛されてた人らだから良いんだ!」と言い方をしてしまうと思考停止だし、認識のアップデートの妨げだろう。
こういうことをアレコレと考えつつ、じゃあ我が国ではどうかと振り返ってみれば、渋沢栄一が一万円札になるとかいうのを思い出して暗澹たる気持ちになった。渋沢栄一はなるほど日本では歴史的偉人だし有名人だ。しかし思いっきり戦前の価値観での偉人。戦後の価値観に照らし合わせたらとんでもないことをたくさんしてるし、両手をあげて現代で称賛できる対象の人じゃないだろと。昔からお札になってたとかなら仕方がないが(もしそうならそろそろ変えようという議論が出て良いレベル)、少なくとも2024年だかに選定されるのは「日本の価値観は戦前レベルから進歩してません」「もちろん戦争の反省もしとりません」と言ってるようなもんだ。
かたや、日本のあちこちに戦国武将の像なんかが建てられている。それもずっと昔の時代からあったとかではなく、わりと近年に建てたれたものが多い。NHK大河ドラマに合わせて建てられがち。NHK大河ドラマの戦国時代率は異常ともいえる。武士の話だけに区切ればもっと比率は上がるだろう。ドラマは娯楽だから何でも良いのかもしれないが、いちいち共感性の高い人物として描くために、歴史を捻じ曲げて伝搬させている点は気になる。そしてその度に武将の像は増えていくし、近年のゲームなんかの影響による戦国ものブームなんかも確実に後押ししている。2020年になって今川義元の像が静岡駅に建てられたとかいう話には驚愕するしかない。
個人的にいえば、戦国時代には詳しいので(幼少からのゲームや大河ドラマの影響!)、戦国武将の像には親近感は覚えるし、建ってたら見たり撮影してみたいという気持ちは人よりもたぶん強い。けど、なんか武将が偉人扱いされてるのは、さすがに違和感はある。戦国武将なんてのは今でいう武闘派ヤクザみたいな人たちだ。人の首を狩りとって天晴れと言われていた無茶な時代の人。現代の基準で言えば全くもって偉人ではない。清水次郎長みたいに物語のキャラとしての戦国武将と、歴史上の人物としての戦国武将は分けて考えた方が良いのに、その辺を厳密に区別せよというのは万人には不可能な話である。像になってたら偉いと勘違いしてしまいがち。だからもういっそのこと「ひこにゃん」みたいなキャラだったら罪がないのになと思うのだけど。
そうは言っても、柴田勝家像とか、黄金の織田信長像とか、見たらわけもなく興奮してきちゃうし写真も撮影してしまうのだけど。あくまで好きな人向けの像(ポケモンみたいな)として処理してもらいたいと思うけど、それじゃあ予算が集めにくいのか地域の偉人加工されがち。しかしNHK大河ドラマで明智光秀とか、さすがに違和感しかない。明智光秀も像が立ちまくり偉人扱いされていくのだろうか。2020年だというのに!
これを機に、明智光秀が実際はどんな人だったか詳しく勉強してみよう…だったら良いんだけど、物語としてのドラマを真に受けて終わりって人が多いんやろね、と考えると戦国時代好きとしても悲しいと思った。
像も「かつてこんな人がこの辺にいた」という感じで、正確な説明とともに建ってるだけならまあ良いのかもしれんけど。「かつてこの辺の荘園を管理していたが苛烈な取立てで反乱を起こされた人」みたいな像もあって、笑った記憶がある。さすがに名前すら覚えてないわ。(写真は敦賀駅前の日本書紀の人。とくに偉人扱いされてるわけじゃない)
まあまあ、深刻じゃない認知バイアスなんてものはあんまりないんだが…。デイヴィッド・ダニングという人と、ジャスティン・クルーガーという人の研究成果としてダニング=クルーガー効果という認知バイアスの提唱が今回のテーマ。アメリカの研究だ。
どういうバイアスかを簡単に説明すると、たとえば車の運転の下手な人は、車の運転についての知識や経験が足りないゆえに、自分の実力を過大に評価しがちという話。車の運転をする人に「自分の車の運転は平均より上ですか?」と質問するとしよう。「過半数の人が『平均よりも上』と答える」というあり得ないことがしばしば起きたりする。
反対に、トップクラスに運転技術のある人に対して「あなたの運転のレベルは?」と尋ねた場合は、高度な世界を知ってるが故にいくぶん謙虚な自己評価が返ってきがちだ。
つまり、バカはバカがゆえに自分をかしこだと思い込むし、かしこはかしこゆえに自分をまだまだだと考えがちという残念な話だ。これによってお互いの認知のすれ違いは甚大なものとなっていく。いつだってバイアスというものは恐ろしい。
バイアスによる落とし穴を完璧に避けるのは人間には不可能だ。なにしろバイアスと呼ばれるものは、人間の感覚器や思考や認識能力の欠陥そのものだからだ。感覚を一旦捨てて数値の測定などの外部の基準に頼ることで真実は見えてくる。
ダニング=クルーガー効果にしても、実力のランキングが完璧に統計されている場面では働きにくい。たとえばオンラインゲームなんかでは、全プレイヤーに対して自分のスコアーがどのレベルにあるのかが常に集計されている。この状態で自惚れるのはなかなか難しい。自分よりも上手いやつが世界に何万人もいるかと思うとうんざりする。またはTwitterみたいなSNSでもいい。自分のフォロワー数を見れば、冷徹なくらいに自分の人気の度合いがわかってしまう。YouTubeなんてまさに再生数が収入に直結してるので分かりやすい。じぶんの再生数が3桁しかなかったとして、何億再生という人気YouTuberに向かっていこうという気概が生まれるだろうか?
それでもなお、自分に対する絶対的な自惚れのもてる人類しか勝っていけない時代なのかもしれない。ダニング=クルーガー効果というバイアスの利点は、「自分はたいした奴かもしれない」と勘違いする素人に、途方もないやる気を出させるという効果があるそうだ。賢い奴だったら絶対にしないような、たわけた冒険をしてしまう根拠のない自信。そのやる気の源が、単に無知がゆえとしたら面白い。散歩のついでにうっかりエベレスト登山するみたいなものか。もちろん登れずに遭難してしまう人類の方が圧倒的に多いのだろうけど。
今の情報化社会ではエベレストはエベレストであるというのはまたたくまに知られていくが、それでも怯まないような蛮勇の持ち主をふるいにかけてるとも言える。最初はうぬぼれから挑戦していたけど、ふとぶつかった高い山にビビってやめてしまうというような話はよく聞く。ランキングが完璧に整備された情報化された世界のエベレストに登ろうって人間は、よほどフリ切れた性格をしてるか、山頂まで行くことに必ずしもこだわってないのかのどちらかだ。前者にも面白い人間がいるだろうけど、後者もなかなかに思える。
逆に自分の立ち位置が明確に判別できない分野もいまだに数多い。こういう場面こそ、ダニング=クルーガー効果を発揮しまくる局面といえるかも。たとえば人間関係とか。自分はめちゃくちゃに他人に好れやすいと勘違いしまくってる人間を止める術はない。こういう奴は周りにお構いなくグイグイ行くし結果がどうだろうとへこたれないかもしれない。ほかにも、絵を描くだとか、文章を書くだとかいうことについては、上手さの順列をつけるのが極めて難しい。(人気や売り上げなら競えるが…)
つまり才能があるかないかは、実際のことより思い込みの力の強さがモノをいうし、思い込みが強ければ、それにかける時間や熱意も自然に多くなっていく傾向にある。自分を客観視することはリスク管理の上では大事だが、それが頑張りという面ではブレーキになってしまうこともままあるみたいだ。あなたは自惚れが強い方だろうか。なにかの分野で成功するには、根拠のない自信(自分の中では根拠があると思い込んでるものも含む)をもってる必要があるというが…。たしかにやる気なんてそんなもんだ
。そういうことを才能と呼ぶのかもしれない。
ご存知の通りの都知事選の結果になった。事前の予想を裏切ることなく、ほぼ皆が思ってた通りのまんま。できれば裏切られたかったが、現実は重く受け止めなければしょうがない。何度目の暗い日曜日だろうか。思えば第二次安倍政権発足後は暗い日曜日の連続だった気がする。都民の多くも残念だったかもしれないが、大阪府民の僕も残念だったのである。そして都民の何割かが歯がゆい思いをしているのは、維新にいいようにされてる大阪でも同じ状況だ。
さて、こういう結果が出てくると必ずでてくる言説というか誹謗中傷のようなもの。
「東京都民はバカじゃないのか」
「東京都民は小池百合子みたいなのがお望みなようだ」
「東京都民はやはり差別や右翼思想が強い」
「弱者救済なんて興味の無いのが東京気質」
もろもろの聞くに堪えない言いがかり。
これらのことには根拠も説得力も勿論ない。366万票という得票とはいえ、有権者は1144万人以上いるのであるから、この数字で「東京都民は小池百合子みたいな独善的な人物が大好き」などと一括りにするのは無理がありすぎる。少なくとも84万人以上は宇都宮氏にいれてるし、65万人以上は山本太郎に入れてるのだ。そして何より、これは大切なことだが、500万人以上は誰にもいれてないのだ!選挙の棄権行為は最大得票者に対する自動追認になるのは選挙システムの摂理ではあっても、思想確認の摂理ではない。都民の大半は意思として小池百合子を選んでないのは重要なところ。仮に山本太郎が最多であれば、山本太郎を選んだということになるだけの話で、都民の意思を問う上ではあまり意味がない。投票してないものについては「誰も選ばなかった」「投票がだるかった」という分析以上のことを言っても何も意味がない。
そして、小池百合子に投票した366万票についても、小池百合子の政策や実績を精査した上で投票した人がどれだけいるのかといえば甚だ疑問しかない。そうでなくとも「イメージ優先で選挙に勝ってる人間」と批判されていたのが小池百合子だ。今回の選挙にしたって、コロナで頑張ってる感のイメージで逃げ切ったと言われている。なのに当選したら「都民が百合子の政策に賛同してるのだ」などという原説をさも当然のごとく振り撒く人らはどういう了見なんだと。八つ当たりも良いところだろう。同じ人が「テレビ討論さえあれば、小池百合子が公約ゼロ達成なことなど有権者が知れば、宇都宮氏や山本太郎が当選する目があった」などと言ってたりするのが目も当てられない。世間の人の大半(つまり投票してしまった366万人のうちの大半)は小池百合子の政策を知らないから投票してしまったと認めてるくせに、同時に小池百合子の思想に賛同してると訳の分からないことを言ってるわけだ。
前にこちらに大阪の事情を書いたが、結局は大阪と同じで、東京都民の気質としての特殊性なんかはそんな無いとしか言いようがない。わが大阪府民がバカでないのと同じで、東京都民の多くはバカではない。最大の勝利要因はどう考えてもテレビメディアの強力なアシストによるものだし、テレビの影響力の強さに対して、ネット活動(それにしても立憲民主党による宇都宮餃子作戦はお粗末すぎたが)や街頭演説その他のメディア戦略が無力すぎただけだ。それと公明党の動員力の侮れなさも分かったと思う。大阪でも公明党の動員力は実に強い。
結局は、政策や候補者の人物を見極めて投票する人が少数派である以上は、メディアの露出やカルトによる動員力に偏りがあるとそれで大勢が決まってしまう。政治の文脈や候補者の政策を吟味しないで投票する人が多数でないことを理由にバカだというならば、日本中の有権者がバカということになるので、「東京都民ガー」と言われても困るのだ。大阪府民にしても同じ。メディア戦略で下駄を履かせられまくってるのだ。普段から維新が勝ちまくるせいで歯痒い思いをしてる大阪府民だけに、有権者の質がどうだと言われる悔しさは分かるので、今回の事で真面目な都民に同情してしまった。そして有権者はバカだの差別主義だのと愚痴っても、これから投票に行こうか迷ってるような人の反感をかうだけなので謹んだ方が良いと思った。それよりかは正しい情報を伝達する努力に努めた方が良いだろう。
あと桜井誠に18万票入ったことにことさら衝撃を受けている人も多いが、昔に比べてレイシスト支持者が増えているなんて事はありえないはずなので、そこまで大騒ぎするような事ではない。先ほども行ったが1144万とかいううちのたった18万だからそれが上限だとしたら大したもんじゃない。もちろん「いくらなんでも桜井誠に入れるなよ!」と力強く言っておくのは悪くはないだろう。都民にレイシストが増えてるなんてのは余計な印象操作だ。それよりかは、山本太郎や宇都宮氏みたいな弱者目線の主張に賛同する人がはるかに多い。絶対数で比べて欲しい。こちらはテレビでイメージ操作できないのにこれだけ入れてるのだし。
とにかく国民がテレビに頼らずに情報を得るという運動は推進していく必要がある。あれだけ情報がオープンになっている日本会議のことすら、大半の有権者は知らないのだから。これだけの情報の格差があってはしょうがない。そこからだ。桜井誠なんか右翼の躍進でもなんでもなくて、その前に日本会議や戦前勢力で固めている自民党こそが最大右翼としてずっと目の前にあるのに、ちょっと数字が付け変わっただけで大騒ぎしていたら本質を見失う。まあしかしそんな自民のカルト的な主張もネットの発達によって化けの皮を剥がされていって、支持力もじわじわと削がれていっているわけで、今の方向性で議論をすすめていくのが肝要かと思う。とにかく普段から情報を交換すること。僕自身、日本会議の話を知人に伝えたらたいへん驚かれたという経験が先日あったばかりだ。議論もなにも深まってないうちから、興味ない人たちにいたずらに投票所に行くことばっかり呼びかけたってしょうがないように思うが如何だろうか。
飲食店とかホテルで、店側に対してタクシー呼んでという親父がけっこういる。携帯を各自が持ち始めた時代以降、こんなもの自分で勝手に呼べば良いじゃないかと思うのだが、それでも今だに店に電話かけさせようとする連中が大勢いる。ウーバーみたいなネット配車サービスなんかも全盛の2020年のこの世の中。なんでそうなのか分からない。店に依頼してタクシー呼ばすのがステイタスなのか、彼らにとっては!?
これがド田舎の話とかなら、まだ僕も理解できる。ネット配車サービスはもちろん範囲外だし、地元のタクシーもよくわからんところが多い。都会感覚では分からないが、個人で配車を頼んでも来てくれないみたいな地域まであるらしい。そういう環境下で「店の名前で配車して」と頼むのは分からんでもない。それはしょうがない。
しかしだ!大阪の梅田みたいな都会のど真ん中の話!
店を出て道路に出れば、配車するまでもなくタクシーなんかバンバン走ってる!なんでわざわざ配車代まで上乗せして呼んでもらおうとするのか分からない。タクシーを電話で呼びつけると、配車代金という謎のものもかかるのだ。知っててやってるのか。
そういう事を客から頼まれた店側の反応は3つだ。
a.素直にタクシーを呼んであげる
b.自分で呼んでくれと言う(タクシーの電話番号くらいは教えてあげる場合あり。スマホで調べろやとは思うかもしれんが)
c.外に出たらなんぼでもタクシーつかまりますよと言う
別にお客さんなのだからaでも良いやん、電話くらいしてやれよと思うかもしれないが、実はこれはこれでやっかいなのは、曜日や時間帯によると配車してくれるタクシーがなかなかつかまらなかったりして面倒なのと、せっかく配車してあげても、タクシーが現れる前に「やっぱり道路で捕まえるから良いや」つって帰られてしまうと、タクシーに配車の責任問われるのは店だったりするのだ!
それで配車代金を弁償しろとまで言われる事は稀かと思うが、運転手に嫌味のひとつくらいは言われたりはする。そういうのが重なると、その店の名前ではタクシーが来てくれなくなるなんてのもある。なんでそんな目にあわされるのか。店としては理解できないと思う。
だったら、お客さんが自分の名前で勝手に呼ぶか、「道に捕まえにいけよ!」ってなるのはしょうがないと思う。こんな先鋭的なブログを読んでくれてる皆さんが、都会の店で「クルマを呼んでくれ(こういう言い方するやつ!)」なんていうイキり行為をしてる昭和オヤジとは思えないが、親しい店でもない限りそういうのはやめた方が無難だ。道に拾いにいくか、素直にタクシーアプリの使い方でも覚えて欲しい。
先日のことだ。頭の中に「カデンツァの嵐」とうフレーズが強烈に浮かんでグルグル回るという事件が発生した。
「カデンツァの嵐!?とても印象的な名称であるが、何十年も思い出さなかったフレーズでもある。自分はかつてカデンツァの嵐というものに関わったことがあるが、その後はずっと関わらずに生きてきたはずだ。そして今唐突に思い出してしまったが、それが何だったのかは全く思い出せない!」
お分かりいただけると思うが、これってめちゃくちゃ気持ち悪い。速攻で『カデンツァの嵐』をググって解消しようと思った。ググりさえすれば思わずハタと膝を叩く回答が得られるのは間違いなく、このもやもやが雲散霧消するのは約束されているのである。素晴らしいGoogle。はやくGoogleに行かせてくれ。
「『カデンツァの嵐』ってあれでしょ?そんな悩むこと?」と思った世界でも稀有な側にいる人は、これ読みながら逆の意味でもやもやしてるだろうけど今は我慢して欲しい。そしてそんな人が「その時にたまたま横にいてくれたら良かったのに」とは思ってる。
で、自分はもちろん「カデンツァの嵐」をググってようやく回答を得るわけである。なになに……「カデンツァの嵐」それは、ホンフゥの乱舞系の超必殺技の技の名前だった。もっと詳しく説明すると、SNKの大戦格闘ゲーム『餓狼伝説3』から登場してたジャッキー・チェンと刑事物語を合成したようなキャラであるホンフゥの使う超必殺技が「カデンツァの嵐」!!ちなみにこのホンフゥというキャラは最近の作品にはぜんぜん登場しないから、格ゲーちょっとやるって人の中にも、存在すら知らない人も多いかもしれない!!!
なんで僕の記憶の中に「カデンツァの嵐」とかいうのが強烈に刻まれてたのかというと、『餓狼伝説3』のROMを所有していて全キャラけっこう遊んでいたからだった。技名まで覚えているからには相当好きなキャラかというとそうでもなくて、ググるまでホンフゥの技だというのも分からなくなったくらい。
しかし今回の話にホンフゥもカデンツァの嵐も実はあまり重要ではなかったりする。言いたかったことは、「カデンツァの嵐」というワードでもやもやしたときに、Googleがなかった時代だったら一生もやもやして生きるか、たまたまSNK大辞典人間とかホンフゥガチ勢みたいな人が隣にいて「カデンツァの嵐ってさあ〜」と説明してくれるか、たまたま餓狼伝説3なりリアルバウトなりを真剣に再プレイしてホンフゥの技表を見るとか、そういう事でもなければ思い出さなかった自信があるのだ。
人々はGoogleに代表されるインターネット検索が無かった時代の感覚をもはや思い出せない。ごく当たり前みたいに検索してしまっているから、Googleがどれだけ人類のもやもやを解消してたかなんて分からなくなってるだろうなと思った。Google以降に生まれてきた人たちなんかもっとわからんだろうな。今のインターネットの偉大さを。そんなことをこの度の「カデンツァの嵐事件」で再確認した。
自民党の新型コロナウイルス対策がひどい。何がどう酷いかをいちいち書いていったらキリがないので、僕は書かないが各自で調べて貰いたい。ダイモン号のこととか。今回ここで書くのは自民党の弱者切り捨ての基本姿勢についてだ。
こちらの神田氏の記事でも書かれているが、わかりやすい例でいうとイベント関連の自粛ムードが一番だろう。
安倍晋三がコロナウイルス対策として打ち出したひとつがイベントの自粛の要請。どういうイベントがダメで、どういうイベントが良いなどと特にもなく、ぼんやりした要請だけをだした形。あくまで国としては要請したが、中止するという決定は主催者の責任としてやれと。対策をやってる感だけは演出して、その実の責任はぜんぶ主催者におっかぶせたわけだ。だから補償も一切ない。その結果としては、体力のない小さい会社や個人事業主から潰れざるを得ない。それについて国は補償しない。なのに五輪は「経済損失になるから絶対に開催する」と鼻息が荒いのも安倍内閣。その前にこちらのニュースも腹が立った。
「集まってしまった7万人」だと。有象無象のイベントなんかいくら潰れようが、会社が倒産しようが知らないが、東京マラソンのような「経済損失になりそうなイベント」は強行するという合理性を欠いた姿勢。そして「集まってしまった」などといった責任をぼやかす主催者の発言に忖度するメディア。それを受けてのつじつま合わせかしらんが、「換気の悪いイベントはやめて」と突如として言い出し、ダイモン号下船者のずさんな検査から感染が広がったという経緯から「ビュッフェやスポーツジム」を単純に槍玉にあげて、そちらの自粛も要請する政府。いまだにずさんな検査の件は反省しない。自分たちは連日のパーティーや宴会。
今更わざわざ説明するのもなんだが、安倍晋三や麻生太郎やその他の自民党関係者が事あるごとに宣う「経済損失」だが、これはつまり自分たちの利益と、自民党のスポンサーであり「お仲間」である大企業や団体の利益の損失という意味だ。本来はコツコツ税金を納めたりしてる国民一人一人の損失を守っていくべき政治のはずだが、そちらの弱小企業や弱者の経済損失については知ったことじゃないというのが自民党の基本原理。そうでなくては、あれほど批判さへておりながら、法人税や高額所得者の税金を優遇したうえで消費税を増税するというコンボなんかを繰り返したりしない。このために失った我々国民たちの「本当の経済損失」は計り知れないが、彼らにとっての「経済損失」ではないので考慮はされない。
こうした安倍政権と自民党の弱者踏みつけの思想について、ずっと以前から警鐘をならし主張をしているが、消費税なんか実際に食らってもなかなかピンと来ないという茹でガエルみたいな人も多かったはずだ。「困ってる人がいる」と訴えても「その人だけでしょ」とか「自己責任だよね」などと無関心を決めてた人たちも多かった。原発の被害とか、米軍基地で被害受けてるだなんて話しても無視か、嘘ついてると疑われる始末。
しかし今回のイベント自粛や、なにがしの商業行為の自粛を理不尽に食らったり、根拠もあいまいなまま期間に区切りつけて学校が休みにされたり、マスクやトイレットペーパーやその他の生活必需品が手に入らなくなったりして、初めて被害者の気持ちになった人も少なくないのではなかろうか。これが無能な政府を長らくほったらかしたツケってやつ。倒産が増えてくるのも致し方ない。個人も、企業も、体力のないところから死んでいくようになっている。
イベント自粛に防疫上の意味がないとか、学校を休みにしてもしょうがないとか、そのような事を言いたいのではないのだ。根拠と補償と方針などをはっきり示せと言っている。アホがやってる感だしてるだけの思いつきで振り回されるのは個人事業主や非正規労働者など弱いものばかり。満員電車や五輪はそのまま。自分たちは大丈夫だからとパーティー三昧では筋が通らんだろ。この期に及んで、検査したら患者数が増えるからしたくないとか舐めとんのかと。
超資産家でもなく、経団連でもなく、政治家でもなく、安倍晋三を喜ばすタレントでもない人間は、等しく切り捨てられる予備軍の弱者だと考えて良い。コロナがどうとかの自粛ムードになったって別に生活していくうえでは一切影響がなくて、満員電車も乗らなくて良いし、マスクも家に配るほどあるってことなら、何かしら政権に守られている人なのだろう。もし今そういう状態でないならば、自分が弱者なのを自覚するべきだ。無関心でいたらいずれ酷い目に遭わされるべき存在なので気をつけて欲しい。
それにしてもこの期に及んで「イベントで生活してるのは自分で選んだ道でしょ」「有給も貰えない待遇で働いてるのは怠け者だから仕方ないでしょ」「満員電車が嫌ならそうでない仕事を選べたはず」などと信じられない言葉を浴びせかけてくる連中がネットにはいる。二言目には「なんでも安倍のせいにすんな!」と。頭おかしいとしか言いようがないが、もちろん彼らは政権の実体を知らないとか事実誤認してるとかではなく、ただそう言いたいだけの存在であるから、まともに反論しても時間の無駄だ。
では彼らは上に書いたような「政権に守られている連中」なのだろうか。どっかの有名企業の社長とか、現役議員とかでそういう事をぬかす輩はそうだと言えるが、そうでない有象無象アカウントの99%は自分自身も弱者なのだろう。悲しくなってくる。バイトでやってるアカウントも多いとは思うが、それも1記事数百円で安倍トモのランサーズで働かされている奴隷みたいな人たちか、右翼が喜びそうなことを書いてアクセスを集めて詐欺めいたことをしてなんとか稼ごうといる魂を捨てたような奴でしょ。なんか自虐的なものを感じる。
コロナウイルスが不安で人混みに飲みに行けない人むけにLINE飲み会を流行らせたい。いわばリモートワークの飲み会版だ。
当方はコロナとか流行る前からちょくちょくやっていた。Skype飲み会の頃から数えても十年以上前からなので結構なキャリアー。もてラジの収録だって、いってみればLINE飲み会みたいなものかもしれない。
めいめい好きなお酒やおつまみを用意して、LINEを立ち上げて会議通話するだけという単純さ。海外だろうがなんだろうがネット環境さえあれば誰でも参加できる強みがあるうえに安上がりで最高の飲み会なんだが、あんまり流行ってる雰囲気もない。なんでなんだろうか。
ちなみに映像付きのLINE飲み会はしたことがない。だらしない格好でも参加できるのがオンライン飲み会の利点だと思ってるので。動画のリアルタイム加工とかアバター的なものが気軽に使えるようになったらまた変わってくるのかも。
距離も関係ない。お金もかからない。寝ながらでも参加できると良いことずくめのLINE飲み会だが、現実の飲み会とは絶対に違ってる点がひとつだけある。それは参加者とハグできないとか、肩叩いたりできないといった当たり前のことではなくて、それはセクハラ防止に大いに役立ってさえいるのだが、そういうのではない。オンライン飲み会ならではの最大の特徴を簡単に言うと「話題のチャンネルを一つしか持てない」ということ。
つまりたとえば5人で居酒屋で飲み会して、3人はゲームの話題で盛り上がる、残り2人は野球の話題で盛り上がるなんて局面があるとすると、話題が2チャンネルで展開している。たとえばLINEの会議通話でこういった行為は不可能に近い。誰かが野球の話題を振ってるときは、残りの人間はそれに対して反応するか、別の話題を振ってイニシアチブ奪い、別のチャンネルを切り替えるしかないわけだ。
これ10人とか参加者がいたら凄いことに誰かの発言は残りの9人が耳を傾けている可能性がある。普通の飲み会でこんなことはまず起きない。全員に呼びかける時は「みんなちょっと聞いて」みたいな促しが必要だ。会議通話とはよく言ったものだ。ある意味で「会議飲み」ともいうべきものかもしれない。
これも3人くらいでやるぶんには全く問題ないし、そもそもLINEの会議通話ってそんな何百人とかは無理なはず。と思って「LINE会議通話 最大」とかって調べたら200人までいけるそうな。いつのまにそんなに。凄すぎる。
200人の飲み会だけで、常に1チャンネルの話題しか出来ない飲み会とか、異次元すぎて無茶苦茶に興味が出てきた。もちろん無視される発言も多いだろうし、大半の時間は数百人は聞いてるだけになるから、そもそも成り立つのかという問題もあるがやってみる甲斐はありますぜ。どんな化学反応が引き起こされるやら。
僕自身こんなことを提案してみたものの、実際に開催されたとしたら、空気読めない奴がずっと喋りっぱなし、しらけた人らが1時間も経たずガンガン抜けていくという、ものすごく不穏な会になりそうな予感はものすごくある。やはりカリスマ性をもったホストがいないと無理か。結局は今でいう配信みたいなもんか。
時代に合わせてLINEに新機能が!
LINE、グループビデオ通話中、 スマホの「LINE」でもパソコン画面を一緒に見れる 新機能「画面シェア」を本日より提供開始 | ニュース | LINE株式会社
あけましておめでとうございます。
お正月である。去年から僕とてっちゃぎと、もてラジ聴いてくれてる界隈で始めたお正月の風習があって、それは「元日におろしたてのパンツを履く」というものだった。
そもそものことの起こりは『ジョジョの奇妙な冒険 第四部 東方仗助』のハイウェイ・スター戦において、難敵のハイウェイ・スターの本体である噴上裕也をブチのめした仗助が以下のセリフを吐いたことだった。
爽やかな気分の比喩表現に「新しいパンツをはいたばかりの正月元旦の朝」ときた。これがジョジョファンの心に永遠に残り続けたのだった(少なくとも僕の知ってるまわりでは)
思えば全盛期のジョジョは村上春樹ばりに比喩表現が多かった。「コーラを飲んだらゲップが出るくらい確実」だの「エンジン音を聞いただけでブルドーザーだと認識する」だの。荒木か担当編集者が村上春樹にハマってたのかと思うくらい。そういえば承太郎の口癖は「やれやれだぜ」だった。
そんなジョジョのこのシーンだが、たしかに難敵だった噴上裕也をブチのめした感想として「新しいパンツをはいたばかりの正月元旦の朝」という仗助の比喩表現は、爽快な気持ちを表現するものとして説得力の塊だったのだ。たった一つ、「正月元旦に新しいパンツをはいた」体験が実際は一度も無いということを除いてはなー!
そんなわけで去年から、みんなで正月元旦にはおろしたてのパンツを履こうとラジオで呼びかけた。それで賛同者が現れてムーブメントになっていったのだ。みんなで噴上裕也をブチのめしたのと同じ気分を味わいましょうと。
ただ、ジョジョの漫画のネームをくわしく検討すると、「新しいパンツ」としか言ってなくて、必ずしも「おろしたてのパンツ」かどうかは分からない。なんか、記憶のなかで「おろしたてのパンツ」に勝手に変換されていたきらいがないでもないが、正月なんだからおろしたてのパンツでしょうということで。
そんなわけで去年は12月中にパンツを買っておいて、年が明けるのをまって履いた。みんな爽快な気分になったと思う。正月元旦の朝に新しいパンツを履く気分を、どう説明したら良いだろう。ちょうど、東方仗助が噴上裕也をブチのめした時みたいな気分だろうとしか説明できないが、とにかくスゲー爽やかなのだ。
これでハマった人たちが今年もパンツを用意したと思う。今年の僕はギリギリ12月中に買うタイミングをとれなかった悲劇があった。しかしそんな時のために、新品のパンツを一枚残しておいたのだった。人間、いざという時のために、新品のパンツの一枚も残しておいた方が良い。僕も来年に向けて1月中に確保したいところだが。
これが今年用の新品のポロラルフローレンだ。正月元旦ごとにちょっと良いパンツを買っておくのは良いアイデアだ。毎年一枚とかならそんな高い投資ではない。まあ、これはけっこう安く買った記憶はある……。ネットとか活用するて良いかも……。
今年は靴下も新品のにした。まあ、わりと日々、靴下は新品のをおろしてる。これもそんな一足でしかないが、せっかくなんで元日も新品でいくて良い。気分爽快。たいした投資ではないのだ。
これらのアイテムを装着して、元日の街に繰り出したら楽しくてしょうがない。新品の下着を装着していたら心の余裕が違う。みんなが毎日新品の下着を着用できるくらい豊かになったら戦争とか無くなってるんじゃないかと思う。そうでなくても洗濯したての服を毎日必ず着れるだけで全然違う。靴下を履き替えただけで疲れがとれた経験は無いだろうか。あれ、なんなんでしょうね??
とにかく、来年末に向けて、みなさんも新品の下着を用意しておいてもらいたい。約束だ。
では、今年もよろしく美味しんぼ。
思うところあって、12月8日から毎日1記事を更新するという活動を続けている。この31日に至るまで続いているので3週間は超えている。どこまで続けるかは不明。更新し続けるモチベーションとしては、「1日1回は更新するという活動をやってみよう」と自分で意識してやってるというそれだけ。ただそれだけ。それ以外は全くない。本質的には記事を書き溜めていきたいという欲求だけなのだろう。
どれだけ理由なくやってるかを分かりやすく説明すると、毎日更新を始めた最初の週からブログへのアクセスがだだ下がりというのがある。これが安定して下がっていっている。毎日更新する前の「気の向いた時に更新」の頃は、良い具合にアクセスアップしていたのだから、毎日ブログを更新するのはアクセスアップに悪いのは明白だった。だからアクセスが集まるのがモチベーションというのはありえない。毎日書くと決めて書いてるうちにどんどん乗ってきて、もっと書きたくなったから、アクセスダウンも意に介さないで書いているだけだ。あまりにアクセスが落ちるので、むしろ面白くなってきたくらい。
「ブログのアクセスを集めるには高頻度で更新すること」なんて言われるけど、これは正確ではなくて「アクセスを集める記事を高頻度で書くのが正解」というのが正しい。思えばずいぶんと人をバカにしたアドバイスだ。野球で例えるなら打席で投球ごとにバット振れといってるのに等しい。そりゃバット振らなきゃヒットやホームランは出ないが、四球やエラーになる可能性を完全に棄てている。物事の一面しか捉えてない。
空振りストライクに近いアクセスを集めない記事を日々更新してくと、ヒットになっている記事が下に埋もれてしまって、かえってPVが下がるのかなと推測する。つまり元々の僕の更新頻度で書いていた記事は、アクセスを集める記事が偶然にも良い塩梅のタイミングで出現しており、それによって何も書かなくてもアクセス数を稼いでいたのだろう。今は問答無用に更新されるので、アクセスを集める記事の出現テンポが理想とはズレてしまったのだと思われる。
けど、僕としてはそれで構わない。そもそもPVを集める記事が何かという明確なラインはないのだから。それを意識してやり始めると、キュレーションサイト的な方法論に陥りがちになり、きわめて個人的な記事を書くというブログ本来の楽しみは泡と消える。日常のつまらない仕事みたいに、苦痛しか生み出さない作業になる。しかしブログで収益をあげようみたいなことを宣う輩は、そういう方法論をしきりに吹聴したりもしている。単純なアフェリエイトによるブログ収益なんてものは、大勢の高アクセスブロガーから否定されてきたにも関わらず…。
アクセス数を減らしながら毎日更新している現在の方が、自分としてはかなり楽しい。インプットに対するアウトプットがちょうど釣り合っている感覚がある。いってみれば脳がかなりクリアな感じ(完全にではないけど)。普段やっているラジオでも、こうして書いているブログでもそうだが、アウトプットが滞っていると糞詰まり的な気持ち悪さがどうしったって残ってしまう。見聞きしたり思ったことが未処理で脳内に積まれたままになっているのは、部屋にゴミがたまり続けている状態に似ている。僕はリアルでも部屋にゴミを溜め込むタイプの人間だし、仕事机にものを山積みしたりしがち。わかっちゃいるけどやめられない。
ちなみに、技術的な面の話をしておくと、現在のブログの更新を支えているのは、はてなブログ専用スマホアプリなのは間違いない。以前は使い物にならないイメージだったけど、現在のバージョンだとわりと普通に書ける。スマホで書けるのはものすごく助かる。「そんなのみんなやってるでしょ」とか言う人が出ちゃうかもしれないが僕はやれてなかった。なんだかやりにくかった。かつてガラケーでブログを書いていた時代もあるにも関わらずだ。今までブログやってて最も面倒だった画像の転送についても、スマホから書いてしまえばそのまま転送できるので非常に楽。今まではGoogleフォトに転送して、そこからいちいちダウンロードしていたので天と地くらい違う。もうこれだけで萎えてしまっていた。作業環境というのは極めて重要だ。
アプリ版はアイキャッチ画像の設定などができないとか不満もあるけど、書くだけだったらどんどん書ける。下書きでさっさと書いておいて、アイキャッチなどの微調整や清書はPCから行うとかすれば良い。もしくはスマホのブラウザから無理矢理はてなにログインして、アプリからいじれない部分をいじるってから更新するという最終手段もあるし。
出先でリアルタイムで書けるのも便利だ。12月は2泊で福山に行ったり岐阜県に行ったりしたが、それでもブログの更新が可能だったのは、思い切って作業環境をスマホメインに変えたから。リアルタイムで今いる店のネタを書いたりとむしろ出先のブログは楽しかった。普段Twitterなんかに費やしているリソースを、ブログに割り振った感じ。
あらかじめ一週間ぶんとか書き溜めておいて、更新予約を入れておくというやり方をしてる人もいるだろう。自分的には毎日書いてる感覚が出ないのでやらない。下書きにするときも最大9割くらいのところで止めておくことにして、その日の気分で仕上げたものを更新するようにしている。よくわからないが僕としてはこれが大事なようだ。
そんなわけで来年も1日から毎日更新してくつもり。どこかで途切れたら「あっ!」と思って欲しい。そこからモチベーションが消えて定期更新やめちゃうか、またすぐ次の日から再開するかの人間性が問われるので面白い。では良いお年をお迎えください。
れいわ新選組の山本太郎が梅田に演説に来るというので行ってみた。僕が到着するころにはもう演説は始まっており、マイクのスピーカーを通して山本太郎の声が響いていた。会場になった梅田のヨドバシ手前はご覧の通りの人だかりで、聴衆は山本太郎の主張に熱心に耳を傾けていた。
ちょうど場所的には大阪駅のヨドバシ梅田店をつなぐ連絡通路のあたりだったので、連絡通路や高架の上から見守っている人も多かった。有名人が来ているから通行人が野次馬しているというのではなく、ずっと動かない様子をみると、山本太郎の主張をちゃんと聞きに来ている聴衆だというのがよくわかった。
1時間程度の選挙演説はちっとも退屈することはなく、聴衆は多いに盛り上がっていた。従来の選挙演説というと老人くらいしか興味がない印象があったが、ざっと見渡しても年代も性別もバラバラな印象を受けた。高齢化社会と言われる現代ということを差し引くと、かなり若い人たち(といっても勿論20~30代だが)が多かったのではと思われた。
おそらくは日常生活においては接点がなさそうな職業も収入も年齢もバラバラな人たちが、ある種の一体感を持って山本太郎の主張に聞き入っていた。山本太郎の街頭演説に対して、一部では熱狂的な盛り上がりと掲揚されたりする事が多いが、決してカルト的なものではなく、聴衆たちは山本太郎の説明にいちいち納得して拍手を送っている雰囲気だ。僕も一時間ほどのあいだ、何度拍手をしたかわからない。
僕はもともと山本太郎の新党立ち上げに対しては、懐疑的な気持ちがあった側だ。それまでの政治活動の下積みを投げ捨てて、たった一人で党を立ち上げるなんて無謀にも程があると思っていた。「れいわ新選組」という党名もダサくて気に入らなかった。しかし下のYouTubeの動画をたまたま観て正直いって涙が出てきた。これほど本気で、政治に取り組んでいる男が今までいただろうかと思った。この短い映像で、人を引きつける演説をするほどまでにアジテーターとして成長していた山本太郎という人物に興味が出てきたのだ。
山本太郎 涙する 20190505 福岡・小倉駅 小倉城口前デッキ 参院選 れいわ新選組 全国比例
続けて山本太郎の政見放送を観た。見事と言う他になかった。短い中に、完璧な構成でもって、政治の構想を説明している。こんな理路整然とした主張を堂々と述べられる政治家は今までの日本にはいなかった。
【字幕入り】政見放送・れいわ新選組代表 山本太郎 参院選2019
まあ、そんなわけで、実際に生で観てみたくなって、たまたま梅田にやってくるという事で何をおいても観なきゃならんということで行ってきた次第だ。同じように考えた人がたくさんいたのだと思う。先に書いたようにかなり盛況だった。みんな山本太郎こそが自分の思いを代弁してくれる初めての政治家だと思ってやってきたのだろう。
大勢が集まりすぎてはっきりは見えなかったが、身振り手振りを交えたスピーチは人を引きつけていた。そしてやはり分かりやすく現在の政治の問題点と、政治家としての理想を説明していた。
れいわ新選組のボランティアや、聴衆者の中にはややこしい人は目立ってなかった。ごく普通の市民の集まりという印象が強かった。党の主張と同じに、特定の層に偏った集団ではないということだろう。
ピンク色の幟や看板も群衆の中で実によく映えていた。効果などが計算されまくっているように感じる。優秀なブレーンが揃っているのだと思う。
この山本太郎現象というものが現在はテレビなどでは全くといっていい程に報道されていないらしい。テレビで流してしまうとマズイと考えている人たちの思惑が働いているのだろう。NHKも政見放送は決まりなのでどんな人間の放送でもするが(悪名高い「NHKから国民を守る党」でも)、その他の番組ではオール無視だそうだ。
僕はテレビを投げ捨てた人間なので知らなかったのだけど、テレビを観てる人からそう教えられて驚きと失望しかない。国民の知る権利が侵害されているとしか思えない。
だから選挙まであと少ししかないが、もし山本太郎が近くに来るという人は、演説を聞きにいってほしい。それで本物かどうかを判断してくれとしかいえない。
ただ僕が感じたのは、山本太郎は現代日本のキング牧師じゃないかということ。話を総合的にまとめるなら、日本人労働者(フリーランスも含めて)という奴隷階級を開放するための運動をしているとしか思えないのだ。
そんなキング牧師をテレビは無視している。テレビでしか情報を得ない人たちにとって、これはものすごい損失だ。だって自分を差し置いて重度障害者を国会に送り込もうなんて考える政治家が今までいただろうか。創価学会員と公明党を戦わせるなんて大胆なことを考える政治家が今までいただろうか。僕は山本太郎のし掛けのいちいちに度肝を抜かれた。
この記事を読んでる人たちは、インターネットも使えている人たちだから、山本太郎の主張をYouTubeなどで観れるわけだし、ぜひ知ってもらいたいと思った。そして首都圏に住んでいる人なら演説の予定が組まれているので直接目で確認できるかもしれない。絶対に退屈はしないのでぜひ行ってもらいたいと思って書いた。
れいわ新選組の公式HP
という記事があって考えさせられた。みなさんが知っての通り、ウーバーというサービスは有料ヒッチハイクのマッチングサービスである。お金をもらって車に乗せたい人と、お金を払って乗りたい人をマッチングさせることで仲介手数料をもらう。それでタクシーの需要を食いまくって、世界中で莫大な利益をあげている。
日本では法律に阻まれたりして普及が遅れてはいるが、システムはタクシー会社経由で運用されていて、すでに大都市では利用が可能になっている。
ウーバーは車だけではなく、ウーバーイーツという出前サービスもやっていて、こちらも日本では大都市を中心に展開している。車と同じく、出前を頼みたい人と、出前をしたい人とをマッチングさせて、手数料をいただこうというビジネスモデルだ。
さて、今説明したとおり、ウーバーのサービスにおける運転手なり配達員なりは社員ではない。それぞれ、運転手や配達業で食っている個人事業主ということになっている。「顧客からこんな依頼がありますよ~」というウーバーの配信の中から、自分がいけるものを請けてその分の報酬をもらうだけだから、たしかに社員ではなくて単発の契約を繰り返しているだけの人といわれれば、そんな気になってくる。
そして社員ではないので、待機時間は単なる待機時間であってお金にならないし、事故や傷害などがあっても自己責任になる。様々な経費も自分持ち。なかなかキツいが、請ける請けないは自由だし…というのがウーバー側の言い分。あくまでもマッチングサービスにしか過ぎないという立場なのだろう。
売りたいと買いたいをマッチングさせてるだけのオークションサイトが、オークション出品者のリスクの責任までみますか?というのにも近い。(しかし最近は、高い手数料の代わりとして、そういう出品リスクの面倒も見るというサイトも出てきたけど…)
社員を雇わずに、ぜんぶ個人に丸投げして、運送業を成り立たせようとは、なんとも上手いことを考えたものだ。これだと人件費がものすごく叩ける。社会保険も雇用保険も払わなくて良い。待機時間の給料も必要ない。急成長するのも無理はない。しかし実際は先の記事にあったように、訴訟をおこされたり色々と批判が起きている。どういうことなのだろうか。
これには理由があって、個人間のマッチングサービスとはいうものの、運転手や配達員の実態というのは、完全にウーバー内の規定に従って労働しなければならないのだ。つまり、ウーバーの運転手なり配達員になるというのは、大企業の下請け会社を経営させられるのに近い状態になる。ウーバーの求める基準を満たしてなければ、契約解除されたり仕事を回してもらえないという事態にもなる。
だからその基準を満たすために、嫌な注文でも請けないといけなかったり、何らかの投資を強いられるなんてこともありえる。個人事業主といいながら、受注金額を決める自由もない。オークションだって、売る値段くらいは出品者が決めれるというのに。それでいて、どこまでいっても社員じゃないので、労働者のような保障はされないと。それで世界中で問題になっている。
ウーバーの運転手や配達員で生活費を稼ごうととしたら、ほぼ専属状態にならざるを得ない。ウーバーのような企業はウーバーしかない寡占状態なので、独立事業主とはいっても他所の仕事を請ける能力は無いに等しい。ウーバーのビジネスモデルにのっかって始めた以上は、ウーバーの下請けを続ける以外のことは出来ないのだ。
YouTuberとして好きなことで生きたければYouTubeやるしかないとか、ウェブサイトで稼ぎたければGoogle AdSenseには喧嘩売れないというのにも似ているが(あ、どっちもGoogleだった)uberの方がもっと過酷だ。YouTuberとかネット収益系なら、趣味で一日一時間程度ちょこちょこやって稼げませんでしたでも笑い話で済むけど、uberの配達員などはガチの労働なのだから笑えない。
たしかに、ウーバーの仕事に週に何時間を費やすかは、その人次第の裁量かもしれないけど、シフト提出の義務もないけれど、半笑いで出来る仕事じゃないのは誰でもわかる。YouTuberがGoogle社に対して「俺たちは従業員だ!と訴えたなんて仰天話は聞かないけど、uber社があちこちで「個人事業主じゃない!」と訴えられたりしているのはわかる話だ。「どこまでが社員で、どこまでが個人事業主であるか問題」に突入してしまっている。
「個人で配送業を立ち上げる!」とかいうと、かなりの気合と覚悟と、それなりの資金が必要だ。仕事がなければ、営業費や生活費で赤字を垂れ流すだけなのは素人でもわかる。けれどuberの配達員になるのは、バイトの面接よりも簡単に出来てしまう。しかし実態は、下請け事業の自動立ち上げでしかない。交通費や経費も出なければ、最低時給の保証もない世界に簡単に突入してしまう。己の才覚だけが頼りだ。
もちろん、好きな時間だけ裁量で働けるという良さは否定しない。uber側にとっても雇用の面倒さの大半をすっとばせるというメリットがある。けれど決してウィン・ウィンの関係では無いのが実態のようだ。こんなやり方が常態化してくると、これはこれで問題になってくる。
uber社がやっているように、一案件あたりの依頼という形式をとれば、かなりの種類の労働者を個人事業主化出来るのではないか。もちろん法律的な規定がいろいろとあるのは知っているが、それを掻い潜る対策を用意すればオーケーというのは、uber社が世界各地で証明してしまっている(ただし労働者であると裁判で判断されたケースも多い)。こんな業態が増えてくると労働者を保護する法律がザル化していく。(日本の労働者保護が、すでに非常に低いレベルにあるのは別問題として)
こういう話をすると「偽装社員みたいなものを認めないという基準を設けるべき」という結論にもっていきがちになるが、僕の考えは少し違っていて、「下請け業務や個人事業主に対する保護政策」を強化するべきじゃないかと思いはじめている。
現状では、個人事業主はあまりにも守られていない。個人事業主は「自己責任の塊」の存在と認識されている方が多い。そりゃそうかもしれないが、そりゃ無いよとも思わないでもない。圧倒的な実力を持っている大企業に対して、人間一人とかで対等に立ち回れるわけがない。はなから負けは見えている。
「それが嫌なら組織に入れ」と言うのは簡単だが、多様性が求められる現代社会の結論が「でかい会社に入るか、死ぬか」では夢も希望も発展性もなさすぎる。
YouTuberが憧れの職業になったり、uber社の労働システムが、なんだかんだで世界中でウケているのは現実だ。その背景にあるのは「労働者として面倒な会社に縛られずに働きたい」「自分のペースで働きたい」というニーズじゃないだろうか。
事業主、フリーランスという言葉に惹き寄せられる人間は多い。まあ、現時点では、そういった気持ちの大半は、踏みにじられ食い物にされるだけなんだけど…。プロブロガーのサロンとかセミナーとかも…。
だから、僕としては、フリーランス的な労働を保護するなんらかの概念が求められていると考えている。「必要な時だけ必要な労働」というのは、企業側だけではなく労働者側にも内在している願望のはずだ。
現状は、企業のパワーに任せた「フリーランスの乱獲」が横行していると表現できる。植物だって魚だって、無計画な乱獲を放置して良いことはひとつもなかったわけで、フリーランスや下請けだって乱獲を禁止すべきだろう。フリーランスや下請け業がしかるべく保護されれば、再生可能人的資源として社会は豊かになっていくに違いない。
セブンイレブンの店主など、コンビニオーナーが悲劇に見舞われるニュースをたびたび見聞きするが、あれなども実態は、社員同様に働かされている下請け業そのものの話だろう。せっかく私財を投じて個人事業主になったのに、契約解除をたてにとられて会社の言いなりで働くしか無いという罠がしかけられていた。
コンビニのビジネスモデルに乗っかって始めたのだから仕方がないだとか、不利な契約をしてしまった側は死ぬしかないのがビジネスだとか言ってしまうのは簡単だが、そんな自己責任論を繰り返しているだけでは、あまりにも前進がないし、uber社と仕事をして、結果的に泣いている人たちも救えない。
「イラストレーターとか漫画家とかラノベ作家とかプロゲーマーになりたい!」みたいな人が日本にはたくさんいるが、これはそういう人たちも無関係な話やないねんで。「なりたい!」って人が多いということは、まさに企業により、むちゃくちゃ乱獲されて搾取されている層でもあるということだ。よく考えてほしい。
Caba選手が大会賞金の未払いを告白「8か月待ってるけど、いまだに支払われてない。賞金をあてにしてCPTをまわる計画を立ててたけど、行けなかった。」 : チゲ速
もてはやされているプロゲーマーだって、実態はこんなものだったりする。儲けたい人にとって飯のタネというか、しょせんは都合のいい存在でしかないのかと思う。
いま話題の本『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』にも似たような現状がレポートされているので、こちらも参考にしてもらいたい。ウーバーがやっている個人事業主みたいな形態の労働や、それによって成り立っている経済をギグ・エコノミーというそうだ。今後、ギグ・エコノミーは、ますます拡大してく見込み。イギリスのゼロ時間契約みたいな状態に、大勢の労働者が追い込まれていく。
いま世界中のアマゾン倉庫では絶望者を生み出しているし、ウーバー車で発狂している人が多い。日本ではウーバーイーツが流行だが、あれも問題が続々と生まれている分野だ。ウーバー契約者同士による労働組合的な話が持ち上がっている。
佐藤秀峰も漫画家界隈の似たような話を書いていた。Kindle版はなんと無料!
本日、4月1日に、新元号が発表されるという事で世間は大騒ぎだったが、いざ聞かされた新元号はなんともしっくりこない、しまらないものであったし、終わってみれば「どうでもいいや」という気持ちだけが強く残るものだった。
思えば「平成」のときも同じような印象を受けた。「え?へいせい?なにそれ?しまらないなあ…」と思ったものだ。「へいせい」という語感にも気の抜けたものを感じた。
それから30年間「へいせい」を使い続けたわけだけど、自分の中では「平成」というものに対する感慨というものは最後まで生まれなかった。昭和生まれの僕ではあるが、もはや平成時代を生きた時間の方が長くなってしまった。が、「へいせい」は「昭和」みたいにしっくりくる語感にはなることはついぞ無かった。やっぱり仮モノ感があるというか。
平成生まれという人なら、平成はしっくりくるけど今回の元号はちょっと妙な感じ…となってるのかもしれない。わからないけど。
そもそも昭和の時は、子供心に西暦との比較も楽だった。昭和と西暦の変換さえ知っていれば済んだもの。昭和49年(僕の誕生年だ)から昭和60年までは何年経過したことになる?なんて質問は「バカにしてんのか」というほど簡単だった。もちろん明治とか大正とかの話はやっかいだったのであまり深く考えないようにしていた。
しかしそこに平成が加わると面倒さが加速した。昭和49年~平成15年は何年ありますか?なんて質問に対して、「1989年が平成元年である」というメタ情報無しにして回答することは不可能になるのだ。
そんなこんなで要らぬ面倒(しかも生産性ゼロ!)をかけられたせいもあって、平成時代になってから、むちゃくちゃに元号というものを恨むようになった。そこに今回で3つめの元号が加わるわけだがから、自分の生きた範囲の時代のことを考えるだけでも、いちいち和暦を持ち出されたらものすごくややこしい話になってしまう。
おりしも僕が幼少期を過ごした80年代くらいから、世間はコンピューターブームであった。僕もご多分に漏れずコンピューター関連のものにドハマリしていくわけだ。コンピューター上では西暦を使うのが当たり前だし、和暦で計算するためにはメタデータが必要だし、不合理極まりないという気持ちが強くなってくる。
「なんだ、この邪魔なのは!」
平成の30年間は、元号制度に対する恨みの30年であった側面もある。書類で和暦で書かされるたびにイライラしたものだ。役所の書類なんて200%、元号表記になってませんか。あれなんでやねんと思う。やはり元号に対して権威付けたかったのかと。
それと何故か履歴書って「元号で書かないと駄目」という「手書きでないと駄目」よりも根深い呪いがかけられている気がする。特に僕のような昭和時代を生きた人間からしたら、学歴・職歴欄が面倒すぎた。履歴書などを元号で書かせるというのは「履歴書を書かない人類」を増加させる理由になりうる悪習だろうと思う。
「手書きの履歴書を求めるような会社はブラックだからやめとき!」ってのはよく言われるけれど、社内の書類をやたら元号で書かせる会社もブラック率が高いと思っている。ブラックな会社ほど、なんでか元号が大好きだ。そういう会社は効率とか合理性とかを考えない古い体質だからなのだろうと推測される。
あと、平成の時は、昭和天皇が亡くなってバタバタしてるうちに決まったから、とくにどうとも思わなかったが、今回は平成天皇が亡くなって急に決まったというわけはなく、生前退位に合わせてスケジュールが万全だった。なのに発表権は政府がガッチリと抑えており、2019年の4月1日に発表するまで何者も漏らすべからずと一方的なお触れが出たわけである。何様やねんと。なんで安倍政権がそんな発表権を独占しとんねんと。国民の誰に問う事もなくトップダウンで決まっていた。
だから色々と回りも考える余裕があったわけだけど、「じゃあ、元号って誰が考えるの?」なんて話も出てきていた。僕自身、「平成を誰が考えたか?」なんてことは考えもしなかった。
「天皇家に私的な暦が日本国の制度になったものなんだから、そりゃもちろんのこと天皇家で決めてるんじゃないの?」とぼんやり思ってた。だから天皇家を象徴として認めている憲法下に生きる国民としてはありがたく頂戴するのだと。同じように考えていた人も多いのでは?
しかし実情は全然ちがってた。元号制定には天皇家は全くかかわらず、政府が選定した有識者が決めるのだと。しかも誰が決めたとかは公表されず、したがって元号決定の責任者は「よくわからない」ということになる。「平成」を考えた人も山本達郎教授とされているが、提案しただけで決定したわけじゃないだろうし、選定のプロセスは秘密にされたままだ。
責任者不在とは実に日本的。まるで一部の人間にだけ許された秘技・秘術のようにして決められる元号。しかも元号の根拠とされる天皇家ですら、その選定には一切関わっておらず、一部権力者が密室で決定したもにについて箔押しするだけだ。
なんなのこれ?民主主義といえる?どんな中世よ?
そもそも今回の元号発表に際し、安倍総理の側近ともいえる菅官房長官が満を持して新元号の色紙を掲げ、安倍総理の談話までもが事前のスケジュールとして準備されていた。
まだ天皇陛下が「次の元号は○○に決まりました」と言うなら分かるよ。前回のときは昭和天皇は死んでいたバタバタもあって、官房長官の小渕が色紙を掲げて示したのも代理なのかなくらいに考えていた。しかしもしかしたらあれは官房長官というポジションの真の権力を表していたのかもしれんと思い始めてきた。元号を掲げるお役目とは政府内ではそういう権威職なのかもしれん。菅官房長官の今までの数々の不遜な態度も、「俺は官房長官。有事の際は元号を示すほどのポジションだぞ。天皇家の威光を背負ってるのだ!」ということなら納得がいく。
あと安倍総理の談話。なんでお前が元号の解説をするの。その役目は天皇陛下がしたらええのんとちゃうの。まるで元号を定めたのは自分だと言わんばかりじゃないか。天皇だったら納得がいくかといえばそうでもないけど、まだ筋道は通っている気がする。なんで天皇家は徹底的に蔑ろにされて、政権関係者ばかりが注目を集めるのに利用しているのか。意味がわからない。
また、四書五経などの漢書から採られる伝統のあったらしい元号の文字を、万葉集という国書から採るというのも、安倍政権の世界観に即している気がして実に気持ち悪い。選定のプロセスが全く明かされていないので何も追求できないというのも二重で気持ち悪い。しかし安倍自身がどや顔で解説するってことは、お前の意見が込められているとしか思えんやんけ!という状況ではあるが、あくまでもプロセスは秘技であって闇に包まれているのだ。
まあ、いうても、最大の問題点というか違和感は、誰も国民が望んだり採択に関わったりしてないのに、「ある日突然トップダウンで暦を強要される」という事に尽きるのではないか。これは二回も元号の改定に付き合った僕みたいな人間だから強く感じるのだろう。暦みたいな日常使うものを、合理的な理由もなしにいきなり決められるっていう事態からは、「国民の生活を支配したい」という気持ちの悪い主張しか感じない。いきなり通算の年数がリセットされてしまう事について、合理的な説明ができる人間なんかどこにもいないだろう。
そして嫌嫌でも使っているうちに、為政者の世界観に知らず知らずに染まっていくという恐怖もある。本当に勘弁してもらいたい。しかも全体の生産性を落としてまで精神を支配されていくわけだ。
勘違いしてほしくないのだが、元号大好き!って人が使いたいっていうぶんには構わないし、政府の中に元号を決めたい人間がいるなら勝手にやる自由くらいはあっても良いと思ってる。ただ強要すんなといいたいのだ。
しかし元号大好き!って人の多くは、「天皇家の伝統だから」みたいなという理由で好きなんじゃないのかと思うのだけど、天皇家とか蔑ろにされたような空虚な元号についてどう思っているのだろうか。天皇家の「暦を決める」という権力構造が、政府(実質は平成のときも今回も自民党)によって強奪されている気がするのだが。それで良いっていうなら何も言わないが。
とにかく僕の言いたいのは「元号の使用を国民に強要するな!西暦で書かせろ!」ということだ。しかしこれからも役所の書類を始めとして、元号の強要は度々行われるのだろうと思う。今までは何となく渋々「平成○年」とか書いてたけど、これからは出来る限り力強く抵抗してくことを宣言したい。こんなもん使ってられるか!である。
そういう意味では2019年は僕にとって元号反対元年にあたる。生きている限りは元号は使いたくない。しかしネットの確定申告にまで元号を強要してくる国なので100パーセントは無理かもしれない…。でも出来るだけ頑張って、新元号を、E電とかクールジャパンみたいに死語にしてみたい!
新元号を知らせるってのも意味不明だけど、FAXってところにも度肝を抜かれた。「FAXがまだ使われているってマジ?」って言われているガラパゴスシステムで、ガラパゴスな元号を世界各国に知らせるってどういうブラックジョークなんだろ…。迷惑やろな…。
(追記)
ピエール瀧がコカインをやったというニュースでもちきりだ。
その影響でピエール瀧の出演している番組、ゲーム、音楽ソフトなど、ありとあらゆるものの制作や販売が停止してしまった。電気グルーヴのCDが回収されるだけでなく、石野卓球のイベント出演まで中止されるというから驚きだ。
僕自身は電気グルーヴのアルバムのうち初期のやつを3枚くらい持ってるだけだし、あとは人生のアルバムを数枚買っていた。もう二十年くらい昔の話になるのだろうか。だからあまりファンでもないし強い思い入れはない。
ピエール瀧については漫☆画太郎と組んだ『虐殺!!!ハートフルカンパニー』と、現時点での漫☆画太郎の一番の長編である『樹海少年ZOO1』の原作者としての馴染みしかない。これらは大変に好きな作品だった。あとは『アナと雪の女王』シリーズの雪だるまオラフ役も気に入っていたので、降板になってしまったのは残念に思っている。
今回の回収・発売中止騒動に巻き込まれて、漫☆画太郎先生の漫画も!?と思ってamazonに見に行ったら、『虐殺!!!ハートフルカンパニー』は普通に売っていて安心した。『樹海少年ZOO1』はマーケットプレイスにしか無いが、もともと絶版だったのでこれはしょうがない。いまのところプレミアとかついてないので、読んでない人は読んで欲しい。相当おもしろいから。
さて、ピエール瀧逮捕によって、作品が回収されたりリリースが停止されたりする問題については、ファンや関係各位のあいだで相当に紛糾している。「そんなことする意味あるのか。異常すぎるだろう」と。坂本龍一も以下のようなツイッターをしてニュースになっていた。
「電気グルーヴのCDおよび映像商品の出荷停止、在庫回収、配信停止」
— skmtcommmons (@skmt09) March 14, 2019
なんのための自粛ですか?電グルの音楽が売られていて困る人がいますか?ドラッグを使用した人間の作った音楽は聴きたくないという人は、ただ聴かなければいいんだけなんだから。音楽に罪はない。
坂本龍一は 「音楽に罪はない」としているが、 じゃあ「ピエール瀧自身には罪はあるのだろうか?」というところから検証が必要じゃないだろうか。
「なにをバカな、ドラッグをやって警察に逮捕されて本人も認めているのだから確実に罪があるだろう」と考える人は、国家が制定した法律を違反することと、倫理的な罪を混同している恐れがある。
どうもこの案件は、単純な問題にみえて、実際はさまざまな争点が入り混じっており、皆が考えているよりも相当に複雑な話かもしれない。どんな話題であれ、争点が入り乱れないケースはなかなかない。みんな同じ話をしてるつもりになっていて、その実は全然違う話をしまくっているなんてことはよくある。それを踏まえない人たちが、てんでバラバラに議論しても、余計に話がこんがらがっていくだけだ。とりあえず主な争点として挙がっているものを思いつくままに列挙してみる。自分がどの話題に興味があるのかを考えてみて欲しい。
1.人と作品は切り離して考えるべきか否か。
2.コカイン使用者は加害者なのか。
3.コカイン使用者を商用利用する倫理的な是非。
4.犯罪の商用利用に対する倫理的な是非。
5.過去作品にたいして改ざん権を権利者が独占する問題。
6.配信販売に対する責任。
他にもあるかもしれないが、僕が思いつく範囲はだいたいこれくらい。今回はこれらに争点についてひとつひとつ検証していきたい。
これはもうしょっちゅう議論されているネタだろう。個人的には、製作者と作品を切り離しての評価なんてのは不可能だと考えてはいる。だって殺人鬼が主役の小説があったとして、作者が本当に人を殺していた人だったと知ってしまった後に、知る前と全く同じ評価になると堂々と答えられる自信はないし、同じになるとは答えたくはない。というか、作者の情報を知れば知るほどに、作品への理解というのが変化していくのは当然だろうと考えている。作品それ自体(世に「テキスト」と表現されるもの)に込められた情報量というのは、みんなが思っているほど多くはないのだ。
もちろん、そうじゃない「テキストはテキストでしかないんだ」という人も、世の中には存在することも知っている。そういう人にとっては、「人と作品は別」と言い切れてしまえるのだろう。僕とは違う感覚だが、それはそれで構わないと思う。ホットドッグが至高の料理と考えている人に、そんなもの美味いと考えている奴は馬鹿だとか罵るみたいな意味のないことはしたくない。
重要なのは「切り離して考えれない人」と「切り離して考えられる人」が、それぞれ何人かはいて、世界にはそういった違う人たちが確かに存在しているらしいという現実だ。
お互いを尊重しようという立場から考えると、「その作品を閲覧するかどうかは個人の判断に任せるべきでは?」という結論に至る。つまりそれがアドルフ・ヒトラーの『わが闘争』であれ何であれ、歴史から完全に抹消するという事は許されないのではないかという事だ。(ただし『わが闘争』は、彼の犯罪に直接関わるメッセージ性が強いものなので取扱い危険物だが)
というか、そもそもとして、ピエール瀧がコカインやってる事実によって、彼の関わった作品への評価が変わったとして、それを封印しましょうという話とどう繋がるのか全くわからないのだけど。作品がつまらなくなったり、楽しくなったり、変わらなかったりするだけじゃないの。
結論としては、作品と人とは別であれ、別じゃないであれ、ピエール瀧の作品封印問題にはぜんぜん関係のない議論っぽい。今回の件に関しては、これについて話すのは完全に無駄!長々と書いて損をした!(個人的にこだわりのあるネタだったので)
これも盛んに議論されている。
最初にも述べたように、まず問わなければいけないのは、禁止薬物を使用するのが、はたして悪行なのかということ。殺人事件や、レイプ事件や、窃盗事件などのように、ピエール瀧が禁止薬物を摂取することで被害者が出たのだろうか。
ピエール瀧がコカインをキメて車で誰かを轢き殺したとか、誰かを思いっきりドツイたみたいな行為は報告されていない。一人で気持ちよくなっていただけやんと。それがたまたま法律で禁止されていたから逮捕された。ルールには違反したが、人道に違反したとは言い難い。抵抗して暴れたとかも無い。
そういう意味では、スピード違反とか駐車違反で捕まったみたいなことに等しい。むしろスピード違反や駐車違反の方が、迷惑をかける度合いや危険度でいえばもう少し悪いのかもしれない。
「ピエール瀧って特に誰にも迷惑かけてないんじゃあ?」と思うのが正直なところ。迷惑がかかったとしたら、逮捕されることで穴を開けた仕事とか、販売を自粛することで損害を与えたりしたことだろうか。前者はまあ完全に悪いとしても、後者に関しては「じゃあ自粛するのをやめたら?」という反論も可能だ。
「違法薬物を買い求めたり、それを摂取したりする人なんか嫌い!」という意見は尊重されて良いと思うし「そんなピエール瀧とは仕事をしたくない」と思ったならそれはそれでひとつの判断だ。ディズニーが、ピエール瀧をアナ雪のキャスティングから下ろすと判断したのも残念だけどしゃあない。過去の吹替を封印するかどうか問題は後で述べる。
コカインは常習性があり、販売を禁止されている薬物だ。そんなものを法律を破ってまで販売した人間は確実に悪辣(アルコールやニコチンや砂糖やカフェインなどはどうなのという議論はひとまず置いておく)。
とすれば薬物使用者は、違法薬物ビジネスの被害者という見方も出来る。というか、むしろ被害者であるという見方が近年は支配的である。アルコール依存症と同じように病気であると。病人に懲罰を与えるのはナンセンスであり、薬物依存から脱却する支援すべし!ということである。そういう近年の価値観を照らし合わせてみれば、ピエール瀧の行為を悪行として断罪してしまうのは、相当にムリがありそうでもある。
ピエール瀧は薬物被害者ではあっても、何かの加害者とはとうてい言えない。社会通念上は、薬物依存の哀れな人でしかないのではないだろうか。もちろんそのイメージで仕事を断るのは自由だとは思うが、過去作品を封印しなきゃ薬物被害者が増えるとかいう話にまで飛躍するとついていけなくなる。
つまり、ピエール瀧がコカインを使用するという法律違反を犯して新聞沙汰になったことで得たネームバリューを利用して商売の売上につなげてしまうのは、倫理的にいかがなものかという観点。
たしかにそう考えると、コカイン使用で警察沙汰なんてのは、皆が忌み嫌いつつもその魅力に抗しきれないとされる、いわゆる「炎上ビジネス」に近い行為という見方も可能かもしれない。
ならばそんな倫理的にスレスレである「炎上ビジネス的な行為」は企業イメージにそぐわないとする理屈も成立するかと考えた。だとすれば販売自粛表明もそれなりに納得がいく対処にも思えてくる。
もっとも、ピエール瀧の過去作品の販売停止なりを、以上のような先進的すぎる観点から停止したと公言している企業は僕の知る限りは存在しない。いずれにせよ、こういう理由だったとしても、話題の旬というものはあるわけで、恒久的な作品封印はありえない気がする。
これも3番めの理由に準ずる観点。酒鬼薔薇聖斗事件の犯人が幻冬舎から本を出版して大儲けしたことについて批判の声があがったが、ああいうのは倫理的にどうなのかということ。犯罪をネタに儲けるのは被害者感情も逆なでる行為だ。アメリカには、そうした行為によって利益を上げた場合は、没収されるという法律すらある。
しかし何度もいうが、コカイン使用には被害者はいない。むしろ自分が被害者かもしれない。あと、炎上ビジネス狙いでコカインをやって捕まったわけでもないし、コカイン使用をネタに音楽を作ったり芝居をしたという事実も無い。むしろ仕事を干されてしまっている。
だからこの観点でもピエール瀧を批判する意味はなさそうだ。
販売権利者だからといって、気分によって過去の作品を封印することによって、大衆の見る権利を奪うことは許されるのかということ。
『スター・ウォーズ』ファンの間で盛んに言われている事を思い出す。知らない人のために説明すると、初代の『スター・ウォーズ』三部作は、ジョージ・ルーカス監督の手でたびたびアップデートを加えられていて、昔あったシーンがCG処理で別のものに変えられたりして、当初の映画とは別物になっていっていたのだ。
『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』でダース・ベイダーの正体を演じていた俳優さんなどは、後のシリーズでベイダー役を演じたヘイデン・クリステンセンに差し替えられて抹消されてしまった。権利者の一方的な都合によって歴史が改ざんされてしまったのだ。ピエール瀧が出ているのが嫌だから消しましょうなんてのは、まさにこれと変わらない行為だ。
もともとの映画に思い入れのあるファンたちは「俺たちが好きだった映画を返せ!」と1997年の最初のアップデート版である『スター・ウォーズ特別編』の上映以降ずっと主張を繰り返していた。なにせこれ以降はスター・ウォーズのソフトは特別編を基準にしており、オリジナル版は無かったものとして、ソフトの販売や制作を停止してしまっていたのだ。ずっとファンの声を無視し続けてきたジョージ・ルーカス側ではあるが、近年になってようやく限定版という形でDVDやBlue-rayを販売したという経緯がある。消されたダース・ベイダー役の人も十数年ぶりに復活できたわけだ。
また、人類社会に残る膨大な作品群は、後に犯罪者として起訴された人間や、薬物使用者やレイプ犯やその他いろいろの犯罪者が関わっていたりする。しかしその当時、犯罪など予期しなかった時期に発表されたものについて、後から封印するなんてことは許されるのだろうか。
たとば、O.J.シンプソン(94年に殺人罪で起訴、07年に強盗罪で有罪)の出演する『タワーリング・インフェルノ』や『カプリコン・1』などは今でも自由に鑑賞できる。また、ロマン・ポランスキー監督(77年に未成年に対する強姦で有罪)の『ローズマリーの赤ちゃん』『チャイナタウン』だって普通に観れる。コカイン使用した俳優が出演する作品が自由に観れる状態というのは、世間的にそんなに悪影響なことなのだろうか。その理屈はさすがにムリがありそうだ。
一定期間は売りたくないというのがあったとてしても、恣意的な理由で永遠に封印するのは、文化に対する責任としてもやってはいけないと思われる。そもそも、ピエール瀧が関わっている作品群というのは、ピエール瀧の単独の仕事というのは極めて少ない。まるでピエール瀧が作品のすべてと言わんばかりの対応は、他のスタッフやキャストや演者などに対してあまりにも配慮に欠けるのでは。「文句はピエール瀧にどうぞ」と言われても納得する人は少ないだろう。
いかにも現代的な争点。
今回の話でいえば、ピエール瀧をモデルにしたキャラクターが登場するセガのゲームが配信停止になったが、後にピエール瀧のモデルを別のデータに差し替えて配信を再開するとしよう。その場合、前述した通りの過去作品の改変の問題のみならず、もともとのデータを購入したユーザーも、ダウンロードし直した場合にはピエール瀧が削除されたゲームしか遊べないということも起こり得る。もしかしたら強制アップデートという方法まで行われる可能性すらある。
以上については何も確定されたことではないので、現時点では憶測でしかないが、それを危惧してディスク版の確保に走った人が多数いたせいで、中古価格が高騰するという一幕があったくらい。ちなみに、ディズニーのゲームに登場したアナ雪のオラフについては、アップデートで別の声に差し替えられることが決定しているようだ。
それとは別に、今流行りのサブスクリプションサービスについての問題点も浮き彫りになっていた。月額料金を支払ってラインナップの音楽などを自由に楽しめるという類のサービスから、電気グルーヴの曲が次々と削除されてしまうという事態が起きた。「電気グルーヴも聞けるから」という理由で加入していた顧客に対しての裏切り行為ではないかというのだ。
そりゃいずれにおいても顧客との契約上の法律問題はクリアしてるのかもしれんが、不信感を招くには十分な行為といえる。ただこれにしても、作品封印が妥当とかいう話ではなくて、サブスクリプションとか配信ビジネスに対する問題点の話だから、混ぜて考えると非常に問題がある。「Kindleの本は果たして所有しているの?」問題とかで話した方が良さそうなネタ。
以上のように6つの視点から考察してきたが、ピエール瀧の関連作品が恒久的に封印されるに足る理屈はどこにも無さそうだ。百歩譲るとしてもペナルティとして一時的な販売自粛がせいぜいだろう。あと、これからの付き合いに関しては、それぞれが考えれば良いことだ。芸能界がピエール瀧を締め出すことで合意したというなら仕方がない。しかし作品の歴史は変えられないし、コカイン使用が悪行であるという理屈は成立しないことは何度も申し上げておく。どこをどう考えても「ルールを破っただけ」の話。法的な罰則は受けるだろうが、社会的制裁を受けるようないわれはない。
スピード違反でも未成年時の飲酒・喫煙でもなんでも、一度も法律を破った事の無い人だけが(もちろん捕まってなくてもアウトだ)ピエール瀧に石を投げたら良いんじゃないだろうか。胸を張って「俺は一度も違反してない!」なんて人が本当に出てきたらキモいけど…。
京都のキムラといえば寺町のすき焼き屋さんだが、もてラジ村のキムラといえば木村ゆう氏である。そんな木村ゆうさんが書いた京都の旅行客離れの記事を読んでいて思い出した事があった。
今年の1月か2月に、京都の祇園のサウナの名店ルーマプラザにチェックインしようとしたとき、「200円を頂戴します」とフロントで言われてギョッとしたのだ。
楽天トラベルを通して支払いは済ませていたので、当然ながらフロントでの支払いは無いものと高をくくっていたからだ。僕は宿泊に対しては、たいていネットからの支払いをするので、現地の宿泊施設でお金を出すことはあまりない。
なんでこうなったかを聞いてみると京都市が宿泊税をとるようになったかららしい。
宿泊税というものがあるのは前から知っていた。ずいぶん前から東京都が導入していて、大阪府もわりと近年になって導入することになったというニュースを見たことがあるからだ。
しかし僕にとってはかなり他人事にニュースだった。実際に宿泊税というのを支払ったことがなかったからだ。
宿泊施設を利用しないというのではなくて、東京へは良く泊りがけででかけていたし、地元の大阪でも宿泊することは実際すごく多いのだ。
でも宿泊税を意識したことは無い。なぜなら宿泊税は高いホテルにだけかけられると思っていたからだ。
東京都の宿泊税
一人あたり宿泊料10000円を超えるホテルで100円
一人あたり宿泊料15000円を超えるホテルで200円
これを一泊ごとに人数分支払う。
大阪府の宿泊税
一人あたり宿泊料10000円を超えるホテルで100円
一人あたり宿泊料15000円を超えるホテルで200円
一人あたり宿泊料20000円を超えるホテルで300円
これを一泊ごとに人数分支払う。
なんかカードゲームの効果みたいな書き方になってまったが、宿泊税はかような事になっている。つまり僕自身は宿泊料が10000円を超えるようなホテルを利用する機会などほとんどなく、たまーーーーにあったとしても、そういうケースでは料金感覚なんかマヒしてるわけで100円くらいは誤差みたいに思っていて、宿泊税なんか意識できるわけが無かったのだった。
だから宿泊税なんていうものは金持ちだけが支払うものであり、僕のような貧乏人があれこれ考えなくて良いものだと思っていたフシがある。
しかしだ。なぜか京都市で僕は200円の宿泊税を請求される羽目になった。ルーマプラザの宿泊料は3600円とかそんなもんだ。そりゃサウナ&カプセルとしては、ちょっとだけ豪華な施設ではあるかもしれんが、一般的なホテルの価格からしたらものすごい庶民価格ではないか。4000円にも満たない料金に対して200円も取られるなんて、消費税をダブルがけされたくらい凄い。なんなのだ。どういうことだ。自分に何が起きたのかわからなかった。
とりあえず文句のひとつも言いたかったが、フロントのお姉さんと揉めてもしょうがないので、「あ、そうなんですか」なんて平静を装って200円を支払ってから、あわてて京都市の宿泊税について調べてみた。
京都市の宿泊税(2018年10月から徴収開始)
一人あたり宿泊料20000円未満は200円
一人あたり宿泊料50000円未満は500円
一人あたり宿泊料50000円以上は1000円
これを一泊ごとに人数分支払う。
料金だけ見ると、若干高いかなあ…最大1000円は凄いなあ、と思うくらいだが、実は東京都や大阪府の宿泊料とぜんぜん違う!何が違うかをよく見て欲しい!
これだ!これが僕がサウナの宿泊で200円も徴収された暗黒ルールだ!
つまり、1000円の宿でも、500円の宿でも、京都市のホテルに泊まったら200円は絶対に取られるのだ。1000円の宿をとったら20%も税金をかけられることになる。
反対に50000円もするホテルに泊まる人は1000円の税金をとられるが、2%の税金ということになる。すさまじいまでの逆進性の税金だ。確実に弱い者いじめ。
京都で1000円のドミトリーみたいなところで5泊したとしよう。総支払は5000円で宿泊税は1000円とられる。50000円のホテルで一泊した人の1000円と同額。この現象に納得が出来る人とはまともに会話できる気がしない。
もちろん東京都と大阪府の宿泊税だって、つきぬけて高いホテルに泊まれば割合は下がっていくわけで、厳密にいえば逆進的な税ということになるが、10000円以下の安宿は免除するという救済処置がある。だから僕は宿泊税なんかほとんど気にすることなくホテルを利用できていたのだった。
ひるがえって京都市は何なのか。何がしたいのだろうか。
宿泊税の目的にはこのように書かれていた。
「国際文化観光都市としての魅力を高め,及び観光の振興を図る施策に要する費用に充てることを目的としています。」
外国人、京都市民、市外からの旅行者すべて、しかも安宿に泊まる人からも一律で200円を徴収することが観光都市としての魅力を高めることになるの?全く意味がわからないのだが。京都市が何をやりたいのかわからない。
「京都のホテル混雑を緩和するために宿泊客を少しでも減らしたい」と思って導入したなら納得がいく。「観光は京都だけど、宿泊は大阪のホテルで良いや」と思う旅行者が増えていってもおかしくない政策だ。そういう企みなら上手いルールを作ったものだと思う。僕は京都市にはできるだけ泊まりたくないと思ったし。
けど、祇園祭とか、大きなイベントになれば、高い料金でも泊まりたいという観光客はいくらでもいるだろうから、あまり緩和にはならないと思われる。実際にこの時期のホテルは高い。逆に打撃を受けるのは「なんでもない日」だろうし、安い宿ほど客離れにつながるだろう。
「安い宿に泊まる客なんか京都に来てほしくない」と考える市民はけっこういると思う。でも、安い宿を経営している側はそうは思ってない。安い宿を経営しているのは、そういう価格帯のサービスの需要をあてこんでいるからであって、足をひっぱるような政策をされたらたまったものではない。
だいたい京都市民だって、終電がなくなって泊らないといけないとか、朝早いから安いカプセルに宿泊しようとかなったときに、余計な出費を強いられるわけだからいくらかは損をかぶるのだけど。それでも良いなら良いけど。そして安宿には京都市から撤退して欲しいと考えるなら、それはそれでひとつの考え方なのだろう。
近年のインバウンド需要で増加したホテルは、総じて価格帯が安いホテルだったりする。ドミトリーのようなものやカプセルホテルも増えまくった。京都市にそういうホテルが進出してくるのを抑制したいというなら趣旨は一応はわかる。しかし大阪や奈良などに宿泊して京都に観光にくる人が増えるのだとしたら、市内の混雑具合自体は変わらないのかもしれない。
しかし僕がギョッとしたように、海外からの旅行者もネットを通じて支払いを済ます人が多いので、知らずに泊まろうとした人がフロントでトラブルになりがちのようだ。こんな悲劇はかわいそうなので、できるだけ周知したいと思って書いた面もある。日本語のブログだけど。日本人も取られるので。
ちなみに、金沢市も2019年4月から京都市と同じく20000円未満は一律200円徴収というタイプの宿泊税を導入する。金沢としえばアパホテルのお膝元だ。近年、宿泊施設が増えてきていたが、どんな安宿に泊まろうとも200円徴収されるらしいので注意して欲しい。
金沢市にどういう勝算があるのかは知らないが、いち貧乏旅行者としては迷惑な限り。行った最には、できるだけ金沢で飲み食いしていたのだけど。どんなところに泊まっても200円とられるなら、宿泊は最小限にしたくなってきた。まあ、そんな程度の人間は迷惑だったというメッセージとして受け取りたい。
それと大阪府も2019年6月から、宿泊税の徴収対象を10000円以上から、7000円以上に引き下げるらしい。まだまだ僕の利用している価格帯よりは上だけどジリジリせまってきている恐怖がある。
東京都は宿泊税の改正計画は現時点ではあんまり話にあがってないどころか、オリンピックに向けて免除させようという計画まであるらしい。どういうことやねん!?納得いかんとはまさにこのこと。
とにかく、関西旅行において、京都に宿泊しようとしている人は、以上のことを心得ておいて欲しい。場合によっては大阪に宿泊しても良い。どうせ近いので。
僕自身は、京阪沿線民で、京都のアクセスが良いので、ルーマプラザにサウナを愉しみに行っていただけなのに、観光の魅力がどうとかで200円を取られるみたいな事に対してものすごく嫌な気持ちになっている。ルーマプラザ京都にしても、少しでも安くサービスを提供しようとしているはずなのに、市から勝手に200円の値上げをされるわけだ。ルーマプラザに200円払えというなら余計に払っても良いくらいのサービスだと思うけど、単なる税金だというのならバカらしい。